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葵町の暮らし 1940〜
葵町の記憶は、昭和六十三年(1988)。父の戦死の詳細が戦後四十三年になって初めて判明するという劇的な展開があり、私は五十才を過ぎた所でしたが記憶が薄れない内に調査記録を残そうと自分のルーツ探しを始め「自分史(1936〜1945)」を纏めたものから抜粋します。
人格は、十才までに完成されるという説があります。私が葵町で生活したのがその時期に当たります。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争勃発という凄まじい時期にも合致し、現代の人には想像の及ばぬ体験をしました。少しずつ書き加え生の声が伝えられれば幸いと思います。

   道路面(北側)

 中庭が有り、防空壕が掘られたが何の役にも立たなかった。
玄関前には防火槽に水が張られ、竹の先に縄を束ねた叩き棒が立てかけてあった。。
図は昭和八年のものに書き込みました。昭和十七年当時の、配置・敷地の大きさは正確ではない事をお断りしておきます。
戦後、跡地に山田家政学院が建設される。年不詳 焼け残った土蔵。現在はギャラリー。名古屋文化女子短大
校舎改築工事。右角は空襲まで名高女旧校舎が有った。
手前の道路は以前は市電が複線で走っていた。 ’89頃
新築後、名文短の北道路。左の木立は名高女跡。
図にある,、隣近所の方々で、今もお住まいの方は居られません。
道路を隔てた、西の佐々さんは、今の御当主の祖父母さんが空襲時にはお住まいでした。
当主の方をお訪ねし、伺った話では、当時はご両親と和歌山でお暮らしで、葵町の家並みは知っているが、私達の事は記憶に無いと言われました。今お住まいの方々も訪ねましたが、戦後からの住まいで、空襲前の事は全く御存知無しでした。
そうなると、後は自分の記憶だけということになります。公的な唯一の証拠は妹が葵町で昭和十六年二月出生しているので戸籍に掲載されています。名古屋空襲による家屋焼失は52%、人口減は62%です。私の知る人も多くが市外に移転しました。
一時は、あの日々は幻ではなかったかと思ったほどの大変化で呆然としました。それから、私の記憶を辿る裏付けの為の「街歩き」が始まり、今もまだ続いています。

葵町への転居準備は、昭和十五年(1940)に始まりました。医院開院の為の診察室・薬剤室の改造工事を父と見に来た記憶があります。兄は、当時住んでいた鶴舞公園傍の板橋町(現すかいらあく鶴舞店)で、「松ヶ枝国民学校」に入学しましたが、同年転居の為、「葵国民学校」に転校しました。私は十七年入学です。弟は「雲龍幼稚園」に入園しました。
母の実家は、大正十年(1921)、一宮の所有地を知人に委託し、西区(当時)南外堀町(瀬戸電堀川駅隣)に、子供の教育の為、居を移していましたから、交流には市電環状路線で連結された往来には絶好の地点でした。
東洋一と言われた「名古屋駅」竣工が、昭和十二年二月一日。「東山動物園」開園も同時期。近代建築が次々建設され、広小路、大須や、市電・瀬戸電路線沿いの下町商店街は活気に溢れた時代でした。
布池の「東区役所」の曲線の玄関入り口。「大洋商工」には一般ビルには珍しいエレベーターがあり、蛇腹シャッターの中が見えました。階表示は針が時計のように回るアナログでした。数年前まで有りました。松坂屋本館には今も有るでしょうか。
子供の遊び場は、特にはありませんでしたが近所の遊び仲間は三、四人居ました。
家には蓄音機やラジオ、父の蔵書が、かなり並んでいましたからよく読みました。
赤い表紙の「夏目漱石全集」も有りましたが、さすがにそれは興味がありませんでした。吉川英治の「太閤記」が二階の納戸に並んでいましたからそれは殆ど読みました。竹中半兵衛とか黒田官兵衛の名はその時知りました。岩波文庫の「アラビアンナイト」がありました。オドロオドロした挿絵と奇想天外なストーリーは面白く、アリババやシンドバットの活躍は空想の世界でした。当時は山中峯太郎の「敵中横断三百里」や、海野十三の「空飛ぶ戦艦」など戦記や空想(SF)といった冒険小説が樺島勝二の挿絵で描かれ少年期の夢を駆り立てました。
家に風呂場は有りましたが、一、二度入ったくらいで「新栄町」の銭湯へよく行きました。銀行の角を東に曲がると数軒目に有りました。帰りに喫茶店で、みかんエードを飲み、並びの本屋に寄りました。本をよく買ってもらいましたが本棚の一番上に有る分厚い赤い表紙の「西遊記」を是非読んで見たいと思いました。今も思い出します。
レコードや針を、レコード店に買いに行きました。鉄針が少なくなり竹針も有ったと思います。この店は店主の方が戦後も永くクラシックのSPレコードコンサートを開催されていましたが、今はどうなっているのでしょう。同じく北西角に「栄楽亭食堂」が有りました。食料の配給が厳しくなり食券が配布され、それで「カレーライス」を食べに行きましたが量は少なかったと思います。この店は戦後も後継の方が営業を続けられましたが今は停止されたようです。「東新町」の食堂へも行きましたが灯火管制の薄暗い店で食べた「かきフライ」の味は今も覚えています。それでも、まだこの頃は、ましで戦後は雑炊を食べる為の行列の経験を一宮でしました。
「布池」の銭湯へも、たまに行きました。小川町の墓地沿いの道を行きました。夏は蝉の声が響いていました。アイスクリームを作っている店で買って貰った事があります。
学校の東の「地球堂」ではプロマイドやビンなどに貼るレッテル(シール)を買って集めました。
父の本棚の引き出しには各地の絵葉書が沢山入っていて、その中には「鶴舞公園」で開催された博覧会のものが有りました。先日、市政資料館での展示で見覚えのあるものが展示されていました。
隣近所については、東隣の「石原助産院」は家の中の事は知りませんが、わが家の二階の物干し場から、隣の物干し場がよく見え、白衣を着た女の人が数人でよく洗濯物を干している姿を見ました。「榊原さん」には同年くらいの男子が居ましたが、私達より後で引っ越してきたと思います。電車道角の「加藤産婦人科」の存在は間違い有りませんが個人的には知りません。電車道沿いに長方形の防火槽が有り柵状の蓋がしてありました。加藤さんの西に南に入る閑所(通路)が有り、西に折れて私の家の南で行き止まりになっていました。この閑所で父の出征の見送りがあり白襷掛けで「バンザイ」の声に応えていました。
父の為の「千人針」を新栄町電停でお願いしましたが私も立ちました。
向かいに有った二軒は人を見た記憶がありません。空家だったのかもしれませんが外に有った防火槽の水の中に印刷活字が入っていた事を憶えています。
西側の方については爆弾被害があり「空襲」で書きましたが大きなショックを受けました。
「稲荷山」は御下屋敷のお庭の名残りだったのでしょうが、小山になっていて木がかなり繁り、グルリと木の柵で囲われていました。一ヶ所入り口様の物がありましたが怖い感じがして中まで入った記憶はありません。
もう少し、葵町近辺の事を書きます。
先日、彼岸の覚王山参りに行くとき、「桜通り」を名古屋駅から東の終端まで歩いてみました。「桜通り」は先代名古屋駅竣工に伴い昭和十二年十一月、桜町筋の拡張という形で東桜(現在セントラルパークレインボーブリッジ辺り)までが昭和十二年開通されました。
戦後、昭和四十五年、現在の形にまで拡張されたのですが、「東区役所」は大正十五年(1926)には建築されていました。現在の「名古屋市役所」は昭和八年(1933)の建築ですから「東区役所」の方が七年先輩です。
「県庁」は、以前は広小路の東の突き当たり武平町のロータリーの東北、「市役所」は西南はに有り、ロータリーの真ん中には、大正九年に覚王山に移築した「第一陸軍戦捷碑(日清戦争慰霊の砲弾形)」高さ16メートルがありました。
私の少年期の原風景には覚王山「源蔵池(放生池・今は埋め立て消滅)」の向こうに立つ姿は、城山の「昭和塾堂」と共に焼き付いていました。
布池の「東区役所」が知らない内に姿を消し、向かい側の大洋商工ビル(昭和六年1931)も道路拡張時に地下室共に北へ20メートル移動した事を「「風は東から22号平成十五年バックナンバー」で最近知りました。
布池、水筒先町には空襲を免れた家屋が残っていますが、表札は掛かっているものの雨戸は閉まったまま、塀も壊れ荒れたままの様子が見られます。高齢になられた方が残したまま移転されたのかと察します。
「桜通り」は赤萩の物部神社を過ぎてから、しばらくの内山、環状線で終端のようです。
昭和二十年、御嵩の疎開先から正月帰り以後、学校へも行かず叔母と兄弟三人で不安定な日々を暮らしていました。時々、昼間もラジオやサイレンで警戒・空襲警報が鳴りました。ある日、昼間でしたが代官町の音羽館に大人に紛れ込んで映画を見ていて警報が鳴り上映中止、慌てて走って家に帰った事がありました。
それから三月までは、何だか、よくわからない、いい加減で支離滅裂な毎日でした。
葵町の住まいの周囲の記憶はこんな所です。東区からは、はみ出ますが家族と出掛けた、戦時中の、栄町・広小路・大須などの街の様子はページを改めます。
わが家に関わる多くの資料が総て空襲で焼失し記憶の中だけになってしまった事で、益々後進への伝達の責任を感じ、書き留めています。 '06.4.17
  (つづく)

葵町の暮らし U

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