地図を片手に辿り着いた小さな教会入口の右手に「ベートーヴェン葬儀の場所」の記念標識を発見。飾られた像も先ほどの記念像同様にいかめしい顔つきをしていた。
葬儀の当日は終焉の地からこの教会まで参列者(一説には二万人)の列が途切れることなく続いたとの記録が残る。
教会の中を少しだけ覗かせで貰い、地下鉄6号線アルサー駅まで歩き通した。
二つ目の駅で下車と覚え込んでいたのに、何を勘違いしたのか一つ目のMichelbeuernで降りてしまう大失敗をした(歩き疲れたこの日は、帰途の市電の乗換で、反対方向へ行く電車に乗る失敗を重ねた)。
遠回りして、漸く目的のWähringer Straße駅に辿り着き、駅から西に延びる「ヴェーリンガー通」をひたすら歩く。左手に「シューベルト公園」が現れる筈と、何度も、地図を確かめながら重い足を運んだ。たった900mの距離がとてつもなく長く感じた。
昔のヴェーリンガー墓地(中央墓地完成後は閉鎖された)は緑の豊かな小公園となり、「シューベルト公園(近くに生家あり)」の名前に変っていた。中央付近の塀際の一角にベートーヴェン(左)とシューベルト(右)が並んでいた(「尊敬するベートーヴェンと並んで埋葬を」は35歳10ヶ月の若さで亡くなったシューベルトの強い希望であったと伝わる。中央墓地に改葬された時もその希望がかなえられていた)。
「オーストリアの偉大な詩人グリルパルツァーが墓前で“彼は芸術家であった。しかし同時に一人の人間であった。あらゆる意味で最も高貴な人間であった。…彼は死んだ。そして永遠に存在し続ける。墓地までついてきた者たちよ、悲しみを抑えなさい。我々は彼を亡くしたのでなく得たのである。”と弔辞を述べた」(ロラン)
成田空港へ出発する朝、早朝に「中央墓地」を訪ねた。人の気配の消した墓地では、映画「第三の男」のラストシーンに登場し強烈な余韻をもたらした、並木道が朝日に輝いていた。
32特別区の一角にはウィーンに縁の音楽家の墓が並んでいた。中央にモーツアルトの記念碑が建って、その背後の両脇をベートーヴェンとシューベルトが固めていた。(余談ながらモーツアルトの墓について記す。驚くべきことだが、貧困の中で最後を迎えた天才・モーツアルトに墓はない。大勢の無名の人々と一緒に、マルクス共同墓地の大きな墓穴に放り込まれて、土を被った。国は骨を掘り出し、DNA鑑定までしたが、遺骨は見つかって居ない。マルクス墓地のそれらしき所に記念碑が建つだけで、何とも淋しい限りである。)
(シューベルト公園墓地跡:中央墓地の墓:中央公園・同モーツアルト左ベートーヴェン、右シューベルト)
第四章 旅の終りに
旅の準備に相当な時間を費やしたお蔭で、訪ねたベートーヴェンの足跡は12ヶ所を数えた。
お供に連れて歩いた『ベートーヴェンの生涯』は傷ついている魂から生まれた一つの歌であった。息のつまっている魂が呼吸を取りもどし、再び身を起こして、その「救済者」にささげる感謝の歌であった。信仰と愛との証しでもあった。
ウィーンで確かめたその足跡はまさにその生涯を彷彿とさせるものであり、50年も要したが、この本がより深く理解できた気がする。
後期高齢者となった今も鮮やかなベートーヴェンやロランの言葉が、帰りの荷物の中で、ひときわ重かった。
「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。しかし、それを自分の運命として受けとめ、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えばいつかは必ず勝利するものである…(ベートーヴェン)」
「人は望む通りのことが出来るものではない。望む、生きる、それは別々だ。肝心な事は、望んだり生きたりすることに飽きない事だ(ロランの小説『ジャンクリストフ』)」
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