体癖による個性
●体癖(たいへき)とは? ●体癖分類表 体癖相関図 ●体癖基本5型(10分類) |
体癖(たいへき)とは?
体癖とは、整体協会(野口整体)の創始者である野口晴哉先生が
人の運動習性の特徴的な部分には、それぞれ共通した性格的な感受性が、
「習性としてくっ付いているな」と何千人という身体を観ているうちに発見し、
これをいくつかに分類していたのが始まりです。
体癖は、その人の運動系の中心が腰椎の何番にあるかによって、
数種類に分けてあるものですが、
中心と云うのは、他は普通なのに一点だけ、常に特徴的な動きをしていて、
その度合いによっては、その人の調子の良し悪しも観ることが出来る処なのです。
この特徴的な動きが共通する人たちが、またよく似た感受性をもった心の動きをする、
性格と云うものは身体の動きの癖であると、このような類似性を観察して、
上下、左右、前後、捻れ、開閉の5種の型にまとめたものが体癖です。
上下が1,2種、左右3,4種とひとつの型が奇数種と偶数種の2種に分けてあります。
(全部で10種)
奇数種と偶数種は、鬱散型と集注要求型と表裏の関係ですが、大きな違いがあります。
奇数種は能動性、偶数種は受動性に特徴があるのです。
たとえば、3種は好き、嫌いと云う感情ですべてを表わします。
消化器が旺盛にはたらき、笑っては食べ、怒っては食べするのです。
華やかですが、理性で判断することはありません。好き、嫌いの感情で、物事を決めてゆきます。
4種は、逆に食べれなくなります。
何故、食べれなくなるのか本人は判らないのです。
しかし、必ず感情につかえたものがあるのです。問題はその感情を、自分がどう感じているのか、
どう表現してよいのか、その時に判らないのです。
相手の生の感情がそのまま堆積してゆくのです。感情で表現できないため、
胃袋が拒否反応を示すと云うタイプです。
総じて、偶数種はこのように相手との『関係』の中で、自己を表現するのです。
ところが『関係』は偶数種にとっては、大変な緊張感を伴うもので、ストレスの強いものです。
しかし、『関係』の中でしか、偶数種は自分を見出せないため、大変な自己矛盾のなかに
常にさいなまれている人たちです。
―『関係』を求めながら、『関係』によってさいなまれるこの人たちは、
しかし『関係』を絶ってしまうと、本当に哀れな状況になってしまいます。
希望は萎え、気力も減衰し、自分の足で立ちあがれなくなり、ついには死を渇望するようになります。
太宰治が良い例です。前後型6種である彼は、まさに『関係』によって生かされ、
死んで逝った人で、晩年『関係』によって堆積したストレスにより、『関係』を絶とうとし、
一人になったとたんどうにも、持たなくなってしまったのです。
心中と云う死の形を望んだのも、最後の最後においても『関係』の中でしか、
死を表現できなかったと云うことなのです。―
奇数種は、一人でも鬱散出来るのです。
9種以外は、全く一人では居られませんが、しかし相手を求めながら、
結局は自分の発散を優先させるので、相手となりやすい偶数種は振り回されてしまいます。
![]() ◎上下型(大脳昇華型) … 注心点 腰椎1番(上下運動習性に特徴) 上下型一種
上下型二種
◎左右型(消化器型) … 注心点 腰椎2番(左右運動習性に特徴) 左右型三種
左右型四種
◎前後型(呼吸器型) … 注心点 腰椎5番(前後運動習性に特徴) 前後型五種
前後型六種
◎捻れ型(泌尿器型) … 注心点 腰椎3番(捻れ運動習性に特徴) 捻れ型七種
捻れ型八種
◎開閉型(生殖器型) … 注心点 腰椎4番(開閉運動習性に特徴) 閉型九種
開型十種
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上下型(大脳昇華型)
上下と云うのは、文字通り上下的な動きをする人たちです。
ちょっと頭を上から引っ張られているような、動き方をします。
首に緊張があり、方向が常に頭に向いています。
脳体力が旺盛と云う人たちで、「考える」と云うことが自然で、
考えもなしに行動すると云うことが信じられません。
大脳昇華型と云うのですが、エネルギーがすべて頭を回すことで、
使い果たされ、しかしそこに深い満足感があります。
良い考えを思いつく、新しい(と思っている)発見をする、という事で
ふっとフル回転の頭がひとつ緩みます。
ひとつ緩むとき、大変な満足感、心地よさを感じ、楽しいと思うのです。
人は、漢字あるいは漢字熟語を聞くとゆっくり頭が回ります。
よく見聞きし、使う言葉でも漢字の言葉は、速度が遅くなります。
上下型はこれを知らず知らず好みます。
「これをよく考えると、」と言わず、「これを省察するに、」などと
言われると、なになにと気を惹かれます。
猛スピードで回転した頭が少し速度を緩めるのです。
この回り道のようなことも、頭をめぐらすことが好きな、脳体力旺盛な
この人たちは、面白いと思うのです。
わからない言葉、謎な言葉、象徴的な言葉に気を引かれ、猛烈と知りたくなります。
それで、閉型九種が使う凝縮した、余分なものは全てそぎ落としたような、
本人しか判らないような言葉に、深く反応し、惹かれます。
謎を解明したくなるのです。
九種と一種の相性が良いのは、このようなところからもいえます。
形式と云うものの美をもっともよく知っているのは、一種の人たちです。
逆に言うと、形式に囚われやすくもあります。肩書きや褒章、名声と云うものにも
意外に弱い。向上心を持つ一種のなかには、そのため如何に形式に囚われないかを
極めようと努力いたします。
(「善悪」と云う観点を、持ち合わせているのは、もしかしたら上下型だけかも
しれません。形式的な美意識に裏打ちされた善悪論を展開しやすい。
国で云うと、ドイツが最も上下一種的です。)
二種は、頭が緊張する、使うと云うことでは共通しますが、頭が回ることで
疲れてしまう人たちです。
知らずしらず頭は、回っているのですが、じつに些細なことで回し、緊張が抜けません。
神経過敏と云う風情の人たちで、「そんな先の先のことまで、気にしなくても、」
と周りの人は思うのですが、本人は気にしないようにすればするほど、
気になることが増えてゆくと云う頭の回し方をしてしまいます。
大事なことが、一大事ではなく、十大事になっている人たちです。
ところが緊張の抜けない頭は、本当に大事なことでポカをします。抜けてしまう
のです。本当に緊張すべきところで、緊張できないと云うことなのです。
(日本は、表面的には偶数種の世界で、上下型二種であり、自分が何を表現したいかではなく、
人にどう思われるかが行動の基準になっています。
具体的な相手が居なくても、仮想の相手を頭の中で作り上げ、見られる自分を気にします。
おだてに乗りやすく、人を褒めることも上手な上下型二種は、けれど大事なところでは、
いとも簡単に相手を裏切ります。
日本の独特の「公正さ」は、二種や四種の馬鹿正直さが基底にあり、民話の主人公の
世界観によく現れています。誰にも知られなくとも、お天道様がいつも見ているんだと馬鹿正直を
貫き通す「公正さ」は、きわめて日本的な偶数種の熟成された世界観です。
二種や四種の感受性を突き詰め、練り上げて築きあげた世界に誇れる世界観なのです。)
左右型(消化器型)
三種は好き、嫌いと云う感情ですべてを表わします。
消化器が旺盛にはたらき、笑っては食べ、怒っては食べ、するのです。
華やかですが、理性で判断することはありません。好き、嫌いの感情で、物事を
決めてゆきます。
左右型は共通して、図面や地図を見ること、描くことが苦手です。あるいは三次元的な整理が
苦手です。ある共通項で、まとめて整頓できないで、平面的に並べたくります。
スペースが無くなってしまうと、その上に並べたくってゆき、ほとんどごちゃごちゃの雑然とした
状態でも、本人はその方がしっくりゆくのです。
原色の色を好みやすく、自分に似合うか似合わないか関係なく、マネキンやモデルが
着ていてキレイだと思ったら、おかしくても自分が身に着けて、華やかな顔をしています。
まったく平気なのです。
男は、気楽さ、能天気さ、清濁あわせ飲む大まかさで、上に立つことが多く、
そう云う意味で慕われます。
(三種の国はフランスであるとよく言われます。三種は食べることも好きですが、
作ることも好きなのです。料理を洗練させ、発展させたフランスは三種的であります。
しかし、日本通で、最近では日本の書道を「動的なものを、平面に定着させた稀有の芸術」
として精力的に紹介しているこの国は、九種的なものを持ち合わせていると思えます。
19世紀はドイツが主導していた西洋哲学の行き詰まりを、「ずらし」や「ゆらぎ」と云う視点で、
20世紀を主導したのがフランス哲学だったことを考えると、最近は九種的傾向が
強まっているのかもしれません。食欲と云う面から云うと、イタリアも負けず、劣らずですが、
どちらかと云うと量的にこしらえようとする辺りが、捻れが混じっていると思えます。
堂々たる量の歌声を響かせるテノール歌手が英雄であるところなど、
声の大きい八種などの捻れ型の方が、表の体癖かもしれません。)
四種は、逆に食べれなくなります。
何故、食べれなくなるのか本人は判らないのです。
しかし、必ず感情につかえたものがそこにあります。
問題はその感情を、自分がどう感じているのか、どう表現してよいのか、
その時に判らないことです。
相手の生の感情がそのまま堆積してゆくのです。
感情で表現できないため、胃袋が拒否反応を表現すると云うタイプです。
感情型でありながら、感情の色盲ともいえます。
(日本は左右型四種。四種(感情型)の感受性は、人に嫌な感じに思われたくない
と云うのが行動の基点となっています。
日本的な偶数種の世界観は、良寛さん(四種)が確立した境地と通底する世界観です。
四種の良寛さんは自分の中で、堆積した自分や相手の感情が渦巻いて、
暗い怒りと懊悩がいつも、ふつふつ煮立っている自己をイヤと云うほど知り尽くし
認めたうえで、そのような自分の特性を極め極めて、活かしきった達人の人といえます。)
前後型(呼吸器型)
五種は合理的で、計算高く、行動的ですが、冷静な判断をくだせます。
呼吸器が旺盛で、常にまず行動することで次に来ることを決めてゆきます。
明るく、健康的で肩幅が広く、きらきらした物が好きで、しかし、情には流されず、
打算的です。
広い、高い空間が好みで、新らし物好きで、決して突き詰めず、必要だと判断される
ものだけ取り出して、今までにないネットワークを構築できます。
しかし常に不安を抱えていて、猜疑心が奥に固まっています。
容姿も生き方もスマートな印象を受けますが、影や憂いと云うものは前後型に特徴的です。
スポーツのアスリートや俳優など前後型が多い。
(アメリカは前後型五種の国です。パソコンをインターネットによって、発展させたのはまさに、
五種的な感性が活かされたのです。ハリウッドのアクション映画などのすべてが、
現在の生活のステータスが何者かによって脅かされると云う不安を描いているところなど、
前後型の心理のなかの暗さが象徴的によく表れています。)
眠りが、色々の意味で重要な身体で、眠りが浅く、質が落ちてくると不安が、
ますます強くなり、鬱状態に陥ったりします。
元気がなくなったら、寝てしまうことです。この人たちは、深く眠るとすっかり
爽快な気分となります。
上下型も眠りが焦点であるのですが、眠りについてよく判らないところがあります。
眠っているのに、眠っている感じを持たないのです。
前後型には「善悪」と云う観点は、もともとありません。
特に不安定な混合型の場合は、直裁に「損か得か」と云う判断になりがちです。
六種は、呼吸器が草臥れやすい人たちです。
陰気で、暗い人と云う印象を与えやすい。(特に、奇数種からは、そう思われやすい)
しかし熱中しやすく、そのことについて語らせると実に熱い言葉を吐きます。
ドグマと云うものに弱く、そういうものを持ちやすい人たちです。
腰椎五番が弛緩しやすい身体は、決断を下すことがなかなか出来ません。
現実の中で、判断をしがたい為、空想の中で生きている人たちです。
(九種の現実と空想の区別がつかないものと違い、境界をもった空想です。)
非日常的な世界ともいえます。
非日常的な世界に憧れ、与しやすく、そちらの世界に住み着いてしまいがちです。
かつての新左翼的な世界、この間のオームの世界に入り込んだ人たちなどは、
極めて六種的な人たちです。
呼吸器が発達し、強い身体は、「我慢」と云うことが出来るのです。
目的があれば、今は一歩引いて抑制することが出来るのです。理性的ともいえます。
これらは五種の特性ですが、六種はこれが出来ません。
思春期は呼吸器が最も発達する時期ですが、それ以前の時期の子供たちに
我慢を強要させたり、抑制ばかりを心理的に与えると、呼吸器を毀します。
喘息は、呼吸器の未発達の子供に、口喧しく制限ばかりを加えた結果といえます。
そこで、必ずどこかに逃げ道を作っておいて、「頑張らせる」ことが肝要なのです。
ロマンチストで夢想的と云うこの人たちの作りだす世界は、しかし美的で、独特の
魅力を備えています。毛嫌いする体癖もありますが、非日常の世界から現実世界を
見直すと云う意味で、価値を見出すことが出来ます。
(日本的な偶数種の洗練された世界は「四国遍路の世界」でもあります。
四種六種の世界、「お接待」と呼ばれ、訪れるものに誠意を尽くすと云う世界観の中で、
訪れる者は偶数種の生き難い人々で、それを包含し、全てを受容するかのごとき島世界と
その受け容れる人々は偶数種の「真っ正直」な人々である、非日常に旅して、
其処から帰ってくると云う魂の救済は、六種的なメンタルセラピーの経過そのものです。)
捻れ型(泌尿器型)
捻れ型とは、文字通り、腰や首を捻って、今にも向かってゆきそうな闘争的な心理
状態を常に持っている人たちです。何事にも勝とう、負けまいと云う心理が働くのです。
七種は、えらが張った四角い顔、四角い体つきをしています。
湿度に弱く、勝負事を好みます。手足の抹消の神経系統が鈍いため、大変不器用です。
そこで力づくで何事も行なうことになります。余分に力が入るのです。
前を走行する車が、急激にスピードを上げて発進したり、ブレーキをいきなり効かせる
ようなことがあれば、前の車の運転手は間違いなく捻れ型と思ってよいのです。
特に、ブレーキはへたくそで予測と準備が出来ないのかと思うくらい、いきなり強く効かせて、
がたんがたんと車体をゆらして止めます。捻れ型の車の後ろにいる場合は、
十分車間を開けるのが心得といえます。
また、追越などしようものなら、急激にスピードをあげて追い越しさせないようにしますし、
追い越されたなら、猛然と追いかけてきて、逆に追い越しをしようとします。
どんな場合も負けるわけにゆかないのです。
柔道家など格闘系のアスリートに多く、ゴムのような皮膚の手足をしています。
捻れとは、本来が弱いため、これを捻って強くしているのです。
そのため、本当に強い人には従順で、弱い人間に強い傾向があります。
普段は好戦的で、強がったことを言っておりますが、恐妻家だったり、ここぞと云う時に
もろかったりします。
血行異常を起こしやすく、痴呆にもっともなりやすい体癖でもあります。
ボケて、丸くなる人と、妄想傾向をもった激情型のボケになったりします。
八種は、行動ではなく、言葉で負けまいとする人たちです。
相手の言葉に、必ず「いや、そうじゃなく」と、たとえ同意していても、否定の言葉で
返します。
もともと論理的ではなく、はったりで勝とうとするので、相手に論理や道理でやり込め
られそうになると、しだいに声が大きくなります。声の大きさで勝とうとするので、
やがて喧嘩をしているかのような趣きとなるのです。
不思議なことに、捻れのこの話し方を相手にしていると、感応しやすくやがて興奮して
こちらの声も大きく、上ずってきてしまいます。血圧は上がり、たぎってきます。
けんか腰を同調させる性質の人です。
普通に話していても声の大きい人が多く、よく通るよい声をしています。
声楽家などが多く、非常に柔らかい筋肉を持っています。
偶数種は対人関係を苦手とし、他者を前にすると異常に緊張します。八種も相手と
どのように関係を築けばよいか、初めまったく判りません。
そこで、自分と直接係わりのない(たとえば家族の知り合いなど)相手に対しては、
無愛想であり、自分の「領域」を侵すようであると、猛然と怒鳴り散らして排除行動を
取りはじめます。直接その相手に対してではなく、最初は、家族を通して抗議行動を
起こすのです。
捻れの男性は前立腺肥大となりやすく、頻尿ぎみです。
以前、名古屋に行った時に、商店街の雰囲気が、東京に追いつけ、追い越せの
熱気にあふれているのにビックリしましたが、東京のようになって、その上で東京を
負かしたいと云うところが、捻れ的だなと思ったものです。
その日、昼の食事時に入った地下街の食堂で、出会った男性の行動にもビックリさせられました。
大変に混み合った店内で、注文取りにも時間がかかり、注文の料理もなかなか運ばれてこないような、
てんてこ舞いの状態でした。その男性は、長い待ち時間中にも、如何にも怒りを沸騰させている、
ような様子で、連れの人に向かい盛んに店の文句を並べ立てていました。
押し黙り、文句を言い、押し黙り、文句を言いと云う、繰り返しをしながら、
余りにも長い時間が経ってだんだんと押し黙る時間が長くなり、怒りが圧縮されてきているなと
感じた時に、やっと注文品が運ばれてきたのですが、
男性は俄かに注文の丼を一切手をつけないままに、「こんなものは、これでいいんだ」と言って、
ひっくり返してテーブルの上に逆さまに置いてしまったのです。「そんなことをしなくても」と
連れの人に諌められていましたが、「ふん」と言って首を捻って口元にせせら笑いを浮かべて
横を向いてしまいました。
これは大変に八種的な行動です。
他者からすると、何故このように憤然として相手もいないのに怒り狂っているのかと不思議に
思うのですが、 ―実際、前掲の男性も店員が下がってから、丼を逆さに叩きつけるかのように
置いたのです。
八種は、本来は相手を目前とすると、うまくコミュニケーションを取れないので、相手と直接対面
しないような状況で、激怒するのです。
そのため、しばしば酒の勢いを借りて相手に挑みかかるわけです。―
これは、本人にしてみれば自分に降りかかっている、自分の欲求を制限、抑制する
事柄や他者に、猛然と抗議をしている訳ですが、そこにはこれだけ、ひどい事態に
追い込まれている自分を気にかけてもらいたいと云う集注要求が奥にあります。
開閉型(生殖器型)
九種は集注する速度が速く、長く集注した状態を保ちます。
逆に言えば、集注状態がなかなか解けない身心をもっているといえます。
気に入ると、囲い込むように愛着を示し、ぼろぼろになるまで使い込んでも捨てること
をしません。捨てられない人たちです。それは、整理が付かず片付けられないと云う
ことではなく、包括的な愛着心の表れです。気に入った物は、外装や正札、箱まで
全てとって置き、捨てることを嫌がります。本当に気に入った物は、使用品と保存用と
壊れたときのサブ用に三つは欲しいと思います。
古いものの良さを最もよく知る人たちで、新しいものについては最初、疑ってかかり
なかなか手を出しません。
相手の言葉を、まず「何故、この人はこのように言っているのだろう」と、その奥に
隠れた本心を読み取ろうとする癖があり、何事もまず、疑ってかかる傾向があります。
これは、九種の極めて直感的な、「本物」を瞬時に掴み取ってしまう能力の思考傾向
をよく表わしています。
職人的であり、集注した丹念な「匠」としか言いようのない技を表出する感受性が
あります。
生き様は求道的で、余分なものは削り削りして、虚飾をどんどん剥いでゆき、
ひたすら「造りこんで」ゆきます。そのため、極めてシンプルでありながら、力感と
充実感あふれる表現をします。
ひとつずらした「歪」の美しさを表現できる感性を持ち合わせて居り、孤高の感じを
際立たせ、縮む方向に特徴を持ち、それは直感的でありながら、唯一のものと感じさせます。
見るもの、触れるものに緊張感を強いる処があるため、他種の人間からは、敷居の高さや
近づきがたさを感じさせます。
本能的な生殖器系統の腰椎4番が中心の身体で、骨盤は開きがたく、常に閉じる方向に
あります。閉じる動きが縮み過ぎにより、幅を失うと、偏狭となり、口喧しくなり、
悪口を盛んに言うようになります。
(世界に誇るべき武満徹の音楽は、二種四種の偶数種的な世界に九種の緊張を宿し
た楽曲であり、そこに描かれる世界は偶数種の不安定さを表にさらけ出したもので、辺りに
薄墨の空間を広げ、宙に浮きながら、微妙な風の動きにさらわれ、さらわれする
フワフワした心地よさを持った音楽です。
しかしどうしても、九種の緊張が鉄の枷を手足につけたまま、不安定に振り回されている
ような心苦しい感じがあります。
吉松隆は、この武満の音楽の九種的緊張と二種的なややこしさをとっぱらって、
武満が何を目指していたかを、よりわかりやすく聞きやすい形で展開しています。
吉松の音楽は、武満的な世界に軽みと甘さと飛翔感を引き出すことに成功している
のです。)
イギリスは九種的な傾向が強いのでしょうか。疑り深さや古い物好き、他人と同じように
することを嫌うと云うところ、推理物の発祥の地と云うところからもそのように
考えて良いようです。
十種は、骨盤が常に開く方向に向いており、若いときはほっそりしていても、
子供を産んだとたん、太りだす人など、十種と観て間違いありません。
骨盤上部は開き気味で、出産によって骨盤底部も開いてしまうと、前述のように
全く様変わりして、太り始めます。
初めから、豊かな体つきの十種もありますが、種族保存的な本能が顕著で、抱え込
むように、母性的な親切を尽くします。
対外的な打算的でないボランティア精神に満ちており、どんな相手も子供のように
引き受けて、包み込んでしまいます。
家の中ではまったく何もしないのですが、外に出て行っては奉仕のかぎりを尽くします。
そのため人を集めてくるのが得意で、人の輪がどんどん広がる傾向があります。
ぽちゃっとした福顔が多く、年をとっても印象は変わらず、可愛い感じの年寄りと
なりやすいのです。
(捻れや左右との混合が多く見受けられ、そうなると、汚れた感じが出てきます。
頑迷で、我が強く周りの人間が振り回されます。)
十種同士が、比較的近い関係にある場合、反発現象を起こします。
陰口をたたきながら、主導権争いをしたり、陰険に追い落としを図ろうとしたりします。