「C62ニセコ」惜別の記
 先ほどまで降っていた雪がようやく止んで、視界を覆っていた薄い白のカーテンが消えました。遥か下に見る稲穂の峠路は暗い。1/15でやっとf2.8(ISO40)といったところ・・・。上空には雪雲が垂れ込め、今しがた降った雪の名残かレールが鈍く光っています。あそこがC623最後の花道。休息に入る前の最後の花道。そう、あくまで休息に入る前の・・・そう自分に言い聞かせながら、時計の針が進むのが今回だけは恨めしい。
 峠の冷たい風に吹かれながら、C623とともにすごした8年間の数々の思い出が、走馬灯のように頭をよぎります。豪快な立ち煙に快哉を叫んだ日、煙が巻いて涙を呑んだ日、フィルムを巻き忘れ呆然と通過するC62を見送った日、強い雨風になかされた日・・・私を心から酔わせてくれた8年間の壮大な夢が、今静かに幕を下ろそうとしています。
 1988年早春、何の気なしに本屋で立ち読みをしていたある鉄道雑誌の1ページに私の目は釘付けになりました。C623号機が雪の中を単機試運転している写真が載っていました。
 「え?・・・・何、これ・・・??」
 それまで蒸機への情熱こそ冷めていないものの、年に数回、大井川鐵道と山口線に足を運ぶだけで、それぞれの土地の良さも知り、この2つの線だけにのめり込んでいた私には、もはや情報を集める必要もなく、鉄道雑誌などはほとんど読むことも少なくなっていたのですが・・・。この記事は青天の霹靂でした。
 C62がもう一度走る・・・本当なのだろうか。聞くところによればすでにその3年前から復元プロジェクトは始動していたといいます。しかし、国鉄現役時代の友人とも音信が途絶え「大井川が全て」になっていた私には、そうした情報を知る由もなく、ただ呆然とするばかりでした。まさかあの北海道の大地に再び蒸気機関車がよみがえることになろうとは・・・。

運転初年度のC62グッズ〜絵葉書

 それからが大変でした。これまで音信の途絶えていた全国の旧友に電話をし、手紙を書き、私は情報集めにやっきになったものです。今考えればお笑いですが・・・。やがて試運転の日が4月25日からとわかると、会社には「海外旅行に行きます!」と大嘘をついて4月24日から2週間の休暇を取ったのです。(帰ってきたらしっかりバレてました。テレビに映ってしまったそうで・・・)何がモノグサな私をこうも変えたのか?
 4月25日、倶知安峠でC623が目の前を駆け抜けていったのを見たとき、自分の中で十数年眠っていた「何か」が解き放たれたような気がしました。

倶知安駅発行の記念入場券

 こうして「C62狂い」の生活が始まったのです。これまでさほどでもなかった年休消化率が一気に上昇。ついには他人の休日出勤を強引に肩代わりして、都合のいいときに代休を集中させ、その全てをC623につぎ込みました。実は組合からも問題視されお叱りを食ったほどで・・・。初年度の撮影日数24日、2年目21日、3年目22日・・・。8年間の通算撮影日数115日。さすがに「本妻」の大井川の撮影日数が減少。山口線に至っては正月運転以外はほとんど足を運ばなくなってしまうていたらくでした。
 「また北海道か?」
 「よく飽きずに同じところへ行くなあ、高いカネかけて。」
 「それじゃ再婚はムリだわな。」(グサ!)
 会社の上司や同僚に呆れられつつ、毎月「C62基金」の算段を・・・。昼メシは節約、飲み会は月2回だけ・・・。涙ぐましい努力をしつつもいつもサイフは貧血気味。ときには「青春18きっぷ」と新潟〜小樽フェリーの併用で、若かった体力にモノを言わせて日本海を押し渡ったり、上野から鈍行乗り継ぎで倶知安まで行ったり・・・。
 それにしても、もしC623が復活していなければ、相当なお金がたまっていたかも・・・。
 その「C62ニセコ」の運行が予定の8年間で終了、延長はしない、ということが発表されたのがこの年の春。JR北海道幹部からは「きれいに棺おけに入れてやるのが我々の役目」という発言(通称「棺おけ発言」)も飛び出してしまいました。さまざまな問題ははらんでいたにせよ、日本で初のボランティア方式を併用したC62の運行。しかし、スポンサー企業の相次ぐ撤退、そして忍び寄る不況の風・・・結局資金難という大きな壁には勝てなかったのです。上の記念入場券や絵葉書を見るにつけ、復活当初のJR北海道の意気込みは大変なものが感じられたのですが・・・。そうそう、C62のテーマソングも出てたんですよね。運転初日に買いましたよ、そのテープ。杉田二郎が歌ってますが、けっこういい歌ですよ。
 ♪白い蒸気吐き 荒野を駆けるか♪
 下がそのカセットテープのレーベルです。

C62テーマソングカセット

 「C62ニセコ」の運行とそれを支えた鉄文協、そしてそれを取り巻くファンのあり方については論議のあるところかもしれません。功罪ともにあったでしょう。しかし、確実に言える事は、この運行が今後の動態保存への試金石になったということです。未だに地方鉄道やJR、企業主体の運行にならざるを得ないのが日本の現状ですが、少なくとも少数ながらファンが基金を組んで資金を作った(それが総運行経費のわずかな分しかカバーしていなかったとしても)というのは初の試みであって、将来へのひとつの方向性を示したものだったような気がします。今、大井川鐵道で行われているC11190の復活支援募金、鐵道の予想では「いいとこ300名も集まれば御の字では?」と言われていたものが1000名を突破するほど支援者が集まったというのは、このC62によってその精神的土台が築かれていたからかもしれません。
 最後の年の最後の運行は11月3日。その前日には鉄道友の会主催の臨時運行が予定されています。当然ながら、私は渡道の計画を立てました。
 「最後じゃない・・・。」
 しばらく会えなくなるだけで、その「暇乞い」の挨拶に出かけるんだ・・・そう自分に言い聞かせて・・・。
 11月2日早朝、急行「はまなす」から降り立った札幌の駅は雪でした。もう北国は冬とはいえ、あまりにも寒い・・・。接続の列車を小樽築港で下車し、フェリーで先発していたH氏と合流、クルマで国道5号線を南下します。たけだ旅館にひとまず荷物を置いて倶知安峠へ。200キロポストの国道オーバークロスまで来ると早々と十数台のクルマが駐まっています。私たちもその端にクルマを停めて、目的の201キロポストに向かって歩き出します。雪がかなり積もっています。たけだ旅館から持ってきた長靴に履き替え、雪を踏んで歩き出します。いくらか気温が上がったのか、降る雪がときどきみぞれのように水っぽくなり、足元の雪はグチャグチャになっていました。200キロポストにはもう30本近い三脚、そしてしばらく進んだ200.3キロの小さなSカーブ、ここにも三脚のバリケード。ここも確かにいい場所なのですが・・・その端をすりぬけてさらに先に行こうとすると、その場にいた人たちからけげんそうな視線を浴びてしまいました。
 「どこに行くの?この人たち・・・?」
 どの視線もそう言っているようです。散々雑誌にガイドされつくした「C62ニセコ」の撮影地。反面、雑誌にガイドされていない場所は撮影に適さない、と思われているようで・・・。でも倶知安峠はちょっと歩けばすぐにSカーブ。つまり、撮影地は無限にあるんですが・・・。
 歩くこと約10分で201キロポストに到着。先客はたった一人・・・。わずか700メートルの違いでこれだけの差が。しかも、Sカーブのスケールははるかにこちらの方が大きいんですが。
 ここは空転の名所。1991年の11月4日に伝説の大空転を起こしたのもここ。C62にとってはまさに胸突き八町の場所なのです。
 セットアップを終えて2時間。小沢発車の時間です。しかし発車の汽笛が聞こえません。時折雪が強く舞ってカメラを濡らします。それに気を使いながら、いつC62が現れてもいいようにシャッターのチャージを確認し、露出をこまめにチェック。しかし10分、20分、30分過ぎてもC62は現れません。おかしい・・・。小沢を発車したのならいくら空転してもここまでは登ってくるはず・・それなのに全く音も聞こえないとは・・・。定刻より1時間たったころ、仲間が携帯電話で倶知安の駅に問い合わせてみたところ、C62はカマの調子が悪く、雪にもたたられてなんと稲穂峠で空転を連続して立ち往生、まだ銀山にも着いていない、ということでした。
 結局9262レが私たちの前を通過したのは定刻より実に1時間35分遅れ!見事な立て煙を吹き上げ、私の真横で空転を一つしてゆっくりと峠を登っていきました。前頭には「エバーグリーン」のヘッドマーク。初年度の冬、このHMが最初につけられた特別運行が行われたときには、運行の前途は洋々たるものがありましたが・・・。

11/2 9262レ 小沢〜倶知安

 帰路の9263レは有名な北四線踏切の東側、国道脇から小さなサイロを入れて横位置で狙います。雪はますます強くなり、目の前は白一色の大地。ダイヤが乱れているのでいつくるかわかりません。セットアップを終えて10分ばかりで倶知安発車の汽笛が鳴りました。定刻より35分遅れ。横殴りの雪が降り、視界は決して良くありません。薄くもやがかかったような景色の中、C62は灰色の煙を風に躍らせながら走り去っていきました。良く見ると、最後尾にオレンジ色の車両がくっついています。急遽救援に駆けつけたDE15が倶知安から後補機についていたのです。
 「ポーッ、ポッポッ!」「ピーッ、ピッピッ!」
 列車が北四線踏切を通過した直後、2台の機関車の絶気合図が聞こえました。本来は「C62ニセコ」では聞けないはずの絶気合図。それを皮肉にも最終日の前日に聞くことになろうとは・・・。

11/2 9263レ 倶知安〜小沢

 たけだ旅館に帰ると、明日の撮影地のことで話はもちきりになりました。とりわけ、最後の列車9263レをどこで見送るか・・・。天気予報は曇りときどき雪。風も強いという。最後の列車を追っかけ撮影などして落ち着きのない形で見送りたくない。誰しもが稲穂嶺に登ってじっくり目で追い、山々に響く汽笛を聞きながらC62を見送ってやりたい・・・そう思っているのですが、この天候では俯瞰はムリかも・・・。まして今日の状況ではDE15の補機がつくかもしれない。
 どうするか・・・全ては明日の天気次第。
 明けて11月3日。雪は止んでいました。風は強く、上空は灰色の雲が激しく動いていますが、時折晴れ間ものぞきます。この分ならなんとか山に登れるかもしれません。昨夜、築港へ最後の入庫を見てきたmanasayuさんとidoさんが補機はつかないとの確報を伝えてくれました。ひとつひとつ心配なことが解消していって、朝食もなごやかに進みます。7時間後にはC62の最後の列車を見送らなくてはならないのですが・・・。
 朝食の最中に、テレビ局の取材が入りました。急にヨソイキの顔になる皆の表情がおかしかった・・・これで、「今日は最終日だ」という重苦しい雰囲気がいささかまぎれました。
 9:30過ぎに宿を出て撮影地へ。今日は昨日のポイントから300メートルほど前進した場所に三脚を立てます。相変わらず誰もきません。(^^;
 上空を見れば雲がすごい速さで流れていきます。相当風が強そうだ・・・。
 やがて定刻より少し遅れて小沢発車の汽笛が聞こえてきました。最終日ということで上空には報道各社のヘリが飛び交い、それがC62の接近を教えてくれます。やがて5分遅れで姿を現したC623は・・・。
 ゆっくりとしたドラフト音。今にも停まりそうなゆっくりとした足取り。かつて轟音とともにこの峠を駆け上がっていったその姿からは想像もつかないほど、ゆっくりとした速度で登ってきます。煙突から吹き出される煙は風に吹き散らされて右に左に舞い踊り、機関士はキャブから顔を突き出して、足元の動輪を見ています。煙の不規則な出方を見ても、機関車が空転寸前なのがよくわかります。本来ならば、いかに風が吹こうと、その風に煙を倒されることなく峠を駆け上っていくC62が・・・今は気息奄奄といった有様です。
 昨日の様子でも機関車が最悪に近い状態なのであろうことは想像がつきます。この速度で大きな空転を起こしてしまえば、そこで停まってしまうのは必定。機関車も乗務員も最悪の条件に耐えに耐えて、空転を寸前で押さえているのが見ていてわかります。
 頑張れ!今日は最後の峠越えじゃないか!今までお前はこの峠を幾度となく事も無げに越えてきたじゃないか!最後の日に峠で立ち往生する姿だけは見せてくれるな!頑張れ!

11/3 9262レ 小沢〜倶知安

 これまで、ともすれば空転を起こしたときの猛り狂ったようなC62の姿を見たい、と願っていた私でしたが、この日ばかりはとてもそんな気になれなかったのです。最後はC62にふさわしく、轟音とともに峠を駆け上がっていってほしかった。それがかなわぬならせめて無事に峠を乗り切ってほしい・・・。
 小走りのように速度を落としながらもどうやらC623は空転も起こさず、無事に峠の頂上に向かって登っていきました。装備を撤収して歩いているときに、遠く倶知安トンネルの進入を告げるC62の汽笛がかすかに聞こえてきました。無事乗り切ってくれたんだね・・・。
 どうやら急激に天候が悪化することもなさそうだったので、最後はやはり稲穂嶺へ登ることにしました。いったん小沢に戻って昼食を取り、クルマで登り口に向かいます。
 細い山道を登り、小さな沢を2箇所渡り、小一時間かけて登りきると目の前に山並みを見下ろす場所に出ます。小沢を発車した直後のカーブを回りきったところから稲穂トンネル1キロ手前の大カーブまで断続的に延々5キロの線路を見晴るかすことができる「広場」と呼ばれる場所・・・。晴れていればワイスホルン、イワオヌプリ、ニセコアンヌプリはもとより線路とはからまないものの羊蹄山も望むことができるところですが、今日は上空は厚い雲に覆われニセコ連峰の中腹までがやっと見える程度。大丈夫と思っていた天候は少しづつ下り坂になってきたようで、時折、西の方から薄い白のカーテンが近づいてきたかと思うと、強い風を伴って雪が舞います。それはまるで、C623との別れを惜しむかのように・・・。
 「最後の列車は誰もいない山の上で静かに見送ってやりたい・・・。」
 その思い通り、この場所には私とH氏のほかには誰もいません。(もっとも、たけだ旅館の常連たちは皆思い思いに稲穂嶺の各所に登っていたようですが。)やがて、しばらく降っていた雪も止み、暗くはなったが見通しのよくなった山々の彼方から、C623の小沢発車の汽笛がかすかに聞こえました。
 「ホォ−−−ゥ」
 やがて稜線の彼方に白い煙が見え出し、いくつかのカーブを曲がりながら徐々にこちらに近づいてきます。風に乗って次第にドラフト音が聞こえ始め、前照灯に照らされたレールが美しく光ります。いつもなら、「早くここまで来い!」と思うのですが、今日ばかりはできるだけゆっくりと、時間をかけてきてほしい・・・そんな気持ちになってしまいました。白く光る煙が軌跡を描くように長くたなびいて徐々にこちらに向かってきます。

11/3 9263レ 小沢〜銀山

 やがてC62は眼下の大きなカーブを回り、山かげに消えていきました。後には山々を覆うC62の煙が幕のように残っています。トンネルに向かうドラフト音だけがやけに近く聞こえつづけていました。やがて稲穂トンネルの進入を告げる汽笛が一声。それまで聞こえていたドラフト音も途絶えて、言い知れぬ静寂がやってきました。風の音だけが残っている山の上。友人と二人、ほとんど言葉も交わさずに装備を撤収し、そそくさと山を降りはじめました。
 例えようのない寂しさが・・・山を渡る風の音も、寂しげに暮れなずむ稲穂の山々も、じっくりその場に身を置くには耐えられないほど・・・最後の余韻をじっくりと味わうべきだったのでしょうが、私にはその勇気がありませんでした・・・。ほとんど無言で山を下りていったのです。
 たけだ旅館に帰ると、ほとんどの仲間がC62への未練を断ち切れない様子でそわそわしていました。夕食が済んで、大広間に集まった仲間でテレビを見ました。今朝ほどたけだ旅館に取材に入ったHTVのニュース、C62最終日の運行の模様を伝えるコーナーの中でたけだ旅館の様子が紹介されました。玄関に脱ぎ捨てられたクツの大群、朝食を食べながらインタビューに応じてる新潟のMさん、そして極めつけはおばちゃんのインタビュー
 「みんな息子みたいなもので、ええ。」
 そう言っている横で珍しく神妙な顔をして立っているドクターMの姿がやけに可笑しい。
 みんな、見ながら腹を抱えるようにして大笑いしていました。でも今考えると、皆の笑い声があんなに大きかったのは、皆心の中に宿った寂しさを紛らわしたかったのかも・・・。
 「また復活する日が来るのでしょうか」
 そうアナウンサーが結んで短い7分ばかりのコーナーを終えると、皆言葉少なに席を立って部屋に戻り始めます。
 やがて、誰言うともなく、いやすでに予定の行動ではあったのですが、築港から苗穂に戻るC623の最後の回送を見送りに行こうという話になりました。旅館の常連メンバーほとんど総出で数台のクルマに分乗して小樽築港に向かいます。本当に最後の見送りに・・・。
 築港に着いたのは21:00過ぎ。すでにC623は庫の中で最後の出庫の準備を整えていました。来ていた鉄ちゃんは40名程度だったでしょうか。意外に少なかったのは、最後を見送るのは忍びない、という人がたくさんいたのかも・・・。良く見ると馴染みの顔がほとんどでした。
 「たぶん4〜5年待てば走るよ・・・。」
 「まあ、我慢して待ちましょう。」
 「そのときはまた一緒に来ましょう!」
 誰も決して「もうお別れ」とは言いません。そう、私も・・・。意地でも言いたくない・・・。これはあくまでしばしの暇乞いの挨拶。そう思わなければ、自分自身が納得させられない・・・。

C623最後の出庫

 やがて定刻、C623は白い蒸気のヴェールに身を包みながら庫を出ました。100メートルほど走って待機していたDE15と連結。連結錠の音が響きます。いよいよ、苗穂への最後の出発を待つだけになりました。
 「お願いです。最後ですから・・・長い汽笛をお願いします。」
 Idoさんの願いを乗務員さんは快く受け入れてくれました。

最後の出発の時間が迫る・・・

 折りしも小止みになっていた雨が急に強くなってきました。別れを惜しむC623の涙雨でしょうか・・・。
 定刻、DE15の短い汽笛に続いて、小樽の町に別れを告げるかのようにC623の長い長い汽笛が鳴りました。DE15に牽かれるようにしてゆっくりと動き出すC623。その後を追うように、構内の一隅から
 「ありがとう!」
 という大きな声が響きました。そのとき、誰もその声に唱和する人はいませんでした。いや、唱和してしまえば、C62との別れを認めてしまうような気がして声に出せなかったのかもしれません。「いつか必ずお前は戻ってくる」そう信じていればこそ・・・。
 でも心の中では、その場にいた人みんなが、同じ言葉を叫んでいたに違いありません。
 8年間、たくさんの思い出と多くの友人をもたらしてくれたC623、本当にありがとう。そしていつか・・・何年かかろうとも必ず元気な姿で戻ってきてほしい。いつまでも待っている。そう、何年かかろうとも・・・。
 小さくなっていくC623のテールランプを見つめながら、私は雨に濡れた頬をぬぐって、そう心の中でつぶやいていました。
ありがとうC623
今はゆっくり休んでほしい
来るべき日のために

 さて、その日の夜・・・。
 たけだ旅館に帰ったメンメンはまさに「ぬけがら」状態。
 A御大が作成したC62の秀作ビデオを皆で鑑賞したりしたのだけれど、皆なんとなく虚脱したようで盛り上がりません。時間はすでに深夜。
 それでも皆、名残はつきず、1つの部屋に集まってとりとめのない話を始めました。ビデオを見ながら同じ話題や笑い話が何度も堂々めぐり・・・。皆寝るのがいやだったのでしょうね。眠ってしまえば今日の日は終わってしまう・・・。どんな他愛のないことでもいいから話していたい。もう明日からは撮影計画も、天気もカマの調子も、話し合うことはないのだから。
 結局、皆が解散して各部屋に戻ったのは3:30過ぎでした。
 それから3年後の4月29日。「C62ニセコ」の運転開始記念日に、スポックさんが中心になって「C62伝説」という写真集を有志で出版しました。スポックさんのご好意で、表紙と最終ページの見開きの写真は、私が撮影した最後の2日間の列車の写真を使っていただきました。ともにC62撮影115日間の中で5本の指に入る思い入れの深い写真です。この2日間のことは生涯忘れられないものになりました。
 あれから20年。C623が眠りについてから、すでに復活走行した期間の倍以上の年数がもうすぐ経とうとしています。「C62ニセコ」もかつてのC62重連と同じように今は伝説の彼方に追いやられてしまった感があります。大井川や秩父にやってくるファンの中には、「C62ニセコ」という列車を知らない世代も増えてきました。日本各地に復活蒸機の煙が上がり、もはやC623という機関車が走ったいたことさえ忘れ去られてしまいました。しかし私は8年間私たちの血を湧かせてくれたあのC623の圧倒的な印象は未だに拭い去ることができません。
 こんなにすごい機関車がいたのだということを肌で感じた世代は私たちが最後になってしまうのでしょうか。