興永鉱山の軌跡
昭和60年(1985)廃祉の国鉄渚滑線は名寄線から分岐、北見滝ノ上駅までを結んでいた。
上渚滑駅は現在市役所支所となり、ホームは90度反転、公園化されている。
かつては渚滑-上渚滑ノンストップの通学列車が存在したというから驚きだ。
鉱山への入口の林道ではウサギが佇んでいる。
しかも数羽いるようだ。
更に南下する。
清瀬川に沿って林道を進む。
当初は平坦な道だが、
上渚滑市街地が標高45mに対し、鉱山跡は130m付近だ。
少し進むと予想通り、林道は登坂路となる。
意外とダブルトラックはしっかりしており、
今でも車両の通行はあるようだ。
鉱床図の指示する地点からは歩いての探索だ。
廃止後70年の痕跡は難しいかもしれない。
7個の坑口跡付近を目指す。
残雪のくぼ地であるが、坑口の痕跡は皆無だ。
中立牛の探鉱では良坑の発見に至り、一年足らずだが日昇鉱山(西庄鉱山)として、
昭和13年頃に長屋や事務所も立ち、驚きの精錬計画もあったという。
坑口を探索して道なき斜面を歩くが、目的の遺構は発見できない。
付近の鉱床は含有銀の網状鉱床で、一部土砂状の部分を含み、
なかなか埋蔵量の特定に至らない経緯があったようだ。
遥か崖下の大西沢沿いも坑口残存の可能性を求めて歩いてみたが、結果は得られなかった。
昭和12年には北見地方だた一人の内閣技術調査員を採鉱責任者として招き、
二本の坑道掘削にて鉱脈に達したそうだ。
苔の覆う切株跡。探索するも坑口の発見には至らない。
最も操業が盛んな時期には、
40名の鉱員で稼行したと言うが、今はその状況が想像できない。
沢から再び左岸を歩く。
坑内採掘の他に露天掘りで土砂状の鉱石も馬鉄にて搬出したという。
坑口の発見は断念し、沢沿いに遺構を探す。
再び沢沿いに降下した。GPSのトラックログを見てもかなり迷走している。
鉱石は上渚滑駅から国鉄を利用し、主として丸瀬布に送り、
鴻之舞で精錬、一部は静狩へ送られたようだ。
ようやく露天掘りの露頭のような部分に到達した。
産金は昭和16年で休止されたが、
産銀のために昭和18年まで稼行は持続された。
そして斜面上にコンクリート製の遺構である。
これは水利関係の廃祉だろうか。
鉱量がピークととなった昭和12年(1937)は8,330tであったのに対し、閉山直前には930tと1割に減少している。
これはやはり鉱山に伴う水の関係の廃祉だ。
昭和15年(1940)の金鉱探鉱奨励金交付指定鉱山は、
鴻之舞、沼の上そして、上渚滑鉱山であったという。
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