名古屋大学医学部正門
リニューアルされた門の扉正面のプレートに記されている表示文

旧愛知県立医学専門学校・正門 1914(大正3)年建立
Constructed in 1914

Main Gate of Aichi Prefectual Medical College
(Predecessor of Nagoya University School of Mdedicine)

名古屋大学医学部、同附属病院 1871(明治4年)創基の前身をもつ。
前身校は1887(明治10)年から、37年間にわたり天王崎(現在の中区栄一丁目)に存在した。
1903(明治36)年、愛知県立医学専問学校に昇格、
施設拡充のため1914(大正3)年に県立愛知病院とともにこの地に新築移転した。
当時の建物は第二次世界大戦の爆撃によりほとんど灰燼に帰し、この門と塀が唯一の遺構である。
門扉などの失われた部分は当初の形態を参照して新たに製作した。
塀に使用されているタイルやテラコッタは、1930(昭和5)年愛知医科大学時代に付加されたもので、
当時の特徴的な様式をとどめている。

1999(平成11)年5月 名古屋大学医学部学友会寄贈


1915(大正4)年当時の学校本館と正門(写真)View in 1915のプレートが嵌められている。

記念門

 

 

 

 

 

 

 

 

 名大医学部記念門。後ろの附属病院は老朽化の為、新舘に移転中(左)。(右)病院敷地から鶴舞公園道路側を見る。
出入りは出来ません。

門柱と両袖のレンガ塀は亀裂と焼け焦げが、かなり見られますが学友会の思いで保存されたと思います。

ライトアップされた記念門 現在(’99)付属病院前 門 人のみ通行できます
愛知県立医学専門学校 名古屋医科大学(1927)左 付属図書館 右 付属病院
空襲前の全景 門柱の照明 最近まで焼け焦げたままであった 空襲直後の姿 くすぶっている
名古屋大学医学部正門は、残されていた門とレンガ塀を保存した形で復元されました。
名古屋大学医学部は、前身が県立医学専門学校であり、その後、鶴舞に新築移転(大正四年(1915))、官立名古屋医科大学(昭和二年(1927))、名古屋帝国大学の総合大学化(1939)で名古屋医科大学は帝大医学部となり、東山には理工学部開設、(1940)となりました。
この門は鶴舞新築時に建てられ、付属病院、医学部、大学院研究室と共に威容を誇っていましたが、名古屋空襲(昭和二十年三月(1945))で建物は全焼しました。
門とレンガ塀も猛火に炙られ黒焦げになり、門柱の上部の照明部は赤錆びたままで、最近まで、そのままの姿を残していました。
レンガ塀が無くなってしまったという情報を得て、驚いて私は早速、様子を見てきました。
リニューアルされた姿を見てまず
「ほーっ」
という、何とも言い難い感情でした。高層化された本館と巧くマッチしていると思います。
古い物を根こそぎ撤去して、全く別物に変えてしまう事が多いのですが、この姿は成功していると思います。
石碑に簡単な由来を記して、「何々跡」と事務的に残したり、無機物様に明治村へ移すのとは大きな違いです。

正門は医学部の歴史記念物とされ、通用する為の開門があるのかどうかはは不明です。
門の袖のレンガ塀と共に美しい姿になりました。

通用門は、同じ姿で東へ数十メートルの所にあります。レンガ塀は門の左右の袖の部分を残して撤去され、植え込みになりました。
通用門の東、愛知病院門や鶴友会館から東の敷地角迄はレンガ塀は残されています。その辺りに桜はあります。
ひまわり保育園と、その西に鶴友会館があり、門の中、右側に校歌と応援団のプレートを嵌めた石碑が建っています。
名古屋大学医学部正門側は、まだリニューアルが進行中ですが、その他の側はまだ未整備なので長期に亙って整備は進むのでしょう。
私事になりますが、亡父、安藤冨夫(名古屋医大、勝沼第一内科教室、昭和六年(1931)卒)と近くの板橋町 2−93(現、千代田5−19、スカイラーク鶴舞店あたり)に昭和十三年(1938)頃、父が付属病院に勤務していた時、暮らしていました。
鶴舞公園と共に、心に残る財産が、破壊される事無く残された事は、戦死した父への想いと共に、私の心に安らぎと、何か嬉しさを感じる心地がします。
なお写真の一部は、父の経歴を知る為、購入した、名古屋大学出版会「写真集名古屋大学の歴史 1871〜1991」 1991年発行を使用させて頂いている事をお断り申し上げます。 ’99年 

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