この手記は、父の所属していた部隊の戦友会が、高齢の為、解散する前に、今一度、体験した手記を纏めようと編集された文集の一部を記述するものです。実名は公表できませんので仮名とします。私は事実だと思います。

死線を越えて

 

昭和十九年六月十一日、愛知県小牧にて編成、其の主力は、北満部隊の転属者で、内地では北海道より南は沖縄までの全国に亙る補充兵の召集兵で総数三六○名で編成された。

同年七月九日、愛知県小牧中学校出発、翌日門司到着、輸送船安芸丸に乗船、門司港出帆、南へ、大船団で巡洋艦、駆逐艦、航空母艦等の護衛を受け航行した。

同年七月二十日、フイリソピン、ルソン島、マニラ港入港、翌日上陸、マニラ市郊外、サンラザロ競馬場に駐留、競馬場の階段下のコンクリートの上で、二週聞余り過ごした。現在までにも幾つかの軍隊が駐留した所でしょう、素掘で長く穴を掘り、アンビラ、ムシロを張り廻したお粗未な便所、マラリヤ、アミーバ赤痢患者の、下痢血便等が一杯になり、流れ出し、処理する余力もなし、長い船旅と南方の土地、気候、水等に馴れない兵隊が体調を悪くしての事と思い乍ら、又、此の上で用を足すその気持、ジメジメとぬかるみの中で、その様は今でも忘れられない。

同年八月七日、サンラザロ競馬場出発、輸送船大勇丸に乗船出港、途中、セブ島寄港、急病患者ありとセブ島陸軍病院の入院、そしてセブ島出港、又南へ南へ、南下

同年八月十四日、ミンダナオ島カガヤン港入港、カガヤン上陸

同年八月十七日、カガヤン出発、当日午後、目的地バレンシヤ飛行場に到着。

早速、各中隊ごどの配置につく。各中隊の兵舎は既に飛行場設営隊の手により出来上って居た。兵舎は殆ど竹材竹壁で、カヤぶきカヤ敷で戦地を思わせる小屋であった。吾が部隊の任務は、この飛行場の警備と、飛行場の整備であった。翌目から早速、タコ壷掘り待避所の整備等、対戦準備と、警備の任に当たった。

昭和十九年九月九日、米軍の比島進攻に伴う第一回空襲を受ける。敵グラマン機約四十八機、午前午後に亙り、執拗なまでの機銃掃射と爆弾投下を受けた。此の対空戦闘により、我が方、K軍曹以下十名の戦死者を出した。又、飛行場の滑走路及び兵舎、倉庫、集積所等、爆破炎上した。此の戦闘で無残に戦死した戦友に申訳ないと手を合わせ、此の時から敵に対する怒りは倍増し、此の仇は何時かは何処かでと心に誓った。我々は飛行場整備のため、受撃後の弾痕の埋め立て等滑走路の復旧工事にあたった。

以来、敵機の来襲は激しく、殆ど毎日の如く来襲、兵舎倉庫等、有る物は手当り次第爆破炎上された。飛行機による機銃掃射、又爆弾投下、対空戦兵器としては二○ミリ高射機間砲三門しかない我が方は如何ともし難し。

昭和二十年五月某日。主陣地総攻撃を受く、野砲、追撃砲、又飛行機よりの猛爆撃。我々の頭上をシュン、シュンと音を出して飛び来る野砲弾、又あちこちに炸裂する爆発音、弾着を見る照明弾、曳光弾、予想以上の大攻撃を受けた。存分の兵器弾薬も少ない我が部隊は補給の予想も出来ず思う様に対戦出来ず、夜の斬り込隊、ゲリラ戦を繰返し戦果を上げた。

同年五月某日。我が部隊猛反撃、我が陣地にグングン接近する敵部隊を確認。我が方の射程内に入る機を待ち、部隊長の発射開始の命令を待ち、発射合図と共に一斉に発射発必殺を願った。我が方の弾丸に倒れる敵兵の様子が良く確認出来た。我が方の大勝利であった。不意をつかれた敵は、砲爆撃を繰返し反撃に出たが、我方に損害は無かった。愈々武器弾薬は残り少く、食糧は勿論なく、又転進山岳の奥地へ、ジャングルへそうして食べられる物は何でも食べた。他部隊の話では何も食ぺ物がなく編上靴の皮も炊いて食べた戦友が居たとか。

昭和二十年八月十五日、終戦の大証降る、山岳の奥地に分散中の各隊への連絡はむづかしく、何日か過ぎて我々にも連格があった。各隊プランゲ河下流の指定地に集結するようとの事であった。指定地までには相当の距離があり、徒歩、又は川を筏で降らなければならなかった。当時、部隊長もマラリヤ、アミーバ赤痢にかかり重体で歩行困難なため何人かの兵の手により集結地に向われるとのことであった。

又、私もアミーバ赤荊にかかり体調が悪く、歩行もむづかしくNさんに筏に乗せて貰って川を降ることにした。

早速ジャングル内で大きな竹を切り、組合せてツルて繋ぎ合せ何日か掛かって作り上げた。愈々、筏を川に浮かべ、川の流れを利用して進む訳ですが、馴れぬ事、初めての事で操作はむづかしく、一切をNさんへお願いする事にした。プランゲ川は大きな川で、急流あり岩石あり、ウズ巻の所あり、色々の悪条件を乗切らなければならない。危険な方法であった。愈々貴重品のみの少量の荷物を筏に縛りつけ二人乗り無事に目的地に到着出来ることを祈り出発した。

早速障害物に苦しむ。岩石のたくさんある急流で、筏の真中部分が岩にひっかかり、筏が弓なりに曲り何とか元に復したいのですが水量が多いのと急流なため思う様にならず二人で話し合い致し方なく筏の中央部分で切離し半分の片方だけで降ることにした。刃物もない今、申訳なくも軍刀を使い切断した。そして半分になった筏に少量の荷物と我々二人が乗って降らなければならなかった。

筏が半長になった事でカジ取りもむづかしくなり、又、短いので急流では筏の前部が後になり、又、後部が前になり、クルクル回わり又ウズ巻のある所など、クルクル回わり今にもウズ巻に巻き込まれそうになり、色々と危険な所が多く命がけでした。

又、川幅が広くなった静かな流れの所の溜り場では何人となく戦友の死体が浮いていた。現状では何とも手のつけ様もなく申訳ない気持で一ぱいでした。

色々の障害も乗越えお蔭で無事に日的地の指定地に到看する事が出来ました。これは、皆、Nさんの勘の良い筏の操作のお蔭と深く感謝申し上げ御礼を申し上げます。本当に有難うございました。そうして、此所で米軍に収容され、レイテ島タクロバンの収容所に送られ、帰国まで米軍の労役に従事した。記憶に残る思い出をそのまま書き並べて見ました。皆さんありがとうございました。

 

生き地獄さながらの彷徨三ケ月

(はじめに)

T飛行場大隊での思い出はつきないが、なかでも忘れることの出来ないのは、肝心な食橿が欠乏し、大隊が止むを得ず、少人数単位に分散した、昭和二十年六月下旬以降の思い出である。私は六人の部下(戦友)と共に、大隊との連絡を絶たれたまま、飢と病魔におそわれながら、山岳奥地のジャングルを彷徨し、同年九月下旬に投降したのであるが、この三ケ月間にわたる餓死線上の彷徨は、正に生き地獄そのものであった。以下にその一端を書いてみたいと思う。

(分散直後の惨劇)

大隊が分散した直後の二、三日は、各班比較的近い所を彷徨していた。分散して二日目の夜明け、わが班の近くに野宿していた同じ中隊のG軍曹が、手榴弾を抱さ、大きな炸裂書と共に自決した。

私より年長で温厚な人であったが、飢餓の苦しさに耐えかね、敢て死を選んでしまった彼の心中如何にかと、泣けてしまった。

その翌日、ジャングルの中で遇然出会ったU伍長から、同じ中隊のN曹長が兵、四、五名と共に、大隊保管の食料を襲撃し、警備している将校と兵を殺害し、乾パンを奪い逃亡したと聞き、骨肉相食むそんな馬鹿なことがと驚愕、言葉も出なかった。(註、復員後N曹長でなくS兵長だったと聞く)(事実を知った遺族が戦友会に問い合わせてきたが曖昧なままになったままのようです)

分散直後のこの惨劇に、私も班員も大さなショックを受け、食糧のないこれからに大さな不安を抱いた。そこで私は皆んなに、如何に飢餓状態におち入ろうとも、理性を失なわず生さ抜かねばならない、そのためには肉親の情をもって結束し、助け合って行くより外に道はない。これからは軍曹も二等兵もない、皆んな家族として助け合っていこうと話し、約束をした。そして一日も早く畑を見つけようと南の方向を目ざし、山並みに潜入していった。それ以後、わが班は大隊の戦友と全く出会うことが無く孤独な彷徨を続けることになった。潜入の方角を間違えたのだろうか、出会ったのは日本兵の屍と豹兵団の小集団三組だけであった。

(目本兵との恐るべき出全会い)

日本兵と最初に出会ったのは、分散してから二十日余り経った頃であった。道の脇に五−六人が輪になってしやがんでいた。久し振りに日本兵に会う懐かしさと、畑の有無が聞けるかも知れないという期待感をもって近づいて行った。輪の中を覗いてみると虫の息の兵が倒れており、その爪を剥がそうとしていた。

「まだ生ぎているではないか」

とたしなめるようにいうと、

「ここまで連れて来たがもう限界です。どうせ死ぬほかないので、せめて遺骨代りに持ち帰ってやりたいと思って」

といった。私には次ぎの言葉が出なかった。倒れている兵には聞こえているのかいないのか、剥がされる痛さを感じているのかいないのか。目頭に小さな涙の玉があった。これも極限状態における戦友愛かも知れないが、剥がすも地獄、剥がされるも地獄。

この辺に畑は無いということで、吾々は少しでも先にとそこを去った。

二回目の出会いは、それから二週問位い経った八月三、四日頃であった。吾々は殆どの者が杖を頼りにしか歩けないぼど衰弱し、疲労していた。これまで二回畑に出会ったが、何れも先行の日本兵が収奪したあとで、トーモロコシの茎とか、掘り起こされ千からびた、さつま芋の蔓しか残っていなかった。しかしそれが我々には貴重であった、トカゲとか蛇のように逃げ足の早いものは捕獲できなくなり、蛙を捕えると大喜ぴする状態であった。それどころか、置き去りにされ野たれ死にした日本兵の屍に出会うと、何か食べ残した物は無いかと雑嚢や背負袋を掻き回ずほど飢えていた。恩わぬ残し物に助けられたり、破れた靴を交換したり、死人に物を献ずるどころか、逆に屍から物を頂くという状態になっていた。

誰だったか一人が、

「おい日本兵がいる」

といった。少し小高くなった尾根のようなところの木の根元で、三人が飯盒を抱えて何か食べている。あの向う側に畑があるのかなと期待しながら力を振り絞り、這うようにして近づいていった。

「貴様等は何部隊か」

と先方から問いかけて来た。吾々の部隊名をいい、この辺に畑があるか、君達は何部隊か、本隊はどの辺にいるのか、などいろいろ聞いてみたが、肝心な畑については、この辺には無いもう少し先きに行けばあるだろうといった。

吾々は、がっかりした。そして一人が、我々は昨日から何も食べていない、この通り餓死寸前だが、君達は食糧を持っていて羨ましいよ、と、少し分けてくれないかといわんばかりにいった。すると豹兵団の歩兵だといった人は小声で何か話していたが、中央の兵が

「そうか、昨日から何も食っていないのか、少しだが分けてやろう」

といった。吾々は地獄で仏に会ったような気持ちになり、

「有り難う恩に着るよ」

といって、いざりながら彼等に近付いた。肉の臭いに喉が鳴った。野草と肉の煮込みを中盒に分けてくれた。久し振りに口にする肉、噛みしめるいとまもなく喉を通り越してしまった。

何の肉か、大トカゲ、猿、それとも鼠かと聞いたが、彼等はうす笑いを浮ぺながら

「何でもいいじゃないか」

と敢えて教えようとしなかった。我々は礼をいって歩きだした。三人の大きな笑い声が後ろをおっかけてきた。

暫く進むと道が二つに別れ、一つが浅い谷の方向に通じていた。小川があるかも知れん、水を飲もうと降りていった。谷川が見え近づいて吃驚仰天、飯盒炊飯の跡がありその側に足の肉を削がれた日本兵の死体があった。辺りには血がどす黒くしみ込んでいた。一人が声を震わせながら

「こん畜生、奴等だな、叩き延ばしてやろう」

といきり立った。皆んな這うようにして元の道に戻った。そして二、三人が彼等の方に歩さ出した。

「おい待て、彼等は銃をもっていた。逆に血祭りにされたら大変だ」

と止めた。歩きながら、若し彼等人の仕業だとしたら吾々もその肉を…と、再び地獄に呼び戻され吐き出したい気持ちになった。狂鬼化した三人と餓死寸前の六人、戦争とは一体何なんだろうか。

(漸く見つけた芋畑も追い出され)

狂鬼の兵に出会ってから十日程過ぎたが、畑にも日本兵にも出会わなかった。最も衰弱のひどいS君が、死んで早く楽になりたいといいだした

「馬鹿いうな、奥さんや子供のことを思い出せ」

と励ました。しかし皆んなからも、班長は、神は絶対に吾々一家を見殺しにはされない、もう一日もう一日と引っ張ってきたが、もう限界だ、畑探がしを続けているうちに野たれ死にしてしまうより、山を降りて米軍と戟い戦死した方がましだといいだした。私も迷った。

よし、明日もう日一探して見つからなかったら戦死の道を選ぼうといって寝た。

翌日、その日も遂に見つからないまま夕暮を迎えた。突然、その日の先頭を歩いていたM君が

「あっ、やられている」

と叫んだ、見ると四肢をバラバラにされた日本兵、私は、むごたらしい死体に目をそむけながら、これは土民かゲリラの仕業に違いない、とすればこの近くに畑がある筈だと連想した。

夜、約束を破って済まんが、明日もう一日だけ探して見ようじゃないかと頼んだ。皆なから、またですか。これで六回目、本当に明日だけですよと念を押された。

眠れないまま夜が明けた、今日は昨日と反対側の斜面を探してみることにした。太陽が頭上近くになった頃、先頭を歩いてくれていたM君が、班長、畑のようだといって指さした。見ると木の間隠れに青いものが見える。皆んな一斉に畑だ、と嬉しさの声をあげた。私ば心の中でやっばり神は見捨てなかったと喜び、奇跡を感じた。

皆んな藤の大きなトゲに服をとられながら這うようにして畑を目ざした。一時間半位で着いた。青青と繁ったさつま手畑で、半分程は掘られていたが、半分残っていた。皆んなは着くやいなや堀り出した。誰れの目にも嬉し涙が浮んていた、堀った芋の土を服でぬぐい、そのまま餓鬼のようにむしやぶり食った。満足そうな笑顔と笑い声が溢れだした。

突然、「誰だ。この畑は吾々のものだ、すぐ出て行け、出て行かないと射ち殺すぞ」

と大きな怒声。思わず芋蔓の間に伏せた。頭をあげて見ると、畑の向こう側に十名位いの兵がおり、三人が此方に近づいて来た。そのうちの一人は少尉だった。私は挙手の礼をし

「飛行場大隊の者でご覧の通り餓死寸前、一ケ月半振りに漸くこの畑に出会い、これで助かったと喜んでいるところです。当分この畑において下さい」

と哀願した。少尉は

「君達に食べられると部下の食糧がそれだけ減る。君達は君達で自活できる畑を探せ」

「それでは一週簡お願いします」

「馬鹿いうな」

の押し問答、同し日本軍ではないかと腹の中は煮え繰り返ったが、結局、明日の正午までに出るようにといって去った。私は皆んなに

「聞いての通りだ、軍隊は階級がものをいう、今晩と明日の午前中に腹の中を先づ一杯にし、彼等に気付かれないように背負袋に出来るだけ詰め込んで出よう」

といった。このようにして待望の芋抽を見つけた喜びは、一瞬にして泡のように吹き飛んでしまった。

翌日、出発しようと思ったが、背負袋の芋が重くてとても歩けない、よし、ジャングルの中に隠くしておいて、後で取りにこようと、ジャングルの中に持ち出したり、場所の目印をつけたりしているうちに昼になってしまった。少尉が督促に来た。

その時、久し振りに敵の偵察機が上空を旋回しだした。発見されないようにジャングルの中に身をひそめ様子を伺った。何時もエンジンを止めて旋回するのに堂々と、しかも低空で旋回し、やがて芋畑めがけて紙片をばら撤き去った。拾って見ると、日本の降伏と投降勧告を書いたご存知の伝単であった。

日本の全面降伏など誰も信じなかった、これは敵さんの苦しまぎれの謀略で、編されて在るかと、逆に元気づいていた。私は本当かも知れないと思ったが、口には出せなかった。少尉にお礼をいって未練の芋畑を出ていった。

(投降後、芋掘に着いた日が八月十五日で、出ていった目が八月十六日だったとわかった。

(その後のこと)

米軍機からのビラを見てから投降するまでの一ケ月余りの間にも色々なことがあった。

投降を頑なに拒否するもの、柔軟な考えを持つもの、成り行き委せのもの、人の心はみな違う。

しかし私には六人全員を無事帰還させる責任があった。どのように説得したかを書くと紙数が余りにもオーバーするので割愛するが九月未日、揃って投降した。

唯、残念であったのは、収容所の時も復員の時期も夫々別々であり、復員後も住所不明で、あらゆる手をつくし漸く住所が判明した時は、既に時おそくMさんが昭和五十二年、KさんとSさんが同五十六年、Mさんが同五十八年に不帰の人となられていた。

(Dさんは今なお所在不明)誠に残念至極。

ご遣族の方々のご多幸をお析りし、想いい出の筆をおく。

講しんでご冥福をお祈りすると共に

合掌

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