トップへ
旧 名古屋市東区役所
大正十五年十一月竣工
昭和四十五年十月、業務移転の為、取り壊されました
写真を基に書かれた精密画
旧東区役所

東区史には大正十五年十一月竣工とありますから
市役所、県庁よりも前に建てられた事になります。
アーム状になった正面入り口、当時盛んに取り入
れられた建築様式です。
名古屋市公会堂、筒井小学校などの丸窓など
曲線を活かす建築が当時盛んでした。
昭和二十年三月十九日、葵国民学校始め周辺は
空襲で殆ど焼失しましたが区役所は被災していない
と思います。
昭和四十五年、筒井町への業務移転で取り壊され、
現在は名古屋市救急救命センターが建っています。
モダンな素晴らしい建築は桜通り拡張の為、
取り壊されました。

(左)昭和八年の街並み
空襲時(昭和二十年三月十九日)まで有った
旧名古屋女学校校舎(大正四年四月六日開校
二十年当時は男子校のようだったが
勤労動員の為か、時々姿を見掛けるだけだった。

門の鉄扉に足を掛けて蹴って遊んだ記憶が有ります。

上地図(昭和八年図)の上方に東区役所があります。
交差点には「布池町」市電電停がありました。
下方交差点は「新栄町」ここにも市電電停がありました。
その中間地点の角の
(赤カッコ)が当時(昭和八年)の名古屋女学校でしたが、昭和十年、現在の瑞穂区(現名古屋女子大)へ移転しました。
私達家族は昭和十五年から、そこから数軒西の
(赤カッコ)地点(葵町二十三番地)に、昭和二十年三月十九日の空襲まで住みました。
前述の名古屋女学校が母の出身校だったという地縁が有ったのでしょう。
母は、この地で昭和十七年八月、三十才で亡くなりました。
私は、昭和十七年四月、東区役所隣の葵国民学校へ入学しました。
その隣にはアメリカ領事館の洋風建物があり、蝉など捕まえに行きましたが、先日、知った東区史では昭和十五年には閉鎖されていました。空家だったんですね。
区役所は子供には、あまり縁の無い所なのですが、空襲の避難所として地下室へ二度逃げ込んだ事が忘れられない思い出となりました。
避難二度目の朝は、少年期の思い出の総てが儚く砕かれた日でした。
葵町に住む前は、昭和区鶴舞公園傍の板橋町に住み、鶴舞公園を横切って曙幼稚園に通いましたが、昭和十五年、葵町に転居、父が内科小児科を開院しました。
時を同じくして米英との関係は悪化。昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発。
昭和十七年、私が葵国民学校に入学した夏、元気で世話好きだった母が病死しました。
それまでの暮らしは、かなり活気に満ちた生活で名古屋市中心部へは頻繁に出掛け、映画、外食、旅行など、母の実家も名古屋城の傍だったので、祭り見物(那古野神社、東照宮など)や円頓寺商店街などへの買い物、映画見物など満ち足りた日々でした。
家には、父の蔵書やレコードなども多く有ったので子供ながらカルチャーショックの中の毎日でした。
その後の経過は戦況の悪化、岐阜御嵩への縁故疎開、空襲、父の出征、戦死と目まぐるしく運命の波に翻弄されましたが、葵町の五年間は私の人格形成の中での濃縮された決定的な時期だったと思います。
それが有ったからこそ
「何時の日か再び復活を」と頑張って来れたと思います。
まだまだ、やる事は限り無く有ります。
古い話といえばそうですが、人生の中で実際に有った事に違いは無いので、それを経験を糧に、絶えず努力を怠ってはなりません。
進める限り前進すべきでしょう。
トップへ