昭和50年に建てられた道標石 心求・はまの道標石「右三番道・左四番道」
通りの右側に集会所の様な建物があり、その広場に大きな自然石で二基の石碑が建てられていた。その一基には、「接取不捨」と刻まれ、もう一基には、「庚待塔」と刻字されていた。「接取不捨」は正しくは「摂取不捨」と書くのだろうと思うが、その意味は、佛はこの世に生きるものすべてを見捨てず、仏の世界に救い上げるという云うふうに説明されている。
「庚待塔」には、享保二十乙(1735)三月と刻字されている。「庚申塚」あるいは「庚申塔」と記されるのが普通だが、庚申を待つということから、庚申講が開かれる日を待つという意味合いが強い。「接取不捨」の石碑に、山田講中の文字が読めるので、この講の人達が寄進して建てたものだろう。この辺りは山田と云う集落である。
「接取不捨」と刻まれた石碑 「庚待塔」と刻まれた石碑
主要地方道熊谷・小川・秩父線を横切ってまっすぐに進むと、横瀬川に架かる山田橋を渡り、道は突き当りになる。左折して暫く歩くと右側に「三番道」と記された道標があった。これも心求・はまを願主とする道標で、元禄から宝永年間に建てられたものだと説明札にある。「三番道」の文字だけは読めるように白くなぞられているが、その他に刻まれている文字らしきものは、既に風化していて、さっばけ読めない。
心球・はまの道標石「三番道」
右手向こうに第三番常泉寺が見えてくる。右折して参道に入る。今から十三年前に訪れたときは田圃が広がっていたように思うが、その場所には新しい家が建ち、田圃はその先に追いやられていた。
常泉寺の観音堂は明治三年(1870)に秩父神社々地にあった蔵福寺の薬師堂を移築したもので、江戸後期の建築物であると説明されていた。三間四面の建物で、表には唐破風の屋根を設えている。江戸期の繊細な建築物として観賞する価値がある。
常泉寺観音堂
常泉寺の御詠歌は「補陀落は岩本寺と拝むべし峰の松風ひびく滝津瀬」である。常泉寺の別称は岩本寺だが、長享番付表では「第廿三番岩本」になっている。この御詠歌の冒頭に「補陀落」の文字がでてくるが、これは梵語potalakaの音訳で、インドのはるか南方の海上にあり、観音菩薩の住まいがあるとされ、極楽浄土を指すと云う。常泉寺の御詠歌に、なぜ「補陀落」が出てくるのか疑問に思って調べ始めたのだが、その関わりが全くつかめない。
中世には、観音信仰に基づき、熊野灘や足摺岬から小船に乗って補陀落を目指す「補陀落渡海」が行われた。信仰の世界であって、死期を覚った多くの僧侶達が海原に消えて行ったのであろう。僧は食料や飲料水と共に船底に入るのだが、その後、蓋をし、釘を打って塞いでしまうという。残酷な死出の行為である。九死に一生を得て、琉球に流れ着き、そこで布教に務めた僧侶の伝承が、今でも沖縄には残っている。
私の知る限りでは、補陀落山を山号にしたお寺が数箇所あり、いずれも一度は訪れている。
本堂の前に「子持石」なるものが置かれていた。高さが三十㎝ほどの自然石で、妊婦を思わせる容をしている。子供の欲しいご婦人が、この石を抱いて願掛けをすると子宝に恵まれるという。この石は寺宝だそうだが、その容を見て不謹慎にも思わず笑ってしまった。
寺宝「子持石」
(2013.4.21 記)