那 古 野 神 社 例 大 祭 |
那古野神社(亀尾天王社) 名古屋市中区丸の内二丁目三番十七号
御祭神
中扉 須佐之男神 櫛稲田姫神
左扉 兵 主 神 右扉 八 柱 神
例祭日 七月十五日 (試楽祭) 七月十六日 (例祭、御輿渡御)
御由緒
当社は。醍醐天皇の御代、延喜十一年(西暦九百十一年)三月十六日に尾張国那古野庄(現在の中区三の丸)の地に勅により鎮祭せられたと伝える。
当時は天王社と称し、神仏集合により別当として真言宗、亀尾山安養寺十二坊(首班を天王坊という)があった。
天文元年三月、織田信秀が那古野城主、今川左馬之助氏豊を攻めこれを遂ったさい、当社社殿は兵火にかかることとなったが、後に信秀は社領若干を寄せ諸役を免じ、よって天文七年には社殿は再興された。
文録四年、八月三日、豊臣秀吉は、改めて社領三百四十八石余を寄せる。
慶長十五年、徳川家康の名古屋城築城にあたり、当社ならびに若宮八幡社の郭内となるため他地に遷座せんと欲し、築城奉行、佐久間政実をして神籤を取らせ神慮を伺った。その際、当社は不遷の神籤のみ再三に及べば即ち御城鎮守の神。名古屋産土の神と崇め旧地に依存し、元和六年九月には国主徳川義直により、改めて社領三百四十八石余を寄せ墨印地とした。
爾来、歴代国主の崇敬最も篤く、毎年例祭には代拝参向し奉幣祭祈し祭儀の如きも特に五十石の地を寄せてこれを壮にした。また社殿その他の修造もみな国主の営むところであった。
明治維新。廃藩置県の際、社領は没収され、逓減録の制度に基づき若干の金員を下付された。
神仏混こう禁止の後、社号午頭天王を改め、須佐之男神社と称し別当を廃して神職を置いた。
明治五年、郷社に列し、同九年十月、名古屋鎮台創置にあたり西区茶屋町(現在地)に遷座となる。
明治十一年には県社に列し那古野創始の由緒に基づき同三十二年那古野神社と改称、同四十年には神撰幣はく供進神社に指定され大祭毎に県知事参向し祭典を挙行した。
大東亜戦争のため昭和二十年三月十九日、御本殿以下を消失するが、氏子ならびに一般の寄付を仰ぎ、同二十九年に御本殿および祝詞殿、同三十二年に拝殿、同三十四年に渡殿および神札授与所を完工した。
追記 平成四年早朝、神楽殿が焼失。現在は復興されました。
天王祭り
亀尾天王社は、名古屋城内の三の丸に鎮座していた。名古屋開府以前からの天王社で延喜11年(911)の創建と伝える。
郭内天王、三の丸天王と共に天王社と呼ばれていた。秀吉以来、安養寺(天王坊)に寺領348石が与えられていた。
明治の神仏分離令により安養寺は廃寺になり、その仏像、仏具類は多数が燃やされ、一部が現在、海部郡平和町の長福寺に保管されている。
天王社は、須佐之男社となり、明治9年現在地に遷座。明治32年那古野神社となった。
名古屋の天王祭りといえば、この天王社の祭りであった。
旧暦6月15日に宵祭り、16日に朝祭りが行われた。15日には安養寺の唐間に、牛頭天王の前身とされた天形星の画像が掲げられた。
名古屋城南外堀の南に位置する片端には、車楽2輌が置かれ、提灯を灯した。
提灯の飾り方は、張州雑誌草稿と朝祭宵祭図で異なっている。後者は津島天王祭の車楽と同じ半球状に提灯を飾っている。
成立年代の違いから変更のあったものと考えておく。
「尾張年中行事絵抄」によれば、城下の氏子は、町々の天王ごとに神灯を捧げ、笹竹に提灯をつけ、車楽に参った。
翌朝には、津島祭と同様車楽から提灯をはずして屋根を緞子で飾り、前の車楽には高砂の能人形、後ろの車楽には室君の能人形を載せた。
水上か地上かの違いはあるものの、形式的には津島祭の巻藁船・車楽船と同じである。
車楽には車田として50石が給され、車町、益屋町、広井村、名古屋村が交代で出していた。
見舞車は、文政年間に尾張藩主十代斉朝が山車1輌を車町に下賜したのが始まりで、最盛期には、名古屋村、広井村から16輌のからくり人形を乗せた山車が出された。
しかし明治になると、車田の給付が無くなり祭の維持は難しくなり、明治10年代を最後に山車は曳き出されなくなった。
現在の祭は、7月15日が試楽、16日が例祭である。
15日の夜には、提灯を半球に付けた1輌の車楽を境内に出し、拝殿の前に楊貴妃と玄宗皇帝の人形を飾る。
16日には、若宮八幡への神輿渡御がある。
「尾張の天王信仰」 ’99 名古屋市博物館発行より
尾張名所図絵 亀尾天王社 (安養寺) | 張州雑誌草稿 宵祭 | 張州雑誌草稿 朝祭 |
朝祭 宵祭図 | 名古屋名所団扇絵 片端壇尻車 朝祭 | 天王社 棟札 享保二十年銘 表裏 宗春の名が見える |
尾張の山車祭り「那古野神社」 |
レポート
'01、7月15日
名古屋三大祭の一つ。那古野神社の例大祭が、今はどういう形になっているのか様子を見に行きました。
私の父は、この地の出身(長者町)で、祖母は常磐津、岸沢式治(三代目)として日本舞踊西川流と共に、明治、大正にかけて、この辺りを拠点に活動していました。
母の実家は一宮でしたが、知人に預けて、大正初めから昭和十九年まで、ここから三百メートル程の南外堀町(瀬戸電堀川駅隣り)に住んでいました。私は、子供の頃、賑やかな祭りを見たような記憶があります。
とにかく、空襲で焼失するまでは、十七輌もの奉納山車が有ったのですから、如何に凄い祭りであったか、博物館などで古い記録映画を見ると想像できます。
それもあって今年は出掛けてみました。
残念ながら、今年は諸般の事情で、行事は16日の祭事と舞踊の奉納のみでしたが、昨年の写真が会館ロビーに掲示してあったので、アングルは良くないのですがキャプチャーしてきました。
来年は立派にやるとのお話でしたから、期待して待つ事にしましょう。
’02、七月十六日
前以て六日に近くへ行った、ついでに立ち寄ってみました。
外装工事中でしたが、祭のポスターが貼ってあり、神輿担ぎを募集していました。地元の住民がビル化などで減少し会社や商店などの若手社員などを動員しなければ百人以上もの担ぎ手は確保出来ないのでしょう。
それもあってか昨年は日曜日だったのが却って悪く中止になったのではと思います。
山車も皆無、さすがの名古屋三大祭も様相は変わってしまったようです。東照宮祭も話題に上りません。
十月の「名古屋まつり」がそれに代わったと思うべきなのでしょうか。淋しい気がします。
赤褌の暴れ御輿衆 | 車楽、提灯が飾り付けられています。 | 子供御輿 |
御輿、太鼓など | 若宮八幡社まで御輿渡御。 神輿には神明造りの屋根。 |
会館ロビーに子供御輿 |
那古野神社周辺の町並みも、かなり変わりました。
東にある鳥居の前、道路の南東に小料理屋さんが、四、五軒、空き家のまま、長い間、建っていましたが、姿を消し、ビルの裏口になっていました。
伝統ある、高級料亭「河文」さんの周辺には、まだ一般住宅が見られますが、かなりビル化されました。
住宅の表札に「西川鯉志津」の名が見られ、鯉三郎さんの直弟子さんがお住まいと拝見しました。
父が出生した地番と思われる「両口屋是清本店」近くの「三河屋」さんは8階立てのビルに変わり、1階はコンビニ「サークルK」になりました。
母の実家があった堀川沿い、瀬戸電「堀川駅」は戦後は小公園になりました。
市電「景雲橋」電停南にあった映画館は、市の老人保健施設になりました。
名古屋駅から円頓寺商店街を歩いて行きましたが閉店の店が多く、かって母と連れ立って行った頃の賑わいはありませんでした。
神輿渡御 H 14・7・16 へ |