私は、原告として、この「評価育成システム」が、教育をゆがめ、子どもたちの教育を受ける権利を侵害し、私たち教員に不当な差別を強いるものと考え、以下の通り陳述します。
私は、現在17年目をむかえる小学校教員です。勤務する地域には、経済的に困難な家庭が多数あり、子どもたちの毎日の生活にも大きな影響を与えています。私がこれまで担任したクラスにも、家庭の中で深刻な矛盾を背負い込み、親子関係・学校での友だち関係、周囲の大人との関係に悩み、生活そのものの中に大きな課題を抱えた子どもたちがいました。いつもストレスをためている状態で、些細なことで友だちに暴力をふるっていた子--実は家庭訪問を繰り返す中で、家で親から日常的に暴力を受けていたことが分かり、保護者への日常的な関わりを増やすこともありました。両親が離婚し、多額の借金を背負い蒸発し、祖父母に預けられた子--祖父母への暴力と深夜徘徊、不登校を繰り返し、何とか保健室登校までこぎ着け、1年後にはクラスに戻るということもありました。毎日のように遅刻を繰り返していた子--両親が家に帰ることが少なく、夕食はコンビニ弁当、朝食はなしの生活を続けていたことが分かり、学校で朝食をとることも多々ありました。それだけではありません。一見何事もなく過ごしているように見える子どもたちの中にも、友だち関係や勉強のことなどで、強いストレスを抱えている子どもが多くいるのが現状です。
日々の生活の疲れや将来への不安、焦りから、子どもたちの生活や教育に関心がむかない保護者も多くいます。「学校に行く」「食事をとる」「トイレに行く」「夜に寝る」「宿題をする」「ノートや鉛筆がなくなれば、買いたす」---私たちが当たり前に考えていることが、すでに当たり前でなくなっている家庭も増えてきているのです。
私は、全ての子どもたちの「教育を受ける権利」を保障するためには何ができるか考え、特に授業についていけなかったり、家庭崩壊、ネグレクト、虐待等、学習の前提が崩れかかっている家庭の子どもたちに寄り添うことを心がけてきました。そこでは子どもたちとの粘り強い関わりだけでなく、子育てと生活に疲れた保護者の生活相談など、子どもと保護者両方との腰を据えた、粘り強い、長期の関わりが日常になっています。
現在、「評価育成システム」が本格的に導入されて3年が経とうとしています。評価結果の給与への反映は、来年度が初年度です。給与反映されていない今の段階でさえ「評価育成システム」が教員集団の共同性・協同性を破壊し、低学力・「障害」を持つ子どもたちを切り捨てる傾向を生み出しています。来年度「給与反映」が実施され「評価育成システム」が完結したとき、学校現場への破壊的影響は容易に想像することができます。私は、「評価育成システム」の現状だけでなく、将来におよぶ影響を考え、「評価育成システム」そのものに反対し、自己申告票を提出していません。
子どもや保護者への対応は、家庭の生活環境、保護者の意識、子どもの友だち関係などのさまざまな状況を考慮し、ケースバイケースで具体的に判断するしかありません。同僚同士でも判断の分かれることも多々あり、「こうすればうまく行く」といったマニュアルなど存在しません。子どもたちの発達の道筋は、体力的にも精神的にも情緒的にも、ジグザグを繰り返し一直線に進むものではありません。卒業に際して6年間の小学校生活を振り返ったときに、初めて私たちの取り組みの意味と子どもたちの成長を確認することもよくあります。このような教員の働きを「点数化」したり、一定の尺度で「評価」することなどできないということです。
教育はすぐに「成果」をだせるものではありません。すぐに「成果」を求めてはならないものです。それは、前述したとおり様々な状況や問題が絡み合って子どもたちの生活や意識が形成されていくからです。もし、教員が軽々に「成果」を求めようとすれば、そこでは子どもたちの生活背景や内面にある悩みや葛藤にじっくり目を向けるのではなく、目に見える結果(たとえば「不登校でなくなった」「暴力行為がおさまった」「テストの点がよくなった」など)にとらわれてしまうことになるおそれがあります。そこには一方的に学校生活の規律と道徳心を押しつける「矯正」的教育しかありません。それでは、子どもたちの内面の問題について何も解決することはできません。
「評価育成システム」は、私たちにすぐに「成果」を求めることを要求しています。それは、教育活動に成果主義を持ち込むことに他なりません。私は、「絶対に切り捨てない」という信念をもちつづけ、辛抱強く子どもたちと接していくことがなにより必要だと考えています。これが、教育現場で働く者の率直な実感です。
そもそも子どもたちや保護者の思いは極めて多様であり、それに応ずるには柔軟な発想と多様な活動が要請されます。自分一人で対応できることなど限られています。とりわけ私の勤務する「教育困難校」では、職員会議や学年打ち合わせや日々の職員室での雑談の中で、お互いのクラスの悩みを出し合います。それは、個々の担任の関わりだけの問題ではなく、もっと深刻な背景があって起こっている問題であることを理解しているし、担任個人で解決できる問題ではないことを知っているからです。私自身、お互いカバーし合う「みんなで育てる」体制が、自分自身の一番大きな支えになってきました。クラスで問題が起き、夜遅くまで家庭訪問をしているときでも、必ず学校に何人かの同僚が残り、私の帰校を待って相談に乗ってくれます。
しかし、「評価育成システム」は、チームワークで成り立っている学校現場に,5段階のランク分けを持ち込み、教職員集団を破壊しバラバラにしていくものです。校長の学校目標に沿って、自分の「目標設定」を行い、絶えず校長からその「進捗状況」をチェックされ、5段階で「評価」をされていきます。面談そのものは年間3回ですが、日常的に「校長からチェックされている」という意識は強まっています。
これは、教職員集団のあり方に大きな影響を与えています。たとえば、教員の中には、保護者からのクレームや子ども同士のトラブルなどクラスの中で起こった問題を、自分の中だけで何とかしようとする傾向が生まれ始めています。学級経営がうまくいっていないということで、校長に評価を下げられることを危惧しているのでしょう。同僚にさえ相談することを躊躇する教職員もでてきました。相談内容が校長に伝わるのではないかと考えているのでしょう。つまり、教職員の間で疑心暗鬼と不信感が増幅し、学校を支えてきた教職員集団性がバラバラになり始めているのです。年度末になると、子どもたちの「荒れた」学年、保護者の要求が厳しい学年を持ちたくないと考える教員もではじめています。
教職員間の協働が失われるのと比例して、校長へ従順に従う圧力が強まっています。そこでは、教職員間の切磋琢磨や創意工夫した教育実践、子どもへの柔軟な対応など、これまであった教育現場の活力が失われつつあります。現に、教職員間の真摯な議論によって共通理解が図られていた職員会議の中で、意見を言う教職員が減ってきたのです。特に、校長の意向を受けた提案については、問題を感じる事はあっても校長に「にらまれること」を気にして、スムーズに通ってしまうことが日常化してきています。昨年4月の職員会議の中で、私が授業研究のあり方について反対したとき、その年の最終面談で「私(校長)の考えを十分に理解してもらえなかった」ことを理由に「学校運営」で低い評価をされました。この後私自身さまざまな場面で、「発言することで損をする。自分には関係ない。担当者が考えればいい。」と割り切る気持ちが芽生え、無意識にブレーキをかけていることを感じることがあります。
教職員間のチームワークが崩れたとき、真っ先に矛盾が顕在化するのが、新任教員や講師などの弱い立場にいる教員です。それでも今は、教職員同士の個人的な関係に依拠した支え合い、協力、協働によって、かろうじて踏みとどまっているのが現状なのです。しかし、それに対応するだけの教職員の関係は、失われつつあります。
教職員の集団性が破壊されると、最初に切り捨てられるのがさまざまな課題をもった子どもたちです。私の勤務する学校でも、毎年のように学級崩壊が起こり、保護者との話し合いで夜遅くまで対応をしている教員がいつもいます。子どもたちや保護者の意識も多様化し、対応は一筋縄ではいきません。クラスになじめなかったり、担任と馬が合わない子どもたちは、休み時間や放課後に自分の話を聞いてくれる教職員のところに行くことがよくあります。子どもたちは、担任に不満を持っていても「あの先生が聞いてくれた」ということで、救われている場合があるのです。時には授業中廊下を歩いている子を自分の教室にむかえ入れることさえあります。
つまり、担任教員や学校の規律に合わない子どもがいた場合は、違う個性の教員が対応し、子どもたちの思いに接近しようとすることで、学校の秩序は保たれているのです。子どもたちの変化に全教職員のさまざまな個性のチャンネルで関わっていこうとしているのです。
「評価育成システム」は、府・市教委、校長の気に入る「あるべき教師像」を一律に作り上げていく装置です。学校には、優しい教員もいれば厳しい教員もいます。規則に厳格な教員もいればおおらかな教員もいます。細かいところまで自分で決めてしまう教員もいれば子どもの自主性を大切にし、子どもたちに決めさせようとする教員もいます。音楽の得意な教員もいれば体育の得意な教員もいます。教員集団は多様で個性的な集団なのです。そんな集団だからこそ、毎日刻々と変化する子どもたちに柔軟に対応できるのです。教員が自分の個性を抑え、校長の好む「教師像」打ち出したとき、学校は硬直化していきます。同質性の強い教員集団は、多様な子どもたちを受け入れる「包容力」を失い、結果的に様々な課題を抱えた子どもたちを切り捨てることになるのではないでしょうか。
「評価育成システム」の「業績評価」は結果のみを評価することになっています。「能力評価」においても、「評価基準」の中に「学ぶ力の育成」があり、校長の着眼点として「児童・生徒の学習理解度の把握」「計画的な指導」「授業内容の充実、子に応じた学習指導」「知識・技能の習得、研修に対する意欲」が提示されています。校長は、たくさんの教職員に対して、「学ぶ力の育成」の項目だけでもこれだけ多方面にわたる内容について、どのように「客観的な判断」をしていくのでしょうか。それは、不可能です。
来年度からの全国学力テスト実施をはじめとして、学力向上への関心は益々高まっていきます。校長は、多数の教職員を評価するために、一目で分かる「学力テスト」を利用していくことでしょう。学力向上とは、すなわち「テストで良い点を取ること」に他なりません。
「評価育成システム」は、学力テスト偏重の動きを加速させる要因になります。現に府教委は、「学校運営に関する指針」の中で、教職員に対して「各個人の目標や計画の策定に当たっては、目標を数値化するなど、その到達度が客観的に評価可能な内容になるよう努める」と露骨な指示を出しています。これは今後市町村教育委員会にも浸透していくでしょう。
私の勤務する地域では、「診断テスト」が全市的に普及し、校内や区内でその平均点を比較するところさえ現れています。今でさえ学級担任はクラスの平均点がどうなのか、ほかのクラスと比べてどうなのか、神経質になっています。それが、「評価育成システム」の中で、教員評価の材料として使われると、この傾向は一層強まることが予想されます。そのとき、「低学力」の子ども、「障害」を持つ子ども、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、高機能自閉症・アスペルガー症候群などの「発達障害」の子どもたちの教育権は、どのように保障されるのでしょうか。
授業についていけない子どもたちへの対応は、とにかく粘り強く、時間をかけ接していくことから始まります。しかし、それがすぐに学力の向上につながるとは限らず、「テスト結果」に結びつくことはむずかしいことでした。昨日できたことが今日はできない。そんなことを繰り返しながら、少しずつ、何度も何度も教えることで、習得していってくれるように接してきました。しかし、「評価育成システム」の中で「テスト結果」が「評価対象」とされたとき、これらの子どもたちへの対応は「効率的でない」とされ、「できる子」たちだけをもっと伸ばそうとする動きが出てくることが危惧されます。
これは、単なる危惧ではなく、現実の危険性です。現に大阪よりも早く教員人事評価制度を実施し、「自己申告票」に学力の数値目標化をいれるように指示している広島では、学校の平均点をあげるために、校長が学力テストの答案を書き換える事件も起きています。
同じようなことは「障害児教育」をめぐっても起こります。「学力テスト」が、一層奨励され、「習熟度別学習」が普及していくと、学級集団は、学力別に分割されていきます。その中で「障害」を持つ子どもは、「障害にあわせた個別指導をする」との名目で「通常学級」から閉め出され「障害児学級」に隔離されてしまう傾向を強めます。学力向上を目標とする授業の中では、「障害」を持つ子は疎外される存在になってしまうおそれがあるからです。
「障害」を持つ子どもたちは、教員による個別指導だけではなく、むしろ学級集団の中で授業を受け、給食を食べ、掃除をする中で、友だちとの関わりを増やすことで成長していきます。たとえば言葉などは、教員が個別指導で教えるよりも、子どもたち同士のコミュニケーションの中で習得していくことの方が多いです。子どもたち同士の関わりが「障害」を持つ子の学びの場となっています。様々な個性の子どもがいて、それを認め合い、学びあうのが学級集団なのです。
大阪府下では、「障害」を持つ子どもたちへの教育は、学級集団の中での協同的な学びの重要性から、長く原学級保障(「障害」児も通常学級で学ぶ)の取り組みが続けられてきました。「障害児担当教員」を配置し、「障害」を持つ子が、「通常学級」の中でほかの友だちと共に学べる環境をつくったり、「障害」に即したカリキュラムを作成したりしてきました。「障害」を持つ子には、たくさんのスモールステップを刻んだ、わかりやすい教材が必要であり、粘り強く接する時間が必要なのです。しかし、年々「財政難」を理由に、「障害児担当教員」が削減され、「障害」を持つ子どもたちへの教育は、軽視されてきました。「学力向上」が叫ばれ、それが「教員評価」の重要な要素となったとき、「障害」を持つ子は、「障害児学級」に任せればいい、特別支援教育の名目で「発達障害」の子どもたちも「通常学級」から排除したらいい、という発想が教員の中に広まるおそれがあります。現に「学力向上」を熱心にアピールしている地域ほど、「障害」児の認定が増え、「障害児学級」が増えるケースがでてきています。
私は、「自己申告票」の提出をしていないだけです。授業や子どもたちへの日常的な関わり、学校運営に関わる仕事について、放棄しているのではありません。深刻な課題をかかえた子どもたち、「低学力」の子どもたち、「障害」を持つ子どもたちと、じっくり関わっていきたいと思っているだけです。
府・市教委は、来年度から今年度の評価結果を給与へ反映させることを決めました。どんなに子どもたちと関わっても「自己申告票」を提出しないだけで、その1年間の全ての教育活動が「総合評価なし」となり、初年度はC評価相当、2年目からはD評価となり昇級停止となります。「自己申告票」を出さない限り退職まで昇級停止となり、それにあわせて勤勉手当と退職金も大幅に削減されることになります。
とりわけ、20代から40代の若手・中堅の教職員が、「評価育成システム」そのものに反対し、「自己申告票」を提出しないことは、極めて大きな不利益を負うことになり、自分の生活や家族のことを考えると従わざるを得ない状況を生み出しています。私の場合、退職まであと20年あります。その間「未提出」を続ければ、1500万円程度の給与・ボーナス・退職金がカットされることになります。「自己申告票」を提出しないだけで、なぜ、そこまで深刻な処分相当の措置をとられなければならないのでしょうか。こんなことが府・市教委の言う「教職員の意欲・資質能力の一層の向上」を目指したものと言えるのでしょうか。単に府・市教委、校長にたてつく教員を懲罰的に処分することでしかないのではないでしょうか。
昨年度まで「評価育成システム」の問題性を感じ、不提出であった若手・中堅教員の多くが、今年度から提出せざるを得なくなってきています。それは、決して「評価育成システム」が改善されたからではありません。現在と将来の生活が人質に取られているからです。
あまりにも卑劣な府・市教委のやり方に我慢できません。数字上「提出率」があがったことで、「評価育成システム」の信用性が高まったとするのは全くのフィクションです。私は、自分の良心に従う教員でありつづけたいと思っているだけです。日々、子どもたちに「自分の考えを持とう」「自分に正直でいよう」と伝えている自分の言葉を自分の生き方として伝えていきたいと考えているだけです。だから、私はどうしても「自己申告票」を提出することができないのです。「評価育成システム」を容認することもでないのです。
以上の通り、陳述します。