桜道と私 ’84年NHKの放送があって私は白鳥町やJRバス営業所にいろいろ 訊ねていました。 良二さんのお姉さん尾藤てるさんのお住まいや、JRバス名古屋営業所が、 千種から荒子に移転した事がわかりました。 一宮の桜の近況を、写真で報告させて頂いていました。 向こうのに見える山桜の事はその時は知りませんでした。 |
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’89年撮影 一宮裁判所前 しだれ桜 |
ありし日の佐藤良二さん |
JRバス名古屋営業所1号桜記念植樹 | 尾藤さんによる除幕式 |
映画「さくら」荘川桜などで撮影 | 映画「さくら」完成の報告 |
JRバス名古屋営業所1号桜荘川桜の実生もある | 職員のみなさんの手入れ |
名古屋城1000号八重桜城内西御深井丸にある | 名古屋市西区枇杷島小学校校舎北ソメイヨシノ |
一宮近郊の佐藤桜はトップコーナーにあります |
「太平洋と日本海を結ぶ桜」の存在は、昭和五十九(1984)年五月十七日、NHKが放送した「北陸東海 桜紀行」で知りました。
番組が始まってすぐ私の家の近く、一宮裁判所前の旧国道二十二号線が写りました。
移動撮影で通過するだけの場面でしたが、その中に消火栓を示す鉄柱の広告看板の天七鮨の文字が目に入りました。
翌朝、私の家から裁判所は、百メートル程の所ですから、早速.桜の所在を確かめに参りました。
桜といえば.ソメイヨシノが多く.傍のお旅所にも有りますから、それらしいのを捜してみましたが、よく判りません。
ふと変わった枝振りの木の根元を見ました。そこに一メートル程の長さの丸太を縦に切った側面に墨で書かれた「太平洋と日本海を桜でつなぐ会」との文字が読み取れました。
「あ. これだ」
と思いました。放送で終始、流れていたバックミュージックが誠に印象的で、その音楽を聞く度、この番組を思い浮かべました。
よく聞くギター音楽です。ニコラ.デ.アンジェリスの「鏡の中のアンナ」という曲だという事が後に、わかりました。
それ以後、この枝垂桜はは私の心にとどまりました。
毎年四月.濃いピンク色の鮮やかな花が、風になびいて春を告げてくれます。
この木の存在は、場所もよく目立つところから近所の人達も印象が強いようです。
保育園や.お稽古事への送り迎えのお母さんが信号待ちで立ち止まる度、眺めています。
唯、木の由来についてはあまり知らなかったようです。
私は、身近な者には折りに触れて話していましたが、改めて人にわざわざ話すこともありませんでした。
何時からか、根元にあった標柱が見当らなくなりました。もともと、さほど丈夫な物では無く、単に目印程度に佐藤さんが差しておかれた物でしょうから、腐ってしまって裁判所の人が片付けられたようです。
私は、これではいずれ、木の由来を知っている人がいなくなってしまうのではないかと思いました。
裁判所の人も順次替わっていかれるだろうし、木が邪魔になるようなことがあれば.何処かへ移してしまわれるかもしれない。大勢の人に知って貰わなければと思いました。
この地域に配布される新聞販売店発行の中日ファミリーというミニコミ紙があります。それへの掲載をお願いしました。
満開の写真を撮り短文を添え紹介されました。私は、その記事と写真をNHKに尋ねた白鳥町の佐藤さんの奥さんの八千代さんに手紙を添え届けました。電話でもお話し、しましたが八千代さんは裁判所の桜のことは知っておられました。
「桜紀行」をもう一度見たいものだとNHKのライブラリーを訪ねましたがありませんでした。
再放送の機会を待ち続けましたがNHK名古屋放送センターオープン記念番組でやっと放送されました。懐かしい人にやっと再会できたような喜びでした。
確かに佐藤さんの標柱が建っています。今では木は大きく成長しましたが、画面ではまだ枝振りも小さく、数秒で次の木曽川町クラボウ、長良川美並の桜並木へと画面は替わっていきました
その後、NHK名古屋製作で「ドラマ 二本の桜」が放送されました。このドラマの発想は、一宮出身の脚本家、富川元文さんが出身地一宮に佐藤桜が有る事を知り、荘川桜移植を手懸けられた豊橋の造園業者のエピソードをからませ、名古屋を舞台にストーリーを展開されました。
江守徹と長門浩之の兄弟に、香川美子などを配し、全後編三時間のすばらしいドラマです。ネイチャーランでは、5K毎のエイドを毎年造園建設業協会の方達が大勢でサポートされます。
平成五年(1992)、私の住む殿町が.前年より五十年振りに復活した桃花祭の若殿行列の取材の為中日新聞の飯尾記者が来られました。
取材が終わって「何かニュースになるものがあったら教えて下さい」と言われました。
ちょうど佐藤さんの桜が満開でしたからお知らせしました
それは尾張版で紹介されました。それで、かなりの人が知ったと思います。
ただ目印になる標柱が有りません。そういう木が有る事は知っが.どれがその木なのか判りません。
私は新聞記事以来、.裁判所の方で何かして頂けないかと思っていましたが、そういう気配も無いようなので、私なりに方法をいろいろ考えていました。
発想としては私個人ですが桜のある場所は公共の地であり桜も公共の物です。一人でも多くの皆さんの協力を得る方法を考えなければと思いました。
平成六年(1994)、この年第一回さくら道国際ネイチャーランの開催。
「さくら」の映画化など、大きな話題となり新聞記事が多くなりました。
テレビでもニュースでよく伝えられました。私が所属している一宮市AV技術者の会は「さくら」上映会のお手伝いを致しました。一年の活動の結果、協力費など多少の繰越金が出来ました。
私は、会員の祖父江登さん(公民館長 '児童育成協議会長)と相談、その資金での標柱設置の賛成を得て三月三十一日、裁判所を訪ね了解を得るべくお願いし承諾を得ました。
その頃、佐藤さんの三十万本「さくら道」構想を実現すべく大きな運動が展開されていました。
標柱の計画は、八千代さんと佐藤さんのお姉さんの尾藤てるさんにも電話でお話しました。
尾藤さんのお話では.標柱の紛失で桜の木の所在の問い合わせが随分あるそうです。
良二さんと共に植樹をされた運転手の佐藤高三さんが良二さんが亡くなられて五年後に心筋梗塞で亡くなられてしまったので記録も無く確認出来ないとのことです。所在が判れば多くの人に知って頂く様にしたいと思いました。
尾藤さんは四月二日には名古屋で、さくら第一号の除幕式に出席されました。「宜しかったらどうぞ」とのお誘いでしたが多忙で行けませんでした。
この度の計画進行中裁判所の方のお話で、枝垂れ桜の通路を隔てた南側にある桜も、佐藤さんが植えられたものだということが分かりりました。これは始めて聞く話でした。
枝垂れ桜のピンクと山桜の白い花は誠に好対照で見事なコンビネーションを毎年見せてくれます。
それに公園通六丁目の稲垣さんという方が子供さんの幼い頃、おんぶして裁判所の傍を通行中 佐藤さんらしき人達が植樹をしている所を見掛けた記憶が有るとの話を聞きました。
資材の調達は会員の野村忠弘さん、文字の執筆は連区在住の書家 渡辺蛍雪先生に御協力を頂きました。
四月十一日、裁判所へ標柱設置の日時を決めるべく祖父江さんと訪ねました。
過日、訪ねた時の庶務課長さんは.その日を以て退職され.新任の課長さんが着任しておられ、新任早々で全く事情が判らず、前任の課長さんにも電話で尋ねておられましたが、判断を名古屋地裁に尋ねるからと返答を保留されました。
その帰途、裁判所前で枝垂れ桜を撮影している二人の人がいます。
尋ねてみると「さくら道」を出版された名古屋の風媒社の代表とカメラマンの方で.写真集の為の撮影だとの事す。
その方たちの話では.お旅所境内の東側、石柵の内側の十本程のソメイヨシノも佐藤さん植樹のものだと言われるのです。植樹の時には、殿町の滝口敬一さん(元、町会長)が一緒に手伝って植えたとのことで.昨年、溝口さんに確かめ写真を一緒に撮られたそうです。祖父江さんと私は.早速、溝口さんを訪ね.、お話を聞きましたところ、確かに二十年ほど前、二人の男の人と一緒に植樹をしたとの事です。
桜は見事に成長し、毎年、桃花祭の頃、満開になり、お祭りに文字どおり花を添えてくれます。
四月二十一日、名古屋地裁事務局総務課長さんが事情を聞きたいと一宮支部へ来られたので、野村さんと出来上がった標柱(三寸角、二メートル)墨書「太平洋と日本海を結ぶ桜」「奥美濃の桜守佐藤良二氏植樹」を持って説明に行きました。
裁判所の意向に沿う様、大きさ、文言等の修正に応ずる旨を伝えました。
その時の話では、三月初め、尾藤さんの娘婿さんが、判明している木にプレートを付けたいから許可を申し出て来られたそうです。その話は聞いているから、その話の延長かと思われたようです。
裁判所の意向としては、裁判所という中立を重んじる立場から、個人を強調する表示物を目立つ所に掲示する事は避ける事が、要らざる批判を受けない方法だとの意見でした。
一応、名古屋地裁に話を持ち帰り、後日返答するとの事でした。
五月二十五日、やっと返事がありました。木柱は許可されませんでした。
アクリル板に文字を書いた物を枝に取り付ける程度にして欲しいとの返事でした。私はアクリル板を用意して寄贈する事としました。
七月末「太平洋と日本海を結ぶ桜 奥美濃の桜守佐藤良二氏植樹」と書いた試作品を一枚作り取り付けてもらいました
できれば用意した標柱はお旅所境内の桜の傍に立てたいと思いましたが氏子委員会の皆さんの賛同を得ることが出来ませんでした。
この年は、異常な暑さが続き、雨は七月から全く降る気配も無く、お旅所の桜は八月初めになり葉が枯れ始めました。
続いて葉が落ち枯れるのではないかと、はらはらしました。
幹からヤニが出始め、いよいよ心配な状況になりました。節水の折から、水道の水はやれないし.例えやっても木を助ける足しにはなりませんもしも枯れた時には、白鳥の尾藤さんにお願いして二世の木をお願いしなければならないかなと思いました。
お盆前、待望の俄雨が降りました。一時だけの雨でしたが落葉は止まり葉も枯れなくなりました。
後一週間 雨が無かったら枯れたかも知れません。天七鮨の滝藤さんに木の由来を話しました。
滝藤さんは、新聞で読んだ方法だと、木にビニールの袋を取り付け、底に小さな穴を開け、夜、水を入れて点滴の様に水やりをすることを実行されました。心有る人の善意により、もう大丈夫な状態になりました。
愛知県内の桜は、国鉄バス名古屋営業所の一本目(昭和四十二年)を初めとして、名古屋城に一千本目(昭和四十八年三月十九日)の桜がありますが、その間に植えられたもので確認できるものは少ないようです。
名古屋市を出て岐阜県境迄の旧国道二十二号線沿いには枇杷島小学校(名古屋市西区)と、一宮の名古屋地裁一宮支部前、そしてお旅所境内(未確認)があります。
それ以外には、木曽川クラボウ、黒田交番前に植えられたものがあります。
本「さくら道」によれば、昭和四十九年三月二十日、名古屋岐阜間二十二号線植樹実施、計十五本とありますが、一宮裁判所とお旅所の記録はありませんから、これは、それ以前の別の日ではないかと思います。
裁判所は証明出来る人がかなりいますから聞違いはありませんが、お旅所は証明出来る人が曖昧で信頼性が乏しく氏子委員会を説得出来る事ができませんでした。
十月三日、枝垂れ桜に取り付けるプレートを裁判所へ届けました。裁判所への仕事は一応終わりました。
年が替わって三月二十五日AV技術者の会支部総会を開催、標柱の活用について相談をしました。
どこか近くに佐藤さん植樹の桜があれば活用の機会があるのではないかと思いましたが、探すのも大変なことです。
木曽川町のクラボウも行って見ましたが、道路沿いではありますがコンクリート塀の中にあるのがそうで、それでは一般の人には分かって貰えないと思います。
結局、白鳥町へお持ちして数千本は有るでしょう、桜の何れにでも利用して頂ければ、折角作った標柱が活かされるのではないかとの結論になりました。
一年がかりでいろいろ努力致しましたが・力不足で思うような結果が得られなかった事で佐藤さんが、いろいろな障害を克服され桜の木を植え続けられたご苦労がよく判りました。
四月一日、NHK名古屋放送センターで開催された、太平洋と日本海を桜で結ぼう「夢つなぎ ・さくら道」写真展 撮影 佐藤良二(故人)、中川幸作(JPS会員)に行ってまいりました。全紙六十七枚(モノクロ二十枚カラー三十七枚)が展示されました
裁判所の桜の写真も展示されていました。会場で風媒社の稲垣さんとカメラマンの中川さんに会いました。色々話ができました。
これほど話題が大きくなると、事実の確認で行き違いもおあるようで、美並の桜並木は地元の青年会が植えられて成長した木のあるところに佐藤さんも植えられたとか、他にも事実と食い違う指摘があったという事です。
善意の発想をトラブルにしてはいけませんから無理押しはしないほうがいいという意見でした。私もそう思います。
平成七年(1994)奥美濃にさくら前線が訪れる四月下旬、標柱を携えAV有志で白鳥を訪ねる事にしました。
四月一日NHKでの写真展会場で、カメラマンの中川さんに聞いた、一宮市の南の端に佐藤さんが植えられたという、地蔵さんの傍の桜というのを捜しに行きました。
これは一宮市と稲沢市の市境辺りですが、市境から南に数メートル稲沢市になります。
稲沢市赤池の、古蹟があるところです。県道(190号線)の東側です。
交通祈願の赤池地蔵と、一国一基建立祈願の大きな石碑がありますが.本来は古蹟の所在地でその由来を記した石碑が建てられ、定期的に祭事が行われているようです。
ここにソメイョシノの大木が二本ありますがこれはかなり大きいので、これではなくその中程にあるのがそうだと中川さんはいわれました。よく見てみましたが.枝が大きく折れ、枯れた幹が見られます。全く手当はされていないようです。
佐藤さんの植えられたものだという表示はありませんから、或いは、地元の人は知らないのかも知れません。
私は、裁判所の木に取り付けたものと同じアクリル板に、同じ文章を記し、黙って取り付けてきました。
地元に知らせようかとも思いましたが又煩わししことになるのも不本意なので様子を見ていました。
この木はピンクの八重桜です。私の家から1キロちょっとかと思いますが、その後、三度ほど見に行きましたが、プレートは外されていませんから認められたのでしょう。是非手入れをして育てて頂きたいものと思います。
第2回「さくら道ネイチャーーラン」は二十二日土砂降りの雨の中、決行されました。
帽子から雨がしたたり落ちる | 苦笑い 私は声もかけられない | あまりの雨に傘をさして走る |
私は七時から、裁判所前でランナーが来るのを待ちました。
七時四十分過ぎ、第一ランナーが来ました。
八時三十分頃まで、ビデオを撮りました。晴れた日とは違い、違った意味で、無条件に走られるランナーの姿に感動しました。
悪天候と早朝の為、声援を送る人は、あまり居ませんでしたが、それだけに、私は貴重な場面に立ち会う機会を得たことに幸運を感じています。
名古屋金沢間250キロを、二十三日午前五時二十五分ゴール、二十二時間五十分で沖山健司さんがトップで十五人の方が完走されました。