ビデオカメラを変えたが・・。 6.22
永年(八年ほど)使ってきたビデオカメラの液晶の調子が(一回転して反対向ければ表示)悪くなったので機種を変えました。本体に異常は無いので録画再生は出来ます。
液晶は一度修理していて再度修理をする程でもないし、画素の粗さとかアナログ変換機能が無いなど新機種との差が際立ってきたので換える事にしました。
色々検討しましたが、同じS社を検討の結果、アタッチメント(バッテリー・広角レンズ等)の互換性が無く流用出来ないことがわかりました。これはカメラの小型化によりサイズが合わなくなったのが大きな理由です。
上位機種(三十万円位)には使えますが、その必要は無いので白紙から検討しました。
結果、C社の機能が良いだろうとの判断でそれに決定、購入しました。
ビデオ123万画素(DV)、カメラ200万画素(SDカード)です。バッテリーは付属の45分では不足なので100分を追加購入。
S社のカメラでは大型バッテリーを二個持っていましたが一日歩いても一個で間に合っていました。
バッテリーは問題無いとして、カメラの使い心地です。
「軽い」。これは最大の特徴です。所がこれが案外使い難いという思わぬ事になりました。
安定性が無く、ブレ易いのです。それとファインダーが小さく、アイカップ(目に密着させるゴムカバー)が無いのです。私は永年ファインダー重点主義で、その中で画面構成を考えて撮影してきました。
カメラの重心が、ポピュラーな使用に合わせた設計になり、液晶を開いて、それを左手で支えた場合に合わせてあります。
撮影はカメラを目に密着させ撮影するのが、ブレない最良の方法です。それが難しくなったので液晶画面で撮影すると、どうしても細かいブレが出ます。かといってアンバランスな重量の三脚を付けるのは本末転倒です。
ブレに強いという光学ブレ防止という機能が謳われているので、どれ程の効果が有るのかと思いました。
本来、移動撮影とか、パン(カメラの水平・上下)撮影はゆっくりというのが原則ですが、早い動作は止めた方が良いです。カクカクと、コマブレが感じられます。これは光学ブレ機能の無い今までのカメラで再生するとハッキリ、モロに出ます。それと、ズームボタンが今迄は前後であったのが、この機種は左右になりました。
ブレは、前後はさほど気になりませんが左右は良くわかります。この予防にも液晶を開いて支えるという必要が生じました。これは小型化した為の基本的な設計変更と思います。
液晶画面は小さくなりました。バッテリーも小型になりましたが消費電力も小さくなり、ファインダー・液晶の差が無くなりました。結局、一般の人は液晶画面での撮影を基本とするとメーカーは判断したようです。
一長一短は何にでも有ります。技術の進歩は人にも対応の変化を求めます。
頑固に過去にこだわらず対応する気持ちが必要でしょう。但し、振舞わされる事の無いように・・。
「徳川園総揃え」のビデオの編集をしてDVDにしました。ディスクに背景とタイトルのダイレクトプリントもしました。
市販のDVDソフトのようになったのを見ると、アマチュアでも、ここまでやれるようになったのかと思い「空恐ろしい」気もします。
怪しげなソフトや公開直後の映画の海賊版が出回る時代。人間のモラルが一層、問われます。
ビデオは、あまりにもリアルです。感動の場面を何度も体験できる有り難さは計り知れない喜びですが、物事には「両刃の剣」の怖さがあります。
私は常にそれを感じながら撮影と編集をしています。
春から夏へ 6.15
今年は春から夏に懸けて祭りやイベントが集中したので、よく動きました。
二月二十日の「国府宮裸祭り」が皮切りで、六月五日の「徳川園山車揃え」まで三か月以上、目白押しのスケジュールでした。列挙してみます。
「国府宮裸祭り(二月二十日)」
「広小路コラボレーション・万博笹島サテライト神明社山車揃え(三月二十日)」「東山給水塔公開(同日)」 「楊輝荘公開(同日)」
「さくら道国際ネイチャーラン応援(四月二十三日)」
「名古屋城博・金鯱タッチと名城公園ふじの回廊見物(四月二十九日)」
「それぞれのさくら道応援(四月三十日)」
「若宮祭(五月十六日)」
「西枇杷島空木建と名古屋まつり山車揃え(五月二十九日)」
「枇杷島まつり(六月四日)」
「徳川園山車揃え・筒井出来町天王祭(六月五日)」
「伊勢遷宮御神木奉迎送(六月七・八日)」
「セントレア空港視察(六月十三日)」
残念ながら、予定していた「万博山車百輌総揃え」は花粉症による体調不良で行きませんでした。
万博の内、これだけは見ておきたかったのですが行けなかったので、関連のTV放送(約三時間)を殆ど録画しました。今の所、私が興味のある日本的な行事は見当たらず行く予定は有りません。
「国府宮裸祭り」に、歩いて(往復8K程)出掛けた時、冷たい西の突風に煽られ、その後、右の耳が雑音と難聴になりましたが、今は大体回復しました。花粉症は七年ほど前に発症しましたが、三年目位からは発症していませんでした。今年は四月十日頃から発症し、一か月位体調不良になり「万博山車百輌揃え」を見るチャンスを逸しました。行っても雰囲気を味わうのがやっとで、とても取材する気力は湧きません。最近のテレビ中継はクレーンカメラを使い立体取材をしますからアマチュアが張り合っても仕方が無いと思います。
それぞれの行事はビデオで取材しましたが、これからボチボチ編集をします。レポートはその間に随時書きます。
長時間パソコン作業は身体に悪いので最低週一回は心身のリフレッシュする必要が有ります。
しばらくは、祭りも花も休みです。次は「那古野祭(七月十六日)」や花蓮ですが、それまでに何か見つけて、又、出掛けます。
ミンダナオの元日本兵 5.30
私の父の最期の地がミンダナオですから知らない顔をしている訳には参りません。
万が一、生存している事は100%無いでしょう。ちょうど百才を数えます。最期の状況を知ったのは戦後四十三年経った昭和六十三年昭和の終わる年でした。その状況は「自分史のかけら(四十三年後の戦死)」など、当HPに紹介しました。
所属部隊の行動についても「知らない世代の人達に」に記しました。
当時、大変お世話になったフィリッピンから帰還した人や遺族の組織を繋ぐ「曙光新聞読者の会」679名(平成三年)に、私も所属し、遺族同志の交流も有りました。帰還された方達は生涯交流を続けられていますが遺族にはそれ以上の手段も無く今は会からは離れています。
今も、その方達が「曙光」という交流誌で繋がれているようで、当時の編集委員であられた近藤敏郎さんがTVに出演して情報提供をしておいでです。
私はミンダナオの戦跡図で「豹兵団(第三十師団)」の状況も知っています。
私の父は「豹兵団」ではありません。ミンダナオの真ん中、バレンシア飛行場大隊の軍医でしたがアメリカ軍侵攻でジャングル奥地へ入り「自給自戦」となりました。実際は自給食料も無く餓死・自決者が続発。単独行動は脱走と見做され射殺されました。僅かな保存食料を奪おうと警備の戦友を殺し逃げた者もいたと・・。
聞き知った遺族からの問い合わせに戦友会は応答出来ませんでした。
今回の日本兵の報道。事実はどうであれ、急がないで慎重安全に対応される事を切望します。
高齢です。是非とも、日本の地を踏む事が出来るよう配慮してあげて下さい。
戦争の影響の大きさを良く知って、自国主義に走らない近隣諸国との融和を望みます。
私見ではありますが「知らない世代の人達に・自分史のかけら」を読んで頂ければ幸いです。
尾張の祭りに無いもの 5.24
かねてから他地域の祭りと較べて陽気で華やかさが無いと思い、考えられるのが、尾張の祭りには、歌、舞、踊りの類が見当たらない事です。
三河には歌舞伎を始めとして念仏踊りを基にした「足助綾渡踊り」などの盆踊り、設楽には「花祭り」が有ります。
山車祭りでも足助の「手足踊り?」、三谷の「花山車」の「山起しの踊り?」が有ります。
神も仏も踊りは、お好きで、それに人々があやかります。
尾張初代藩主義直公は三代将軍家光公にお茶を献上する際、余興で披露された「小姓踊り」の輪の中に入って踊ったと「寛永跳記」に書かれています。
二代光友公は橘町に寛文四年名古屋に初めて芝居場所を開きました。それほどの芸どころである尾張の祭りに、舞や踊りが見当たらないのは疑問です。
御城下では能の高尚な雰囲気が特に好まれ、庶民の芸能が育まれなかったとも思われます。
尾張の人は御三家として、高尚でプライドが高いんでしょう。下町に育つ民俗芸能が少ない。
津島周辺には(くつわ踊り・七福神・鬼祭りなど)がありますが消滅の危機。
江戸は神田・浅草など庶民の祭りが多い。御三家の、紀州・水戸にはどんな祭りがあるのでしょうか。
知多、三河の山車に歌舞伎(船弁慶)や風俗舞踊(越後獅子・傀儡師など)の、からくり人形が見られるのは、その方が町民に好まれたからでしょう。やはり歌舞音曲の要素が有ると華やかさや楽しさが倍増します。
美濃、滋賀には多くの踊りや歌舞伎などを演じる山車が有ります。
一方、尾張でも知多山車祭りの「伊勢音頭」の怪しげな替え歌がどれほどのものか聞いてみたいものです。
HPの引越し 5.20
長い間、ダイアルアップの100MプロバイダーでHPの運営をしてきましたが、整理が付かなくなってきたのでADSL回線に切り替えました。今、わが家には、ケーブルを含め三つの回線が生きています。暫くの後、ADSLのみになります。
ADSLが開通したのでHPの引越しを行いました。水脹れになったまま引越ししました。現在40Mの肥満体です。
新プロバイダー付属のFTPソフトは、5ファイル単位でしか転送できないので、これはとてもやってられないのでミラーリング転送が出来るFTPソフトでやりました。どれ位掛かるのかなと思い眺めていましたが1500を超えるファイルを10分で転送しました。
回線速度は、下り50Mbpsは承知ですが上り3Mbpsの実感が無かったので、もっと掛かると思いましたがアッという間にアップ終了でした。以降、更新もスイスイ行きます。これは楽です。
これからカビの生えかけた古いファイルの掃除をします。
ダイエットによりスリムになり新鮮な情報が発信できればと思います。
ビデオの編集 5.13
「さくら道ウルトラマラソン」のビデオを二本編集しました。
先月、手持ちの編集ソフトのアップグレード版を購入したので、その性能テストをする事とDVD版を作るという目的が有りました。
今迄、これといった気に入ったソフトが無く変換スピードという点からもカード増設によるハードエンコーダしか無いかと考えていましたが汎用性が無いのと、コストや使い勝手のレポートを見ていても今一つ、ためらいました。
それで今回はアップグレードでやって見るという事にしました。
以前のソフトはハードのバンドル版だったのでオンラインマニュアルしかなく、プリントアウトはしましたが膨大なので一部に止めました。マニュアル本は市販されていますが、アップグレード版には添付されているので、それも必要であり市販本がアップグレード価格の半分ほどなので、それも考慮しました。
使い心地ですが圧倒的に機能アップしています。数年前ハードと連携していた七万円近くの某編集ソフトと変わりません。ただ注意するのは稀にエラーを起こし強制終了する事が有るので、まめにセーブした方が骨折り損をしなくて済みます。それとパソコンには過酷な作業で高熱を発しますから、とてもクーラーファンでは耐えられず、ケースの蓋を開けて扇風機で冷やしてやります。これは効果抜群です。
ハードエンコはレンダリング(変換)が早いという利点はありますが、読み込み、書き込みは高速という事は出来ません。ハードエンコは専用のソフトが添付されているので、編集のみの市販ソフトは不要になります。
パソコンによるAVI〜Mpeg2変換は三倍近い時間が掛かります。これが難点ですが、最近はDVDレコーダーの上級機にDV入力機能が付くようになりましたから、これで高速変換が出来ないかなと思いますが未経験です。
実際にやって数年前には三日掛かって四苦八苦し、ウンザリした作業時間が半分程に短縮され、操作も楽になりました。カメラは普及したが撮りっ放しで見直す事の少ないテープの整理をし、劣化の少ないディスクに保存するようにしようと思います。
廉価ながらも、案外使えるソフトや、パソコンのハードの強化も容易になったので、静止画より遥かに説得力の強力な動画の世界を楽しむ事を勧めます。
くれぐれも「マナー」を大切に。
サポーター 5.11
サポーターという言葉がすっかり定着したようですが随分広い解釈で使われます。
サポートというと「助ける」とか「手助けする」という事ですがサポーターとなると人を表します。
サッカーの応援をする人達をサポーターとい言いますがこれは別な解釈がされるようです。
応援で手助けをするという事ですが、身の回りを世話するとか物品、飲食物などを提供する事は特には無いようです。
私が多少関わっているウルトラマラソンは物心両面でのサポートをします。私は正式なサポーターではありませんが飲物の提供などのサービスをします。
芸能スポーツ関係ではファンと言いますが後援会など組織化されるとサポーターと言えるでしょう。
日本では古来「贔屓筋」と言って「役者」や「相撲取り」には特別な後援者が居ます。これも現代ではサポーターと言えるでしょう。
今年も「さくら道マラソン」が開催されました。「国際ネイチャーラン」は郡上市が主催で各種団体が後援バックアップ体制を整え実行されました。ただ、かなりの規制があり特定の選抜されたランナーのみの参加が許されます。一般のサポートは声援のみが原則です。
10回で終了した「ウルトラマラソン270K四十八時間」は参加自由でしたが参加者が300人を超え運営が難しくなり終結しました。こちらはサポートも自由ですから沿道各所で多数のエイドステーション(補給基地)が設置されランナーとサポーターの和やかな交流の場となりました。
終了はしましたが忘れ難い雰囲気を求めて「それぞれのさくら道」として今年も任意のランナーが個人或いは小団体で走りました。然し、昨年今年と走ったランナーは以前とは全く違った雰囲気に気力が萎えたと言う声を聞きました。250Kの長距離 を三十六時間・四十八時間という長時間サポート無しで走る事の難しさを痛感したようです。
何事にも多くの人のサポートが必要です。何もしなくても声を掛けて貰うだけでも気力が出ます。
歌舞伎では「大向こう」という声掛けの仲間が居ます。これには絶妙なタイミングが必要で簡単には入れません。祭りも然りで、見物衆が少ないと気力が失せます。神社は、伝統行事を丁寧に怠り無く行えば良いと思われるかもしれませんが、それだけでは神様も氏子も喜びを表すのが祭りです。氏子という後援有っての氏神様だと言う事を忘れては祭りは衰退するばかりです。お寺を含む宗教団体も、お布施を取るばかりで安息の心を伝える役目を忘れては衰退します。
芸能も観客に迎合してはいけませんが、俳優は感動を与えて初めて認められ尊敬されるのです。
やたらと、へつらうタレントは軽蔑されます。人に感動を与える境地に達するには血の出るような修練が必要です。古典芸能は世襲が中心ですが、力量が厳しく問われ「芸養子」とか先輩の「部屋子」として礼儀作法から鍛えられます。その場合でも世代を繋ぐ後援者が必要です。サポーターです。
今年の「ウルトラマラソン」を見送ってサポートの無い虚しさに、来年は走る人は居なくなるのではないかという感じがしました。
さくら道十二年 5.5
「さくら道国際ネイチャーラン250K」が始まって十二年になりました。
もう一つの「さくら道ウルトラマラソン270K」は十回で終了しました。
「ネイチャー」は第1回から一宮裁判所前で声援を送り続けています。今年もビデオ撮影をしながら見送りました。参加78名、57名が完走されました。12回連続出場は片手で数えるほどになりランナーの変化も当然あります。12回完走の方も居られます。
私は裁判所前で見送るだけですが、応援サポートしビデオ撮影されたものを見せて貰い編集で纏めてあげています。今年はM&Mさんの撮影分を編集しました。DVD(60分)も作りました。とにかく長いレースなので完全取材は無理ですが厳しい様子は充分窺い知る事ができます。
「ウルトラ・・」は昨年から無くなりましたが「それぞれのさくら道」という趣旨で、四月末から五月のGWの間に一人或いは数人、十数人のランナーが同じコースを走って行きます。私の見ただけでも二十五人程走って行きました。
来る事が判っていた「巨人軍団」にはチェックポイントだった「佐藤桜」で簡単な出迎えエイドをしました。
サポートの「二軍さん」のビデオを昨年に続いて見せて貰います。
私は十二年関わっていますがランナーではありません。ランナーでもないのに顔を出すのは「佐藤桜」がすぐ近くに有る事です。これは既にご紹介してあります。
年に一度会うだけの皆さんですから名前と顔を知っているのは僅かです。今年も発起人の酒井さんが金沢で出迎えられたと聞きました。酒井さんの桜への熱情には頭が下がります。私も出来る限りは続けます。
追記 前文に書きましたがプロバイダー追加の手続きをしました。今月中にはHPの引越しをします。
プロバイダー変更未だ 5.1
わが家の契約プロバイダーはケーブルプロバイダーです。
特に問題は無いのですがHP容量が僅かに10Mなので受信以外使っていません。掲示板とメールも別です。
HPも100M無料プロバイダーでダイアルアップ回線ですが最近は接続がすこぶる不調の状態です。
そこで新規プロバイダーの増設と思いますが事情が有りケーブルの解約がすぐには出来ないので、プロバイダーを追加するべきですが躊躇しています。HPの整理をしてもさほどの減量は出来ないので追加アップしない状況です。
一旦停止も考えますが情報があればアップはしたほうが良いと思うし、ミラーリング調整も必要です。光まではともかくADSL回線にはするべきだと思います。
中途半端な状態もいけないので追加プロバイダーの契約に踏み切ります。
TV・インターネット 3.30
ライブドアとフジテレビの駆け引きが専らの話題です。
ラジオのニッポン放送は、もはや蚊帳(カヤ)の外。そのニッポン放送がフジテレビやフジ産経グループの親会社だったというのがいい加減な経営感覚でした。そこに目を付けたライブドアも鋭かった。
TVは一方的な半ば独占状態で、やりたい放題の番組作りで一億総白痴化などと言われても仕方ない有様です。
報道番組も有るので公共放送だとは言いますが、あまりに酷いとスイッチを切る事になります。
一方のインターネットは双方向という特徴は有りますが各種サイトのネットによる情報交流の要役がプロバイダーです。私が始めた当初は、雨後の筍のように発生したプロバイダーも数十に絞られました。
それも大体の能力が判って来た現在、ある程度の限界も見えています。
飛躍的なレベルアップが無ければ単なる情報源に止まるでしょう。まず光ファイバーですが、まだコストが高い割には、早いと言うだけで、さほどのメリットが有りません。全国的に普及しなければ発展は望めません。
写真表示が限界の現状から動画配信を可能にする事ですが、ホームページ容量がYahooでも最大300Mですからとても動画保存送信は出来ません。
自作の動画作品はホームページからの通信では劣悪な画質で僅かしか送れません。
インターネット野球中継とはどんなものでしょうか。
ですからTV局からの放送を一方的に受け取るだけと言うのが現状です。
限られた地域での実験は行われています。ケーブルTVが登場して、かなりの年月になりますが局中継が主です。
僅かに数人のスタッフで地域情報を送るに限られています。わかりませんが経営状態はどうなんでしょうか。
TVは混合(コングロマリット)産業ですから単一では立ち上げられない巨大企業です。提携してこそ成立する事業でしょう。
それにしても株式の世界の、いい加減さが多くの人に判った事は思わぬ学習効果でした。
証券会社やファンドの仕組みが暴露された事はライブドアの思わぬ功績でした。
TVとインターネットとの統合は、まだよく分からない状態です。TVも見飽きたしインターネットも来る所まで来たという現状では次なる大きな革命が必要でしょう。放送のデジタル移行は2010年です。莫大な投資が必要と言われます。それをどう活用するかは人間の能力です。
これから生きていく世代の人は急激な変化に取り残されないように、日々怠り無く自己啓発すべきでしょう。
高齢者も見捨てられないようにしなければ・・・。
揚輝荘 3.22
「揚輝荘」は名古屋市千種区覚王山法王町に有り、松坂屋伊藤次郎左衛門氏の別荘名です。
創建は大正七年(1918)の別荘建築に始まります。総ての完成は昭和十二年(1937)頃です。
一万坪に亙る説明は多岐になりますので追々書く事にします。
三月二十日、覚王山への彼岸の墓参と、年二回公開される東山給水塔の見学に朝から出掛けました。
給水塔は昭和五年から四十八年まで給水していましたがその役目を終わり、昭和五十四年からは応急給水施設となり平時は門が閉ざされています。展望施設の有る木立の中の珍しい建築物です。初めて中を見て来ました。この日は「やまのて音楽祭(音楽ラリー)」が覚王山地区一帯で開催中で、ここでは名大付属中・高ブラスバンドの演奏、北広場では茶会やモリゾー・キッコロとの撮影会などが行われていました。
なかなか綺麗に手入れされた施設で開放日を増やして欲しいものです。だんだん狭くなる螺旋階段を一気に上がるのはやっとでした。高台に建っているので360度視界良好です。
この後、前述の「揚輝荘」の公開を知り行きました。今までは一部の人達だけへの開放で一般の人には内部を見ることは出来ないと思っていました。少し前TVで報道され地下室にはインドの壁画が描かれていると伝えられました。思いがけないチャンスで早速拝見してきました。
冊子「揚輝荘」「揚輝荘こぼれ話」各¥200を購入しました。今、熟読中ですが興味津々の内容です。いずれ紹介します。
一緒に置いてあった「やまのて音楽祭2005」のパンフレットを頂いてきましたが、このイベントは二年目とかで主催は「城山・覚王山地区魅力アップ事業実行委員会、千種区役所となっています。私の好きな一帯が再生発展する事に訪ねる楽しみが増幅されます。
パンフの終わりに「城山・覚王山をめぐる古道(白壁アカデミア世話人 池田誠一)」の文、写真、地図があり「ほうろく街道」の存在を知りました。交差する「四観音道」は知っていました。
「ほうろく街道」は、現水道局地北を通り東に行くと明治三十年作られた「三明」という火葬場へと向かいます。市内からの葬列道とも言われ唱えられる「法六句(南無阿弥陀仏)」とも通じると言います。
実は私の七才の夏、亡くなった母はここでの火葬でした。私には強烈な印象でした。お墓は、ここの、すぐ傍にあります。火葬場の存在を知ったのは十数年前で傍の花屋さんに聞きました。戦後、進駐軍命令で廃止されたと言う事でした。
「三明」と知ったのは初めてです。三明と言うのは「佛・法・僧」でしょう。彼岸参りに行って先祖が教えてくれたのでしょう。
その後、広小路の万博前夜コラボレーション、山車からくり、お囃子競演とパレード見物。
笹島サテライトの山車三輌を見て来ました。九時から五時まで歩き回り、お陰で足指にマメが出来ました。これもご利益かと・・。
種が随分収穫できました。いずれ又。
資料の保存 3.13
歴史的建造物の保存の必要性が言われます。
阪神神戸大震災では多くの貴重な建物が崩壊し失われました。
その事は、その建物の思い出と共に長い年月を過ごした年配者の心の拠り所をも消し去りました。
それを知った建築家の安藤忠雄さんは、街に多くの花木を植えようと、木蓮や桜の植樹を呼び掛け、多くの人達の賛同を得て進行しています。
今、話題の「文化のみち」にある、多くの大正、昭和初期の建造物は大震災には耐えられないと思われます。
ビクともしないと思われる「愛知県庁」「名古屋市役所」も、震度6〜7では大きな損害を受けるとの診断です。
「鳥屋筋の八軒長屋」は、殆どが無住、「市政資料館」南の十軒長屋も相当に古く大震災には耐えられそうもありません。その他、「町並み保存地区」の建物は外観を変える改造を許されませんから耐震工事は出来ません。
「諸行無常」(形有る者は何時かは無くなる)は世の常、人の命も同じです。
物の形はハイテクの技術によるCGなどで再現は出来ます。が、それに関わる様々な心情までは伝えられません。
私も「自分史」などで人生の記録は纏めて来ましたが具体的な表現は難しいのです。脳裏にある記憶やイメージを具体的に表現するには画や図面という事になりますがそれには能力が必要です。
何といっても戦災による写真などの焼失が痛手です。それまでの記録が大きな空白になっています。
名古屋女学校(現名古屋女子大)では戦時、越原春子学長が、故郷岐阜県加茂郡白川村に大量の学校資料を疎開させました。
数年前、確認出来ていなかった母の学生写真を現学長さんに送り、お尋ねしたところ、当時の卒業アルバムや照合した集合写真と適合するものが有り、七十六年前の確認が出来ました。有り難さと共に資料保存の貴重さを感じました。
一方では戦時の忌まわしい記録を、故意に抹消し、誤った歴史認識を伝え紛争が解決しないままの外交問題が有ります。記録を消す事は出来ても記憶を消す事は出来ません。過去の未整理や体制維持のままでは前進は有りません。
過去、現在、未来を見据えながら常に時代に合った方法を見付けないと、何が本当に必要なのかを見失い生甲斐の無い虚しい日々を暮らす事になるでしょう。
金鯱降臨 3.7
金鯱が二十一年振りに地上に降りるというので、見物に行こうかと思っていましたが、どうせ大勢の人が早くから押し掛けるだろうし、TV各局が立体的に取材報道するだろうから、とても太刀打ちできないだろうと行く気はありませんでした。
昼頃になって、暖かくなってきたのでウォーキング気分で行って見るかと昼過ぎに出掛けました。十二時から四時までと知っていましたから始まりには間に合わないのは承知でしたが、降ろしている所は見えるかも知れないと、名古屋城に着いたのは二時。空にはヘリが三機ほどブンブン、ホバーリング、旋回をしていました。
大勢の人がゾロゾロ出てきました。「金鯱は何かに巻かれてました!」と訊ねましたら「いや、そのまま」との返事。
疵が付くといけないので、ぐるぐる巻きかなと思っていた予想は外れました。,
孫の運動会で毎度馴染みの名城グランドから何時も見える、金ピカの鯱が居なくなった所は取材してきました。
外堀を巡って、かって,、お堀電車が走っていたお堀を巡って「文化のみち二葉館」へ再取材に。
東方端の、道路ど真ん中の「切らせない樹」をビデオ取材。いつもの道を通って「二葉館」へ。
今回は、建物周囲の細かい所をチェックしてきました。
画像処理は終わったのでページ構成中です。間もなく公開します。
夕方の金鯱ニュース録画の為、五時過ぎに帰宅。各局取材を録画しました。
NHK では1984年の金鯱降ろしの指揮を取った人が、今回再指揮を取られた報道でした。前回はヘリでの降ろしで二百万人の見物だったそうです。
二十三日には市内パレードの後、万博会場へ行くのでスケジュールを調べて待機しようと思います。
時の流れ 3.1
ニッポン放送株を巡って「ライブドア」と「フジテレビ」というメディアに対する視点が違う世代の対決。
日本社会の風土習慣に習って体制を維持しようとする側と、メディアの変化に対応する考えという、新旧の対決です。
これに外資が放送の公共性という曖昧なものに介入する危うさを指摘する声も出て斑模様。
現在の放送媒体に公共性が有るかといえば「無い」と言えます。
それは放送の現状は一方的に発信されるだけで視聴者はそれを押し付けられるばかりです。
視聴者の対応手段は「見たくなければスイッチを切る」という手段だけです。これは選挙での棄権と同じ手段です。選挙には白票という手段も有りますが、放送はその手段さえも有りません。
受信料を徴収して「公共放送です」と言っているNHKは、放送内容を時の政府に説明(お伺い)した上での放送ということならば甚だ視聴者には「不透明な」番組構成だと言わざるを得ません。
ライブドアに対して「金さえ有れば何でもやれる」という批判がありますが、民放の番組こそ「儲かれば良い」事に撤していて、タレントの「バカ騒ぎバラエテイ」が蔓延して、見るに堪えず私は視聴拒否でスイッチを切ります。
他局を選ぼうにも選択肢が少数に限られて数局の電波独占状態が日本の体制ですから見たくなければスイッチを切ります。
インターネットも大きく変化し「検索エンジン」の充実で相当な所まで情報が得られます。
自分独自の視点か現場確認には出掛ける必要がありますが、予備知識は充分得られます。
そういうメディアにタッチ出来ない人は置き去りになります。年長者の経験知識は貴重ですが伝達手段が無ければ継承は出来ません。情報だけでは駄目で体験も必要です。
今の高年世代は戦後処理を始めとする諸問題を次世代に伝える事を怠りました。
すべての「つけ」を次世代に回して「頬っ被り」で引っ込むのは許せないと私は思っています。
最近は古典芸能も「門外不出、口伝、秘法」では断絶してしまうので公開されるようになりました。祭り囃子、からくり操作などもTVなどで公開されます。こんな事は過去には許されなかったでしょう。
今回の放送メディアを巡る問題は旧体制を新世代の体制に切り換える大きな転機になると、私は大いに期待しています。
折りしも、名古屋では、かって大正時代に、外資によって日本最大の水力発電開発によって名古屋の発展に寄与した福沢桃介が川上貞奴と暮らし活動の拠点にした「二葉御殿」が復元されました。
日本の体制では資本調達が不能と見て、若き日の留学体験で得た経営学を活かしアメリカで「外債」を発行、資金を得て事業を成し遂げました。日本国内だけでは達成出来ない相当に荒っぽい手段でしたが、こうでもしなければ日本の体制は変わらないと思ったのでしょう。
火力発電で細々と供給し六百人の従業員を三百人にリストラする計画であった「名古屋電燈」を大電力会社に拡大発展、中部経済の飛躍的な発展に貢献した業績は絶賛されます。
自然破壊という負の面も齎しましたが、これは知恵により解決手段を考えなければなりません。
日本は高齢社会が進んでいますが、体制にこだわり過ぎると、新旧世代が融合どころか対決の様相を呈して来るのではないかと私は心配しています。政治、経済、教育あらゆる所で問題が次々発生するでしょう。
私は事の良し悪しはともかく、世代交代を活発に進めればいけないと思います。
高齢者はただ漫然と暮らすのではなく何かを考えなければならないと思います。その手段が何であるかはそれぞれが考えるべきでしょう。
私自身も、今月末で責任の伴う諸役は総て退きます。手伝える範囲の事は拒みません。
現役から離れた私が、とやかく意見を申し上げても何も変わる事は無いので余計な発言は控えます。
メディアでは伝えられない側面の情報や、過去の実体験でお伝えできる事を伝達出来ればと思います。
二葉館訪問 2.25
「文化のみち 二葉館」へ行ってきました。
開館以来、TV各局での紹介があり内部の様子もかなり判ったのと、もうそろそろ来館者も少なくなってきたかなと思い、土日をかわして、二十四日(木)訪ねました。
いつもの通り、地下鉄「久屋大通り」下車、東へ歩いて、東片端から左折、途中、自動車道の、ど真ん中に大きな樹がスックと立ち注連縄が懸けてあります。道路拡張の邪魔になると何度も切ろうと思ったのですが、事故が起きたり病気になったりの障りが起き、切る事が出来ず車はそこを曲がって進みます。
かってNHKで放送されたドラマ「二本の桜(180分)」の中頃に江守徹、香山美子の夫婦が車で通りかかり「樹の力って凄いと思わないか」と江守が話しかける場面の樹です。今は高速道路の下になっていますが、シッカリ立っています。主税町教会のすぐ南ですが高速道路の西ですから反対側です。
主税町教会から東へ、途中「料亭香楽」「故春田鉄次郎邸(レストランデュポネ)」「豊田佐助邸」の前を通り次の信号を右へ東北角が「文化のみち 二葉館」です。
詳しくは別項にしますが、見事に復元されました。
建物は、福沢桃介が名古屋を去って後、貞奴は二葉御殿を拠点に紡績などを経営、東京では児童演劇の指導などの活動をしました。岐阜県各務ヶ原鵜沼には貞照寺を建立自らの菩提寺としました。
福沢桃介死後、洋館部分が大幅に改造されました。復元は写真を参考に図面を起こし直したようです。部材は和館は殆ど原型通りです。屋根瓦、柱、天井、廊下、戸、障子、ガラスも多少の疵はあっても、そのまま使われています。洋館部分も、ドアのノブ、扉の蝶番、曲がり階段の上下手すりに付いている銅製の灯かりなどは原物です。「ここまで・・」と思ったのは廊下などに付けられた照明用と思われる押しボタン、配線はしてありませんが壁に嵌め込まれています。
とにかく有った物は総て原型に戻すという方法が取られています。解体の時に詳細に記録されたのでしょう。
洋館部分は原型材料が、改造時、かなり失われたので形は同じながら新しく作られた所があります。
一時間ほど居て、二階と二度往来して見てきました。「開館以来で今日が一番空いている」と受付の若者が話してくれましたが、それでも常時二十人ほどの人が居ました。詳細は又いずれ。
例によって「オアシス21」まで歩いて「掘り川端ものがたりの散歩道(沢井鈴一監修)」購入。
続いて名古屋駅まで歩く途中、納屋橋河畔に改修オープンした「旧加藤商会ビル」の「堀川ギャラリー」で堀川情報拝見。受付の女性と暫し堀川談義をして帰ってきました。
三月になると名古屋は「万博前イベント」が始まります。皮切りは三日の「名古屋城金鯱下ろし」。
二十日を中心周辺は賑やかになります。
適当な人出 2.18
中部国際空港が開港、十万人近い人出で芋を洗うような大混雑の様子。
やはり年配者が多い。若い人たちはサービス残業など厳しい労働条件やリストラの心配に堪えながら仕事に励んでおられるのにグルメ横町やら展望風呂では一時間半待ちと言いながら嬉しそう。
若い人達は、上がり続ける年金負担や増税、ローン負担に耐えて励んでいるのに、平日昼間から遊んでいて良いのだろうかと思います。私は甚だ気が引けます。
六十才以上の人は明らかに貰い過ぎているというデータがあります。
若い世代から恨まれているのではないかと心配になりますが、そう思うのは私だけでしょうか。
口だけ出しゃばるのは甚だ迷惑ですが、邪魔にならないように上手に手助けくらいはしてもいいと思います。
人出があまり無いのも寂しいですが、それだけ魅力が無いと言う事では駄目ですからね。
ユックリ観察するには大混雑では駄目なので、一息付いた頃に出掛けます。当地からは直通で四十分位で行けますから何時でも出掛けられます。
幸い名鉄片道無制限切符が六枚手元に有ります。何処へ行こうかと考えていた所だったのですが、万博には使えないので中部国際空港へ三人でタダで行って来ます。
「文化のみち二葉館」もまだ行っていません。期限がある訳ではないので陽気の良い日にのんびり行きます。
暖かくなったら行く所が一杯有るので春が待たれます。
名古屋八年 2.14
「川上貞奴」の経歴を見ていて、名古屋に住んだのは僅か八年だったということを知りました。
大正七年から十五年の間で、福沢桃介と同棲し始めたのは、この頃からです。今度、復元された「二葉御殿」は、大正八年、建てられました。三千坪の敷地に百二十坪の建物で、東二葉町の屋敷の庭園にはサーチライトが輝き、財界サロンとして社交の場として名古屋の産業発展に貢献しました。
「福沢桃介」は、大正十三年、日本最大の大井ダムを建設、その後も七つの発電所を次々建設し「電力王」と言われましたが、昭和になって東京に帰り、昭和三年、関連会社四十の要職を退き六十才で引退しました。昭和十三年七十才で亡くなりました。
貞奴も、大正十五年、名古屋を去ります。華々しい活躍でしたが八年間というのはアッという間の出来事だったのです。
思うに、かの名古屋に繁栄を齎した「宗春公」が尾張藩主として華々しく展開したののが八年間です。
名古屋は派手な事は、それ位の所で一区切りする風土なのかも知れません。他所から来た人によって風穴を開けられる事で新発展のきっかけになるのであれば、閉鎖的にならないで門戸を広げている事が発展の元なのかも知れません。
ところで、私事になりますが、私の祖母(母方)が生まれ育った一宮の家などの管理をを人に託し、私の母を含む四人の子供を伴い一家で名古屋の南外堀町に転居したのが大正九年です。母の二人の兄の中学入学と、自らも名古屋の活況の中での暮らしを目指したと思われます。「貞奴」の噂も聞いていたのでしょう。
東区の文教地区の有名中学へ入学したと思われ学校生活の写真が有りますが特定出来ません。明倫か東海ではないかと思われます。同時期、私の父は名古屋中学に在学しましたが、当時の所在地は東二葉町で二葉御殿に隣接していた事を最近知りました。現在はそこには存在しませんが、今も近くに存在するのは「金城学園」で当時の面影を残しています。
母の兄二人(伯父)や、私の父母は病気や太平洋戦争などで残念ながら早世しましたが祖母の意欲に私は納得しています。
有為転変は世の習い、予測出来ない事が起こりますが意欲を失わず開拓する精神でいたいと思います。
ビデオのDVD化 2.8
このビデオと言うのは自作の場合を指します。
DVDレコーダーが普及し、TV番組の録画や完成ビデオのコピ−などは手軽に焼く事が出来るようになりました。
TV番組などは、大体60分を基準に15分刻みに作られていますからDVD1枚に、殆ど無駄なく収まります。
自作のビデオは、そういう訳には行きません。撮影時に15分刻みに収まるように撮影するなどという事は不可能です。
まあ、撮りこぼしの無いように多めに撮ります。編集など考えなかった頃は、撮影しながら完成度を考え、組み立てを考えながら撮影していました。
相当な集中力を必要としました。それも一つの良い経験でした。
今は無駄なカットやミスカットは編集で処理出来ます。が、これも普及している市販ソフトや、ハードのバンドル版は処理や編集機能に不足が有りますがアマチュアにはこれ位が使いこなす限界かとも思います。
プロ用の編集ソフトは値段も1桁上になり、それに対応したハード構成が必要になります。アマチュアの編集能力では無理な所も有り、そこまではやれません。
そこで自作の撮影ビデオの処理とDVD化です。アマチュアの撮影ソースは家庭や地域の行事が殆どだと思います。
これが、かなりの長時間物が多いのです。プロの取材は大量に撮影はしますが、放送には殆どがカットされ、画像紹介の不足分はスーパーやナレーションで充足されます。ここがプロの高度なテクニックですが、時間の制限が有り緻密な記録は別な作品にしない限り、廃棄か保存かどうなるのかは分かりません。
アマチュアの記録は金銭価値には乏しいですが関係者には二度とは得られない価値の有る物です。
ですから、ある程度は編集しますがソースは捨てられません。ただ劣化という心配があるのでDVDなどの光学保存をしておきたいと思います。
編集では、タイトルと画面のスーパーテロップはしたいものです。これだけで相当な見栄えとアナウンス効果が得られます。
BGMやナレーションまでやることは、かなりの手間と時間、そして、編集能力とスタミナが必要です。撮影も、かなりの集中力とスタミナが要りますが編集はその数倍の精神力が要ります。それを助けるのが強力なハードとソフトなのですが、それも個人のアマチュアには限界が有ります。
撮影自体はカメラの高機能化などで、一点固定撮影するだけなら簡単です。「カラオケ大会を8時間撮影したからダビングして欲しい」と相談された事がありますが「撮影した人が責任処理しなさい」と言ってやりました。
カメラを入手し、撮影は何とかしたが後処理は出来ない事が多く有ります。内輪だけなら、何とか見れますが、外部に出す事は「とても、とても」という人が多く、なかなか撮影依頼出来る人が案外居ません。
撮影環境も厳しい風潮が広がってきました。カメラの高性能化で、公共物や特定の個人情報の取材は公開されている外部は可としても、内部の取材は規制されます。プライバシーに関わる事や専門資料は、取材可否の了解を得る礼儀とモラルに配慮すべきです。アナウンスされている事も有りますからそれは遵守すべきで盗撮などは以ての外です。
著作権法で言う「個人で楽しむ以外に使用してはいけません」と言うのがより現実的になってきました。
データのデジタル化でコピーの劣化が殆ど無くなった事は衆知の通りです。デジタル放送のコピ−ワンスは止むを得ないでしょう。
紙幣のコピーは、それだけで厳罰が課せられます。情報のコピーは、まだそこまでは言われませんが知識や能力が金銭評価されるほどの物であれば無断無料利用には配慮が必要です。
情報を提供する側にも、その情報の正確さに責任が伴います。研究者やドキュメンタリー作家でも追加訂正は続けられます。
大岡昇平氏のライフワークとなった「レイテ戦記」は生涯、新資料の追記訂正を続けられました。
ネットによる情報収集も大量広範囲になった今、素人情報と言えども情報の発信に責任を感じなければならない事を感じます。
一芸 2.3
一芸を身に付けることは難しい事です。
「盆踊り」などは見ていれば簡単にやれそうに見えるのですが、いざ中に入るとモタモタになります。
矢張り経験を積まなければ手順について行けません。「巧いな」と思える人はかなり稽古を積んでいます。
「盆踊り」は一番を覚えれば、その後は繰り返しです。(例外はあまり聞きません)単純な動作が多い為、巧く踊るようにするにはそれなりに難しい事もあります。
「日本舞踊」は、一曲が一つのストーリーになっていますから、四分あれば終わりまで全部違います。小唄、端唄などには大抵男と女の両方を踊り分けなければなりません。
「奴さん」の場合、粋な男で始まりますが、次はガラリと変わって「姐さんかぶり」の女形、それで一踊りの後、たちまち元の男に戻って〆で決まります。激しさと、しなやかさを切り替えるのが大変難しい事です。
社会人の素人が、「一芸」を身に付けるのは簡単ではありません。伝統と遺伝を引き継ぐ継承者が、どれほどの苦労をしているかは自分が経験して初めて判ります。
簡単に「上手下手」を言う人がいますが、私は「そんなら、あんたやってみたら」と言います。そう人に多いのは「そんな事ようやらん」と言います。「自分が出来ないなら、そう簡単に人をけなすな」と思いますが口には出しません。
他人の苦労は自分が経験しないと判りません。ですから、余程の事が無ければ他人を攻撃してはいけないと思います。
歌舞伎を始めとして劇場公演は二十五日間昼夜、例外を除き相当な重労働の連続です。それだけに完遂した充実感は得難いものだと思います。
「劇団四季」はロングラン公演が多いのでダブルキャストで配役を組んでいます。
「歌舞伎」は、役者病気などで代演する事がありますが、それだけの実力者が充実しているからです。ここでは世襲血縁が活かされています。
それだけに束縛や重圧も計り知れない事でしょう。
舞踊の名手と言われた「先代松緑」さんほどの人でも「勧進帳」の弁慶は六十七才の歌舞伎座公演が最後でした。六十三才のNHKホールでは完璧でしたが、その後、足腰を痛められ最終公演では「立ち居振舞いも不自由な中、良くやり遂げられた」と現「松緑(孫)」が語っています。先代は七十六才で亡くなられました。
松緑「弁慶」と歌右衛門「京鹿子娘道成寺」は、今や伝説になりました。
名人と言われた「舞踊家」の多くが晩年痛められるのが足腰、殊に膝です。重い衣装と激しい動きに身体が耐えられないのでしょう。
「舞踊会」では、男踊りで女性がバテる事があります。若い人は体力でカバーしますが「助六」など長いものでは年長の人では後半バテバテになる事があります。
歌舞伎の女形が男でなければ勤まらないのが納得できます。
素人とは言え、他人様に披露できる「一芸」を身に付けるのは難しい事です。
細く長く稽古を続けるには資金が要ります。月謝が安ければ、教える方も力が入りませんし、教わる方も安いからと努力しないという事があります。
されば高い月謝が良いかというと、ブームに乗って金儲けに走るカルチャーセンターもあります。ブームというのはピークですから流行に乗せられると金だけ取られて閉鎖する破目に遭います。
地味でも自分に合った、断続的でも長続きする「一芸」を生涯の友に出来るのが良い事だと私は思います。
勧進帳のきさらぎ 1.29
「勧進帳」は七代目市川団十郎初演の歌舞伎十八番の一つです。「勧進帳」の全部の説明はしません。
申し上げるのは長唄の詞に唄われる「如月(きさらぎ)」の事です。
昨年末に、HN(ハンドルネーム)を、私の生まれ月二月から「一宮のさくら」から「きさらぎ」に変えると申し上げました。
前文「願わくは」で「西行」のお話をしました。「西行」は建久元年(1190)七十三才で没しましたが、これは、寿永四年(1185)平氏が滅亡した五年後になります。
それ以後、源頼朝の時代になりますが、義経追討へと思わぬ展開となります。
義経が京を逃れ琵琶湖を渡り、北岸の海津から越前に向かう途中「安宅の関」に差し掛かります。
安宅の関守、富樫と義経主従との展開が「勧進帳」です。
これが「吾妻鑑」では文治三年(1187)如月(旧暦二月十日)。「義経記」は文治二年二月二日となっています。
その二年後(1189)、義経は頼朝の圧力に屈した泰衡によって非業の死を遂げます。
その泰衡も同じ年、弟忠衡まで殺しますが頼朝の奥州征伐により自らも配下に殺され藤原は滅亡します。
「西行」の「和歌絶ち」の一因はそこに有るかも知れません。「西行」が七十三才で世を去る前年の事でした。
さて「勧進帳」の詞ですが「旅の衣は篠懸(すずかけ)の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしおるらん」で始まります。篠懸は修験者が衣の上に着る麻の衣で、深山に入るとき篠の露を防ぐものです。袖をしおるは、括って露を絞る事で苦難を程を表します。
その次が、本調子「時しも頃は如月の、きさらぎの十日の夜、月の都を立ち出でて」となります。
月の都は京都の美称です。
続いて、ここから有名な「人寄せ」の合方(演奏)。
かっては時代劇のチャンバラシーンによく使われた曲です。
この演奏空間が、次の「これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の・・・」で花道に登場する義経の出を期待させ、ワクワクする楽しみです。義経に続いて、四天王・弁慶が登場、花道に居並びます。
始まりから弁慶の「飛び六法」までの七十五分は息もつかせぬ時が過ぎます。
そういうわけで「きさらぎ」は、私の生まれ月。西行の「願わくは・・」。そして「勧進帳」の詞と「偶然」というか「こじつけ」という訳でもありませんので(私は新暦だから矢張り、こじつけかな)。この際変えます。
今までの「一宮のさくら」は佐藤良二さんの「太平洋と日本海を結ぶ桜」の一宮裁判所の、枝垂れ、山桜(私宅から100メートル程毎日見ています)を始め、近隣の佐藤桜との関わりから「さくらの声」として使わせて頂きました。
私本人のイメージとは違います。女性と思われた方も居られたようですが、もう、そういう事は無いでしょう。
私には和歌を作る能力はありませんが、春の歌には好きな歌が沢山あります。
私が生まれた節分(二月三日)が、寒さのピークですが、明ければ立春です。
この寒さも花の蕾を充実させるには必要かもしれません。
「さくら道」の桜を毎日眺めては、蕾の膨らみを待つ日々です。
気になる事は有ります。昨年は、猛暑と毎週のように来た台風で、紅葉になる前に葉が多く失われました。
花の蕾は葉から充分要素を取り込み充実させると聞いていますから、今年は良い花が咲くかどうかが気懸かりです。
願わくば 1.24
「願わくば花の下にて春死なむ この如月の望月の頃」
(叶えられるものなら満開の桜の下で死にたいものだ。二月(旧暦。新暦では三月末)の満月の日に)
これは西行法師の歌です。辞世の句では無いようです。
西行は亡くなる前年に「和歌断ち」をしています。
その理由は「歌を詠むとは一体の仏像を作るか、秘密の真言を唱えるようなものだ」と考えたと言います。即ち自分の心を歌という表現で表したと言っています。西行の言葉が人の心に響いて多くの人に受け入れられたと思います。
西行は藤原家系のの流れを汲む「藤原義清(ふじわらただきよ)」という鳥羽上皇直属の親衛上級武士で「北面の武士」と言われたエリート集団の内にあり、平清盛もその一人でした。
西行が七十三才で没するまでには数々の戦乱が起こり、平家の台頭、そして滅亡を目の当たりにしています。自らは鳥羽領と藤原領の確執、十七才年上の鳥羽上皇の皇宮(待建門院璋子)への叶わぬ思いなどに呻吟し、妻子を捨て「出家遁世(俗家を捨て仏門に入る)」の道に入り漂白の旅に出ます。煩悩と人間関係から逃れて心の救いを求め、漂白の旅に出、自然の中に感じる数々の歌を詠みました。
表現のストレートさに多くの人が心を打たれ、後に芭蕉も西行が辿った東北へと旅し「奥の細道」を著しました。
私もあまりに有名な「願わくば・・・」に感銘しましたが、西行の人生を手繰ってみて、前述の「出家遁世」を知りました。
世に伝えられるのは凝縮された、ごく一部の輝く面に留まり、その影に有る家族の苦しみや、西行自身の孤独、貧困、心身の筆舌に表せない苦難はあまり知られていません。璋子も西行の妻子も後に出家します。女性も多くが「遁世」の道に入りました。
現代でも戦中戦後、家庭を失った子弟が寺に預けられました。かく言う私も薦められた事が有りましたが断りました。私のような多煩悩は断って良かったと今も思います。
境遇による出家は「親鸞」にも言えます。「親鸞」は比叡山の俗世を離れた遁世の世界での自己完成に徹し切れない、煩悩(女性など)に苦しみ、六角堂での「救世観音の夢告げ」などを経て、妻帯俗世の中で念仏を大衆に説きます。
師でもある法然も、同じような、名有る武家の出で戦乱で家族を失った末の幼い出家でした。共に流罪など苦難を経ています。それほどに多くの共感を経て広めた「念仏信仰」ですが、親鸞は関東から京都に去って後、息子の善鸞が誤った判断の教えを伝えた事で義絶をするという矛盾に悩みました。
比叡山の遁世の世界で修行を積み高僧になることも大変ですが、俗世で、家族や社会との人間関係、経済活動、人間形成を努めるのも修行の日々です。
俗世から離れた美しい理想の世界には救いが有るという間違った宗教観に惑わされないように心したいと思います。
偏った宗教観で、正義をかざす某国の押し付けた無理な理想が簡単に受け容れられるものではない事を、日本も、かってアジア諸国で経験した過去に学びたいものです。
失われた風景 1.17
今日は阪神神戸震災十年目、終日関連番組が放送されています。
午前、安藤忠雄さんなどが出演。安全復興の為の建物が多く建てられたが、以前の風景が失われ、心の絆が取り戻せないでいる人達が大勢居ると話されました。
私も、心の「原風景」を戦争により多く失いました。
神戸でも空襲で残った数々の建物が震災によって失われたそうです。高齢者には、心のよりどころであった過去の風景も震災で失われてしまいました。
私の入学した葵国民学校は、わが家と同じ三月十九日に焼失しましたが、避難した東区役所は昭和四十五年あっけなく取り壊されました。数年前市政資料館で写真を探し記憶の確認をしました。イメージと違わぬ姿でした。当HP「旧東区役所」として紹介しています。
葵国民学校に隣接してあった、レンガ作りのアメリカ領事館は当時、空家になっていたと思いますが、庭に入って桜や松のヤニを採ったりした事が有ります。この建物も消え、現在は名古屋市救急センターと医師会館になりました。
名古屋の戦前からの建物は名古屋の空襲が「焼き尽くし」では無く「虫食い状態」であった為に都心でもかなり残っています。
さすがに耐用年数を遥かに超え消滅寸前です。当HPには、その中のいくらかを紹介しています。
二月八日にオープンする「旧川上貞奴邸」は、目的は変わりますが心の原風景として復元された事は意義が有ります。全国の重要建築物が「明治村」に移築されましたが、現地保存は叶わずとも、同じ地域に再興された事は地域の資産として後世への遺産となるでしょう。
名古屋の東丘陵地帯には「昭和塾堂」はじめ、個性的な文化建築が有ります。用途は変わっても心の原風景として残って欲しいものです。鶴舞公園の「噴水塔」や「公会堂」、「茶店」なども心の風景です。
「先代名古屋駅」は昭和十二年二月竣工開業されましたが六十年で姿を消し今のツインタワーになりました。
特徴の有る、鉄骨アーチのコンコースや、両側に並ぶ切符売り場、それを見下ろす中二階のガラス張りの喫茶サロン、地下の食堂街や理髪、銭湯など駅独特の雰囲気でした。
たびたび、父に付いて主に関西各地へ行きましたが、車窓から見える街並みやプラットフォームは子供ながらに哀愁を感じました。
その駅を目指して空襲の焼け野原を葵町から歩いて辿り着き、名古屋を去ったのは辛い悲しい思い出です。
現在住む一宮には、残念ながら私の原風景は有りません。転居した、その年七月一宮は空襲で70%という焼失率で、夢のある雰囲気には程遠く、尚更、夢が失われた年月でした。
名古屋は大胆な都市計画で大きく変貌しましたが所々に原風景が残っているのは救いです。
これから生きて行く人達にも、心に残る思い出を残す「原風景」が心に多く育まれるよう願っています。
街のギャラリー 1.12
正月に来た時、うっかり渡すのを忘れた孫への「お年玉」を届けに行ったのは七日。
そこへ行く前に、先祖の墓がある覚王山へ行きました。地下鉄の環状線が開通したので名古屋駅からの路線と別のルートが利用できるようになったので、歩きと、効率的に名古屋市内を往来出来ます。
八日からの三連休の内にと思っていたのですが寒波が襲来ということで、その前に行って来ました。
目的の用件が終われば、後はいつもの通り、歩き。
数日前、平幹二郎さんが三時間くらいのウオーキングを常にされているということで、東京都内を浅草を終点に三区に跨って歩くと話しておられました。
七日は、北区・東区・中区・中村区と四区を跨いで歩きました。
その前に池下から自由が丘まで歩きましたから千種区と五区になりますか。
三時間は、はるかに超えていると思います。北区は、志賀本通から「文化のみち」がある、白壁経由。
名古屋市役所からは中区に、久屋大通りを南進、栄「オアシスパーク」のインフォメーションセンターで情報収集を兼ねて休憩。イベントをやっていれば見ます。
平日は年配者(年寄りとは言いたくないので)が殆どで、好きな雰囲気ではありません。
そこから広小路を西進、名古屋駅まで歩きます。
何時も、どこかで何かイベントがある土日祝祭日に行くようにしています。若い人がいっぱいいる雰囲気はパワーが貰えるようで元気になれます。
七日は金曜日でした。いつも閉まっている「UFJ銀行貨幣資料館(土日祝祭日休館)」が開いていたので、初めて入って見ました。日本、世界の貨幣と紙幣が一万点。藩札から大判小判などがビッシリ。一つ一つ見ていたらかなり時間が掛かりますから一度では無理です。併設で浮世絵が常設展示されて、一部は随時テーマを変えて展示されます。現在は「雪」です。お馴染み広重の「東海道五十三次」と「江戸百景」や版木、彫刻刀、画材、擦り工程も展示。
「五十三次」は同じ視覚からの現在の風景写真が添えられ比較が出来ます。
何度か見ると細かい所の発見が次々有ると思います。平日のみというのが難ですが・・。
納屋橋の「INAXギャラリー」にも寄ってみました。一階は「INAXショールーム」。二階が「INAXギャラリー」です。
一階はINAX製品のショールーム、階段を上がるとギャラリーです。小じんまりしたスペースですが画廊とインテリアや木工品などが静かに展示されています。
私は、大きな展覧会より、こういう展示が好きです。
メナード美術館や古川美術館などが落ち着いて鑑賞でき心が和みます。大きな美術館やデパートの美術展は雑踏でヘトヘトになり説明もろくに読めないので、どうしてもジックリ見たいなら平日に行くしかないでしょう。
お金の事は言いたくないですが、どうせ1.000円ほど払うのなら、何度もは行けないので、ゆっくり何度も見なければ勿体ないです。
ただ「見た」だけでは駄目で少なくとも二周りは見るべきでしょう。最低でも一時間、結構、スタミナが要ります。
それだけの心の収穫は得られます。併設でティールームが有れば、そこでのコーヒーは独特な雰囲気で何倍もの満足感が得られるでしょう。私の年齢になると沢山のご馳走は要らないのでプラス@の有る「心のご馳走」で心の満足を得られればと思います。
ふっと「街のギャラリー」を訪ねるのも良いものです。
歌舞伎見物 1.9
歌舞伎鑑賞と言うべきでしょうが歌舞伎は見物と言うのが普通なのでそう言います。
と、言っても名古屋では正月は歌舞伎興行は無いのでTVでと言う事になります。タダは有り難いですが・・。
民放では、トピックとしてのドキュメンタリーでは取り上げられますが舞台の完全中継は無いので、NHK教育で見る事が殆どです。それも、年間五本位ですが、年末年始は集中して特番が組まれますから、その時は悉く録画します。
ただ、伝統歌舞伎が好みなので猿之助の「スーパー歌舞伎」は見る事はありますが録画はしません。
十二月に「三国志」を放送しましたが見ませんでした。
今回は、三十一日に、京都「顔見世歌舞伎」。正月三日の間に「新春桧舞台」「こいっあ春から・三座生中継」など。毎年恒例です。
今迄に撮り貯めたビデオが、かなりあり随時見直しています。
長時間なので放送時には全部見ません。後から一つずつ、ゆっくり気持ちを集中して見ます。
今朝(九日)やっと全部見終わりました。
四日にNHK「その時歴史が動いた、二代目市川団十郎」が有り、それも録画しました。
昨年は「海老蔵襲名」、「勘九郎ニューヨーク公演」という大きなイベントがあり、この公演も録画したのでしばらくは退屈しません。
今年は勘九郎の「勘三郎襲名」、雁治郎の「坂田藤十郎襲名」があり、名古屋御園座は十月顔見世に「勘三郎襲名披露」です。演目は昼が「口上・連獅子」、夜は「白浪五人男(通し)」という事です。御園座周辺は賑やかになるでしょう。
昭和二十年代(’45〜)回顧
私の昭和二十年は、一月二十九日の爆弾空襲から始まりました。
空襲罹災の三月十九日まで連日連夜の不安の日々でした。
三年生二学期を縁故疎開の岐阜県御嵩国民学校で送り、学期末に名古屋市葵町に帰り、そのまま戻らなかったので三学期は学校へ行っていないと思います。
葵国民学校は三年生以上は三河の矢作へ集団学童疎開していて学校は「もぬけの殻」だった筈です。
三月十九日の空襲時に至る間の近所の様子も記憶が曖昧です。代官町の映画館に昼間一人で行っていて警戒警報が鳴って上映停止、急いで家に帰った事があります。タダ見だと思いますが・・。
空襲罹災以後は一宮暮らしになりましたが180度の転換。
言葉に尽くせない目茶苦茶グチャグチャで筆舌に尽くせません。
混乱の内に、五年ほど経ち、中学校二年生になって名古屋へ行くようになりました。
担任の先生がピチピチ新任の張り切り先生で、夏休みには十人の男子(私も)生徒と知多山海のお寺で一週間程の「合宿」という夢のような「想い出」が体験出来ました。
この学年は私に生きる力を起こさせてくれた意義ある年でした。体操選手であった先生は国体を前の鉄棒練習中落下の大事故で、止む無く休養されましたが奇跡的に後遺症も無く間もなく復帰されました。私の短い学業に中での「恩師」としてサイトに、ご紹介させて頂いています。
先生が休養しておられた名古屋城東の土居下柳原町の下宿先を、前述のメンバーが揃ってお見舞いに伺いました。
昭和二十五年(1950)秋頃でした。名古屋城は空襲焼失で石垣のみ。行きはどう行ったのか記憶は定かではありませんが「堀川」から瀬戸電で「土居下」まで行ったのかも知れません。
帰りは名古屋城を歩いて通り抜けたと思います。NHK(JOCK)が城郭地域に有りました。公開中で私達は中に入って見学して来ました。CKはその後、現在地に移転しました。
現在の「名古屋まつり」が始まった頃、友人と行きました。お城は有りませんが山車は何台か並んでいました。撮った写真が有ったのですが紛失したままです。
「名古屋まつり」はTV塔前広場お旅所へ熱田さんから渡御があったと思いますが、交通事情からか行われなくなりました。
思えば戦後六十年、半世紀を超えました。思い返すと随分変わりました。向上した事も膨大ですが、失われた物も相当なものだと思います。
東洋一と言われた先代名古屋駅は、私より一年後に誕生しましたが、多くの思い出と共に六十年で姿を消しました。
あまりにも変化が激しく、幻のような、あの頃を、私が確かめられたのは五十才頃になってからでした。
社会の変遷に自分の人生経験を重ね、知らない世代の人達に伝える事は大事な事だと思います。
過去と未来のジョイントという役割を、私の世代は果たしてきただろうかと考える、年の初めです。 |