カルメンと白磁壺
(W)

魁 三鉄

 

 「エスク・エル・ソン・フランセーズ? ノン・エル・ヌ・ル・ソン・パ。 レペテ・アプレ・モア・アンサーンブル・シル・ブ・プレ」

 「エスク・エル・ソン・フランセーズ? ノン・エル・ヌ・ル・ソン・パ」

 十人ほどの受講者たちがいっせいにフランス人教師の発音するセンテンスを追っている。教室に響く先生の声音は軽やかによどみなく、ときに喉を震わせ、鼻にかかりながら心地よく私の耳に溶け込んでくる。と、同時に美しい音のつながりがハープの弦に紡がれたように編まれ、教室の空気の中をリズムに乗って、純色に輝きながら転がり、壁の中に吸い込まれて行く。生徒たちの後を追う声音は一斉に弾かれた行き先のばらばらな子供の遊戯具のビー玉のように回転し、混色の不透明な色彩を作りながら弾けあっている。「もう一度」の指示の下に発音練習を繰り返すほどに、アンサンブルは揃い出す。

 私は金賢公との取引の申し出によって手にした「マンチラ姿のカルメン」に出勤時の毎朝、帰宅時の毎夕、対面するうちにこの作品の背景に一層興味をつのらせ始めていた。いくつかのピカソの評伝を読み、また作品カタログの解説項目を見るうちに興味が一層増し始め、しかもそれが増せば増すほどに、そして知ることが多くなればなるほどに、フランス語の必要性を感じ始めていた。これまでに正規のフランス語教育というものを受けたことのない私はすべてを英語からの類推によって処理していたが、複雑な動詞の人称変化や性、数への変化などへの理解がなければやがては大きな壁にぶつかるであろうことは容易に推測できたし、学ぶことが少しづつ増すにつれ大きな誤解をそれと気付かずに済ましてしまうことを恐れるようになっていた。そんなことから、心の抵抗はあったものの私としては一大決心をしてフランス語教室へと通うことにしたのだった。私は十二月から自分が勤める職場のほとんど隣り合わせに位置する大手語学学校のプログラムの中にあるフランス語会話の教室に通うことにしたのだった。学校は丸の内や銀座にも近いせいもあってか、いわゆる社会人OLがほとんどであった。彼女たちはみなエルメスやサンローランのスカーフを肩に巻き、カシミヤや毛皮のコートを羽織り、ソニアの色鮮やかなニットセーターを着、ルイ・ヴィトンのカルトシェールやノエといったバッグを肩に掛けていた。彼女たちは書籍の中からフランスを見つけるというよりは生活そのものの中にこそ書籍に現れる以前の、彼女たちを自然に曳きつけるものがあることを体で感じていた。彼女たちはそうした魅力をたくさん作り出せるセンスのあるデザイナーやパタンナーを多く排出しているのがフランスであるということを本能的に知る者たちであったかもしれない。軽薄とか、不釣合いとか言われても雰囲気としてあるシックというものはやはり洗練された素材とデザインとカラーの組合せからなる外装から整えない限りは所詮始まらないものであった。経済力に応じた購買力がフランスを自然に身につけさせて行くのだという自覚のない自信が彼女たちの間には備わっていた。デザイナーブランドにはデザイナーのセンスと才能といった個性がはっきりと映し出されており、それらはけして他の者によっては替えることのできない作品であり、その能力への共鳴がブランド物で身を固める購買者のパトロンとしてのセンスそのものを表しているといっても良かった。彼女たちは多くは自宅から通い、毎月二十万円近い可処分所得を持っていた。生活して行くに必要な衣食住への支出が不要な場合には美しいもの、良いもの、そしてユニークなものへと眼が向けられて行くセンスに溢れたお金の使い方を彼女たちはしていた。同じ金額の可処分所得を持っているならば、彼女たちは男たちよりも明らかにお金の使い方において人間の才能を讃え、心を豊かにするお金の使い方をしているように私には思われた。

 そんな女性たちの中に混じって、自分はこの学校の日本語科に所属しているのだと自己紹介した朴華(パクファ)がいた。私たちは話をするときにできるだけたくさんお互いに習ったフランス語を使うようにしようということにしていたが、習い始めてからおおよそひと月の中で身につけられた会話というものは三十か四十くらいの使用頻度の高い限られた表現にすぎなかった。日が経つにつれ、私たちはお互いを少しづつ知るにつれ、習っているフランス語の範囲ではとても話しきれないだけの話ををするほどにお互いの壁を取り除き始めて行った。

 そんな雰囲気の教室にはなってきていたが、それでも授業が終われば「あさっての晩に!」とか「来週ね」と挨拶をして、それぞれが三々五々と家路について行った。そんな程度の打ち解けた雰囲気のクラスであった中で本当に朴華が急速に親しみのある接近をすることになったのは十二月の最後の授業の中で、ある会話の応用練習をしたときのことであった。私たちは代名詞の使い方に関連した基本会話を習っていた。教科書に「何人姉妹ですか?二人です」という会話が載っていた。私たちはいつものようにフランス人の先生の後を追いかけ真似をした。他にもいくつかの違った代名詞の使い方を示した短い例文を反復した。その後、私たちは今習ったばかりの例文を基に応用練習をする課題を与えられたのだった。私と朴華は「あなたは姉妹を何人持っていますか? 二人です」という例題の応用をお互いにパートナーとなってする役割練習を与えられた。すると彼女はこのとき「ピカソは何人の妻を持ちましたか?」というつもりの問いを私に投げかけたのだ。私は少し首をかしげながらもとりあえず「七人です」と答えた。「セート」(七人)という答えが私の口から発せられた時、教室はどっと沸いた。すると彼女は一瞬瞳を輝かせながら、これまでにない親しみの増した笑顔を私に送って見せたのだ。私はその笑顔の中に「あなた、彼のこと、知っているわね」という無言の了解を認めることができた。「法律上は二人です」と英語の混じった答え方をした。私は、と同時に、先生に「法律上はフランス語ではどう表現するのですか?」とすかさず尋ねてみた。先生はニコリと微笑みながら「ピカソ・ア・ドゥ・ファム・レガルマン」と教えてくれた。先生の後について「ピカソ・ア・ドゥ・ファム・レガルマン」と私が声に出して言い終わった時、朴華は飛び上がって「素敵だわ」と言いながら投げキスの仕草をして見せた。その愛嬌のある茶目っ気に教室はまたどっと沸いた。

 その日の授業が終わった後、朴華は明るい笑顔の日本語で私をお茶に誘った。私たちは駅近くの喫茶店に入って始めてお互いを正面から見詰め合った。ボーイッシュに刈り上げたショートカット姿の彼女は雨上がりの太陽に輝く芝生の若芽のようなさわやかな感じがした。チータかピューマの毛皮模様のコートを肩から大胆にはずし、無造作に脇に置き、正面に座る朴華は馬具の柄のついたスカーフを衿から胸にかけて巻き結び、しっとりと柔らかく落ち着いた銀色の光沢を放つシンプルな絹のブラウスをまとっていた。ブラウスの第二ボタンまではずしているその着方がなんとなくだらしのない印象を最初は与えていたがこうして正面から見るその姿は妙に大胆で自由で伸びやかな印象に変わっていた。

 「きみはピカソが好きなの?」

 私はピカソを会話の練習素材にした朴華は必ずやピカソに強い関心を抱いているに違いない、会話を進める糸口としてはそんなところから切り出してみるのが一番良いだろうと見たのだった。それに彼女のピカソへの関心がどれくらいのものなのかをそれとなく知ってみたい気もしていたのだ。だからよそよそしい聞き方をするよりは気の置けない友達のような口のききかたの方がふさわしいと思ったのだ。

 「大好きよ。だって男らしいから……」

朴華はそう言って肩をすくめた。

 「どういうところが?」

 「だって写真を見ているだけでもぞくぞくしてしまうの!あの大きな眼、眼の光、獲物を狙う虎のようよ。全身が精力の塊のような男よ。ああいう男ならわたしだってついていっちゃうだろうな。ウフフ、ワー言っちゃった!こんなこと!」

 朴華はそう言って大きく口をあけながら椅子から飛び跳ねるような格好をしてあわてて両手を自分の口に持って行きながら手の中でまた大きく笑った。私も彼女につられて大きく笑った。

 「じゃ、闘牛の牛のように猛々しいのがいいんだ?!」

 「そう!ピカソって絵までたくましいでしょ?絵の具が垂れたり、筆が間違って付いてしまったのなんて全然気にしないで描いているでしょ!?あの人って!人間が自由なのよ!」

 「結構よく見ているんだね。君って。ひょっとするとコレクター?」

 「まだ始めたばかりよ。まだ数十枚ってとこ……。まだ勉強不足。もっと眼を肥やしたいな、私。だからフランス語始めたの。だってカタログもまともに読めないようじゃ、ろくな作品しか集められないでしょ!?やっぱり、彼の人生ドラマにあわせて重要な作品を選ぶってことが大切よね。……でもね、駄目なのよねぇー……」

 私はそのように答える彼女の声を聞きながら、同じような動機に支えられてフランス語を学ぶ人がまじかにいることに驚きながら、眼の前にいる彼女との奇妙な縁というものを心密かに喜んでいた。

 「へぇー、すごいや。でも駄目って? 何が?」

 私はだめなのよねぇー、とふと漏らした朴華の小さなため息混じりの呟くような声に興味をそそられた。

 「ひ み つ。フフフ」

 いたづらっぽく笑った彼女の顔の中に、私はわれわれ日本人が西洋の名画に対して示すのと同じような何かを彼女はひきずっているような気がした。

 「まあいいや。なんでも……猛々しい魅力か?」

 私はわざとそんなのは軽薄な共感だねという軽蔑のニュアンスを込めて好き話すような言い方をして彼女にむかった。

 「男の魅力はそこよ。強くなくでは。革命をやれる人ってのは強いからなの」

 「そうよ、革命ってのは既存の体系を破壊することよ。それもたった一人で……。政治の革命なんてインチキよ。あんなのは創造でもなんでもないわ。烏合の集まり。そうではないの。みんなが当たり前に思っているのとはまったく違う見方や体系を新たに創りだすこと、それが真の革命よ。壊しっぱなしではないわ。ちゃんとその後のものを一人の力で創っているわ。壊してから創るというより創ってしまうことが同時に破壊な訳ね。物騒な言い方かしら?だから、わたしって自分の国に合わないの。ドビュッシーも好きなの」

 「えっ!?ドビュッシーって?ぼくはあの「版画」とか「子供の情景」とかの作曲家のドビュッシーしか知らないけれど……?」

私は朴華の口から革命などという言葉が出た以上にドビュッシーという名が突然顕われたことに驚かされた。

「そう、彼のことよ。わたし、日本では今ピアノを弾いているの。日本語の勉強ってことにして本当はピアノを習っているの。本当はパリに行って習いたいんだけれども……。周りが許してくれなかったの。日本に来れたのだってやっとのことだったわ。ああ、思い出すのも嫌だわ。あんなところ……」

朴華はそう言って露骨に顔をしかめて見せた。その顔は正直に不快感を表していた。私は表情豊かな朴華の顔が一瞬のこととはいえ、憂鬱そうな暗い影に覆われるのを見たくはなかった。私にはまだ朴華へ感情移入をするような気持ちというものが湧いてはいなかったのだが……。

「話をピカソに戻そうよ。それとも話題を変える? ドビュッシーのことはまたいつか教えて、……」

私は彼女の一瞬垣間見せた黒点への興味よりはきらきらと輝くまばゆさに魅かれていたのだ。

「きみ、ピカソの作品をもっているって言っていたけれど、いつごろの作品?さしつかえなかったら……」

 「駄作ばっかり、ね。だって良い作品が出てこないし、それにお金は私が自由にできるわけでもないから……。千九百六十五年以降の油彩作品が三枚ほどよ。それに版画が数十枚ってとこかしら……。私の国にはまだピカソの作品群を見ることのできる美術館ってないんです。これって本当。いつか青の時代、ローズの時代、キュビズム……というように各エポックごとの作品を自分の国に入れたいわ。ようやく版画作品が少し年代順に集まりだしたというとこかしら……」

朴華はあっさりと言ってのけた。

「お父さんが買うわけ?」

「当ててみて?フフ……」

 彼女は首をすくめて愛くるしく瞳を回し、そしてさっき教室でしたように唇をすぼめて見せた。きれいに刈り上げられた後頭部の裾が活発なボーイッシュな性格を彼女に与えていたがこのときの朴華は妙に艶っぽく、私はキュートにそんな表情をつくるその仕草をいたずらっぽい誘惑と見るべきか、純真爛漫で奔放な乙女の自然な振る舞いと見るべきか困惑の情に包まれていた。

「当てるって?失礼な言い方だけれど、まさか、きみがそんなお金を持っているというのでもないだろう?誰かパトロンがいるの?」

「パトロン、ああ、いい言葉だわ。わたし、その言葉が思いつかなかったわ。パトロン、そうだわ。一種のね」

「というと、誰か政治家とか実業家がきみのパトロンになっている訳?きみって働く必要はないの?プロの演奏ピアニストとして?」

私は眼の前にいる奔放で伸びやかな屈託のない世間知らずのイメージにくるまれた朴華が金の鎖につながれたその手の女性であるとは思うことができなかった。先ほど垣間見せた一瞬の黒点はその手の女にみられる特有の隠花植物のような湿った日陰の屈折した男への感情から湧き出たものではなく、なぜかわれわれ日本人が併せ持つ、どこか同じ根を持つ深い感情から発せられているものだという感じがしていたからである。彼女の教室での伸びやかな笑い、素直な感情表現、明るい顔立ち、率直な表情……私には愛人などという言葉につきまとうくらい日陰に咲く花の属性を彼女の中に認めることはできなかった。

「わたしって悪い女かしら?」

少し上目遣いに私をチラリと見遣ったその眼差しには確かに相手の中に付け入る隙がある限りはそれを甘い蜜でとろかしこみながらやがて相手を腑抜けものにして行く小悪魔的な妖しさが光っていた。

「えぇー!どうしてまた?」

「わたし、婚約しているの。でも日本に来ている」

「それでどうして悪いわけ?まぁ、日本でも婚約していながら外国へ留学してしまうってのは確かにあまり聞いたことないけれど……。でもだから、悪い女、なんて言えないんじゃないの?お互いが理解しあっているなら全然……。もっともどちらかが結婚を嫌がっているなんて状況であるとしたら、ちょっと具合悪いけれどね。きみはそういう関係なの?フィアンセと。

「だって、わたしたちってお互いまだよく分ってないんですもの。彼は優しいわ。家族が寄ってたかって早く結婚しろ!って言っている中でわたしがまだ結婚には乗り気ではなくて、まだあれがしたい、これがしたい、と言っていることに反対しないで待っていてくれるんですもの。それに私がピカソ好きだってことを知って、それはお国にとっても大変価値のあることだと認めてくれていて、私に作品の選定を任せてくれてるんですもの。彼の一族は新興財閥として今注目されているの。だからお金には糸目をつけないわ。わたしが欲しいと言う限りはね。彼ったら本当にやさしいの。彼はモネの大ファンなのに……。私聞かないことにしているんですけれど、彼って、睡蓮の連作に魅せられているの。でもそういうのって分るのよね……」

朴華はなぜか私を昔からの旧友のようなつもりでフィアンセのことを語った。

「モネという画家はまた大変な画家だったみたいだよ。きみが好きな革命家と言っていいだろうね。ぼくは画風として印象派というのはあまり好きではないけれど、その光に対する敏感さというのはやはり天才のそれだと思うな。光の微妙な変化に応じた色彩の変化を見逃さないというのはやっぱりものを良く見ていたんだね。素直にね。素直に見るってなかなかできないんだな。よほどものに即しつつ、ものから自由でないとね」

「わかんない。わたし」

「きみってすごく幸せものだと思うな。モネのことはともかく、そんな優しい理解のある将来の人に恵まれて……」

「そうよね。わたしも本当にそう思うの。とっても素敵な彼よ。でも……、わたし、彼とパリに住みたいな。彼もいつかパリにあるモネの睡蓮の作品が収蔵されている美術館に行ってみたいんですって。でも、今の状況じゃ、韓国から離れるなんて夢のまた夢よ。彼がいなければ事業は進まないんですもの。東京に来て日本語を勉強するというのも将来の事業展開に必要だからという彼の入れ知恵でやっと実現できた訳。わたし嫌いなの。家族や一族のために自分の人生を犠牲にすることを当たり前のように思っている人たちに囲まれて生きて行くことが……。わたしって一人しかいないし、人間って他の誰にも代わってもらえない自分の人生を持っているということがわかってもらえないのよ。わたしの国って……。いやだわ。いやー!だってそうでしょ?イエスさまの教えはこの世の誰の言葉よりも重いはずよ。わたしの国って変なんだから!イエスさまの信仰に拠っていながら、家族や親族の名誉を一番大切にしているんですもの。変だわよ。絶対!変!」

朴華は少し興奮したのか身を乗り出してテーブルに両肘をついて脚を組んだ。テーブルの向こうに覗いた膝小僧の白い肌までもが興奮したように桃色に染まっているように見えた。彼女が素朴に受けとめた感受性の背後にある問題の深さとは裏腹に、私は足首をときどき揺らしているためか彼女の膝が揺れ動くたびにそれが私を妖しく招きこむような動きをしているように思われた。朴華はそんな私の心を一層刺激するかのように私が揺れ動く膝の動きに気をとられまいとして抵抗するのをあざ笑うかのように時々すばやく左右の脚を組替えた。そしてそのたびに私の視線が膝の動きを追いかけるのを確かめるとそれを勝利の悦びとするかのように微笑んだ。

「で、きみ、フィアンセとは全然会わないわけ?」

「そんなことないわ。三ヶ月に一度くらいは会うわ。彼がアメリカへ出張した帰りに東京へトランジットするようにしているの。この間会ったときピカソの良品を手に入れたと言っていたわ。見たいといったら、サプライジング プレゼントなので、中身は秘密なんですって……何かしら、わかる」

「さぁ?それはやっぱり直接見るときを楽しみにして待つことだね。それが一番だね。いいなぁ。きみって本当に幸せだよ。だって実現可能な愉しいい夢をたくさんもっているじゃない?!きみたちをしっかり繋いでいるものがあるじゃない!そういう二人ってのは最高だね。そりゃ、確かに家族とか事業とかってのは大変な制約には違いないけれど……。それにきみ、ドビュッシーを弾くんでしょう?!いいなぁ、ぼくもそんな彼女がいたらいいなぁ!いつかきみが演奏するのを聴いてみたいな。ピアノってレコードやCDで聞くのと実際の音で聞くのって全然違うでしょ?音の味が……。二、三ヵ月に一回ぐらいなんだけど生演奏のピアノリサイタルに行ってショパンとかフォーレとか聴くんだけど、違うんだよね。鍵盤をたたく音がなにか魔法の手から紡ぎ出されてくるような手品かなんか見せられているような気がしてしまってね。音を聞くと同時にピアニストがつくる音の空間の共有みたいなもの、一体感といっていいのかな?それがたまらなく好きでね……。いつかそんな空間の共有してみたな。きみの弾くときに」

私は率直に感じたままに語った。実際、朴華は髪型や体系は必ずしも私の本能的な欲求を満たすものではなかったが、その素直な態度は魅力的であったのだ。

「それほどの腕はまだないわ。いつかリサイタルでもする時には招待するわ。あら!もう十時半近くだわ今晩はこれくらいにしましょ」

手首を内側に返して腕時計を見つめた朴華は本当にあわてたように腰を浮かせた。

「ごめん、お互いに話しに夢中になってしまった。でも、楽しかった」

「わたしもだわ。また今度夕食でも一緒に食べながらおしゃべりしましょ!」

朴華は次の機会の約束をとりつけるとさっと席を立ち、コートを羽織るとチャオと挨拶を送りさっそうとファッションモデルのような足取りで店を出た。私は彼女が本能的に私を惹き込むタイプタイプでないことにホッとしながらもその率直な感情表現に好意を感じていた。けれどもそれはけして恋と呼ばれるものではなかった。理性の一切を無視させる、無条件に押し切ってくるそんな力が私のからだの行く先を有無を言わさずに強制してくる、そんあ魔力の存在を互いに体の中に認め合うということが私の恋の必要条件であった。本能的に魅かれる力で引き合うことをお互いに体で感じあい、認め合うことこそが私のいつわらざる女性との恋のアルファでありオメガであった。そんな立場からすると朴華はキュートな生娘ではあったが私の本能が引きづられることはなかったのだ。

ともかくも、私たちはこのようにしてフランス語の練習という以上の会話を交し合う仲と機会を得たのだった。このようにして二ヶ月が瞬く間に過ぎて行った。私たちは教室で、また週に一度くらいの割合で喫茶店に立ち寄ってはピカソのことやらショパンのことやらブーニンのことなどを、さらには韓国や日本の近代化過程の問題などやらと、雑多な話題を取りとめもなく交わしていた。私は試みに李朝白磁についても話題を出してみたが、彼女は日本の若い女性たちがそうであるようにマイセンやウエッジウッドの焼き物ほどには自分の国の焼き物に興味を持ってはいなかった。明洞(ミョンドン)のブティックのショウ・ウィンドウのなかにドレスやスカーフやコートを引き立たせるように並べられている皿やカップはやはりリモージュやロイヤルコペンハーゲンのそれらでなければならなかったのは銀座のそれらがそうであるのと同じであったのだ。私たちはあらかじめ決めたテーマを継続的に話題とするなどということはなかったが、お互いに取り上げる話題がいつしか二人に共通することへと向かって行くことをしばしば経験した。二月も半ばを過ぎた時、朴華は今度の日曜日は時間があるかと私に尋ねた。この頃の私たちはもう誰もが二人は恋人同士なのだろうと思うような慣れた二人の関係の雰囲気を持っていた。私たちが仲良く語り合い、喫茶店によることを不自然なことと思うものは誰もいなかったであろうと思われた。私は日曜日に一緒に夕食を供することを快諾した。

私たちは有楽町で約束の日曜日の夕方待ち合わせをして大通りからいっぽん入った昔ながらの落ち着いた小さな二階建てのフランス料理を専門とするレストランに入った。

ウエイターが食前酒の注文を取に来た時、朴華は

「ケ・ス・ク・ヴ・コンセイエ・ス・ソワール」(今晩のお勧めものはなんですか?)と私の顔を見て笑いながら尋ねた。ウエイターは一瞬戸惑ったように私の顔を見つめた。私は朴華の茶目っ気に慌てたが、ウエイターには食前酒は入らないが、ワインは辛口のハーフサイズのボトルをお願いしますと頼んだ。ウエイターがワインを用意しにはずすと朴華は

「日本のギャルソンはフランス語でオーダーをとらないの?」

と私に言った。

「だって、ここは日本のレストランだもの。それにご覧、お客さんだってみな日本人だよ。それなのにわざわざフランス語で注文をとるなんておかしいじゃない?。会話を練習するためのレストランとでもいうなら話は別だけれども……。英語喫茶というのは聞いた子とあるけれど仏語喫茶とかレストランってのは聞いたことないな」

「ウフフ……」

少し苛立ったような口調で朴華に応えた私を見て彼女はいたづらっぽく軽く笑った。

ウエイターが用意されたワイングラスに白ワインを注ぎ終わり席を離れると、朴華はいきなり、

「今晩は食事が終わったらあなたのところに行くわよ。だってわたし楽しみにしているの……。ねぇ、いいでしょ?!駄目って言われたってわたしついて行っちゃう……」

とフランス語で言った。

「……」

私はここはフランス語で応えるべきなのかそれとも日本語で応えるべきなのか、これはフランス語の勉強用の会話なのか、本気なのか、と迷った。どの応え方にしても後からあらゆる言い訳がお互いに可能な質問をする朴華のフランス語で発せられた質問をお腹の中で反復したとき、私はその態度を彼女の無邪気を装った高度の狡猾と釈るべきか、それとも跡からどんな説明や言い訳をも可能にする逃げ道を要した優しさと釈るべきか、と迷っていた。私が回答に迷う間に彼女はワイングラスを大きく傾けた。喉へ流れ込むワインの流れとは無関係に彼女の眼差しが私の反応を神経質に探っていた。

「君の言うとおりにしよう」

私は彼女の瞳を見てフランス語で短くそう言った。その瞬間ワイングラスを傾けたままの手を止めて、朴華の瞳が妖しく光った。私は黙っている間に、彼女のペースに乗れるところまでは乗り続けてみよう。そのためには言葉遊びに付き合わなければ……と心密かに決していた。

「わたし今晩楽しみにしているの……」

ワインが入ったせいであろうか、今度は日本語でわざと思わせぶった言い方をしてから愛嬌のある笑い声を明るく立てた。

「なにを?」

「きまってるでしょ。私がもとめているものがそこにはあるんですもの……。それをわたし手にしたいの。きっとよ」

よくしゃべる朴華の思わせぶった語り方に、彼女はいったい何を求めているのだろう……まさか……自問しながら頭の中にしだいしだいに絡み合いながらその姿をはっきりさせて行く炎のような妖しい映像を私は意識して首を横に振ることによって打ち消した。

「鯛の蒸し煮でございます。ソースの風味は生クリームとバター、グリーンマスターで料理したものです」

ウエイターのメイン・ディッシュの説明と運ばれたお料理のソースの香ばしい匂いが、それらがなかったとしたら特定の方向に向かって導かれて行ったであろう想像の世界から私を現実に連れ戻してきた。

「おいしそう!」

はしゃぐように朴華は皿を覗きこみ、ナイフとフォークを取り上げた。

「うん……」

私は想像の中断を運んだその料理に感謝すべきなのか、恨むべきなのか、どちらともわからないままに曖昧に返事をあわせた。いつしか私たちはとりとめのない世間話の料理をも一緒に食べながらニ品のメイン・ディッシュを終えていた。

ウエイターがデザートかフロマージュを、と最後の注文を取に来た時、私はフロマージュを、そして彼女は林檎のタルトを頼んだ。

「わたし、林檎が大好き。韓国にはおいしい林檎がないの。林檎ってそれにヨーロッパでしょ!?」

「え?わからない。どうして林檎が……」

「だってそうじゃない。アダムとイヴのお話知っているでしょ?それにギリシャだって林檎を巡る争いからできたわけでしょう?それにニュートンだって林檎で有名になれたのよ。林檎はみんな革命の導火線だったわけね」

「ということはウィリアムテルの林檎も……」

「ああそうだわ。わたしそれ知らなかった。でもそうだわ!」

「なるほどね。だったらセザンヌも確かに革命家だね?だって彼はよく林檎を描いたでしょ!ピカソは林檎で絵筆取った?」

「知らないわ。彼の静物画ってどんなのがあるの?」

「果物とか花とかがあるよ。あまり数は多くないようだけどね。でもぼくも知らない、彼が林檎を描いているかどうかは……。一枚、たしか梨みたいなのを描いたのが合ったと思うけど……」

そんなことをしゃべっているとやがて注文したタルトとフロマージュが来た。

「うわーっ、おいしー!軽くてとろけそうな甘さ、でもさっぱりしているわ。トシみたい」

朴華はその時初めて私をファーストネームで呼んだ。私はその呼び方があまりにも自然であったが故に危うく何の思いも持たずにやり過ごすところであったが、トシ!という音が余韻を残して耳の中に響きながらフェードアウトして行くとき、ふと、彼女は果たして私をファーストネームで呼んだことがあっただろうかと改めて自問したのだった。そしてすばやく彼女の表情を見た。けれども私の前の朴華の顔には林檎タルトに夢中になっている無邪気な乙女の顔しか認めることができなかった。私は朴華のつかみどころのない伸びやかさに苛立った。

 

「さぁ、一緒に帰りましょ!」

精算を終え、ドアの外に立つ私を溶け始めたオブラートのような声が包み込んだ。やはり忘れてはいなかったのだ。そしてただ口から出まかせを言ったわけでもなかったのだ。彼女にははっきりした欲しい何かがある。私はまた妖しい炎が自分の心の中にとぐろを巻き、くねり始めるのを感じ、密かにおののいた。

レストランを出て、最寄の駅へ向かう途中私は

「本当に来るの?何もないよ。君が欲しがるようなものは……。いいの?」

「だって、あるんだもん」

朴華はそういってから口をすぼめて、誘うような視線を流しながら笑ってコートを着た私の左の脇の下に彼女の右手をくぐらせ、それを自分の左手でしっかりとホールドした。冷たく硬い空気が頬を張り先で軽くつっつきまわすように刺していたが、私は彼女の熱い血がそのまま私の体の中に流れ込んだようにその瞬間頬と同時に腰の周りが火照り出すのを感じた。

 

電車で三十分ほどしたところにある私の自宅に二人で来てしまっていた。電車の乗ってからずっと私たちは腕を組んで電車の揺れるのに任せてお互いの体を寄り掛け合っていたが、私の住む駅から家までの間はお互いが一層体を寄り掛け合って足取りを不確かにもつれ合わせていた。これから起こるあらゆることがこの足並みのせいだということにできればすべてが楽になる、私は、婚約者のいる女性とこうして腕を組みながら不倫に等しい状況に身を置く現実の私を咎めるもう一人の私の銃弾から逃れる術はこの蛇行して逃れる、もつれた歩調しかないのだ、と言い聞かせていた。たとえそれは実のところ、モラルからの指弾を避ける逃げ口上に過ぎないと言われたとしても……。

「やっと着たわ。欲しいものの手に入るところへ」

朴華はすでに寝静まったあたりの静けさをわざと破るように戸口のところで叫んだ。

「もうみんな寝ている頃だから、そんなに大きな声を出さないで!静かに入って!」

私はあたりをはばかりながら、その実、私の中のもう一人の自分が眼を覚まさないように唇のところに人差し指を立てながら朴華をの袖を強く引き入れた。重く低く鈍いバターンという音がして、入る彼女をゆっくりと追いかけるようにドアが閉まった。

「ちらかったままだけど、勘弁して!だって前以て知らせていてくれれば、掃除だってしていたものを……」

「気にしないわ。全然。あがらせてもらうわ」

朴華は警戒という文字を知らない無邪気な子供のような態度で臆することなく中へと入った。入ると同時に彼女はコートを脱ぎながら自分お部屋のようなくつろいだ姿勢で断りもなくソファへ腰を下ろした。コートの動きと尻から落ちるようにソファへ沈んだ体の動きが空気を大きく揺さぶり、一緒に引きずった甘く立ちくらみを誘うような香りを部屋の中へと拡散させていった。

「良い香りだ。緊張をほぐすような柔らかい、ね」

誰に云うわけでもなく、私は低く呟いた。

「好きなにおい?」

朴華が上目遣いに私を見ながら短く尋ねた時、ソファは依然として突然の侵入者にびっくりしたようにまだ小刻みに揺れたままでいた。

「好きだ」

妖しく誘うような刺激が少しずつ体に浸透してくるのがわかった。浸透する刺激を受けて体が少しずつ膨らんでくるのがわかった。彼女の香りもまた光を浴びるに連れてゆっくりと開いてゆく花弁のように体温や室温の変化に微妙に反応し、刺激を発する度合いを強めながら、同時に一層しっとりとスムースに潤しているように感じられた。私は沈黙して目をつぶり、くらくらっとする甘いにおいの空気を大きく胸で吸った。眼をつぶった暗幕中でいきなり女がしなだれかかってきた。女は黙って眼を閉じ、顎をのけぞらせながら体を開放した。私は彼女を抱きかかえながらそーっとベッドへと進んだ。一枚また一枚と体を覆うランジェリーを剥いで行くスピードが速まるにつれ、ベッドが二人の重みに喘ぎながら軋んだ音を立て二人の動きに合わせてその喘ぐリズムを激しく速くして行った。

「何を考えているの?だめよ!わたし、わたしの欲しいものを探してから……」

私は、私の今見ていた瞼の中の世界を見透かしたような視線で私を見つめつつ笑う朴華の声で現実に帰った。彼女はソファから立ち上がり、二階へと通じる階段へと歩み始めた。私はその時の足取りの確かさにわたしの期待したものとは異なる彼女自身の意図を感じた。

「あったわ!わぁー、素敵!やっぱり!」

突然、彼女は二階へ通じる踊り場に掛けられたそれの前で叫んだ。素敵!という感嘆の声が喜びと驚きを素直に表していた。しばらく食い入るように彼女はそれを見つめていた。

「トシ!わたし、憶えていたの。三回目に喫茶店で話した時、あなたがしてくれたマンチラ姿のカルメンの話。わたし、あの時自分の家へ帰ってからレゾネを調べてみたのもしかしたらそれって私が狙っているそれとおなじではないか?と思って……。そしてきっとあなたはそれを持っているのだと思ったわけ。だから、わたし、それを自分の眼で確かめたかったの」

そう言われて、はじめて私はお互いがピカソの作品で好きなものは何かを話した時のことを思い出した。その時、私はその作品を所有していることには触れなかったし、またどのような経緯でそれを入手したかなどということにももちろん言及はしていなかった。ただ、あまり知られていない作品の中に意外とピカソの素顔や素朴な気持ちの覗えるような作品として私は「マンチラ姿のカルメン」を話題にしたのだった。

「ねぇ、いきなりでわるいけれど、この作品、私に譲ってくださらない?お金ならいくらでも出すわ。私これを是非国にもって行きたいわ。これまでに圧延的た女性の肖像画作品コレクションのなかの一枚に是非加えたいわ。お金は今すぐという訳には行かないけれども、許婚者に連絡をとってすぐに手当てするわ」

私は心の中で、話を交わす機会が増すにつれて、ピカソが導くこの不思議な縁を運命と感じていた。しかし、私はその作品が彼女の許婚者が一度手中にしたものであり、それを私が取引の中で手にしたものなのだ、ということは語る気になれなかた。私はもしかしたら金賢公がこの作品にまつわる不思議な運命を既に彼女に話してしまっているかもしれないと心密かに怖れたが、いま眼の前にいる彼女の様子からはこの作品が当事者のわれわれのんかで数奇なる運命を辿ってきたものであるなどということを知っている素振りは見られなかった。

「困ったな。欲しがる気持ちはよく分るけれど、ぼくだってこれはすごく大切にしているんだ。毎日見ているけど、表情が生きていて飽きないし、対話ができるんだよ……。コミュニケーションというのかな。それに門外不出というか、他の人には絶対渡さないことになっているんだ……」

私は「ノー」とはっきり言わなかったが、「ノー」というつもりで応えた。

「わたしとどっちが……」

少しすねたような声で身を軽くよじりながら朴華は振り返った。瞳が窓の外から差し込む月の光を受けてきらりと光り跳ね返った。

「……どっちがって……?それはどちらがっていう問題ではないよ……。名画というものはね、われわれがそれを選んでいるのではなくてね、名画の方が自分の行く先を選んでいるんだよ。もちろん時間はかかるんだけれどもね……。どうもそんな気がするんだ。だから近衛だって本当に名画だったら、いろいろな人々の欲とか思惑とか着たいとかをくぐり抜けて、今のぼくのところに来ているのかもしれないけれど、いつかはまた誰かのところへ引き取られて行くんだろうと思うな。それが君のところかどうかはぼくにもわからない……。だってそれを知っているのこいつしだけだもの……」

私は思わず体が彼女の方に寄りかかる衝動を押さえ込みながら、苦し紛れに答えた。

「わたし、どうやらカルメンにはなれなかったわ。残念!そうね。あなたの言うとおりだわ。今はやっぱり、あなたのものだわ。わたし、諦めた。でも大事にしてね。見たくなったらまた来るわ。いいでしょ?!」

「もちろんさ。いつでも歓迎する。約束できる。そして大事にする」

朴華はかれこれ三十分くらい私と会話を交わしながらときどきじっと黙り込んで作品を見つめていた。

突然、

 「彼女ったら、わたしにもう帰りなさい!だって……。そう言ったわ。だからわたし、今夜はこれで帰るわ……」

と私のほうに振り返りながら小さく叫んだ。

「じゃぁ、駅まで送ろう。慣れないところだし……」

私はなかばほっとしながら、少し寂しかった。

階段の踊り場に差し込んでいた鉛色の月の光が外に出ると一層冷たく肌に差し込むように光っていた。道行く路上を歩くにつれて、寄り添いながら歩く二人の影が砂漠を歩む二瘤駱駝のように伸び縮みを繰り返していた。駅舎が見えるところまで来た時、ホームには遅い電車を待つまばらな数人の客達が風の来る方向に背を向けながらポケットに手を突っ込み、同じところで小さく小刻みに足を上下に動かしているのが見えた。改札口まで来た時、ちょうど突風のような巻いた風をホームに叩きつけながら東京方面へと向かう電車が入ってきた。「チャオ!」と言って朴華が電車へ乗り込むのを見届けてから、私は今来た毎日の道を引き返した。

玄関を通って二階の自分の部屋に上がった時、カルメンが薄く微笑みながら妖しい光を眼から放ったような気がした。

「よかった」

自分の部屋へ入り、ベッドに寝ころばり天井に向かって一人呟くと、途端に疲れが全身を押さえつけてくるのを感じた。

 

<(X)へ続く>

戯作目次へ戻る

ホームページの先頭目次へ戻る