秩父巡礼・その動機
最初に断っておくが、私は特定の宗教団体には所属していないし、敬虔なる仏教徒でもない。それでも、西国三十三札所、坂東三十三札所、秩父三十四札所の百観音を巡り、四国霊場の八十八カ所を歩き、御府内八十八カ所のお遍路も終えた。これは、やむに已まれぬ信仰心から歩いたというものではない。あえて言うならば、体を痛めつけて歩くことが修行だという、私の信念のようなものがあるからだ。まっ、難しい理屈はない。知らない道を歩き、街角を回った先に展開される佇まいを思う。坂を上り頂上から眺める風景を思う。路傍の標石に歴史を思う。そんな好奇心を満足させるために、てくてく歩いている。歩いていると煩わしいことを忘れて、無心になっている己に気付くのだ。
概括的に言えば、日本は仏教国である。ただ、ほとんどの日本人には仏教徒であるという自覚はない。自らは信仰する宗教を持っていないと思っている。諸外国で、自分は無宗教である、なんて言ったら軽蔑される。神を信じない人には、モラルが欠落していると思われるからだ。だから、問われれば、私は仏教徒だと答えるようにしている。
秩父札所は、これまでに二度ほど巡拝している。今度は、江戸期の巡礼道を辿って、お江戸日本橋から歩いて見ようと思っている。江戸時代の庶民にとっては七日間の行程だったと云うが、今の私には、とても真似の出来る体力は無い。まず、完歩出来るかどうか、そっちの方が問題だ。
秩父巡礼・お遍路と巡礼の違い
これまでに、四国お遍路の記録と、東京お遍路の記録を冊子にまとめて友人に配ったが、「お遍路」と「巡礼」の違いは何だ、と聞かれることがある。私は、八十八か所の札所を巡るのが「お遍路」で、三十三か所の観音様を巡るのが「巡礼」だと区別している。ただ、広辞苑によると、巡礼は「信仰によって、聖地・霊場を巡拝すること」とあり、さらに「わが国では西国巡礼で知られる西国三十三所観音霊場の巡拝や弘法大師信者の四国八十八所回りの類。」と書いてある。
一方、「遍路」は「祈願のため、空海の修行の遺跡である四国八十八箇所の霊場などをめぐること。」と説明されていて、四国の霊場を巡ることは巡礼には違いないが、お遍路として区別されている。
また、ある文献(講座日本の巡礼・真野俊和編・雄山閣)によると霊場や寺院の本尊を巡歴する「本尊巡礼」と、開祖など宗派上の著名な僧侶や名僧とされる人物に関りのある寺院などを巡拝する「聖地巡礼」とに区分して、本尊巡礼は、我々が普段「巡礼」と呼ぶもので、代表的なものとして、西国三十三観音巡礼、坂東三十三観音巡礼、秩父三十四観音巡礼をあげている。一方、聖地巡礼には四国八十八ヶ所を例にあげている。つまり、著述の内容において本尊巡礼を「巡礼」とし、聖地巡礼を「お遍路」として区別しているのだ。まっ、私の解釈は大きくは間違ってはいないようだ。
秩父巡礼・観音巡礼の起源
そもそも、観音巡礼の起源はいつなのか。西国三十三ヵ所は、養老二年(718)に大和長谷寺の徳道上人によって設けられたという。伝承だが、病で仮死状態にあった徳道上人が、閻魔大王から三十三の宝印を与えられ、元気を回復した上人は、近畿地方の三十三ヶ寺に札所を開いたそうだ。しかし、上人の教えに耳を傾ける人々はいなかったという。上人は、やむを得ず中山寺にこの宝印を埋めたそうだ。中山寺は西国三十三札所の第二十四番で、私は平成11年5月に参拝しているが、今の本堂は、豊臣秀吉の世継ぎ、秀頼が家臣に命じて再建されたという、由緒の深い寺院である。
それから270年の後、平安時代中期の永延2年(988)、花山法王がこの宝印を掘り出して、河内の国石川寺の仏眼上人の勧めによって、性空上人、辨光僧正などを伴って三十三所を廻ったことから、三十三所巡礼が知られるようになり、以後、盛んになったとされている。しかし、これらは史実に乏しく伝承の域を出ない。
現在では、平安時代の末期頃から観音信仰が広まって、観音菩薩がその姿を三十三に化身させて、世の中のすべての苦しみから人々を救済するという法華経の教えに基づき、京都を中心とした観音菩薩を祀る寺院を巡る三十三所巡礼が成立したようだ。その創始者は、天台宗寺門派の修験者で、覚忠大僧正(1118~1177)とされている。
覚忠大僧正は応保元年(1161)正月に那智山を打ちはじめて、75日間を要して三室戸寺で打ち納めている。この時の巡拝記録は、古文書『寺門高僧記』に残っているそうで、史実では、これをもって三十三所が成立したと捉えている。
覚忠大僧正が最初に参拝したのは那智山で、今の西国三十三所、第1番青岸渡寺であり、境内から那智の滝を拝むことが出来る。打ち納めは三室戸寺と記録されているが、今では西国三十三所の第10番目に位置づけられていて、京都宇治市にある。巡拝した経路、たとえば寺院の名称や所在地の記録がないが、観音巡礼が成立したという事実は確認できる。しかし、当初から三十三ヶ寺が順序良く定められていたのかどうかには疑問が残る。手元の文献を調べてみても疑問に応えてくれる記述は見当たらない。
ただ、初期の観音巡礼は、貴族や僧侶の修行の場所であったから、三十三ヶ寺は必ずしも必要としなかったと思われる。現在のように和歌山県の那智山青岸渡寺から始まり、岐阜県の谷汲山華厳寺まで、三十三所が関西一円を順序良く並んだ巡拝コースが確立したのは、観音巡礼が一般庶民にまで普及していった室町時代以降のことであるようだ。
お伊勢参りが盛んになったのは江戸時代に入ってからだが、それ以前の室町時代にもお伊勢参りの習俗はあったのだろう。お伊勢さんにお参りして、那智山まで足を延ばし西国を一円して、最後に東国に向かう道筋にある谷汲山にお参りすると云うのは、コースの設定としては理にかなっている。庶民が三十三所をお参りするようになったから、今のコースが成立したのだろうと思う。
一方、坂東三十三所が開かれたのは、鎌倉時代になってからであり、鎌倉に幕府が置かれ政治、文化の中心が関東に移り、観音信者であった源頼朝が、坂東各地で勢力を持った豪族たちに有力な寺院を推挙させ、源実朝の時代になってから三十三札所として整備したのだという。この時から、西国と坂東が区別されて、西国三十三所、坂東三十三所と呼ばれるようになったそうだ。
坂東三十三所の成立について、確証の持てる史料は少ないが、福島県棚倉町の都々古神社が所蔵する十一面観音の台座に、「沙門・成辨が三十三ヶ寺の巡礼中、常陸八溝山観音堂に三百日参籠し、この間、都々古神社の別当に乞われ、天福2年7月19日(1234)大和長谷寺の本尊に模した十一面観音を造立した」、という銘文があるそうだ。ここでいう三十三ヶ寺とは坂東の札所を指しており、八溝山観音堂は坂東21番八溝山日輪寺のことである。このことから、鎌倉中期以前には、坂東三十三所は成立していたと解釈されている。
秩父巡礼・秩父札所の成立
『新編武蔵風土記稿 巻之二百四十六 秩父郡之一』に、秩父巡礼三十四札所の成立に関わると思われる次のような記述がある。長くなるが記録に留めて置きたい。
「・・・さて郡中所々霊場多ければとす
つまりは、播磨国書寫山円教寺の性空上人が、閻魔大王の招きによってあの世に赴き、法華経一万部を読誦して、地獄で苦しむ罪人を浄土に生まれ返させ、そのお礼に閻魔大王から多くの珍宝を授けられ、この世に帰されるときに衆生済度のために秩父巡礼を勧められ、文歴元年(1234)に13人の権者を伴って秩父巡礼を行なった、と書かれている。
これは、あくまでも何処にでもある縁起に過ぎない。史実として信頼するわけにはいかないが、十三人の権者として名前が上がっている、閻魔大王や、長谷徳道上、花山法王、性空上人は西国三十三所の縁起でも重要な人物として名前が見えるから、秩父巡礼の成り立ちは、西国三十三所の影響が大きいと判断できる。このことから、秩父三十三所は西国三十三所に付随し、写しとし開かれたものと思う。これは、あくまでも私見であるが・・・。
秩父巡礼三十四札所が成立したのは、文歴元年(1234)であること云う縁起は分った。しかし、史実として確認できる史料はほとんど無いようだが、今の秩父三十二番札所法性寺に長享二年(1488)に記された古文書として、秩父札所の番付表が残っている。文献(秩父巡礼道・埼玉県教育委員会・1992発行)で確認したが、そこに記された札所は三十三ヶ寺で、現在の順序とは大きく異なっているし、幾つかの寺院で現在の名称と一致しない。このことから、秩父札所の創立は室町時代中期推定されている。
秩父巡礼・秩父の山岳信仰
秩父は山岳信仰の聖地である。拙著「東京お遍路」の第60番吉祥院のところところで触れたが、境内に御岳講・御岳教の開祖と云われる普寛行者の供養塔があった。普寛が生まれたのは秩父大滝村(現在は、秩父市大滝)で、小鹿野町との境界に海抜千八百メートルの御岳山がある。普寛が開山したことは明らかであろう。普寛は、修験者として阿闍梨にまで進んだが、その地位を捨て諸国を行脚し、越後八海山、上州武尊山等を開山、寛政四年(1792)には木曾御嶽山の王滝道を開いている。
この秩父御岳山から近い距離に三峰山がある。どちらに行くにも、秩父鉄道の終点、三峰口が登山口になっている。三峰山の中腹には三峰神社があり、景行天皇の御世(71~130)、日本武尊が東征の途次、三峰山に登って伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと)の国造りを偲び創建したと云う伝承が残っている。また、伊豆に流罪となった役小角が三峰山で修行したと云う縁起も伝えられている。この三峰山信仰が広まったのは鎌倉時代(1185頃~1333)に入ってからで、東国武士を中心として山岳信仰、修験の場所として隆盛を極めたようだ。
三峰山の三つの峯は、妙法が岳(1332m)、白岩岳(1921m)、雲取山(2017m)のことで、一帯の山岳地帯を三峰山として総称している。三峰山と云う単独峰は存在しない。熊野三山である熊野那智大社と熊野本宮大社、熊野速玉大社を結ぶ参道には、大雲取、小雲取の峠道がある。また、熊野那智大社のほど近くに妙法山(749)があって、秩父三峰の地名と熊野の地名に類似点が見える。横道にそれるが、『新編武蔵風土記稿』には、雲取山を雲採と書いている。雲を手に採る程に高い山だということだ。三峰山信仰と熊野信仰、そして秩父巡礼の成り立ちとは、相互に深い関わりがあるようだ。
西武秩父線に乗って横瀬駅に近づくと、左手に海抜1304mの武甲山が見えてくる。山頂には武甲山御嶽神社がある。この御嶽神社は、修験道の神である武甲山蔵王権現社を母体にして、明治の神仏分離令、一村一社令により、旧横瀬村にあった神社五十余りが習合され、今の武甲山御嶽神社に改称されたものなのだ。
日本武尊が、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したと云う伝承があって、元禄時代(1688~1704)の頃から武甲山の呼び名が定着した様だ。新編武蔵風土記稿には、武甲山のことを、「・・・或は妙見山とも唱えしと云えどいぶかし・・・」とある。古くは妙見山と呼ばれていたのだろう。秩父夜祭りで有名な秩父神社は、もともとは武甲山を遥拝する聖地であったと考えられ、秩父における山岳信仰の中心的役割を担っていた。
西国三十三所が、熊野那智大社のある青岸渡寺から始まっている。秩父も山岳信仰の聖地であった。秩父三十三所が熊野信仰に影響されながら展開されて行ったことは、紛れもない事実である。
秩父巡礼・秩父札所の番付表
秩父三十二番札所法性寺に長享二年(1488)に記された古文書として、秩父札所の番付表が残っている。文献(秩父巡礼道・埼玉県教育委員会・1992発行)を参考に、そこに記された札所三十三ヶ寺と現在の三十四ヶ寺を比較してみた(別表参照)。
順路(以下、古文書に従って番付と云う)の違いだが、初期には秩父、旧大宮郷の中心に在った定林寺が第1番になっている。そこから周辺を巡り、だんだんと中心から離れて行き、地理的には一番遠かったと思われる第33番水込、いまの第34番水潜寺で終わっている。これは現在でも同じだ。
一方、現在の番付は、初期番付では第24番になっている四萬部寺が第1番になっている。これは、江戸期における秩父への経路は、熊谷通り、川越通り、吾野通りなどの「秩父道」があるが、川越通りが最もよく使われていて、四萬部寺から入って札所を巡って行くのが、地理的条件に適っていたからである。
初期と現在の寺院名を比べてみて気が付いたのだが、初期の名称が今の通称になっていたり、初期の名称が現在の山号に残っていたりして、長い年月の歴史が感じられて、面白いとおもう。
ここで気が付いたのだが、文献(秩父巡礼道・埼玉県教育委員会・1992発行)にある旧順路、第21番瀧石寺だが、現在は第19番龍石寺に名称が変わっている。いつの頃からか、瀧の氵が取れて龍になったのか、古文書を作成した筆者の誤りなのか、文献を作成した担当者のミスなのか、これが分からないのだ。『新編武蔵風土記稿』に書かれた縁起を読むと、明らかに龍が正しいと思うのだが・・・。縁起については、どこかで触れることもあろうと思うので、ここでは省略する。
秩父三十四札所・室町時代との比較表
室町時代 | 現 在 | 摘 要 | |||
順路 | お寺の名前 | 順路 | お寺の名前 | 所在地 | (別称など) |
第1番 | 定林寺 | 第17番 | 定林寺 | 秩父市桜木町 | 林寺 |
第2番 | 蔵福寺 | 第15番 | 少林寺 | 秩父市馬場町 | 蔵福寺 |
第3番 | 今宮 | 第14番 | 今宮坊 | 秩父市中町 | |
第4番 | 壇之下 | 第13番 | 慈眼寺 | 秩父市東町 | |
第5番 | 野坂堂 | 第12番 | 野坂堂 | 秩父市野坂町 | |
第6番 | 岩井堂 | 第26番 | 円融寺 | 秩父市下影森 | 岩井堂 |
第7番 | 大渕菴 | 第27番 | 大渕寺 | 秩父市上影森 | 月影堂 |
第8番 | 橋立寺 | 第28番 | 橋立寺 | 秩父市上影森 | |
第9番 | 篠戸 | 第29番 | 長泉院 | 秩父市荒川 | 石札堂、山号笹戸山 |
第10番 | 深谷寺 | 第30番 | 法雲寺 | 秩父市荒川 | 深谷堂 |
第11番 | 岩屋堂 | 第25番 | 久昌寺 | 秩父市久那 | 御手判寺、山号岩谷山 |
第12番 | 白山別所 | 第24番 | 法泉寺 | 秩父市別所 | |
第13番 | 西光寺 | 第16番 | 西光寺 | 秩父市中村町 | |
第14番 | 小鹿坂 | 第23番 | 音楽寺 | 秩父市寺尾 | |
第15番 | 般若岩殿 | 第32番 | 法性寺 | 小鹿野町般若 | 山号般若山 |
第16番 | 鷲岩殿 | 第31番 | 観音院 | 小鹿野町飯田観音山 | 山号鷲窟山 |
第17番 | 小坂下 | 第33番 | 菊水寺 | 秩父市下吉田 | |
第18番 | 童部堂 | 第22番 | 栄福寺 | 秩父市寺尾 | 童子堂 |
第19番 | 谷之堂 | 第21番 | 観音寺 | 秩父市寺尾 | 矢之堂 |
第20番 | 岩上 | 第20番 | 岩之上堂 | 秩父市寺尾 | |
第21番 | 龍石寺 | 第19番 | 竜石寺 | 秩父市大畑町 | |
第22番 | 神門 | 第18番 | 神門寺 | 秩父市下宮地町 | |
第23番 | 岩本 | 第3番 | 常泉寺 | 秩父市山田 | 岩本寺 |
第24番 | 四萬部 | 第1番 | 四萬部寺 | 秩父市栃谷 | 妙音寺 |
第25番 | 荒木 | 第4番 | 金昌寺 | 秩父市山田 | 新木寺 |
第26番 | 五閣堂 | 第5番 | 長興寺 | 横瀬町下郷 | |
第27番 | 大慈寺 | 第10番 | 大慈寺 | 横瀬町十六区 | |
第28番 | 坂郡 | 第11番 | 常楽寺 | 秩父市坂永 | |
第29番 | 明地 | 第9番 | 明智寺 | 横瀬町中郷 | |
第30番 | 萩堂 | 第6番 | 卜雲寺 | 横瀬町刈米 | 荻野堂 |
第31番 | 西禅寺 | 第8番 | 西善寺 | 横瀬町根古屋 | |
第32番 | 牛伏 | 第7番 | 法長寺 | 横瀬町刈米 | 牛伏堂 |
第33番 | 水込 | 第34番 | 水潜寺 | 皆野町日野沢 | |
第2番 | 真福寺 | 秩父市山田 |
秩父巡礼・秩父札所が三十四所になった背景
先にも触れたと思うが、観音菩薩がその姿を三十三に化身させて、世の中のすべての苦しみから人々を救済するという法華経の教えに基づき、三十三の札所が成り立ってきたと云う。それならば何故、秩父巡礼の札所が三十四ヵ所なのか、疑問が残るのだ。拙著「東京お遍路」の中で、西国、坂東、秩父を合わせて九十九箇寺ではキリが悪いし、苦渋苦を連想させるから、室町時代の知恵者が、一箇寺を加えて、切りの良い百観音にしたのだろう、現代のビジネスマンだったら、その宣伝効果抜群と云うことで、社長表彰ものだと書いた。これはあくまでも冗句で、実のところ、いつの頃から三十四所になったのか、またその背景には、どのような経緯があったのか、ずっと疑問に思っている。
文献(秩父巡礼道・埼玉県教育委員会・1992発行)によると、第34番水潜寺に残されている古文書から、秩父札所が三十三所から三十四へ移行したのは17世紀前半であると推定している。その背景には、江戸幕府の体制が固まっていく過程で、近世的な寺院体制として変化する時期と相まって、秩父巡礼の札所として生き残るために、新たな巡礼札所の体制作りが必要であったのではないか云う。つまりは、三十四所という数字を組み込むことによって、百所巡礼を全国的に周知させる必要があったのではないかと推測している。まっ、根っこのところで、私の発想とさほどの違いはないと思う。ただ、私は室町時代の知恵者が考えたのだろうと書いたが、初期の秩父札所は三十三所であり、三十四所となったのは、ずっと時代が下がって江戸時代になってからだと云うことだ。
これだけでは疑問が解けない。なぜ一ヶ寺増えたのか。文献を当ってみたが、史実として確認できる史料はない。一説によると、戦国時代の動乱期には、秩父に四十から五十もの札所を名乗る寺院があって、札所巡礼をする人々が混乱していたらしい。それを、関東を支配した小田原北条氏が西国札所、坂東札所に倣って三十三所に地統合しようとしたが、話し合いつかず、一か所だけ増やして三十四所で決着したそうだ。この話し合いを推進したのは、西国や坂東で修行を積んだ熊野修験者だと云うことだが、熊野修験者の中にも知恵者がいて、三十四所に統合して「百観音巡り」とし、それまでローカルな秩父札所を全国区の札所として売り出したのだと思う。
この説も、単なる伝承の域を出ないが、何だか、生き延びるために整理統合を繰返す今の企業の在り方を思い浮かべるのだ。前項の秩父三十三所の番付表で分かったのだが、最後に増やした三十四番目の寺院は、第2番真福寺である。秩父巡礼の札所として最後に生き延びた真福寺は由緒のある札所だというが、生き延びるためには熾烈な競争があったのではないかと想像する。
秩父巡礼・江戸からの道筋
これから江戸期の巡礼道を辿って秩父巡礼の旅に出ようと思っているのだから、巡礼道について詳しく調べておく必要がある。
『新編武蔵風土記稿巻之二百四十六 秩父郡之一』の記述の中に、次のような部分がある。
「・・・略・・・、郡中東西する往還三條、南北するも一條あり、東西する其一條は江戸より板橋へ出て、大宮・鴻巣・熊谷へ係り、茲より路を左へ折れて小前田・寄居・末野に達し、是より當郡矢那瀬・野上・金崎を経て大宮(註:今の秩父市の中心地)へ至り、・・・略・・・、是を熊谷通りと云う、又一条は江戸より板橋に係り、膝折白子を経て河越へ至り、夫れより比企郡高阪・小川を徑り、當郡安戸・阪本に係り、皆新田峠を踰て三澤大宮に至る、是を河越通りと云、・・・略・・・、又一条は江戸より田無・所澤を經て、飯能・上我野より小丸峠を越大宮へ至る、是を我野通と唱ふ、・・・略・・・」
つまり、江戸からの「秩父道」は、熊谷通り、川越通り、吾野通りが主な通りである。熊谷通りは今の道筋で云うと、中山道(国道17号線)の熊谷から長瀞を経て秩父に向かうコースである。
さて、どの道筋を選んで秩父巡礼の旅に出かけるのか判断に苦しむところだが、原則は途中での宿泊はしないことにして、朝に我が家を出て、その日のうちに帰って来るという、行ったり来たりの巡礼を繰返したいと思っている。だから鉄道に沿った道筋が良い。消去方で行くと川越通りは外れる。なんたって小川町から急坂な峠を越える30Km以上もの行程は一日では歩けない。途中でリタイアすることになっても、我が家までたどり着く交通手段がない。
その点、熊谷通りは概ね平たんな道程で、熊谷から先も並行して秩父鉄道が走っているからリタイアした時のことを考えても問題はない。だが歩く距離が長すぎる。と云うことで、熊谷通りも消えた。そこで、西武秩父線が並行して走る正丸峠越えの吾野通りを選ぶことになる。この場合、正丸峠を越えると秩父市の横瀬町に入るので、第1番四萬部寺にお参りする前に、第8番西善寺から参詣することになる。これを「八番始め」と云ったそうだ。
秩父巡礼・吾野通りの道筋
さて、吾野通りだが、田無から先の道筋は分る。だけど、江戸から田無に抜けるまでの道筋がよく分からない。御府内八十八札所を歩いた折、目白通り沿いの練馬区貫井5丁目で見かけた道標に「旧清戸道《所沢秩父街道》から東高野山長命寺《高野台3丁目》方面へと向かう旧道の分岐点建立された道標・・・」の説明があったのを覚えていた。ここに書かれている所沢秩父街道、つまり清戸道は概ね今の目白通り沿って続いていたのではないかと推測して調べてみた。
推測を裏付けるのに、さほどの時間は要しなかった。不忍通りが目白通りと合流する手前に清戸坂があって、東京都が設置した標識には目白台上の目白通りは、江戸清戸道と言った、と説明されていた。文京区教育委員会が設置した標識もあるが、さらに詳しく説明されている。
これらの標識の説明から分るのだが、清戸道は、尾張徳川家の鷹場が、今の清瀬市内の中清戸村につくられ、将軍もしばしば出かけて鷹狩をおこなっていて、そのために整備された道だったという。『新編武蔵風土記稿』の中清戸村のところに、「・・・村内にかゝること五町許、此邊すべて尾張殿の鷹場なり、明和の此まではかりの御殿など云もありしと云、」と書かれている。
今の清瀬市内には、上清戸、中清戸、下清戸、下宿(古くは清戸下宿と云う)の地名が見える。江戸期の清戸村は、豊かな農村だったと思われるが、『新編武蔵風土記稿』の下清戸村の項には、「平夷の地にて土性は野土黒土相交わり、水田はなく陸田のみなり」とあり、また、中清戸村の項には、「平夷の地にて土性は黒土野土皆畑なり、」と書かれている。
清戸道は、尾張殿が鷹場に向かうために整備されたと云うが、豊かな土壌で栽培された野菜を、市場である江戸に運ぶ農民のための道であったと解釈する方が理にかなっている。江戸に着いた農民は野菜を売りさばき、野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、荷車を曳きながら清戸村に帰って行ったのだ。当時の農民たちには、徒歩で往復できる距離であり、農産物の輸送路として自然発生的に成立した生活の道が、清戸道であると考える。
『新編武蔵風土記稿』の中に、前澤村として、「・・・北は上清戸村に及べり、東西へ十五町、南北へ凡五町、ここも平夷の地なり、土性は野土にして皆畑なり、かつ村内一條の往来あり、東の方南澤村より西の方下里村に達す、道幅三間、村のかゝること十五町許、是を秩父道と云、」と記されている。このことから、秩父道が、田無から上清戸村の南を経て、所沢方向へ延びていたことが分った。この道は今の所沢街道(東京都道・埼玉県道4号東京所沢線)と一致している。因みに前澤村だが、今の東久留米市に前沢の地名が残っている。
江戸の人々に倣って秩父巡礼道を辿ってみようと考えているのだが、それには、まずお江戸日本橋から歩を進めることにする。目白通り、つまりは都道8号線だが、九段下交差点が起点となっていて、そこから目白、練馬を経て練馬谷原の交差点から富士街道に名前を変え、田無で都道4号・東京所沢線に突き当たるのだ。田無を起点として所沢過ぎ、入間市から国道299号線を辿れば秩父に通じている。整理してみると頗る簡単な道筋である。
秩父巡礼、事前知識は整理できた。いよいよ歩き始めることにしよう。