『ツグミの去る朝に』

 初冬。
 夜明け直前の空は、銀色に広がる。
 澄んでいて気高く、それでいて脆くて壊れやすい。
 一滴が穿てばひび割れてしまいそうな、儚い鏡の色をしている。

 冬はつとめて。
 清少納言は『枕草子』で、そう書いた。「つとめて」とは「早朝」の意。
 春は日の出、夏は夜、秋は夕暮れ、そして冬は早朝が良い、と平安時代の才媛は言った。
 なるほど、ひんやりとした冷たい風が、頬を軽く撫でていく。思わず、体を震わす。
 街を行けば、木々の葉は疾うに落ちている。まだ僅かに残るくすんだ色をした葉もまさに風前の灯火。木枯らし、とは良く言ったものだ。
 頭の片隅に残る眠気も、その風に吹かれて何処かに飛んでいきそうだ。

 アスファルトで舗装された道路は、朝露で僅かに湿っている。
 氷が張っている、とまではいかないのは暖冬だからだろうか。それとも、あれは舗装されていない砂利道だったからだろうか。
 氷に気付かずにうっかり足を乗せると、つるりと滑ってしまう。そんなスリルに、通い慣れた通学路がまるでおとぎ話の中に出てくる罠だらけの洞窟に変わる。
 『あの子』と二人でそんな冒険の物語を紡げば、憂鬱な学校への往き道も少しは楽しかった。
 もっとも──『あの子』は学校の中には入れなくて、最後は校門の外から寂しそうに見送るだけで、それが辛かった。
 西園美魚は、冬の朝の景色の中に昔の想い出を映し、少しうつむきながら歩いていた。

 彼女の隣を歩く直枝理樹は、子供みたいにわざとらしく大きく息をはぁと吐き出した。
「すごく白いね」
 まだ薄明かりの下、理樹の口からふわふわと息が広がる。
「…ゴジラ、とかやったりしませんでしたか?」
 内心、少し可笑しく思いながら、ほぅ、と美魚も口をすぼめて息を吐く。
 理樹のそれにぶつかるようにして、ふたつの白いかたまりは交じり合った。
「いや、僕はそんなことしないよ。するのは大抵…」
「井ノ原さん、ですか」
「うん。謙吾に向けて、ね。そんな時に限って、前の日にギョウザを食べたりしてるから、もう臭うの臭わないのって」
「…想像もしたくない光景です」
 そっと息を吹きかける、という甘美な言葉が汚されてしまったように思えた。
「僕は子供の頃は、よく氷を割って歩いたよ」
 理樹が小さく笑う。
「道路にできた薄い氷に向かって、踵を振りおろすとぴしって割れてさ。ひびが入るんだ。その感触が楽しいんだよね」
「…子供って残酷です」
 夜中から明け方の僅かな時間、文字通り凍えるような寒い中を身を寄せ合った小さな小さな水の粒達。もう行く当てもなく、頼れるのは周りに集った同じ境遇の仲間だけ。
 結束を固め、団結を深め、ようやく、ようやく彼らは身を守るために、薄い氷となった。
 そのか弱きもの達は、無邪気で傍若無人な輩の気まぐれな踵の一撃によって、あわれ藻くずと……。
「ごめん、そんなつもりじゃあなかったんだよ」
 美魚の語りぶりに思わず、理樹は謝罪の言葉を口にする。
「…分かればいいんですよ」
 微笑みながら、
「やっぱり、子供の頃は氷が張っていましたよね。今日は…無いみたいですが」
 理樹の想い出の中にも、やはり氷が出てくることを嬉しく思う。
「うーん、やっぱり温暖化なのかなあ。なんか少し寂しいよね」
 その理樹の言葉に、美魚も軽く頷いて答えた。

 底冷えのする商店街を歩いていく。日中になれば、それなりに賑わう通りも行き交う人はまばらに過ぎない。
 交差点を左に折れて、東へしばらく行くと道は緩やかな上り坂になる。
 二人は、ゆるゆると続く坂の手前に差し掛かる。
 この先はすぐに橋になっている。川は市街を縦断し、街を東西に分けている。交通の要となっている橋であるが、休日の早朝とあっては車もほとんど無い。
 代わりに、いくらか人の姿がみえてくる。
 コートを着込んで歩く人の中には、犬を連れている人もいる。冬の朝靄立つ川辺は、絶好の散歩スポットになっているからだ。
 橋の脇から川原に降りられるように石段が設けられている。
 それを下れば、ふたりの目的地はすぐそこだ。

 美魚が右手に持つケージが小さく揺れた。
 半透明なプラスチックでできた手提げ籠を、美魚はずっと右手に持って歩いていた。
 その籠が、こつんと音を立てる。
 中にいるものが、自分はここにいる、とでも言いたげに動いたからだ。
 美魚は空を見上げる。
 朝日が昇る直前の銀色に鈍く輝く空が見える。

 本当に良い朝だ。
 さよならを言うには──本当に良い朝だ。



 ことの起こりは、それより二週間ほど前に遡る。
 すっかり寒くなってきたにも関わらず、相変わらず美魚は中庭で昼食を取っていた。ケヤキの葉はほとんど落ちて、寒々とした枝を晒している。
 その下で、冬の柔らかな日射しを手元の灯りにして、美魚は本を読んでいた。
「直枝さん、別に付き合わなくても良いんですよ」
 その隣で、時折身を震わせながら、理樹はサンドイッチを相伴に預かっていた。
「…なんで、西園さんは平気なの?」
「集中力です」
 そう言って、視線を本に戻す。その言葉通り、分厚い文庫本を手にした美魚の体は揺れることもない。
「ふぅ」
 理樹は一息つくと、パンを千切って集まっている鳥に投げる。渡りの季節が来てから、中庭に姿を見せる鳥の顔ぶれも変わっていた。
 切れ端をついばむ鳥から何気なく目を離した理樹は、離れたところにいる一羽の鳥が目に入った。
 寄ってくるでもなく、餌を欲しがるでもなく。じっとうずくまっているその鳥の様子が気に掛かり、近づいてみる。
「西園さんっ」
 理樹の大声に、美魚が顔をあげる。
「どうしたんですか?」
「この鳥、怪我をしてるよ」
 理樹が見つけたのは、冬の初め頃から姿を見るようになったツグミだった。
 右の羽根の付け根から赤い肉を覗かせている。まだ生々しい。
「パチンコか何かで撃たれたんですね」
「…そう」
 校内にそんな悪戯をする生徒がいることが、とても悲しく思えた。
「どうしようか?」
 理樹が尋ねる。
「…ツグミは美味しいらしいですよ」
「えっ、そうなの?」
「昔は焼き鳥屋さんではツグミは定番だったそうです。…食べますか?」
「食べないよっ」
「ほんとうに?」
 美魚が少し首を傾げた。
「う、うん」
「…安心しました。現在ツグミは禁猟になっています。食べていたら、犯罪者になるところでした」
「そんな悪の道に誘わないでよ」
「誘ってはいません。試してみただけですよ。…合格です」
 ぐっ、と親指をつきだした。
 冗談めかしながらも、美魚も心配そうにツグミを抱き上げた。真新しいハンカチに血が滲む。

「直枝さんの部屋では、きっと井ノ原さんがうるさいですから」
 と、美魚が自分で引き取ることにした。それには理樹も同感だ。

「どうやら、骨は折れていないみたいですね」
 美魚の部屋で手当をする。
 消毒をする時に少し暴れたが、害意はないと分かったのか、ガーゼを当てる頃には静かになった。
「鈴から、これを借りてきたよ」
 理樹が持ってきたのは、猫を病院に連れて行くときに使うケージだ。
「猫の匂いがついているから、嫌がるかも知れないけど」
 そんな心配をよそに、ツグミは大人しく籠の中で丸くなっていた。
 ときおり首をもたげて、きょろきょろと辺りを見回す様子に、ほっとする。
「傷がふさがれば、また飛べるようになると思います。抉られているみたいなので、ちょっと時間がかかるかも知れませんが」
「そっか。良かった」

 鳥。
 この夏以降、その言葉は美魚と理樹に特に一抹の寂しさと、温もりを与える。
 ついこの前のことのようで、とても昔のことのようで、夢のようで、うつつのような。
 そんな不思議な出来事の中で再会し、そして別れた一人の少女のことを美魚は思い出す。
 今でも、この街に、この光に、この空に、溶けているであろう少女のことを。

 ツグミの回復は順調だった。
 ホームセンターで売っている小鳥用の餌を与えると、おそるおそるついばむ。
「栄養をつけないと、飛べませんよ」
 美魚は話しかける。
「早く治らないと、いけません。それには食べることです」
 スプーン山盛りに餌を乗せると、ツグミの前に差し出す。
 でも、ツグミは手を付けなかった。いやいやとばかりに首を横に振る。
「いやいや、ちょっとばかり多いんじゃないかな」
「…そうでしょうか。直枝さんに似て、食い意地が張っているのかと思ったのですが」
 そう言いながら、量を減らして水気を含ませてから、もう一度出すと、今度は手を付けた。
「早く、空に還らなくては」
 美魚が呟く。
「春になったら渡りの季節が来ます。その時になっても、まだ飛べないようだと置いて行かれてしまいます。それは、とても寂しいことです」
「そう、だね」
「かと言って、ずっとわたし達が面倒を見ることもかわいそうです。飛べるはずの鳥が飛べない。こんなちっぽけな籠の中で、人から与えられた餌を食べて生きていくだけなんて、そんなことは…許されません」
 スプーンをツグミの前に置いたまま、美魚は続ける。
「わたしは、少しでも早くあなたに空に還ってもらいたい。いえ…還らなくてはいけないんです。こんなところに居てはいけないんです」
 ツグミはそんな美魚の言葉を理解するはずもなく、少しずつ餌を口にしていた。

 一週間と半ばが過ぎる頃には、傷口はほとんど目立たなくなった。
 抉れていた肉も大分盛り上がり、ツグミは時々翼を動かすようになっていた。
「この調子なら、思ったよりも早そうですね」
「西園さんの手当が良かったからだよ」
 実際、美魚はよく面倒を見ていた。
 餌はもちろん、ガーゼの交換、その都度の消毒、またツグミが汚したケージ内に敷かれた新聞紙の取り替え等々。
「もう、少しです」
「うん、そうだね。早く治るといいね」
「…はい。そして、それはつまりお別れが来る、ということでもあります」
「…うん、そうだね」
 僅か一週間と少し、お世辞にも綺麗とも言えない地味な色をしたツグミでも、一緒にいて面倒を見れば、情も移る。
 寂しくない、と言えば嘘になる。
 だが…。
 やはり、飛べる鳥は飛ばなくてはいけないのだ。鳥が鳥であるように。還るべき場所がある者は、還してやらなければいけない。
 『あの子』のことを重ねている、と自覚している。
 ツグミはツグミに過ぎない。決して、『あの子』ではないのだ。そう美魚は自分に言い聞かせる。
 それでも、この街に、光に、空の何処かに『あの子』がいるように。…ここにいるのかも知れないとも、思う。

 そして、二週間が過ぎる。
 ツグミの傷は癒え、部屋の中でケージから出すと小さく羽ばたいては、タンスやベッドなどの高い所にとまるようになった。
「もう、大丈夫ですね。今は狭い部屋ですから、それに合わせた飛び方しかしませんけど」
 窓を開ければ、きっとそのまま飛んでいくだろう、と美魚は付け加えた。
 だが、理樹も美魚もそうしなかった。
 それが感傷であることを、二人とも分かっていた。
「明日の朝、放しに行きましょう」
 美魚がゆっくりと言う。
 それもまた、感傷の続きだった。



 橋の手前で美魚が突然、立ち止まる。
 そこの石段から川原に降りるつもりでいた理樹は、戸惑う。
 美魚は、坂の手前から橋の方を見上げていた。
 ちょうど上り坂が目の前にある。

「ここから見ると──向こう側に海があるような気がします」
 立ち止まったまま、ぽつりと美魚が言った。
「えっ?」
 理樹が問い返す。
 この橋の向こうには海なんて、無い。海はずっと別の方向だ。
「この坂をのぼれば、その向こう側には想像するすべてのものがあるように思えます」
 美魚は続けた。

 日本には上り坂と下り坂のどちらが多いか。
 そんなクイズがある。
 答は「数は同じ」。
 坂の下から見れば上り坂、坂の頂上から見れば下り坂。坂は坂だ。ただ、視点の違いだけである。
 その上りから下りに変わる瞬間、ちょうど坂の天辺は──世界の転換地点だ。
 つまり、境界線。
 こうして坂の下に立って、そこから上を見上げた時、その地点から先は見えない。
 坂はゆるゆると続いていき、そして──そこで途切れる。
 いや、まるで上っていけば、その頂上で空への一歩を踏み出せるのではないかと思えるほどに、アスファルトで舗装された灰色の坂道と銀色に光る空は繋がっているように見える。

 上り坂の向こう側には、何だってある。
 思えば、海だって見える。
 望めば、空だって飛べる。
 こちら側とは違う景色が、ある。

 先が見えない──とは、そういうことだ。

 突然、美魚が駆け出す。
 籠を両手に抱えて、中が揺れないようにしながら、緩い坂道を走る。
「待ってよ」
 理樹も後を追いかける。
 荷物を持った小柄な少女と、年頃の少年の差はすぐに縮まる。
 それでも美魚の速度は落ちない。
 息を切らしながら、百メートル以上ある坂道を駆ける。
 すぐ隣を、理樹も心持ちペースを落としながら、付いていく。
 傍らの美魚を見て、そしてその先を見る。

 坂の向こう側が見えてくる。
 なだらかにみえる稜線は、遠い山々だ。
 建物が並んでいる。赤い屋根、瓦葺き、アパート、木造、白い屋根、鉄筋。
 まだ夜明け前の薄靄の下に霞んでいる。
 そこには、自分たちと同じ人が住んでいる。
 名前があって、感情があって、学校へ行き、仕事へ行き、ときに喜んで、ときに悩む。

 橋の頂上で、美魚が息を切らしている。
「本当は知っています……」
 ゆっくりと、言葉を吐き出す。
「坂の向こう側にあるのは、…こちら側と…同じ景色でしかないことを」

 坂道を駆け上ったって、空は飛べない。
 頂上と空は繋がっているように見えただけで、本当は遠く遠く離れている。

 そして、朝陽が昇る。
 橋の正面の山の際から、太陽が顔を覗かせる。
 ひと筋の光が穿ち、銀色の空がひび割れる。

 美魚がケージの蓋を開けた。
 ツグミが顔を覗かせる。
 一度、二度、きょろきょろと辺りを見回す。
 そして、よじるようにして体を外に出す。
 蓋の上によじ登ると、ツグミは試すように翼を動かす。
 その様子にぎこちなさはない。
「大丈夫、もう飛べる」
 美魚が声をかける。
 久しぶりの外の景色に戸惑うように、ツグミはそのまま留まっている。
「せめて、あなただけは『向こう側』へっ」
 そうしてから、ケージの端を軽く叩く。
 ぴくり、とツグミが体を一瞬縮こまらせる。
 そして──飛ぶ。
 すっかり傷の癒えた羽根を羽ばたかせて、ツグミは飛ぶ。
 この二週間のことなど忘れたかのように飛んでいく。飛ぶことのできる者は、最初から飛べるのだから。
 美魚のことも。理樹のことも。振り返らずに、飛んでいく。
 小さな茶色い体は、すぐに眩しい朝日の中に溶け込んで見えなくなる。
「さようなら」
 見送った後、美魚は小さく呟いた。

 太陽は徐々に眩しさを失い、冬特有の雲の間に隠れていく。
 空は落ち着きを取り戻し、それに比例して少しずつ人出も増えてくる。
「ねえ、喫茶店でも寄っていかない?」
 帰り道、商店街を通りかかったところで理樹が尋ねる。
「………」
 黙ったまま、美魚が理樹を睨む。
「嫌なら別にいいんだけど」
「いえ、きっとわたしも直枝さんと同じ気持ちなのだと思います。…どこか心が興奮して落ち着かず、いつもと違うことをしてみたいという」
「…そんなに冷静に分析されると困るんだけど、ひとまず良いのかな?」
「はい。そう言っています」
「じゃあ…」
 と、朝から営業している喫茶店を理樹が探してきょろきょろしている。
 美魚は少し離れて、理樹を見ている。街を見ている。

 ツグミは去った。
 もう、二度と会うこともないだろう。
 でも、きっと忘れない。
 この空のどこかに、二週間をともに過ごした鳥がいる。
 世界の空を渡るツグミが見る景色は、自分たちが見るそれよりも、ずっとずっと広いに違いない。
 『こちら側』にとどまった自分の代わりに、どうか旅をして欲しい。
 そう、願った。