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揚輝荘


「揚輝荘」は、松坂屋の初代社長伊藤次郎左衛門祐民氏によって、名古屋市千種区覚王山日泰寺の東南に位置する一万坪の森を切り拓いて作られた別荘です。
大正七年(1918)茶屋町本家から三賞亭を移築改修する事から始まりました。総てが完成したのは昭和十二(1937)頃です。
その後も、八丈島の「四阿(あずまや)」などの移築や諸施設が建てられました。
祐民氏は、昭和十五年(1940)一月二十五日。茶屋町本家で永眠されました。
昭和二十年(1945)空襲で多くの建物が爆弾で破壊され現在ある建物は七ヵ所程です。
個人財産の為、一部の人以外には公開されて来ませんでした。噂に聞くのみの幻の世界でした。
既に一角は「松坂屋ストア」「月見ヶ丘マンション」になっています。
この春(春分の日)特別公開があり、その折、ビデオ取材出来ました。
現在、クレーンなど重機が入り工事中です。これはマンション建設の為です。
実は、建物の無い中央部分をマンション化した後、北、南の部分が名古屋市に寄贈されます。
その後の有効利用を考える団体「揚輝荘の会」が2003年6月に発足、活動を開始しています。
マンション完成は2007年の予定です。
それまで公開は無いと思われますが再開の節は再訪したいと期待しています。
それにしても、今春の拝見は幸運でした。2005.8

今日の中日新聞のトップに「揚輝荘」の話題が大きく報道されました。
ごく限られた一部の人のみが見ることが出来た「地下道」の事です。「揚輝荘」の敷地は現在不動産会社により中央部がマンション工事中です。その真下に地下道が造られていました。その話題です。満州国建国の立役者であった王兆銘が一時匿われていたというエピソードですが、そう言う話題や色々な歴史ロマンを思わせるにふさわしい一角です。残念ながら、敷地をぐるりと一周出来たのはこの春三月の見学会が最後でした。地下道は見る事は出来ませんでしたが、私は幸運にも、その時訪ねる事が出来ました。
前述のように南北に分断され名古屋市に寄贈されます。創設時の姿は空襲で既に失われて有りませんでしたが資料により想像は出来ます。
訪ねた時入手した「揚輝荘の会」の佐藤充考さんの資料から多くの事を知る事が出来ました。
先日は、東海TV「名古屋ニューアングル」でこの秋の見学会などの様子が伝えられました。
こういう事はまさに「一期一会」です。「二葉御殿」もそうでした。
再開の節には多くの方達が訪ねられる事を期待します。 2005.12

一月八日、覚王山墓参の折、通りかかり周辺を巡ってみました。
工事用通路が作られマンション工事が本格化するようです。マンション概要が不動産会社のHPで紹介されています。
「揚輝荘」の表札は未だ返されていません。南門には伊藤次郎左衛門の表札が架り立派な門松が飾られていました。 2006.1.8
表札(盗難に遭い有りません) 正門 (北門)
伴華楼 伴華楼 暖炉 北庭 池・白雲橋(南側)
池・白雲橋 (南側) 赤いものは豊彦稲荷 池・白雲橋  白雲橋 登り階段
擬宝珠 三賞亭 (茶屋町本家から移築)
三賞亭 茶室 聴松閣 南庭 玄関ロビー
二階 曲がり階段 応接間
地下室階段 地下室 壁画(ヒンズー女神) 地下室 壁画(ヒンズー女神)
P・ハリハラン描く 地下室暖炉 柱彫刻
この日は音楽会が開催された 揚輝荘座敷(かって川上貞奴が住んだ)
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