桃花祭トップにもどる

桃 花 祭 その参
殿町・鞍敷乗下馬並若殿行列

桃花祭の殿りをつとめるもので、徳川幕府の初期時代に始まったようである。
古くは下
横町といったが大正十二年殿町となった。
殿町は、古くから飾り馬の代りに若殿行列によって桃花祭の殿りをつとめることになって いた。
記録によると、これに参加する、この町の若い人たちは、二月の末日から三月の初日
にかけて三日間、桃花祭若殿行列の練習を行うことになっていた。
行列の順序が次の通り
にめられていた。
○露払い(数人が裃を着し竹杖を持った)−挟箱‐泥踏−駕籠(少年)若党‐床机持(少 年)−草履取(少年)−傘‐ヒツ‐挟箱- 馬(馬丁)‐傘使い。 終りの傘使いは、この行列の定まったしきたりではなかったようだが、私たちの記憶に よると、大正のうちから昭和の初期にかけて一人の老人の傘使いを見たことを憶えている。
この傘使いも、桃花祭の行列の最後を飾るものとして注目されたものであった。
今日では桃花祭の行列も午後の三時に至れば終ってしまうが、古くはこの傘便いが神社 に入り、各町内馬が神社を出るころは宵暗がせまっていた。
                松本勝二著「桃花祭と飾り馬具」より
昭和18年頃、名古屋松坂屋での展示記念の時の記念撮影
下中と同じ場所。奴 3人の中央が永井さん
撮影日時不明。最も古い記録写真と思われる。
平成4年、かねてより一宮青年会議所から、殿町の若殿行列、奴踊りの復活に協力したいという申し入れがあり、その具体化が、年初めから進められました。
資金、人員のバックアップを惜しまないとの強力なアピールに、町内挙げての体制に入りました。
昭和10年代の古い写真数枚を参考に、数少ない、50年前の経験者の指導を得ました。
今は転居されている、永井さんには文字どおり、手取り足取りの指導を得ました。この方が、おいででなかったら実現不可能だったでしょう。
保存されていた、道具、衣装は殆ど使用不能で、ハード、ソフト共、ゼロからのスタートでした。
今は中断していますが、ビデオと資料の保存が出来ました。何時の日か、再現の時の貴重なデータが出来た事は大きな収穫でした。
 復活したが二年で再び中断した若殿行列 
永井さんから、五十年前の経験を伝授。
鋏箱は、まだ未完成。
殿町の家並みを進む。左の一軒は今は無い。 露払い、若殿、供侍、奴、馬の行列
拝殿前で奴三人による奉納 生田宮司さまより労いの言葉 祭りは終わり、めでたく手〆(地蔵寺にて)
その四へ

桃花祭 トップにもどる