カルメンと白磁壺
(X)
魁 三鉄
咲き誇る桜花の海が甘酸っぱい匂いをその樹の下を通る者にかぐわせる候のある日、一通の分厚い国際郵便が私の元に届けられた。ハングル文字の切手がそれが韓国からの手紙であることを知らせていた。十二月から始めたフランス語講座は約三ヶ月のコースを終了し、四月からの再開を待っていた。私は朴華が一時帰国して時候伺いの手紙を書いて送ってきたのかもしれないと思った。型通りに差出人の欄に目を向けてみると封書の左上には金賢公の文字が眼に入ってきた。私は部屋へ戻り、その封書を開いた。そこには白い便箋にびっしりと書かれた日本語で書かれた手紙が入っていた。
拝啓 小原敏夫 様
こちら韓国ソウルはまだ身を斬るような冷たい風が時折吹きすさぶこともある今日この頃ですが、小原様におかれましてはまあすますご健勝のことと存じます。
また、お手元にある「カルメン」をはじめとしてピカソの作品を堪能されていることと存じます。
さて、このたびお手紙を笹日上げましたのは私はもちろんのこと、そしてこのことに、私は不思議と言いますか、なにか宿命的なご縁を覚えるのですが、私の妻までもが大変お世話になりましたことをご報告するとともに、そのご好意にお礼を申し上げたかったからであります。
私はこの一日に数年来結婚を約束しておりました許婚者と結婚式を挙げました。このことについては追って記して行きますが、まずはことの順序として小原様からお譲りいただきました私の手元にある白磁の壺のことから筆を進めて参りたいと思います。
私はあなたとお別れした後、その白ジツボをソウルの自宅にもって帰りました。その壺はなにしろ私が幼い頃から毎日抱くようにして、手入れをしつつながめていたものでしたから、たとい一時期私の元から離れていたとしてもやはりその感触は私の掌が忘れずにいたものでした。私は父や母、兄弟たちにも内緒で私の育った旧宅へとそれを持って行きました。私は自分の手の感触だけでなく、もう一つの私しか分らないはずのその壺であることの証拠を自分で確かめたかったからです。私は昔、その壺が静かに置かれていた棚に昔それを置いたように置いてみたのです。私は子供の頃から太陽の位置がこう変わると壺の輝く場所はどう変わり、またその輝く肌の光線を吸い、撥ね返す度合いはどれくらいかをじっと観察していました。何しろ毎日のことでしたから、そしてそれが二十年以上も続いていたのですから私なりにお天気の日、曇った日、雨の日、そして季節ごとの太陽の光などなど、それらがその壺にどう映るかといったことが自然と分るようになっていたのです。実は喫茶店でお会いしたその時にはそれについて何も申し上げなかったのですが、私の好きな画家は――ピカソはもちろんすきな画家の一人でありますし、その仕事ぶりについてはまったくすばらしい画家であることにはまちがいありませんが――あの睡蓮の連作で有名なクロード・モネでした。見つめる対象は違いこそすれ、自分と同じように同一の対象が太陽の光の位置や強さの度合いによって微妙にその色や肌を変えて行くということに深い関心を示した画家がいたということを高校生の頃に知ったことは私には大きな驚きであり、また喜びでもあったからです。当時の若気の自惚れた意識に従えば、私に言わせれば、私のほうがモネよりもさらに微妙に、しかも深く、太陽の映り具合、そして移り行く光の変化をとらえていたのではないかとさえ思ったものでした。なぜなら、私は一年中、ただ一定の場所に固定して置かれた壺の肌に眼を向け、そして色と肌の変化に集中していたからでした。ですからいつかは絵画作品を手にすることができるならばモネの作品、それも睡蓮の連作の一つでも、二つでも欲しいと思ったものでした。そのうち西洋近代絵画の様子が分ってくるにつれてモネの傑作を手にすることはもはや不可能に等しいということが分りました。なにしろ傑作という傑作はマルモッタン美術館にせよ、オーランジェリィ美術館にせよ、もうほとんどが二度と市場に出ることのない、収まるべきところに収まってしまっているということが分ってきたからでした。
さて、それほどに白磁の壺の光の変化の具合を体で覚えていたわけですから、今度の数年ぶりの再会のときでさえ、私にはまざまざと当時の記憶がよみがえりました。そして暫くのあいだ、昔あったその場に置かれた壺の肌の上の光具合を私は注意深く観察したのです。私は半日ほどの間じっと太陽の位置に応じて微妙に変化して行く壺の肌の色を見つめていました。壺は私の期待を裏切ることなく微妙に変わる光の移ろいをその肌の上へと映して行きました。やはりこれは間違いなく自分が大切にしていた壺であり、自分の恋人に形見の品として渡した壺であるということを確信したのです。
このようにして私はその壺が確かに私のものであったことを確かめる一方で、ではいったいどうしてこの壺が私の恋人であったその人の元から離れていったのだろうかと次なる疑問にとりつかれ始めました。
私の恋人であったその人の名は李美姫といいました。東京でお話した時には彼女の名前について触れたかどうかはっきり覚えておりません。あのときにもお話したとおり、私たちは一度は結婚を誓った仲でありました。そして後ろ髪を曳かれる思いで、切り裂かれるように離れていったことはすでにお話したとおりでした。私は自分の身勝手さを百も承知でなぜその壺が彼女の手を離れたのかを次第次第に知りたくなったのでした。壺の素性の確認に納得が行くと、次にはどうしてその壺は彼女の手を離れたのだ、という思いが強く強く心を覆い始めたのです。彼女が自ら進んで手放したのか、それともやむを得ずなにか手放さざるを得ない状況に追い込まれてのことであったのか、私は要らぬ世話とはおもいながら何かの運命に導かれるようにそういう疑問に心が奪われ始めていたのです。そしてあなたさまがおっしゃっていた「名品は自ら自分の居所を求めてそこに落ち着く」という言葉が脳裏に焼き付いて離れなくなっていたのです。
私は考えました。もし、李美姫が何か止むを得ざる状況によって、たとえば、経済的な困難という理由からその壺を手放さざるを得なくなってそれを手放したのであろうか?そうであるとしたならば、また私がそれを買い戻してから彼女に手渡せばよい。なぜならば、彼女の手放したくないという意志に反して手から離れてしまったのですから、それが再び手元に戻ってくることは彼女にとっては喜びとなるはずであったからです。その場合、白磁壺の戻し方は私が名乗り出てのうえでも良かったし、あるいはそtっと誰からの贈り物かわからないようにして再び彼女の手元に戻すという姿をとってでも構わなかったのです。実際、今度という今度は、場合によっては、何もかも捨てでも彼女に再会し、婚約中の見であることも省みず、そしていかなる世間からの指弾を浴びようとも彼女とともに身を隠してでも一緒になろうと覚悟したくらいでした。
けれども私はまた別のことも考えました。それは考えたというよりはむしろ自然に湧きあがってくる想いといった方がふさわしいものでした。それはあなた様が言われるように「壺が人を選んでくる」ということでした。結局、あなたさまを経て私の元にその壺は戻ってきたわけですから、その壺がやはり私を選んでいたのだ、といえる状況でした。確かにそこまでは……。それでいながらこれから記すように私はそれを私の手元に留めておくことがなかった訳ですから、最終的にはやはり私は壺に選ばれているという運命にはなかった、と云ってよいのでしょう。壺はもっと自分にふさわしい人を選んでいたのです。
私は、やはり李美姫はその壺を手放したのだ、私から心が離れてその壺を渡したいという気持ちになった人に出会ったに違いない、とおもったのです。そしてそれはきっと小原さんその人であると思ったのです。そう期待したのです。
私はあなたさまがどのような経緯を経て白磁壺を手にしたかをあえて尋ねませんでした。人の手を経ながら小原さんの元にたどり着いたと思うよりは小原さんと李美姫が何かの機会に直接会うことがあったのだろうと思うほうが私には喜びであったからです。なぜならば、あなた様と言う人がどのような人であるかが私なりにわかっていましたので、もし、李美姫があなたさまに心を寄せることがあったとしてもそれは私にもうれしいことと感じられたからでした。そしてもし、必要があるならば、もし欲するならば、けして後始末をあなたさまにしてもらおう、などということではなく、心から私はお二人に力添えができるならば……、と思ったのです。
私は迷いました。二重、三重の選択肢を用意しながら、私はそのどれに対しても全力を尽くそうと思いました。私自身の決断のために会おうか、それとも李美姫のここkろを寄せた相手はいったい誰であったかを確かめるためにか……。そしてそれがもし、あなたさまであることが判ったら直ちに気持ちを切り替え、あなたさまのために彼女に会うことにしよう……、と。私は慶福宮の池之端で別れた時以後、李美姫に会うことはありませんでした。私が事業に曲がりなりにもこれまで成功してきたのは、もしかしたら自分でも意識しないうちに李美姫を忘れようとしてのことであったのかも知れません。それほどに私は毎日朝から夜遅くまで仕事に没頭しましたし、アメリカにいるときにも経営大学院のケース・スタディに打ち込んだものでした。そして帰国してまもなくあるパーティの中で今の婚約者を紹介されたのでした。婚約者は世間知らずというのでしょうか、まことに自由で爛漫、私はその無邪気さに呆れたことさえありました。けれども美しいものを素直に美しいと言える感性の素直さや純粋なものへの非常に敏感な共感力を持っていることが少しずつわかりはじめ、その潜在力の豊かさを曳き出し、育てて行くことが私に与えられた役割と課題であるような気がして次第次第にいとおしさを増すようになっていたのです。彼女がヨーロッパの個人主義に共感し、個性と鋳物を尊重する生き方を求めていることに私は率直に感動し、私がそこまで徹して自分の守るべきものを守ることができなかった私の代わりに、そうした姿勢で生きて行く彼女を支えて行こう、それが自分にできる、若き日にあこがれた個人尊重思想への証なのだ、自分は消して自分の国の強制する価値観によって理想として学んだそれらのすべてを奪われてしまったわけではないのだ、青春の日に追い求めた人間の生き方としての理想というものはけして無駄なファッションではないのだ、という私なりの内面に宿る彼我の価値観の葛藤に一つの解答を与えていたのでした。
このようにして表面上はとにかく李美姫を忘れて生きてきたのでした。けれども、その壺が再び私の手元に来て以来、私は李美姫との別れがやはり私の心の弱さにあったのではないかという自責の念に駆られ始めたのです。また一方では許婚者へのいとおしさもましていたのです。私は知らず知らずのうちに、専門家を使って李美姫を探していたのです。彼女は私との別離のあと暫くして、彼女の家族からも身を潜めるようにして慶州へと赴いていることが判ったのです。表向きの理由は彼女が石窟寺院の坐像を研究するためだということになっていたのです。私にはそれが為の口実であることはすぐにわかりました。ともかく彼女は慶州にいることがはっきりしたのです。
そして三月の上旬、迷いに迷ったあげく、私は一人で慶州を訪れたのでした。自分の持ってきたこの壺がきっと自分の居所を見つけるだろう、きっとそれが答えを押しえてくれるだろう……、そう思いながら壺を持って訪ねたのです。その日はまた日取りが逆戻りしたような凍てつく寒さの襲った日でした。雨がときどき意地悪をするように横殴りに強く降りつけ、突風が束ねられた針先のように冷たく硬い空気を私のコートの上から体の中を刺しぬき通していました。私は車の中で広げ確かめた地図を思い浮かべながら慶州の駅から街の中へと歩き始めました。地図を思い出しながら私は碁盤の目状の二番目の通路を曲がったときのことです。三十メートルくらい先に年老いた老婆が体を前方に折り曲げながらステッキを左手につき右足をひきずりながらただひたすら下を向き、ぎこちなく歩いて行く姿が眼に飛び込んできたのです。アッ、それは確かにおかあさんだ!私は十数年くらい前に一度だけお会いした時の姿をおぼろげながら覚えていたのです。その当時はまだ、私と李美姫は結婚を約束していた訳ではありませんでした。
ソウルでのある日のデートでのこと、彼女の母親が私に会いたいという旨が彼女によって伝えられたのでした。私は彼女への気持ちをはっきり伝えるためにもそれはちょうど良いことだと思い、次の機会に喜び勇んで彼女の家を訪れました。その時私はその母親に突然こう言われたのでした。
「金賢公さん、このこと付き合うことはよしていただけませんか?この娘は私の言いつけを守ってけして最後のところまで心をあなたに開くようなことはありませんから……。あなただからというのはたいへん失礼になる言い方になるならば、男の方にはどなたにも……、そのように私は教育してきましたから……」
私はなぜいきなりそのような言葉が発せられたのか、当時はすぐにわかりませんでした。ただその声が娘への愛情と世間への体裁との葛藤に苦しみ、軋んだ悲鳴であることを悟られまいとして気丈に発っせられた、欲っせざる怒声であったことは確かなことでした。後からはその声には、世間の常識から見れば結婚を諦めなければならないような、そのような子供を不幸にして背負わされたとしても、世間から後ろ指を刺されるような生き方の指針や教育はしないで生きてきたのだ、けして自分たちが背負った不幸をさらに拡大するように他人にまで背負わせたり、あるいは条件に劣るそのことを隠すことによって、その娘を押し付けてうまくやったと取り澄まし、やり過ごすような許される狡猾さに身を任せたり、相手への思いやりの欠けた人生の歩み方をすることはないのだ、という悲しいプライドの響きが潜んでいたことがわかりました。交際の度が増して行くにつれ、なぜ結婚に迷うのかがわかって行きましたから。
あの時のおかあさんだ!まちがいない!私は確信して小走りに後ろから彼女に近づきました。私の足音が音を高くして追いついたその瞬間、私が李美姫のお母さんですね?と尋ねるのと同時に、彼女はその不自由な体を左手の杖でよろけながら支えつつ、後ろを振り向いたのです。彼女は私の姿を一目見て、自分の娘が将来をとりあえずは誓った恋人であった私であることにすぐ気がつきました。そしてただ黙って私を見つめました。私にはそれが果たしてどれくらいの時間であったのかわかりません。お互いがただ黙って見詰め合ったのです。するとその母親は大きな涙をただただ目から流すだけではありませんか、何も言わずに……。私はその瞬間、李美姫の身になにか重大なことが起こったということがわかりました。それはほとんど一瞬のことであったといってよいかもしれませんでしたが、また他方では私には非常に長いスローモーションのフィルムを一枚一枚湯栗と送っている光景のような時間でもありました。
「どうしました?おかあさん。美姫さんになにか?」
そのように尋ねながらももうそれはまちがいなく欲せざる悪い知らせであることはわかりました。私の、瞬間的に頭をかすめた、悪い予感は当たりました。
「いっちゃった!」
大粒の涙がぽろぽろと頬を伝わり垂れ落ちて行くのを拭いもせずに母親はただその極寒の路上に立ち尽くしながら私を暫く見つめていたあと、放心したように力なく一言こう発したのでした。私たちはいつのまにか手に手を取り合ってうずくまるようにして悲しみを分かち合いました。こらえていた悲しみが一度に堰を切ったようにあふれ出たのでしょうか、母親は大きな嗚咽を漏らし始めました。そしてよろけながら歩んで行くにつれ、その声は誰はばかることのない大きな鳴き声へと変わって行きました。彼女の住んでいたマンションの近くまで来た時、わたしたちの姿を見つけた親類の人々が私たちを支えにきました。そして母親は倒れるようにして今は亡き娘の元へとたどり着いたのです。
小原さま、あなたの国でもきっとそうであることと思いますが、お葬式のある家は悲しく静かなものです。昔は泣き人を雇い、大声を上げて悲しみを表したということですが、李美姫の場合はけしてそのようなことはありませんでした。ごく少数の内輪の人たちだけが寂しく静かに、沈痛にその死を悼んでいたのでした。ただただ頭を下げて黙って座っていたのです。
やがて、出棺の時が来ました。その時、私はとっさに頼んでいたのです。持ってきた白ジツボを彼女に戻したいと……。どのような事情でその壺は彼女の元を離れたのかを尋ねるために訪れたはずのこの訪問が彼女との永訣の時となるとは……。母親の同意を得て、その壺は彼女の元へと帰りました。否、彼女がその壺の中へと帰った、と言ったほうが適切というものでしょう。寒い風の突き刺す中を私たちは彼女の骨の納められたその壺を抱いて墓へと歩みました。冷たい寒風の中で火葬された彼女が壺を通して私を暖かくあたためてくれました。その時の暖かさは私たちが裂かれるようにして別れた慶福宮の池のほとりでお互いに抱き合った時の暖かさでした。その時、あなたさまが申しておりました「芸術的名品は自ずからその居所を求める」という言葉は真実であると実感しました。そのことによって李美姫はこそはその壺そのものの価値なのだと納得したのです。
さて、あなたさまかピカソ作品との交換によって手にした白ジツボをめぐる李美姫との件はこれくらいにしておくことと致しましょう。
というのは、それから数日後、突然、許婚者であった朴華が帰国したのです。事前に帰国する旨の連絡が入っていたわけでもなかったので少々ビックリしましたが、またうれしくもありました。帰ってきたときの朴華の顔がなぜか妙に艶づやしく、いつもにも増して輝いて見えたのはけして私の身内への贔屓目といったものだけではなかったことが後ではっきりわかりました。彼女はなにか心から自分の納得の行くものを得ていたのでした。私には喜ばしい意味で彼女がまったく別人になってしまったのではないかとさえ思われました。そのことは彼女の日本でのよき人たちとの出会いによってもたらされたものであることがわかりました。彼女は言ってみれば、わたしの国から脱出して日本でのびのびとくらしながらもやはり素朴な気持ちとしての愛国心というものは払うことができなかったようでした。彼女の言葉によれば、日本にいる間に将来のフランス生活を夢見てフランス語を習い始めたそうです。通った学校で彼女は一人の日本人男性と親しくなったということでした。その男性はピカソの名作を所有しているらしく、またピカソの生活や評伝にも精通していたそうです。彼女はそのピカソについてお互いが識っていることを語りあったということでした。そうした会話の機会をもつことによって彼女はあこがれたピカソについてたくさんのことを知ることが出たそうです。そしてそのことをたいへん喜んでいます。今日も私たちはまた彼女がその日本の方から教わったという事柄をクイズのようにして私にためし、私は答えることができずに一本取られてしまったという次第です。
このように彼女はピカソのことを私以上に、そして昔の彼女自身よりもはるかにもっとたくさん識るようになったことは確かなことであります。私にとっても本当にうれしいことです。
けれども、私の眼から見て彼女はもっと生活に根ざしたレベルで成長したような気がしてなりません。生活のレベルという表現は少々抽象的な曖昧な表現なのですが、んまにか以前の彼女にはなかった心のゆとりといったらよいのでしょうか、求めるべき理想というものを見失わずに、それでいて現実の中で仮に思うようにならないことが身の回りに発生しても、それらを柔軟にとりこみつつ、かわしながら自分の求めるものを少しづつ追い求めるというような、かなり大人の雰囲気を体全体で身につけ始めているというような感じがしてならないのです。これは私にとっては驚きには違いないのですが、けれどもたいへんうれしいことでありました。
私自身、自分の国に根強く残る、西洋的な価値に照らしてみるところ反近代的である処々の事柄に対して青春時代から随分と抵抗を感じたものでした。人間のひとりひとりが自分の世界を確立し、自分自身の価値観に照らして現実の生活の中でぶつかるさまざまな出来事を位置付けながら、求める理想に向かって生きて行く、という生活観のすばらしさを思ったとき、私はやはり西洋社会の合理性と個人の尊重という思想は私の理想とすべきものだと思った次第でした。韓国の若者たちの大部分は多かれ少なかれこうしたヨーロッパやアメリカのような生活を夢見ているといっても過言ではありません。
けれども、私は李美姫に対する愛情尾を貫くことができなかったということによって祖国の価値観に強いられた選択の道を採ってしまいました。私自身の生活を追い求めつつも、ぎりぎりのところでは家族や血族や地縁というものに逆らうことが出来なかったのです。そんな自分でしたから、私は朴華がわがままな世間知らずの箱入り娘と口さがないひとびとの俎上にあがることが多いとしてもできるだけ蚊のjyの自由を尊重するように努めていたのです。たとい、周りの人々からそんなにわがままな生活を許婚者にさせていては祖国の体制を担って行く家庭は形成できないではないかと暗にお叱りを受けたとしても……。実際、そうした国を思う気持ちから発せられた親切な忠告も再三再四ならずとも受けたものでした。けれども、私は朴華にそうした周りからの声を頼みとするような愛国的教育は一切採りませんでした。私は今度という今度はもし朴華がフランスに行って生活しましょうよと誘うならば祖国での事業はある程度犠牲にしてでもわれわれの世界をフランスに作ろうと心に決めていたものでした。けれども、どういうことなのでしょうか、既に記したように彼女は自ら、それもこと改めてというような構えもなく、わが祖国への柔軟な対応をとり始めたように私には見えるのです。彼女が変身している自分の姿をどれだけ客観的に見つめているかはわかりません。そしてなぜ、彼女がそのようになっているのかを彼女自身自覚していないかもしれません。ただ、同じアジアの国の人の中にも個人の自立という価値観の確立にとってさまざまな障害となる現実に囲まれながらもなお、そうした現実を受難に取り込みながら自分の理想とする個人の自立をベースにした社会の構築を求めている人が彼女の身近にいたということを知ってすごくショックを受けた、という話がありました。その人はピカソをよく人であると同時に福沢諭吉や内村鑑三という偉人のことをよく話の引き合いに出したそうです。ヨーロッパやアメリカに遅れて近代国家を形成した日本に日本国への愛国心を保ちながら個人の独立を説いた人がいたということを彼女は身近な日本人の友人を通して知ったという……でたいへん大きな影響を受けたようでした。そのピカソをよく知るというその男性は女性もまた男性同様に社会的には平等に扱われるべきであることをごく自然に生活の中で尊重していたということでした。彼女はピカソを通して本当に豊かな体験をあなたの国で得ることができたのだと思います。
私の国に今なお根強く残る封建的で閉鎖的な家族主義、地縁、、血縁主義抵抗するあまり、かえってただヨーロッパやアメリカへの盲目的追従をしがちなわれわれにとって真に個人の意思や考え方をお互いに尊重しあう気風というものを国民がごく自然に備えるにはまdまだ長い年月が必要であることは言うまでもありませんが、私の許婚者そして身近な人々が私の理想とするような方向で祖国の近代化に向かう姿を見ることが出来るのは本当に幸せなことであると思います。
そしてなによりもそこに不思議な因縁を感じたのは、彼女が名画といわれる作品を見ることによってなえか自分が帰るべき場所をその名画が自分に語りかけた、と彼女が私に話したことでした。彼女はそのピカソに詳しいい友人に招かれて彼の所有するピカソの作品を拝見しに訪れたそうです。その作品は「マンチラ姿のカルメン」であったそうです。その話を聞かされた瞬間すべてがわかりました。
しかしなgら、その作品が取り持った私とあなたさま、そして私の老いまでは伴侶として落ち着いた彼女との事柄については私は何も口にすることはありませんでした。私もまた名画の取り持つ人の縁というものを本当に強く感じました。そしてまたそれは人に選ばれるのではなく、名品自身が生命を持って人を選ぶのだとも実感しました。
というわけで、あわただしいひと月をなんとかやりくりしながら私と朴華はつい五日ほど前に結婚しました。おかげさまで私たちは家族屋友人、知人等に盛大に祝福されて結婚することができました。そしてなによりもうれしく大切なことは私たち二人が求める理想に於いて強い理解と共感をもちあっていることを確信できた上で結婚できたことでした。これもひとえに小原さまとのご縁によるものと心から感謝している次第です。
明日、私たちはハネムーン旅行としてパリへ旅立ちます。私はフランス語はまったく駄目ですが、日本で学んだ妻のフランス語に大いに期待しています。パリには訪れるべきところがたくさんありますが、私たちはまずピカソ美術館を訪れ、さらにはモネのあるマルモッタン美術館を訪ねてみることにしております。
それではまた近いうちに日本での再開を楽しみに致しております。その時までごきげんよう。寒さ厳しき折、くれぐれもお体にはご自愛のほどを
一九九〇年年四月五日 敬具 金賢公
長い手紙を読み終わると、私はほっと一息ついた。すると濡れていた頬の肌が乾いて少し突っ張っているのを感じた。急に顔を洗いたくなったので私は書斎を離れて階下の洗面所へと向かった。階段の踊り場でふと眼を遣った「マンチラ姿のカルメン」がその時ニッと笑った。
<了>