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揚輝荘 その二
昭和十四年頃 赤字は現存 工事中の様子
揚輝荘座敷 栗廼屋  端の寮  
現存しないなど、私には不明の建物が有ります。
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過日の中日新聞で報じられましたが、名古屋市東区法王町(覚王山日泰寺東)のマンション工事現場で、松坂屋創業家別荘「揚輝荘」の地下に造られたトンネルの出入り口が出現しました。
地下トンネルの存在は図面では知られていましたが、空襲による爆撃もあり、戦後地域内に既に建設されたマンション・ショッピングセンターの工事では発見されていませんでした。
T字に掘られたトンネルの南北部分(聴松閣(現存)〜有芳軒(破壊))は確認されていましたが、今回のマンション建設の為、二年前に「揚輝荘の会」など市民有志により写真など映像で記録された後取り壊されました。
今回の発見は既に無くなっていたと思われていたものが整地中にひょっこり現れたものです。
入り口の数メートル先に木の扉が一部残っていましたがその奥は瓦礫で埋まっていたという事です。
当時、アジア留学生たちと暮らしていた、名古屋大学名誉教授の井上俊さん(88)の談では「名古屋空襲でトンネル内に逃げ込み、爆風で飛ばされそうになった扉を必死に押さえた。当時は林になっていてこんな立派なものだったとは思わなかった(中日記事より)」。
揚輝荘は、約3万平方メートルあり東西各地から移築された二十七の建物などが庭園を巡り有ったのですが、空襲による爆弾被害などで多くを失い現存するのは七棟のみです。今回、その建物を含む南北の庭園が名古屋市に寄付され修理補修の上、NPO団体などの管理で近く公開されるという事です。
東区の「撞木館」がこの程、同じように名古屋市の手に渡り公開されましたが、当初の目的から用途が変わった貴重な文化資産を、どう活用して行くべきか難しい事だと思います。
現代では味わえない夢とロマンの世界へ四季を通じて訪ね、心を癒すのはどうですかと私は思います。

東 姫ヶ池通側  聴泉窟の表札 石垣の欄干 T字交差地点と思われる

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