吉田 堅治

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吉田堅治です
吉田堅治

T 生涯

1. 出生から学生時代

「私は1924年(大正13年)5月24日、大阪府池田市の代々庄屋を務めた吉田家の九人兄弟の四男として生まれた。池田市は古い街でかつて小京都と云われ、山と川のある風光明媚で芸術家が多数往来したところであった。私の生家にもそれらの人々の絵や書や陶器等があったので、日常これらを目にしながら育った。 父は庄屋を引き継いだが祖父の残した重い負債の支払いに耐えられず、次々と土地を手放していった。
幼い私は十歳年上の兄・勇に連れられ、美術館や神社仏閣古墳などに行った。又、兄の油絵具をさわったりその蔵書、世界美術全集を観るのが楽しみだったし外国への憧れを持った。これらは今の私の在り方の原点を創った。
池田師範学校(現・大阪教育大学)に入り美術を学び絵を描いた。ここで立派な先生方に出会い、西洋絵画についてその覧方や在り方と社会との関係を教わった。
世の中は日々に戦時色が強まり軍国主義が強くなったが、先生方はそれに動ぜず人の歩むべき道を教えられた。」(吉田のノートより)

自画像 1942年,Oil on board 33×24cm
花 1943年,Oil on board 33×24cm
景色 1944年,Oil on canvas 36×46cm

2. 太平洋戦争

1944年 卒業を目前に大阪第二師範学校(現・大阪教育大学)を繰り上げ卒業。軍隊に入り土浦海軍航空隊で特攻隊員として訓練を受ける。
「訓練を受けつつ戦争とは?生とは?死とは?と自らに問う毎日。いのちの尊さ大切さを云いながら戦争はこれを打ち砕く行為。これを神が許すであろうかと強い怒りを覚えた。」(吉田のノートより)

1945年 出撃することなく終戦を迎える。 

3. 教職員時代

1946年 終戦後大阪府池田市立呉服小学校教員となる。
「爆撃で破壊された街、死傷者を見つつ郷里に戻り教職に就く。人々の姿は生きる為に必死であった。戦争とはと、そして平和について考えさせられた。これを礎になぜ絵を描き、何を描くべきかを考えずるもあらゆるものが生死をもっているように思えた。」(吉田のノートより)

1951年 上京し東京都大田区立入新井第二小学校教員となる。
「東京へ移り住み、異なる環境によって人は物事の捉え方や見方、考え方が異なることを知る。これらの人と絵をもって理解して貰うには今迄描いていた自然描写より抽象がよいと表現方法を変えた。」(吉田のノートより)
「1950年代、私は何事を成すにも先ず自己確立が必要と自分の内心に吸収した物事を照らし合わせつつ思考の原点を求めていた。その時、黒色はすべての色を吸収し蔵している、今自分が求めているものはこの黒に在ると。したがって黒を知ることは自分を知ることになりそこに無限の表現要素が在ると。これは今も物事を捉え考え表現する原点となっている。」(吉田のノートより)

教職時代 東京の下宿にて 1960年36歳 吉田堅治
過去,1963.Oil on canvas,45×59cm
礎,1964.Oil on canvas, 70×35cm
La Vie,1964.Oil on canvas,116×89cm

4. 画家としてパリへ

1964年 教職を辞してパリへ。40歳。スタンリーウィリアムヘイターの版画工房「アトリエ17」に
 入る。ここは以前ピカソ、ミロ、シャガールなどが作品を制作していた抽象版画の世界で最も
 重要な中心的存在であった。吉田はこの版画工房で英国人のヘイターからカラー凹版画の表現
 力豊かな新技法を学んだ。
「パリでの最初の外国の人々との交わりはヘイター氏の開く「アトリエ17」版画教室で学ぶことから始まった。そして交友の深まりは彼らの国々に招かれ訪ねることになり、その国の文化や生活を実感し世界の視野を大きく開かせた。幸いにしてこれら友人の援助で作品(版画)展が出来収入もあって生活はかつかつだが続けられた。」(吉田のノートより)

パリのアトリエにて、1965年
, 1964. Etching, 33×38cm
, 1965. Etching, 48×24cm
, 1966. Etching, 39×44cm

1966年 Wアトリエ・ドゥ・ノール”の結成に加わる。このグループ(アトリエ・ドゥ・ノール)を通じ
 て吉田はノルウェー政府から奨学金を得る。

1967年 スペインの彫刻家アぺル・レ・フェノーサの助手となり彫刻を学ぶ。
「私は彫刻家の助手になって今迄と日常生活がちょっと変わりましたがアトリエに住めるので食っていく最低収入は確保出来たことになります。」(1967年5月11日 吉田の手紙より)
「彫刻家アペル・レ・フェノサの助手を3年弱したが、彼は常に全体を見ていて悪い所があると大胆に基本からやり直した。又一日一点作品を作れと命じた。これは今も大きな教えとなって日々の私を支えている。」(吉田のノートより)

1968年 イスラエルのキブツ、シャミールに二カ月入り、イスラエル各地 およびシリア、レバノン、
 ヨルダンに行く。
1972年 フランス政府より芸術家アパートの入居許可を得る。初めて孔版画・セリグラフィー(シルク
 スクリーン)を刷る。
1973年 上原寛子と結婚。

Serigraphieを制作する吉田堅治
Meditation,1972.Serigraph,70×50cm
Evolution,1973.Serigraph,57×50cm
Fondement,1973.Serigraph57×50cm

油絵を紙に描いた作品もこの頃に制作している。

1974.Oil on paper,73×50cm
1974.Oil on paper,92.5×58cm
1977.Oil on paper,58×92cm

1978年 ミラノ、フィレンツェ、ピサ、シエナを訪れる。

5. 絵の題名「La Vie(生命)」

この頃からすべての絵の題名を"La Vie (生命)"と名付けるようになる。
「いのちを一層考えてゆくとその根源を現すのはどのようにすべきかと思考を推し進めた結果、やはり刻々の働きの姿を描くのでなく一つの動かぬいのちの中にあらゆる時の働きを表現すべきだと悟り以後題名を「いのち」とし、形も色もそれに応じて使うことになった。」(吉田のノートより)

1983年 日本再認識の必要を感じて20年ぶりに帰国。3ヶ月間滞在し、各地を見て回る。
「絵の為にもどうしても一度日本を見直す必要を感じています。費用の方は借金しますがこれは今回は久々の帰国なので友人、知人に無理を願って何とかなると思っています」 (1982年11月19日 吉田の手紙より)「経済的には恵まれていませんが心は豊かに過ごせるのを感謝する毎日です」(1983年7月26日 吉田の手紙より)

1986年 妻・寛子、癌のため死す。
「自分の在り方も含めて寛子の死をどの様に受け止めてよいものかと確と定かでないままに来ましたが、死も生も含めてこの世は自然の摂理によって動いているのだから在りのままに死は死として受け止めるより他はないのだと。平素絵を描きながら自分を出来るだけ素直な状態に置いた時一番バランスの取れた無理のない作品が描けると思っていたのですが、一番大切な時にこれを当てはめて自分を処することに欠けていたわけです。この間をふり返ってみると、やはりキャンバスに向かっていませんし、自分の日々に目を向けていなかったと反省させられます。」(1987年1月17日 吉田の手紙より)

墓碑

モンパルナス墓地の吉田堅治夫妻の墓。墓碑に刻まれた「釈尼華雲」は妻・寛子の法名、「釈蒼空」は吉田の法名。池田師範学校時代の恩師・松林寛之先生から授かった。妻が亡くなった時、これら二つの法名を自分で墓碑に彫った。

1985年妻・寛子とアトリエにて
1978.Oil on canvas,195×130cm
1986.Oil on canvas,195×260cm
1987.Oil on canvas,97×130cm

6. マヤ・シリーズ

オゼ・フェレズ・クーリと吉田堅治

1987年 カイロ、アレクサンドリア、ルクソールを訪れる。
1989年 吉田の生涯のエージェント、ホセ・フェレズ・クーリ
 出会う。
1990~1991年 ホセと共にメキシコ、キューバに3カ月滞在し
 マヤ・シリーズを制作する。

「私は「いのち」あるものは如何なることがあっても自然から離れることはなく、出来ぬと思っている。なぜならこの万物が住み存在する大宇宙が一つの命をもった大自然だから。」(吉田のノートより)

La Vie,.Oil and metals on canvas,×cm

「今まで経験した実際の空間を夜のMEXICOの空間で体験した。それは原野、夜中で満天の星と月の下に坐した時である。全く自分はこの大宇宙の中に見事に存在すると。それはマヤの遺跡の在り方や山々と平原の、そして大自然のつながりを観ての感じ。」(吉田のノートより)

マヤシリーズ1990.Inks on brown craft paper,90×724cm

「いのちを考える時、どうしても神の存在を考える。そして神の啓示(自然の摂理)によって命が働くと。それを色と形で表現してきたが神の世界を考えた時、色彩以上の物で表現をせねばならぬと。そこに金属で高い元素の集まりである金と銀が浮かびこれは神の物との思いが湧いた。以後大宇宙は神の世界だと。」(吉田のノートより)

La Vie,Oil and metals on canvas.195×780cm

1993年 大英博物館(ロンドン)で個展『La Vie』が開催される。存命中に同館で回顧展が開催され
  た最初の日本人画家となる。

La Vie,Oil and metals on canvas.195×780cm

1997年 メキシコ近代美術館(メキシコシティー)で「マヤ」シリーズの個展が開催される。

La Vie,Oil and metals on canvas.195×650cm

「絵の表現要素は色と形、そしてその中に多くの意識 ━ 心、精神 ━ が含まれている。従って色や形は描く空間意識によって既に成り立っている。これが確かに自分のものになったと思える時 ━ 客観と主観の合一性 ━ 迷わず表現に入れる。」(吉田のノートより)

1998年 Museo contemporanes Atened de Yucatan(メキシコ)、Museo de Aguascalientes
  (メキシコ)で「マヤ」シリーズの個展が開催される。

7. 平和な世界を願う「祈りの場」

吉田はホセ・フェレズ・クーリと平和の祈りを捧げるインスタレーションの制作に取り組む。12枚のパネルから成るこの作品は縦195cm,横1560cm。イギリス、アイルランドの3つの大聖堂で「祈りの場」として展示された。

2000年 クライスト・チャーチ大聖堂(ダブリン、アイルランド)
2002年 ノリッジ大聖堂 (ノリッジ、イギリス)
2003年 カンタベリー大聖堂(カンタベリー、イギリス)

2006年 ブロア城(ブロア、フランス)で個展『La Vie et la Paix de Yoshida Kenji』が開催される。

2007年 オクトーバー・ギャラリー (ロンドン、イギリス)で個展『 Life and Peace』が開催される。

2008年 ユネスコ本部(パリ、フランス)で個展『VIE ET PAIX』(命と平和)が開催される。

2009年 病気のため日本へ戻り、二週間後、癌のため東京で死去。84歳。

La Vie,2005.Oil and metals on canvas,195×520cm

" 「いのち」は「平和」あってこそ最高に働き輝く。「平和」こそ最高の美である。" 吉田堅治


U 主な個展

1957年 『吉田堅治展』 村松画廊
1964年 竹川画廊
1968年 『版画展 吉田堅治』 ハイファ、ティコティン日本美術館
1989年 『生命』 ロンドン、October Gallery
1991年 『Infinite Light』 ロンドン、October Gallery
1993年 『La Vie』 ロンドン、大英博物館
1997年 『Yoshida Kenji EL ANTIGUO JAPON Y LO MAYA』 メキシコシティ、メキシコ近代美術館
1998年 『Yoshida Kenji EL ANTIGUO JAPON Y LO MAYA』 メリダ ユカタン現代美術館
2000年 『LA VIE THE ACT OF LIVING』 ダブリン、クライストチャーチ大聖堂
2001年 『旅の途中で』 東京都、新宿パークタワーホール
2002年 『Unexpected Encounters』 ボルツァーノ、Galerie Prisma
2002年 『LA VIE THE ACT OF LIVING』 ノリッチ、ノリッチ大聖堂
2003年 『LA VIE THE ACT OF LIVING』 カンタベリー、カンタベリー大聖堂
2003年 『life force』 ロンドン、October Gallery
2006年 『La Vie et la Paix de Yoshida Kenji』 フランス、ブロワ城
2007年 『INOCHI TO HEIWA-LIFE AND PEACE』 ロンドン、October Gallery
2008年 『VIE ET PAIX』 フランス、ユネスコ本部
2010年 『A Celebration of Life』 ロンドン、October Gallery

V 外部リンク

・Lawrence Smith「Kenji Yoshida」( 2009年3月16日 英ガーディアン紙)

・Charles Darwent「Kenji Yoshida: Artist whose work was shaped by his
wartime experiences」( 2009年3月9日 英インデペンデント紙)

・吉田堅治 - Wikipedia

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