住吉炭鉱跡  探検: 北の細道 住吉炭鉱跡

住吉炭鉱で小さな原炭ポケットに遭う




北海道小平町

   小平町の石炭鉱業は昭和14年から北海道炭鉱汽船が天塩鉱業所として達布地区に開坑したのが始まりである。
小平蕊炭田の鉱区は達布地区一帯を中心とし、その埋蔵量は一億tと推定されていた。
満州事変の勃発した昭和6年(1931)、長年、鉱区設定されていたものの
陽の目を見なかった本鉱区を開発する必要があり、
併せて留萌港までの輸送鉄道の敷設も計画された。


日華事変の起きた昭和12年(1937)、政府は石油資源のない日本で、
石炭から油を抽出する人造石油の製造を検討し、翌年には「人造石油製造事業法」を公布した。
満州や樺太を含め、15の工場が建設された。

北海道でも共同出資による人造石油会社が設立され、
滝川・留萌に工場と研究所を中心とした諸施設が建設された。

その人造石油の原料として最適と立証されたことにより、
小平蕊炭田の開発は加速する。

宮内省の援助も受け、昭和14年、留萌〜達布間25.4kmの鉄道建設に着工、
建設の目的が戦時必需品である人造石油の原料炭の搬出であったため、
突貫工事であったにもかかわらず、工期が1.5倍、建設費が2倍とその困難さが伺える結果となった。


昭和19年には選炭機が完成し出炭状況は好転したが、
終戦による物資不足、政府補助の打ち切り、
そして断層による出炭不足、採算割れが進み、昭和26年(1951)3月をもって閉山となる。

その後、経営会社変更により挽回を図り、まばらな農家しかなかった御料原野に住宅が立ち並ぶこととなる。
しかし昭和30年代後半からのエネルギー転換が加速すると、付近の中小炭鉱とともに
昭和42年、二度目の閉山を迎える

ドイツから技術移転した人造石油精製のための石炭液化技術も資材不足等により、
稼働が滞り、生産は減少、石油不足の解消に貢献しないまま終戦を迎え、
採算の合わない事業のまま、頓挫するに至る。

実は二度目のアタック、見えているのに接近できないというジレンマのもと、
今回は雪解け時のベストシーズンを狙い、
廃祉に巡り会うこととなった。











原炭ポケット・坑口・ホッパー・・・



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