
与謝野鉄幹・晶子歌碑
鳥取県三朝町
晶子 水と灯の 作る夜色の めでたきを 見んは都と 渓あいの湯場
鉄幹 三朝湯の ゆたかなるかな こころさへ この新しく 湧くよ学ばん |
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与謝野晶子歌碑
鳥取県三朝町
川波が 雨の裾をば 白くする 三朝の橋を こえてこしかな
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与謝野晶子歌柱
鳥取県三朝町
三徳川かじか橋の欄干柱。
川波が 雨の裾を ば白くする 三朝の橋を こえてこしかな
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与謝野晶子歌碑
愛媛県松山市末広町16-3
"正宗寺墓地
子規居士と鳴雪翁の居たまへる 伊予の御寺の 秋の夕暮
昭和6年に、夫の与謝野寛と正宗寺へ訪れた際に詠んだ歌。 |
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与謝野晶子生家跡
大阪府堺市堺区甲斐町西1丁-1
与謝野晶子(明治11年~昭和17年) 与謝野晶子は菓子商駿河屋の三女として甲斐町に生まれてから、鉄幹に出会い家を出るまで堺ですごした。
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与謝野晶子生家跡解説板
大阪府堺市堺区甲斐町西1丁-1
肖像写真と生家跡位置図も掲示。
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与謝野晶子歌碑
大阪府堺市堺区甲斐町西1丁-1
甲斐町の生家跡には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」の歌碑
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堺ブランド桜
東京都杉並区南荻窪4丁目3番22号
与謝野晶子と命名された。生誕140年記念して与謝野公園に植えられた。
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与謝野鉄幹・晶子居住跡
東京都千代田区富士見2-14-23
二人は明治34年に結婚し、大正4年から大正12年の関東大震災まで当地に居住した。また、二人は神田駿河台の『文化学院』の創立(大正10年)に貢献し、教鞭をとった。
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東京新詩社跡
東京都渋谷区道玄坂2-6
与謝野鉄幹は1901(明治34)年麹町から渋谷に移り住み、晶子と結婚した。東京新詩社の機関誌「明星」を12号から発行し、晶子も歌集「みだれ髪」を刊行した。
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東京新詩社跡
東京都渋谷区千駄ヶ谷1-23
東京新詩社は、明治37年(1904)11月に、中渋谷からこのあたりの千駄ヶ谷村大通りに移った。与謝野晶子は詩歌集「恋ごろも」などを刊行し、寛はしきりに短歌会を催すなどして、機関誌「明星」も隆盛を極める時期があったが、百号で廃刊となり、明治42年(1909)1月に、神田区の東紅梅町に移った。
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与謝野晶子歌碑
北海道函館市立待岬
啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと
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与謝野公園
東京都杉並区南荻窪4丁目3番22号
与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻が晩年を過ごした家があった。与謝野晶子終焉の地。
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与謝野晶子文学碑
東京都杉並区南荻窪4丁目3番22号
歌はどうして作る より
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与謝野鉄幹・晶子似顔絵
東京都杉並区南荻窪
荻窪川南共栄会街灯の飾り。
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与謝野鉄幹・晶子住居跡
東京都千代田区四番町9番地
歌集「みだれ髪」でデビューした情熱の歌人与謝野晶子(1878-1942)と夫で雑誌「明星」を主宰した与謝野鉄幹(1873-1935)が明治44年から4年間ここで暮らした。
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与謝野晶子歌碑公園
群馬県利根郡みなかみ町川上
昭和初期に水上温泉を訪れ、60首以上の歌を詠んだといわれる与謝野晶子の歌碑が建つ公園。歌碑には6首の歌が集められている。
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名のある通り |
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商都・堺、千利休と与謝野晶子を偲ぶみち
大阪府堺市 |

与謝野晶子鉄幹ゆかりの地散策路
東京都杉並区荻窪 |