知らない世代の人の為に
私の心に励ましを与えてくれた言葉
かたよらない心こだわらない心とらわれない心
ひろくひろくもっとひろく
これが般若心経空の心なり
(薬師寺高田好胤師)
この身今生において度せずんば更に何れの生においてかこの身を度せん
(親鸞)
高田好胤さんの言葉はあまりにも有名ですからそのまま受け取ればいいと思います。
親鸞の言葉は私なりに解釈しました。
「自分の人生は、今、生きている間に納得出来なければ、どんな世界に行こうとも納得出来ないであろう。だから、納得出来るまで努力しなさい」(私は、こう解釈し実行した)
「この世で苦しい事があっても、どこかで何時かは、救われる世界があるのだ」
多分、本当の解釈はは後の方だと思います。その方が楽だから(他力本願)
はじめに
書き始める前に、私と戦争との関わりの範囲について、お話する必要があるかと思います。
私は父を戦争で失っています。
父は、昭和二十年九月五日、フイリッピンミンダナオ島、プランギ河で終戦を知りながら、投降途中、竹筏で当番の衛生兵と激流の中を米軍基地に向かい、基地目前で筏が転覆、行方不明になりました。
衛生兵の方は泳いできたアメリカ兵に助けられ復員されましたが、父は遂に帰りませんでした。
岸辺の竹笹に掴まっていたが、根が抜け、流れて行くのをアメリカ兵がロープを投げたが、それも叶わなかったと聞いています。
衛生兵の方は帰国後、私達に報告する為、名古屋の住所を訪ねて来られたのですが空襲で家はなく断念して帰られたそうです。昭和五十三年亡くなられましたが、何時も「軍医には世話になった命の恩人だ」と奥さんに話しておられたとの事です。奥さんとは戦友会に同行し東京見物をしてきました。
私が読み聞き知っている範囲は、フイリッピンのミンダナオ島の一部に限られますから他地域の事は知りません。
それと生還された皆さんと遺族とは微妙なアンバランスな関係があるという事です。
戦友会の中でも、表面は生死を共にした仲間ではあっても、恩讐が心の中に潜んでいるという事がなんとなく分かります。
遺族が戦友会に出席する事は、出来れば招きたくないお客様ではないのかと私は微妙に感じました。
一生懸命、私に情報を伝え、父を知る戦友を紹介して下さった一部の人には感謝します。
フイリッピンから生還した方が集まって、収容所での手書き新聞を復刊した「曙光新聞」が全国規模で旬刊発行されていましたが、編集員の死亡などで一応終刊となりました。
この新聞も戦記が多く、遺族の情報収集もかなりの成果をあげましたが、遺族は状況が判明した時点で終わりです。
遺族は必死になって捜しまわりますが、状況が分かっても分からなくても結局は空虚な思いが残るだけです。
遺族と生還者とは立場は違いますが、生還者の皆さんが、何の為の青春時代であったのかと言う言い分は、家族とは違う戦友仲間との交流を目にすると侘しさを感じます。
高齢で身体不備にも関わらず、現地慰霊団、靖国神社参拝をせずにはいられない方を知っていますが、苦しい心がそうさせるのでしょう。
戦友会で軍歌を歌いドンチャン騒ぎをする事はもうないでしょう。
ミンダナオでは戦闘状態は五月で終わっていました。
米軍は深追いはせず、沖縄、日本本土に焦点を向けました。
フイリッピンの激戦で生き残った日本兵は「自戦自活」体制に入れ、という命令で「ほったらかし」になりました。
一部の将軍は部下を見捨てて逃げてしまいました。
この辺りは「レイテ戦記」(大岡昇平著)が加筆訂正を亡くなるまで続けられましたから参考になるでしょう。
米、比、日の関係もよく分かります。
今尚、気の毒なのはフイリッピンの皆さんです。
地獄絵図が展開されたジャングルは、日本の商社による木材の伐採で、赤土丸出しの禿山になり保水能力も無く、プランギ河は砂防ダムでせき止められているそうです。
必死の思いで木の根本に埋めた戦友の骨も、ブルドーザーとダンプで処理されてしまったのでしょう。
私の父への思いは、偏ったこだわりなのかと思っていましたが、私の感じ方などはお粗末なもので、顔も知らない父親を必死で捜しまわり、現地まで出掛け、彼方の山に向かって呼びかけた方を知っています。
偶然なのか、私の知り合いにフィリッピン関連の人が多くいます。
親しいお寺の住職が父上をルソンで失っています。二十年生まれですから父上の事は全く知るべくもありません。
五十年振りに再会した国民学校の恩師は、ご主人をミンダナオで亡くし、子供さんもなかったので、教師退職後は、地域のカルチュアーセンターで講師をされていますが、お一人暮らしです。
ミンダナオへの慰霊にも二回参加され、その時、持ち帰られました木彫りの水牛を下さいました。
私は、その水牛を父の形見だと思い大事にしています。
未亡人になった母親の思いを叶える為、兄弟姉妹、遺児の必死な姿には感動します。
唯、亡くなり方が異常な場合、知らなかった方がよかったと、思われるかも知れません。
「自戦自活体制」といっても警戒線というのがあって、そこから出ると逃亡と見做し射殺されるのです。
「敵弾にあらざる弾に倒れたる 戦友を偲びて九段に泣けり」
という生還者の唄があります。生還者にも苦しみがあるのです。
これは理解してあげなければなりません。
戦争資料館建設の話があります。展示の方法をめぐって論議が難航しています。
加害展示が問題になっています。加害者が生存しているからです。
国民性がドイツとは違い、許さないのでしょうか。分かりません。
次世代の人は靖国神社、護国神社へ行くのでしょうか。
千鳥ヶ淵(無名戦士の墓)は絶対必要です。
遺族の私は閣僚の靖国神社参拝のニュースを見る度,腹が立ちます。
遺族会の票欲しさに、参拝しているのですから、ニュースに取り上げる必要も無いので、マスコミも無視すれば良いと思います。
戦後も五十年を過ぎました。
先送りをしないで、処理すべきは積極的に処理し、次世代に責任転嫁を残すような事はしてはなりません。
それが戦争体験者の義務でしょう。伝えるべきは伝え、次に成すべき事に進まなければなりません。
次世代の人々に、日本の将来の平和と繁栄を託す為……・。