雨森芳州庵と観音のみち
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青色のライン・・・雨森芳州庵と観音のみち |
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中部北陸自然歩道道標 |
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雨森芳州庵と観音のみち |
滋賀県長浜市高槻
滋賀県の湖北地方に位置する高月町は、「観音の里」と知られ、集落ごとに観音さんを祀り、守り継がれてきた信仰の深い地域である。信仰の形態は集落ごとに「神社と観音堂」が並ぶ神仏習合の形を取っていることが多く、併せて集落には別の寺院(浄土真宗系寺院が多い)がある。木之本町川合のバス停を起点として己高閣、鶏足寺、石道寺、渡岸寺といった十一面観音像を納めた湖北の古刹と、江戸時代の儒学者で朝鮮外交に尽くした雨森芳州の芳州庵などを訪ねながら、JR北陸線の高月駅までを歩くコースとなっている。中部北陸自然歩道
の一つで距離は約8.6kmである。 木之本町く川合バス停)―(2.6km)→古橋(己高閣)―(2.6km)→雨森芳州庵―(2.7km)→渡岸寺―(0.7km)→JR高月駅
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雨森観音寺 |
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雨森芳洲庵 |
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雨森芳洲解説板 |
雨森芳洲
芳洲は、寛文八年(一六六八)五月十七日、近江堂 の国伊香郡雨森郷で医者を業とする清納の嫡子として生まれました。
芳洲は十八歳の時、学問の道を志して江戸に上り木下順庵の門をたたきます。 やがて、新井白石や室鳩巣と肩を並べる五人の高弟の一人に数えられました。芳洲が二十二歳の時、師の順庵の推挙で僻遠の地対馬藩の宗氏に仕えることになります。江戸時代、徳川幕府は鎖国政策をとり 外国 との交流のない時代でしたが、隣の国朝鮮とは "通信の国として交流があったのです。対馬藩に儒者として迎えられた芳洲ですが 二十九歳から朝鮮方佐役という外交の実務を担当する役を命ぜられ、対馬藩が受け持つ朝鮮外交の担い手として活躍をいたします。
「当時は、筆談外交の時代でありましたが、芳洲は相手国のことばが語れなくて何が交隣ぞや」 と三十六歳から三年間釜山に滞留して、朝鮮語を修得しました。また、中国語も、五十年一日も廃せず」読誦しました。江戸時代の中期、三音 (三ヶ国語)に通じる国際人は、雨森芳洲ただ一人であっ たろうと思われます。芳洲は、正徳元年と享保四年の二度に亘って朝鮮通信使にも随行して誠信外交を実践しました。芳洲は、八十八歳という高齢で対馬で天寿を全 うしますが、その生涯は、日朝友交の架け橋を渡した先駆者として光り輝いています。 当芳洲庵では、芳洲や朝鮮通信使に関する資料を展示すると共に、芳洲の遺志を受け継ぎ、韓国や中国を中心に国際交流を草の根で推進しています。
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