名古屋市の町並みレポート
人の暮らしと町並み
町並みは、油断をしているとあっという間に変わってしまいます。
東区、車道、代官町、筒井町等は古い町並みが残っていますが、旧葵町は昔の姿は殆ど跡形もありません。最近まで文化女子大門脇に土蔵が戦災そのままの姿で在りましたが奇麗に補修され画廊となりました。
空襲の朝、窓から火を噴いていた別の土蔵を見ました。女子大の土蔵は中に入って展示と共に見てきましたが太い梁も原形の侭あり変わった姿として残りました。
白壁近辺の町並み保存が今、大きな課題ですが、古都の保存も絶えず補修があっての存在ですから個人の努力だけに期待するのは難題でしょう。
マダム貞奴邸も存亡の危機にあり、完璧な資料保存の記録と閲覧の機会を博物館などで出来るようになればと思います。
覚王山近郊は、町歩きレポーター柴田さんの日常散策路ですが、ここも変化を見せています。
参道入り口にあった六角堂は道路拡張の為、姿を消しました。
私は北山に父祖の墓碑がありますので覚王山駅からわざわざ歩きますが、戦後、姫ケ池の広々とした水面は跡形も無く姿を消し、道路と駐車場になり石碑が片隅に忘れられように 佇んでています。
第一陸軍戦勝碑は戦争遺物として荒れ果てています。が、よく眺めると立派な鋳造物で、レリーフを望遠で見ると、なかなかのデザインだと思います。
中日新聞社発行の「名古屋の駅のものがたり」上下巻、名古屋もの作家 大野一英著には名古屋に東海道線を引き入れるエピソードが描かれ、当時のイラストと写真で町並みが表現されています。私はこの新本をリサイクルフェアーで各十円で購入しました。思わぬ拾い物でした。今、裏付けの取材と記録をしないと、21世紀にはビルとプレハブ建築に替わり、そこで暮らした人も建物も跡形も無く姿を消してしまうでしょう
鶴舞、名古屋大学医学部のレンガ塀は取り壊されたそうです。医学部校舎は戦後建て替えられましたが高層ビルに順次移転しています。
戦前からの遺物は門とレンガ塀だけでした。空襲の猛火に炙られ黒焦げの姿を残していました。
門はそのままに周囲は変わりました。塀の中にあった桜はどうなったのか。鶴舞公園東端の竜ケ池の東角の加藤さんという和洋折衷の家も無くなりました。
どちらもビデオ自分史に撮ってありますが、がっかりする中に「五十年それ以上たてば仕方ないか」という諦めもあります。
公会堂も風情がありますが現在のハイテク社会では機能不足で用途を替えて存続する方向かと思います。 人も同じかな・・・・。
戦時、鉄材不足の時、柵は外して供出された
桜は切られてしまったのか。レンガの一つも貰っておいたらと・・。