巡礼道は、国道299号線の下を潜る。「みぎ六番 七番」と刻字された道標石と、「札所へのみち 左八ばん」と刻字された道標石を見かけた。二基とも横瀬町が建立したものだろう。一基の裏面には、昭和五十年三月 横瀬村と刻字されていた。
「みぎ六番 七番」 「昭和五十年 横瀬村」の刻字
十字路にさしかかり右折した。左辻に「武甲山御嶽神社入口」の石柱が建っている。この道は武甲山への登山道になっているのかもしれない。御嶽神社までは厳しい登り坂が続き、歩いて4~5時間は掛かる距離だろう。
この武甲山御嶽神社は、もともとは修験者の神様、「武甲山蔵王権現」が母体になっている。明治の神仏分離令、一村一社令によって、旧横瀬村にあった神社五十余りが習合され、武甲山御嶽神社に改称されたのだそうだ。時を同じくして、全国各地に点在していた蔵王権現も、御嶽神社、金峰神社、蔵王神社などに改称されている。
「武甲山御嶽神社入口」の石柱
蔵王権現社の縁起によれば、日本武尊が東征したおり、山頂に武具を納めて関東を鎮護したことが開創とされている。欽明天皇の御代(539?~571?)になり、日本武尊を主神として、継体天皇(507?~531?)、安閑天皇(531?~535?)が合祀されたという。『新編武蔵風土記稿』の記述に、「蔵王権現社 武甲山の頂上にあり、除地三段、神主守屋越前吉田家の配下なり、所祭日本武尊、・・・略・・・、又所祭蔵王権現は、押武金日尊なり、又少彦名大男述尊を祭りしは、太神君より御奉納の御太刀を表して、繼體天皇を祭れるなり、・・・略・・・」とある。押武金日尊とは安閑天皇のことで、継体天皇の皇子である。少彦名大男述尊は、神話の世界に出てくる神様で、大国主の命によって、国造りに参加したと神様だと伝わっている。
第八番西善寺は、正丸峠越えの吾野通りから入って来ると、最初にお参りする札所になる。これを「八番始め」という。境内には、枝を広げた大樹が、新緑の柔らかな芽吹きを見せていた。コミネモミジと云うそうで、樹齢およそ六百年とのこと、県指定の天然記念物なっている。この大樹の下に六地蔵が祀られ、新緑の中に赤い涎掛けが際立っていた。
コネモミジの大樹
般若心経を唱え、御朱印を戴いて、暫らくのあいだ境内を散策した。第五番長興寺でお会いして、般若心経を唱和する羽目になってしまったご婦人、二人連れが帰って行った。車で移動されている様だが、歩いて回っている私のペースと、ほぼ同じだと云うことは、のんびりと時間を掛けながら巡礼を楽しんでおられるのだろう。後になり先になりして廻ってきた熟年男性の二人連れが、山門から入ってきた。すれ違いながら、互いに挨拶を交わした。そう云えば、卜雲寺で出合った白装束の団体巡礼さんは、何処へ行ったのだろう。
西善寺の山門
小さな造りだが、重厚な趣のある山門を後にした。門前の急坂を下り始めたら、リズミカルな太鼓の音が聞こえてきた。笛、太鼓、拍子木のお囃子に誘われて、脇道から小川を渡って、「武甲山御嶽神社里宮」へ入って行った。幸運にも、この日は4月15日で、太々神楽が奉奏される日だったのだ。
横瀬町のホームページによると、この太々神楽の起源は、文禄5年(1596)にまで遡ると云う。日下部丹波守が武運長久、五穀豊穣を祈念して奉奏したのが始まりだが、中断、再興を繰り返しながらも、今日まで伝わっていると云う。横瀬町指定有形民俗文化財になっている。
舞台の上では剣を持った武将と付き添う姫、翁が舞っていた。何と云う演目なのか分らない。近くに住む集落の人々が集まっていた。子供達が、はしゃいでいた。講中の人々が、神楽を楽しみながら酒を酌み交わしている。遠い昔、子供の頃、村祭りの神楽を、夜が更けるまで楽しんだ記憶が蘇り、郷愁が襲ってきた。またもや、老人の感傷癖が出て来たようだ。
太々神楽・横瀬町指定有形民俗文化財
御嶽神社里宮を出て丁字路に差し掛かかり、「札所への道 左九ばん 下る」と刻字された道標に従って左折し、坂道を下った。この道標石も横瀬町が整備したもののようだ。川に突き当たり、橋を渡り、案内札に従って民家の間を通り抜けたら、これぞ巡礼道だっ! と叫びたくなるような畦道が続いていた。しかし、僅か七〇mから八〇mの距離しかない。
「札所への道 左九ばん 下る」 これぞ、巡礼道
第二番の真福寺から納経所のある光明寺に向かう途中、コンクリートで固められた急坂な道を、勢いに任せて下ったのが良くなかった。左足のつま先を傷めてしまったらしい。横瀬駅に向かう途中に第九番明智寺が在るのだが、足指の付け根はじくじく痛んでくるし、電車の時間も気になるので、この日はお参りをしなかった。次回の秩父巡礼は、第九番明智寺から始めることになる。 (2013.5.4 記)