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葵町の暮らし U












赤線で囲った部分を右に示す


赤線で囲った部分(推定)
右は本町通り三丁目
左は上長者町三丁目



南外堀町一の一 少なくとも現在の歩道まで家が有ったと思う。 昭和八年 川上貞奴邸と名古屋中学の位置
南には金城女子専門学校や現「文化のみち」の各邸宅が有る

時計のの針を戻します。名古屋の区制発布は明治四十一年という事ですが、現在の区画とは、かなり違っています。
「東区」は御幸本町から東ということですし、今は消えた「南外堀町」や、「長者町(現丸の内)」も西区でした。「南外堀町」(現在は公園緑地)にあった「西区役所」は母の実家に隣接していました。祖父は行政書士だった事も考慮の上、そこに居住しました。
父は西区「上長者町三」で出生、三十才まで暮らしました。昭和八年、二十八才で結婚しましたが「東照宮」或いは「那古野神社」で挙式した事も考えられます。結婚写真は有りますが、それでは判りません。
母には兄が二人居ましたが二十才前後で早世しましたが、学区を考えると両家とも、子供は、「明倫小学校」(東照宮の西で、今はビルの谷間にムクの巨木が立つのみ)へ通ったのかなと思います。
「上長者町」は、芸者置屋、料亭が並ぶ、京都祇園のような町で、各界の社交の場であったと伝えられます。今も元禄以来の老舗である「河文」さんが歴史を重ねて居られます。
祖母(昭和三年死去)は、常磐津や日本舞踊を、芸妓連(盛栄・浪越連)に教授していました。
祖父の死により昭和十二年にはその地とは無縁になりました。両親は名古屋三大祭の「東照宮祭」・「那古野祭」の盛んな時期を、その地で、幼時から、たっぷり経験した筈です。
父は「名古屋中学」(現名古屋学院大学)から、名大予科を経て医学部勝沼内科教室へと進み、昭和六年卒業と同窓会名簿で確認しました。母の兄も中学進学しました。校舎を後ろにした集合写真や、どこかの講堂でのハーモニカ演奏会の写真も有りますが特定出来ません。「名古屋中学」は二葉町の「旧川上貞奴邸」の、すぐ東に当たります(現状不詳)。金城学園の真北です。いずれも東区です。
昭和十年頃、父は母と長者町で生まれた兄を伴い桑名の「五井病院」への勤務の為、転居しました。「五井病院」は空襲などの経過も有り廃院されていますが、現三栄町に有りました。玄関先での集合写真が一枚有ります。鉄筋でトヨタの自動車もあり正月の記念撮影のようです。
私は、昭和十一年二月、そこで生まれました。十五年ほど前、当時、看護婦をしておられた方と電話で連絡が出来お話をしましたが、父が出征前、挨拶に行った時に連れていた私の事を憶えておられました。父は名古屋に戻ってからも応援診療に時々行っていたと話されました。
十三年には、前述の鶴舞公園傍の「板橋町」に開院準備で居住、九月に弟出生。私は曙幼稚園へ通園しました。色々な記憶が有ったので探しましたが曙幼稚園は見付かっていません。
そして葵町です。ここまでは紆余曲折は有ったでしょうが、まあ順調に進んでいました。
昭和十五年、内科小児科開院。診療を開始しました。薬剤室や、診察室にあった色々な道具、間取り、家具などは詳細に記憶しており、妹尾河童さんの「俯瞰図の書き方」を参考に立体図を作り幻の復元をしました。
この家での五年の間に実に多くの事が起こりました。その実情と当時の社会情勢、環境などを照合するのに永い時間が掛かりました。最近になって判った事もあります。
母も含めて周囲の若い人達の早世(病死・戦死など)が多く、特に男子の平均寿命が三十代であったという事など「何故だ!」という疑問の答えに辿り着くには数十年掛かりました。母の死については医業に関わりながら「何故!」と周囲の誤解も聞きました。私の主治医は同級生で、何でも話しますが父上が幼時に亡くなっています。私は戦死だったのだろうとずっと思っていましたが病死だったと、つい数年前知りました。彼の祖父は名大医学部前身、名古屋医学校創立の後藤新平氏の助手という名医と聞いていますがその子息でさえ救えませんでした。
一言で言うと「その時代には今のような治療薬が無かった」という事です。母の事を話したら「それは仕方がなかったんだ」とズバリ言われ吹っ切れた思いがしました。
今年始め、NHK教育TV、ETV8で、作家の「山田風太郎」の日記の新しい発見が有ったという事で三国連太郎さんがお宅を訪問。奥様との会話と「風太郎日記」の紹介がありました。その中で山田風太郎氏の実家は地方の名家の医師で父上は信望厚い名医であったのですが、風太郎氏医大勉学中に急死され学資に窮して書いた小説が入選、江戸川乱歩に絶賛され収入も多く得られたので作家に転身、その後は忍法帖シリーズなどで人気作家の道を歩まれましたが、虚弱ゆえに兵隊になれず多くの同級生の戦死を止む無く傍観した思いを書き続けた「戦時不戦日記」などで世に問い掛けられました。それ以後の未公開の日記に関わるインタビューでした。
ここでも医業に関わりながら「直す薬が無かった」故の多くの無念の死が有った事を重ねて知りました。
母の死は私の国民学校一年生の一学期が終った夏休みに、知多長浦の知人宅へ数日の海水浴に行って帰宅後、一週間程後の八月四日でした。その時の様子は鮮明に憶えています。
それまでに、南外堀町へは母と、よく行ったと思います。「景雲橋」の一本南の「五条橋」は円頓寺商店街の入り口、映画館、芝居小屋、飲食店、商店、公設市場などが、人波で、ごった返していました。揚げ物の匂い、映画館で見た「ターザン」の怖かった事。家に帰ってからも「ワニに食べさせるぞー」と、よく脅されました。
父は栄町を中心にあちこち私達を連れて行きました。映画館は「名宝」ばかりが記憶にあります。エノケン・ロッパ全盛でした。エノケンの「孫悟空」は特撮で面白く「法界坊」は歌が面白かったです。今で言うミュージカルでした。
その内に、だんだん戦時色が強くなってきました。金鵄に旭光が輝く「日本ニュース」は、シンガポール陥落やスマトラパレンバン落下傘降下部隊の活躍など繰り返し上映しました。戦地報道と銃後の護り、大相撲などが繰り返し上映されました。「加藤隼戦闘隊」も見ました。軍歌が溢れ戦意高揚一色でした。「アサヒグラフ」では戦果を示す図表に戦艦何隻撃沈、飛行機何機撃墜の数字が躍りました。
ミッドウエーの惨敗など悪い報道は全く片鱗も伝えられませんでした。ニュースの始めには「撃ちてし止まむ」「八紘一宇」などの大きなタイトルが映し出されました。「桃太郎の真珠湾攻撃」や「空の神兵」の漫画も何度も見た記憶があります。「青空交響楽」とかいうホームドラマもありました。中村メイ子が子役で活躍していました。
広小路では喫茶「ライオン」でマカロニを食べましたが穴が開いているのが印象に残りました。デパートは何といっても「松坂屋」で、エレベーターで上下の、「お子様ランチ」と屋上遊園地でしょう。
大須には母の一宮以来の幼馴染で髪結い着付けをしていた「ハトポッポのおばさん」を訪ねました。大須も大混雑でモダンな「クラブ食堂」で子供はチキンライスを食べさせてもらいました。松坂屋の近くの畳に座る店で和食の丼、うどんなどを食べました。
父は召集・解除が繰り返され、何時、緊急召集が来るか判らない状況に急いで子供との交流をしたとも考えられます。後に熱田空襲の大惨事に遭遇する「愛知時計」(潜水艦の魚雷製造の軍需工場)の診療所へ召集され自宅診療は夜だけという変則診療でした。
子供にも、何となく不安な雲行きが感じられ始めました。そして、昭和十九年六月召集、私と兄を御嵩の伯父に縁故疎開を頼んだ後、小牧で部隊編成フィリッピンへ向け門司出航。以降は「知らない人達の為に」と「四十三年目の戦死」その他に書きました。
私の葵町での暮らしの様子の大体を書きましたが、ごく一部を除いて何処も現存しません。幻になりましたが事実でした。戦争責任や靖国については意見を持っていますが書きません。物事を曖昧にしないで事実を直視される事を望みます。。
2008年の百年目には私はどうなっているかわかりませんが、六十五年前の生の経験の一端をを伝える機会を頂いた事を感謝して一応一区切りと致します。 ’06.4.18



追記 母の死因 (2008)

母の急死には、何となく引っ掛かるこだわりがありました。医学博士である父が何故救うことが出来なかったのかという疑問です。同じ年、祖父と叔母(母の妹)がチフスで一時隔離入院ということがありました。法定伝性病です。母もそれでなかったのかと言われましたが、同居家族の私達は異常無しでした。
私は幼時に聞いた「心臓脚気」という記憶があります。
その疑問は一昨年(06年)の夏、解けたと思いました。それは平成18年(2006)は、母の亡くなった昭和17年(1942)以来の記録的な猛暑であったという報道です。
母は昭和16年2月生まれの末子を含む4人の育児と開業したばかりの医院の手伝い(薬剤室にいました)に、忙殺の日々の中、記録的な猛暑に、現代のようなエアコンもなく、学校が夏休みなった7月末、知人の知多長浦宅へ揃って海水浴で数日滞在。帰宅後、倒れました。急激な体力消耗が急死の原因ではなかったのかと64年後の今になってやっとわかりました。思いがけない事が分かるものです。わかってよかったと思いました。
母が生きていれば戦後の混乱期、母の学歴から小学校教員になり父の遺族年金受給資格もあり私達も救われたと思いますが、それも不可能。母と父の無念の思いは如何であったかと痛切に思います。
自分の不遇を思う気持ちは今は無く両親の無念さを思い遣る年齢に達しました。
昭和の時代は暗黒の時代であったと、つくづく思います。
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