カルメンと白磁壺
(V)

魁 三鉄

 

 十月下旬の日差しが曇りガラスを通して玄関の奥深くほんのりと差し込み始めた頃のとある日、帰国してから無造作に玄関の下駄箱の上に置かれていたあの美姫に贈られた白磁の壺がその淡い光に人恋しそうな、それでいてしっとりとした落ち着きのある、親しみ深い表情を絶えずうかべていることにふと気がついた。

 その日は日曜であった。読書に疲れた目を少し休めようと私は書斎から降り庭へ出て、その実を柿色に濃く染め始めた分だけ生き生きとした張りのある緑を失い、その一部をワインレッドに、またキャメルに染め、歪みの度合いを増して行く葉をつけた柿の木や、人の手の握り拳ほどの大きさの実を濃い緑の葉の間から鮮やかに光り輝かせている蜜柑の樹などを眺め、いっときのくつろぎを求めていたその時であった。太陽は既に西に大きく傾き、西の方には薄い茜色をした低い空と水浅葱(みずあさぎ)の高い空とがともに澄みきった空の中で居所を争いながら、やがて茜が水浅葱を寄りきって行くちょうどその頃のことであった。秋の心地よいそよと吹く風がときどき柿の木やユーカリの樹の枯葉をゆっくりと二枚、五枚と空中に舞わせながら地の上へコラージュを施していた。私はひとしきり身近なところで移り行く空気の流れに身を洗い終わり、玄関に戻った時、ふと白い壺がそっと暖かい微笑を浮かべたように感じたのだ。眼を凝らして見つめる私の先にあるそれは曇りガラスを抜けて差し込む光をやわらかく穏やかに、半ば吸い込むようにしてそっと射ね返していた。心のなごやむ落ち着いたほのかな輝きが詫びた雰囲気を醸し出していた。なにか体の芯が揉み溶かされたような心地よい弛緩が感じられた。見つめているとおのずと美姫のことが思い出された。笑顔の陰に時として浮かんだ寂しそうな表情の方が、なぜかあの石窟庵にたどり着いたときの喜びの顔よりも私には印象強く思い出された。そっと壺に手を当てたとき、背中の上にぴたりと張りついていた柔らかい美姫の胸肌と壺の感触が確かに重なり合っているのを感じていた。

 しばらく手にとって白磁の壺を見つめていると、帰国したときに箱から取り出したそれを、はて一体どこに置こうか、と迷った時のことが思いだされた。手にしたそれは高さが約二十センチ、底の直径が十二センチ、胴の部分が十四センチ、そして首の部分が十二センチほどの、蓋のついたただの白い壺であった。大きさの割にはからっとした軽さが手の中に意外感として残っていた。肌触りがしっとりと、木目細かく、掌に馴染むようにぴたりとつき、艶を消した肌が柔らかく優しい光沢を穏和に放っていた。あいにくとそれまでは私は陶磁器については関心もなく、むしろ私のようなテニスや野球やらといった動的なスポーツを好む人間にとっては陶磁器への関心は年寄り臭い枯れた趣味の世界のことでしかなかった。自分の周りを見回したところで、職場の若い同僚たちはブランド物の服や袋物そして靴などに詳しいカタログを持ち、またそれらを愛用していたが、それらは皆ヨーロッパやアメリカのものであり、東洋への古美術への関心を示すものではなかった。少なくとも表面に見える姿はそうであった。いきおい陶磁器や食器の類に趣味を持つ人がいるときいても大概はウエッジウッドやリモージュといった洋食器を趣味にしているのが常であり、また和食器に詳しいといわれる同僚もせいぜいお茶の稽古で使う茶碗の類に趣味を持つというほどのものであり、それとても道具としての茶碗自体に特別詳しいというものではなく、一通りの茶道具への常識としての知識を持っているという程度を超えるものではなかった。私が韓国への旅行の折り、白磁の壺をお土産にしてきた、と言ったところで格別の関心を示すものがいなかったとしてもそれは当然過ぎるほど当然の私の日常環境であった。私は考えることもなく、たまたま玄関の一角にある茶褐色の肌を晒している下駄箱の上の殺風景な空間がちょうどその壺を適切におけるスペースに思え、一枚のアラベスク模様の入ったこげ茶色の敷き布を下にそれを無造作に置いたのだった。光や色彩や空間のバランスという本来装飾に必要であろう事柄のすべてにたいしてまったく無感覚のままにただ何気なく置いたのだった。ただ、もし壺に心があるとするならば、幸せを感じたであろうと思われた事はといえば、それが毎日私の出勤と帰宅の折々にかならず目に触れらルところにあったということであろう。それでも不思議なもので、何気なく置いたそれはただ無心にそこに置かれていたのであり、私は毎朝、毎夕と見ていたはずなのに、その壺を記憶にとどめて見ることはなかった。

 

 いつのまにか、旅行から四ヶ月が経っていた。その間に一度として気づかずにいた私のこうした無感覚は、実のところ臨界点を越えるまでは一切前触れのない火山の噴火のように、その関心というエネルギーを潜伏させたのかもしれなかった。その後の壺への関心の示し方はそう考えない限りは説明のしようのない、ある意味では異常な関心となっていったのだ。美姫から贈られたというそのことが私にとってその壺への愛着の根拠となっていたことは間違いないことであったが、やはりその壺自体が私に関心を引き起こさせる内にある力を持っていたのだろう。

 私はその時以来、初めて白磁壺というものに意識を持って接し始めたのだった。不思議なものでひとたび興味を示し始めるとそれはさまざまな表情をまるで生きている人間のように、もっと言ってしまえば、美姫そのもののように示し始めた。私はまず頭で知識を得る必要があった。早速本屋へ行き、白磁に関する、それも特に朝鮮白磁を集中的、専門的に扱った書を求めた。朝鮮の白磁器というものは高麗青磁の後の李朝期に特にはぐくまれたという常識すら欠いていた私は、朝鮮の陶磁器の歴史から、その特徴などをまず一通り学んだ。時代ごとに微妙に変化していった壺の形や生産地などの知識を身につけたと自分なりに思えるようになったのはそれから更に一月くらいを経てのことであった。ただ、私の知識はもっぱら図録や図鑑の開設や写真によるものであっただけに、自分が唯一手にしている美姫にもらった壺と比較して、それらがどのように異なっているかというようなことを手肌で感じ分けるというようなものではなかった。

 壺は大きさから受けるイメージほどには重くなく、壺の厚さもどちらかといえば薄い感じがした。肌はしっとりとした輝きと手触りがして手を当てたばかりの時には少し掌にひんやりとした感触を与えたが、数秒もすると肌のぬくもりがそのまま時期の肌となっているようにほんのりとした温かみを持ち続けた。形は口辺が一センチほどの高さで肩から胴の辺りまでが高く張り胴から腰にかけてのラインが引き締まってすぼまっていた。ものの本に拠ればそうした壺の形は李朝の中期の壺の特徴を備えていた。ただし、その壺はどこにも滲みや汚れのようなものがなく、私にはごく最近つくられたばかりのものというような感じが抜けなかった。そもそも高麗青磁や朝鮮白磁の美というものは日本人によって発掘、評価されたということからしてその美は私たちにとって受け入れやすいものであったが、それでも安宅コレクションや松岡コレクションのようなものを機会あるごとに観て、眼をつくって射ない限りは、その真価は測りかねるというのが自然であった。実際、本からの知識習得後、おっつけ出光美術館などに行ってさまざまな陶磁器をガラス越しにではあったが、実際に観て眼を肥やしたつもりではあったが、結局のところは私にはそれがいかなる壺かを判断することはできなかった。新しいものか古いものかを判断する科学的な分析機器の類の使用などはまったく期待できないコレクターにとてはただひたすら良い本物を手にとって観るということだけが眼を肥やす唯一といってよい方法であるというのは本当であった。そしてそのような贅沢は時間とお金がかかって初めて可能となることであった。調べれるだけ調べた後、ふと私はときどき個展開催の案内をもらうたびに訪れたことのある画廊に相談してみることを思いついた。画廊に陶磁器を持ち込むとい発送自体が後から考えれば滑稽この上ないいかにも疎い素性を晒すものであった。……が、そのことがまさにドラマを更に続けさせることになって行ったのだ。

 

 銀座の五丁目から八丁目にかけては大きな通りにも、道一本入った路地裏にも画廊がひしめく画廊のメッカのようなところである。私の訪ねた画廊はMとおりに沿った建物の五階にあった。コレクターにとっても画商同士にとっても絵画作品の裏側の一面であるお金の獲得をめぐって生き馬の目を抜くような体質を持っているこの業界にあって経営者の作品選択や作家選択のセンスが比較的私の趣味に合うことが多く、無理のない姿勢で展観者に接する画廊であった。ピカソの版画についての資料もブロッホのレゾネばかりでなく、ガイザーもムルローも、そしてクレマーもさらにはゼルボーも揃っていた。私はその白磁壺を贈られた時のその箱に入れて風呂敷にくるんで十一月の上旬に思い切ってそこを訪ねた。久しぶりに覗いた店内には特別な材料を版画に組み込んだ前衛的な個展が開かれていた。店主は久しぶりの訪問を快く迎えてくれた。一通り作品を観終わった後、私は少しためらいながら店主に語りかけた。

 「実は……。個展鑑賞もさることながら、ちょっと見てもらいたいものがありまして……」

 「というと?」

 私はそう語りながら風呂敷を解き、箱のなかから美姫の白磁壺を取り出した。

 「なかなかうつくしい。素性のよさそうな、品のある……」

 「わかりますか?さすがにプロですね。で、時代はいつごろの……?」

 私はてっきり彼がその作品の真価を見抜いて褒めた言葉であると思い、その制作年代を尋ねてみたのだ。

 「小原さん、お客様のものには皆最初はそのように言うんですよ。褒められて嫌な顔をする人はいませんからね。私は絵は多少他人よりはみて知っているつもりですけれども、こちらの方は正直なところまったく分りません。土もの、石ものの世界は危なくてね。君子危うきに近寄らずってところですよ」

 店主はそれを引き取ってくれないかともちかけるのではと釈(と)ったらしく、牽制球を投げるような言い方をした。

 「いや、そうではないんですよ。実はいただきものでしてね。ちょっとしたことへのお礼ということでいただいたものでしてね……。もうかれこれ半年近く前になるんですがね、この一月くらいからなんだか急に火がついたようにこれが輝いてみえ始めまして……。自分なりに調べてはみたんですが、結局分らずじまいということで……。もしかしたらご主人ならなにかが分るのではないかと……」

 「申し訳ありません。残念ながら、私は駄目です。分りません。一目見て気に入りましたけれどもね。わからなくてもいいじゃありませんか!?お気に入っている限りは大切にしてあげてくださいよ。壺もそれを望んでいますよ」

 このように、鑑定は期待したようなわけには行かなかった。私はしかたなく持ってきたその壺を再び箱にしまおうと手を掛けた。

 その時、さっぱりとした感じの、私と同じくらいの感じの歳の男が一人入って来た。なんとなく見たことのあるような気がしていた。男はすでにこちらの常連客の一人であるらしく、今日もまた先にアポイントメントを入れた上で訪れたらしく、店主は

 「どうも、こんにちは!お待ちしてました。何時に着きました?」と挨拶した。

 尋ねられた男は「成田にちょうど二時に」

 と答えた。成田にという発音がナリタニと抑揚のない上から下へとまっすぐにさがったまま発音され、「ちょうど」のどのところが少し弱く発音された。韓国の人だな、と私は直感した。私は手にしていた壺を慎重に取り上げ、蓋の開いたままになっている箱の中へと壺を丁寧にしまった。

 店主に挨拶をし終えた後、私の所作にじっと目を凝らしていたらしその紳士は私の手がその壺に集中し、きちんと箱の中にしまい終わるまで私に声をかけることを待っていたらしかった。そしてこう挨拶した。

 「はじめまして。わたしは金賢公(キム ヒョンコン)と申します。たいへん突然のことで失礼します。たいへんすばらしい壺ですね」

 私は突然挨拶をされたことに驚いた。画廊の中では見知らぬコレクターや展観者が会場で出会って声を掛け合うなどということはほとんどなく、お互いがお互いを干渉することもなく静かに作品を鑑賞したり、品定めをするのが常であったからである。時には静かな態度の裏で作品の取得をめぐり激しい火花すらもが散ることさえある戦場のような性格も帯びている場所でもあったからである。けれども、挨拶をされれば自然と挨拶に応えるのがエチケットであることに変わりはない。

 「はじめまして。小原です。韓国の方ですか?」私は答えた。

 「さすがに小原さんだ。すぐに金さんが韓国の方だとわかるとは……」

 店主が私たちの間を取り持つようにその男を紹介した。

 「金さんはいま、ピカソを集めているんですよ。韓国の美術館にはまだピカソの油彩作品がどこにもないということで、近い将来、お国のためにピカソの作品を収蔵した美術館を建てるということでうちに来ているんですよ。さしあたって、比較的集めやすい版画作品から入っているんですがね……。金さんの場合しっかりとした蒐集コンセプトがありましてね、それだけ難しいんですよ。お眼に適うものを見つけ出すことが……。なにしろピカソの場合、ご存知のように摺り数がきっちりと管理されていましてね、それに最近のこのブームときたら……。なかなか思ったようには集められないんですよ。金さんにはおみうけするところでは素敵なアドヴァイザーもいらっしゃるらしく、なかなかお眼に適うものが……。

「はい、欲しい作品はもうほとんどが収まるところに収まってしまっていますから、こういう流通市場で手にすることのできるのは本当にむつかしいです。お金もかかりますし……。

突然のことで、話をかえて申し訳ないのですが……、あのー、この壺を私おちついて拝見させていただければ大変ありがたいのですが……。

こちらでまずピカソの件を片付けてしまいますのでそれが終わりましたらお時間いただけますでしょうか?まことに勝手なことですが……」

金賢公はその壺を眼にしてなにかを強く感じたのだろう。少し勝手な言い分を強引な感じすらにおわせながら意外な申し出をした。私は少し強引な言い方に抵抗を感じたというのが本当のところではあったが、不快に感じることはなかった。強い関心によって喚起された真剣な眼差しが思わすそうした言い方を呼んだのだろうと思えたからだ。

「そうですか。実は私の方でも今日はこの壺がどのようなものかを知りたいと思いこちらで見てもらいたいと思って来ていたのですよ。でも何も分らなかったのですがね……。白磁壺についてお詳しい方に見てもらえるならば渡りに舟というものです。韓国の方でしたらそちらのものにはお詳しいことでしょうから……。ただし、前以てお断りしておきますけれども、これを商売にするということはいたしませんのでそのつもりでお願いいします」

「ありがとうございます。もちろん拝見させていただくだけで結構です。で、どうでしょう?三軒ほど隣の喫茶室Sでお待ちいただけませんでしょうか? こちらがすみ次第すぐに参りますので……。

私にはなぜその男がその壺をみたいと執着する理由が分らなかったが真剣な眼差しの中に誠実さが移っているように感じられた。

「わかりました。ではそうします。わたし、急ぎませんから、どうぞごゆっくりと、こちらのお話進めてください。ではお先に」

そう言って私は箱に収まっている壺を再び風呂敷にくるんでから、その画廊を出て、指定された喫茶店で待った。

 

 三十分ほどすると画廊での商談を終えたその男が喫茶店の扉を押して来るのが見えた、喫茶店のライトは天井からスポットライトをいくつか照らすようについており、床を歩く人々を少し暗く曖昧な姿に映していた。男が入り口から私の座る窓際へと向かってくる時に、一瞬横顔から後頭部にかけての輪郭線が浮かび上がった。あっ!……確かにそうだ、私は胸の中で密かに呟いた。

 「すみません。長いことお待たせしてしまいまして」

 そう言いながら男は品のよい落ち着いた仕草で椅子に深く腰掛けた。

 「いいえ、とんでもありません。どうですか、ピカソの蒐集計画の方は?うまく行きました?」

 「お金もかかりますし、大変です」

 「ピカソはどのようなものを集めようと……?なにしろ版画だけでも二千点を越える作品数を誇る彼ですから、収集に際してもテーマをもたないとお金ばかりがかかって大変でしょうね?」

 「ええ、まったくその通りです。先生。私は彼の女性の肖像画に絞っているのですが、これがなかなか人気がありまして、お金もかかりますし、作品もコレクターが離さないので、でてきません。でもなんとか彼の作品をまとめて国民に観てもらえるようにしたいです」

 「日本でもピカソに限らず、大首ものというのは人気がありましてね、ちょっと人気のある浮世絵版画など異常な高値になったりしていましてね。それはもう大変ですね。お金ばかりかかるようになってしまって……。えも金さん!お国のみんなさんは幸せですね。あなたがそのような篤志をお持ちになり続け、収集に成功すれば……。すごいなぁ!すばらしい! 日本も昔はそうだったんですよ。松方コレクションとか福島コレクションとか……。たぶんよくご存知のことでしょうけど……。ところで、さっそくですけれども、もっとよくご覧になります?これ……」

 そう言って私は箱を開け始めた。

 「この箱は違います。いまのものです」

 少し不安の混じったような響きを込めて彼は一人低く呟いた。私は「違います」という呟きの中身をあえて問うこともなく、次に、開いてゆく箱蓋の動きを黙って見つめていた。

私は箱が今のものだと言われたことで中身も最近造られたものなのかもしれないと想った。なぜならば、その壺にはとにかく汚れや傷のようなものがまったくなく、玄関の下駄箱の上に無造作に置かれていたことによる薄く覆った塵を軽く拭ったとき、しっとりとした光沢が瞬く間に生き返ってきたかのようにそのまま感じられていたからであった。箱の蓋を開け、息を詰めてしっかりと両手でつぼを取り出し、対座しあう間にあるテーブルの上にそっとそれを置いた。

 金賢公は眼を凝らしてしばらく見つめていたが、すぐにそれを手に持ってよいかと尋ねた。私は彼の真剣な眼差しと扱いの丁寧な手の動きによって、そうすることに快く同意した。彼は黙礼をすると、ふたつの手でゆっくりと慎重に口辺と底に手を当てゆっくりとそれを回転させながら見つめた。またそっと転地を返して壺の底を見つめた。そしてもう一度テーブルの上へと戻し置きながら、二つの掌でそーっと壺の肌を撫ぜた。男は黙ってしばらく愛撫を続けた。壺の肌を撫でるその掌は優しくそしていとおしげにゆっくりとさすった。そして

 「ありがとうございます」

 と礼を言って頭を深く垂れた。

 私は美姫がやさしく愛撫を受けていたような気がして、やきもちを焼いていたというのが本当の心の中であったが、もちろんそのような気持ちが読まれるような顔をすることはなかった。そして、わざと無表情な声で

 「なにか?」と尋ねた。

 実際のところは、私は崩れそうになった顔をみたためか、何をどう尋ねてよいかを失ってしまい、ただ曖昧な、質問というよりは場つなぎのような言葉をかけるのが精一杯であったのだ。

 「先生、大変失礼なお願いであることはわかっておりますが、この壺を譲っていただけませんでしょうか?三百万円でどうでしょうか?不足ならばもう少し足しても……」

 「……、ちょっと待ってください。お金の多寡の問題ではありません。あまりにも突然のお話なもので、何をどう答えてよいか分りませんので……。あまりにも唐突で……お譲りすることになるとしてももう少しお話を聞いてからでないとなんとも言えませんし……。 それにこの壺は思い出の強い品物でして、けして売買を目的として所有しているというものではありませんから。

なにか深い訳がありそうなことはわかりましたが、お差し支えない範囲で結構ですからまずはもう少しおはなしくださいませんか?」

 私は自分自身の心を落ち着かせるためにも時間が必要であった。美姫からの贈り物というそのことだけが理由であったとしても私はその壺を粗末にはしたくなかったし、ましてやなにかいわれのあるものらしいというものであるならば、やはり一通りは知るべきことは知っておきたかったからである。そして私にとって一番心を動かされたことは金賢公の態度の誠実なことであった。損得ということを離れた純粋にこの壺になにかを感じている姿であった。私もお金のことというよりはどんな背景をこの壺は持っているのだろうという関心に心を奪われていた。

「わかりました。少し、一方的にお話させていただくことになる失礼をお許しください。……」

 と言ってから彼が語り出した話は次のようなことであった。 

 金賢公、三十六歳。両班(ヤンバン)出身の一族は総合財閥を目指し、韓国においてあらゆる産業に進出していた。彼は半導体商社の社長であった。延世大学で経済学を学び、更にはハーバード経営大学院でMBAを取得していた。一月(ひとつき)に一度は東京を訪れ、日本の先端技術を視察したり、半導体業界の人々との交流を持っているということであった。事業は順調に進んでおり、やがては韓国の半導体事業を世界トップの水準にまで引き上げ、全世界を韓国製半導体で席巻しようという大志を懐いていた。静かな語り口ではあったが自分たちのグループ運営には強い自信を持っていた。実際、彼の率いる金陽社の年間成長率はこの五年間で二十パーセントを越える水準を保ち、その勢いは飛ぶ鳥をも落とす勢いといってもけして過言ではなかった。彼はソウルのマンションに住み、そこに一人で住んでいた。実は既に許婚者がいるのだが、まだ結婚はしておらず、そのことが彼にとっては事業家と言う顔を離れた時の一つの悩みの種となっていた。周囲から薦められた許婚者はピアノ演奏を愉しむ女性であるが、韓国の地縁、血縁を重視する社会に馴染めず、今はピアノのレッスンを受けるためにという口実と夫の会社の将来における日本との取引に備えて、貿易実務用日本語の学習という理由によって東京に来ているということであった。彼女はピカソの大のファンであり、彼の作品蒐集に情熱を燃やしているということであった。金賢公のピカソ蒐集の実質的支持者は実はその許婚者ということであった。彼はピカソも確かに好きな画家であることに間違いはないが、自分の本当に心ひかれる画家はモネであると言っていた。彼は仕事で東京を訪れる傍ら。許婚者の下に立ち寄ってはまたソウルに帰るという生活を送っていた。二人はお互いに一通りには愛してあっているが、彼女はもっと自由な生活がしたいという点で祖国の生活価値観とあわず、できればフランスへ行き、ピカソをはじめとして夢に見る「芸術の都」としてのパリに住むという生活を望んでいるということであった。金賢公自身、いつかはマルmタンやオーランジェリーへ行きモネの一連の傑作群を堪能したいという夢を持っていた。けれども今の多忙さはそのような夢の実現をすっかり諦めさせるほどのものであった。

 話はモネの睡蓮の話から思わぬ方向へと話しを向かわせることとなった。それというのもモネとのつながりは蓮の花をこよなく愛する昔の恋人の存在があったことを告白したからであった。

 彼は延世大学の二年生のとき以来、将来を築こうと約束していた恋人がいたというのだ。二人は学校の終わったあとに待ち合わせて景福宮や昌徳宮のなかをデートした。その恋人が池に浮かぶ睡蓮の花をこよなく愛し、観ることを好んだからである。恋人とは八年間交際を続けていたが、結局は周りの強い反対により二人の家庭生活を築くことはできなかったということである。その反対された理由は彼女の心臓病のために子供を産むことは諦めねばならず、一族の嫁としては適性を欠くというものであった。時間の経過とともに彼女との心のつながりが強くなるにつれ、周囲の反対は目に見えて強くなり、知人や恩師や親戚などの口を通して、いかに家系を絶やすことなく守ることが大切であるかが陰に陽にと説かれ、二人は会うことすらもが難しい状況に次第に追い込まれていった。そうした状況の一つが彼のアメリカ、ハーバード経営大学院への留学であった。彼はハーバードへ向かう前に一度会ったのを最後に、結局アメリカ留学の間、金賢公の恋人はみずから身を引くこととなり、以後彼女と会うことはないままであった。金の耳に入った風のうわさといえば、彼女はソウルを離れたということだけであった。

 アメリカからの帰国後、現在の許婚者がソウルの青年実業家たちのパーティのときに紹介されることとなった。このパーティは裏から見ればビジネスエリートたちの内輪のパーティであり、そこに集まる娘たちも親や親族の期待や思惑を承知の上でよりふさわしい人生の伴侶となることを受け入れていたるという人種であった。しょせん彼らは家族や親族の期待を形にすることで敷かれた人生をスムースに歩むことを保障されていた。それだけそこに集まる者たちは自分の存在がなんたるものかをわきまえていたが、それ以外の部分ではほとんど世間に対しては無邪気という側面を備えていた。金賢公の許婚者もまたそんな人種の一人であり、世間知らずな分天真爛漫であり、若い分だけ男への順応性があり、男の教育次第ではどのようにでも変わる柔軟性を備えていた。彼に対しては、周囲は、アメリカ生活を経験した新しい世代の経営者であるならば、西洋文化への憧れからくる彼女のわがままに対しても寛容な態度をとりながらも、やがては少しずつ韓国伝統の社会に彼女を適応させ、伝統的な社会へと彼女を吸い上げて行くだろうことを期待されていた。けれども、親たちの期待とは裏腹に許婚者が日本に行きたいと言い出したときにはあえて許婚者の立場をお弁護しながら一族を説き伏せて、彼女の欲する自己実現という道を暗黙のうちにあたえていたのだ。おそらくその選択は彼自身の青春時代の恋の挫折への後悔と自己嫌悪をまじえた苦悩によって選択された内面的誇りある抵抗の選択肢であった。

 あの時、もっと自分の気持ちが強ければ……、事業の目覚まし成功の陰で金賢公は人知れず密かにそのことに悩み続けていた。

 「え、その壺というのはいったいどのような……?」

私は眼の前にある肝心の壺とのかかわりが話の中には直接触れられなかったので、私は少し鈍さを装ってぶしつけな聞き方をした。

「はい、お察しのように、別れた恋人に贈ったものがこの壺でした」

金賢公は、あなたは意地悪な人だ、というようにちらりと私を見て視線をテーブルの上に落とした。 

 「金さん、あなたがその恋人と別れたのはソウルではなかったのですか?」

 「はい、私がアメリカへ向かう前、最後に会う約束をしたのはソウルでした。その日は珍しく米粒のような細かい雪が降っていました。ソウルの冬はたいへん寒いのですが、私たちはその日二人で誰もいない景福宮(キョンボックン)に行きました。ユキが空から音もなく降り注ぎ、あたりは一面既に真っ白でした。私たちはその日はまるで白い教会の白いじゅうたんの上で行う結婚式のようでありました。誰にも祝福されなくても、このソウルの街がそしてソウルの空が私たちを真綿のような柔らかい白布で包んで祝福してくれているようでした。私たちは宮城の入り口から真正面にある勤政殿(クンチョンジョン)に向かう中庭の真っ白な道を踏みながら、お互いにそのように思いあっていると確信し、二人だけで作る足元の足跡を見つめあいながら歩きました。私たちの頬にはキラキラ光る一筋の涙が伝わり落ちていました。二人が今作った足跡をしばらくすると音もなく舞い落ちる粉雪が今度はそれらを消すようにそっとその上に積もって行きました。後ろを見てはいけません。ほらもう後ろには足跡などはないのですから……とでもいうように……。人生という軌跡もいつかはこのようにして誰にもわからぬようにそっと消えて行くのだと私はその時思い、そして悟りました。踏みしめられてできた足跡が降りしきる雪によっていつしかその跡を薄くされて行き、やがてはすっかりとその姿を隠され、やがて何も知らぬ別の人々がそこに再び彼らの足跡を刻んで行く。私たち二人が刻んできたわずかな足跡もまたそのようにして、しかも時の流れが短い分だけそれだけより早く隠されて行くことになるのだ……、と。私たちはいつのまにか慶会楼(キョンホェル)の池のほとりに来ていました。積もった雪にしなだれた桜や梅の小枝が池の縁にしなやかに垂れ下がり、ときどきポシャンと音がして自分重みに耐えきれなくなった雪がさーっと溶けて行きました。池には、彼女が私とデートで来るたびにしばらくじーっと見つめていた、それらは初夏の頃には鮮やかな桃色の花びらを太陽に向かって開いて乗せていたものですが、ところどころ黒赤茶けた蓮の葉が何葉となく浮かび、その上に白い雪をところどころに乗せていました。景福宮の後ろには真っ白に雪化粧をした北岳が形のよい二等辺三角形を灰色の空の中に濃く描いていました。水面には舞い降りる雪がまるで吸い込まれるようにその姿を消してゆきました。私たちはお互いに傍観コートのボタンをはずし、いつのまにか手に手を取り合ってそして胸と胸をしっかり抱き合わせていました。W足しの胸には胸の高まりが増すほどに不整な鼓動を刻む彼女の心臓の響きがはっきりと伝わっていました。熱い熱い抱擁の時でした。頬に伝わる涙だけが冷たくほのかに赤くなった首筋を伝わっていました。私はその日その日の別れのために持ってきた壺を彼女に渡しました。それは私の家にある伝世品のひとつでした。それは私が幼い頃から気に入っていたもので祖父に、これはぼくのものなのだ、と言って大切に譲り受けたものでした。彼女は黙ってそれを受け取ってくれました。その日を最後に私たちは今日まで会っておりません。何度会いたいと思ったことでしょう。分かれた後の日が増すにつれ、私は家族への思いとその恋人への思いとの間の揺れ動きに苦しみました。それらは時と状況によって傾きの位置をかえる振り子のようなものでした」

 金賢公はそこまで一気に話すと額にうっすらと汗をにじませながら苦しそうに大きく息をした。

 「でも、それだけのことではこの壺があなたがたいせつにしていたもののそれとは断定できないのではありませんか?景福宮の池であなたがお渡しになったものと見極めた根拠はなんですか?」

 「それは……、言葉では説明のしようがないのですが、まちがいないのです。なにしろ私は物心ついてから四半世紀毎日朝起きてそれを手に取り、また寝る前にまたかならずビロードの布で磨くことを日課としていたからです。さわった感触がまさしくそれなのです。けしてほかのものでは感じることのできない、私にははっきり分る手触りなのです」

 「もし、まちがっていたらどうなさいますか?私には何も判断できませんが、あなたは自分の判断に自身をお持ちのお湯ですが……。私は責任とれませんけれども……」

 私はわざと意地悪な言い方をした。

 「もちろんです。先生には何の責任もありません。見誤りの責任はもちろん私が引き受けます。私には絶対の自信があるのです」

 「わかりました。でも、私としても値踏みもできないようなものを言われるがままにお譲りするというのもちょっと納得が行きません」

 私はそう言ってから一息つき冷めかかったコーヒーを口に入れた。そして続けた。

 「ところで、金さん、話題を突然変えてしまい申し訳ないのですが、金さんはピカソの『マンチラをかぶったカルメン』と題された作品をお持ちではありませんか?」

 私は白磁の壺をどのようにして手に入れたかは尋ねられても本当のことは言わないにしようと決めていた。尋ねられたとしても、ソウルへ遊びに行ったとき、偶然骨董屋さんで手に入れたのだ、それもたいした値段でもなく……と答えることにしておこうと胸の中に誓っていた。安い値段で偶然手に入れたと言えば、彼の判断はまちがっており、彼の見誤りであるという思いに至らせることがたやあすくなり、彼のこの壺に対する執着を断ち切ることができるのではないかと少し意地悪な気持ちが湧いたからである。それは私だけが知る美姫との出会いと彼女のすばらしさによる、美姫の肌を優しく撫でた金賢公への嫉妬心からでた復讐のような気持ちであった。あんなにすばらしい彼女に対して自分の思いを貫き通さずに逃げた男に対する軽蔑と怒りの混じった気持ちによるものであった。もしそんなに彼女のことを愛しているならば、すべてを捨てて、駆け落ちをしてでも彼女を守る行動に出るべきであったろうにといういささかドラマめいたヒーロー役を演じる期待をうらぎられた、ドラマの観客の無責任な怒りと失望のような気持ちがその時の私の胸の中を覆っていたのだ。私は自分自身中にある、閉じられた舞台の幕により、見ていたい舞台の光景をさえぎられたことに怒りを感じる観客のような、否、それ以上に自分の心の残酷さに一瞬おののいた。けれどもその時の私は、愛を貫けなかった意気地なしは私の打算的な報復によって責められても仕方のない存在なのだというフェミニストを気取る正義感に包まれていたのだ。

 「えっ、どうしてそれを……。先ほど店主からでもお聞きになられましたか?」

 「いや、あの画廊主は、コレクターのお持ちの作品のことを他言するようなかたではありませんよ」

 「そうですよねぇ。確かに……。ではどうして?……」

 「少しさかのぼりますが、四月のオークションの時のことを覚えておられますか?」

 「といいますと、あのTホテルでの?……はい、その時のオークション情報でもご覧になったのですか? しかし、私の名前は公表されていないはずですが……では当日……」

 金賢公はまさかというように一瞬口をあけたままとなった。

 「ええ、実はそうなんですよ。それもカルメンを競り合ったライバルとしてね」

 「な、なんということでしょう!!こういうことを韓国ではキミョハダと言います。まさしく事実は小説よりも奇なり、だ。あの作品は私自身も欲しいとは思っていたのですが、それにもまして今の許婚者がそれはそれは熱心に求めていたものの一つでした。さきほども申し上げたように女性の肖像画作品に的を絞ってまずはコレクションを始めて行きましょう、と言い出したのはまさしく彼女なのですから……。もっとも、目標としている作品のすべてを彼女が記憶しているかどうかは私にもわかりませんけれども……。私たちはピカソの女性関係が変わるたびにそのモデルとなって描かれた女性像もまた変化していることに注目し、そうした傾向をはきり示している肖像画を中心にコレクションをしてきたのです。もう数十枚ほどの作品が集められていますが、あの作品は摺り数も少なく、ええ、五十枚ではなく、十一枚しか摺られていないというものですから、私たちのとっても貴重な落札チャンスだったのです。国際的なオークションにもまず出てきませんからね。

 あの作品は実はまだ誰にも見せずに管理会社で厳重に保管してあるのですよ。まだ許婚者にも私が落札したことは伝えてありませんくらいですから……。蒐集のフィナーレを飾る……という演出効果を考えて彼女にはサプライジングとして見せたいと思っていますから。で、……そのカルメンが……?」

 と言って、その時、それは困ります、それだけはご勘弁を、というような狼狽した表情を見せた。

 「ええ、実はそうなんです。私にはこの壺の価値が三百万円のものかどうかわかりません。でもそれだけの値段をつけてでも手にしたいものならば、それよりは約百万も安く落とせた作品と交換しても悪くないのでは……」

 私は率直に取引を申し出た。

 「ウムム……、ウム……」

 金賢公はただ苦しそうに顔を歪めた。私にはそのどちらもが彼にとって同じ重さを持っていることがよく分った。しばらく息の詰まる沈黙が続いた。そして、大きく息をついてから彼は言った。

 「わかりました。交換いたします。でも、一つだけお願いがあります。約束していただきたいお願いです……。先生、それをけして他へは出さないでください。指し出がましいことは重々承知しています。あなたのものである以上どのようになさってもそれは勝手なことを……。でもお願いいです。それを大切の鑑賞し続けてください。お願いします。

 先生のところにあるということがはっきり分っている限りは私も安心ですし、それにいつか機会ができますようでしたら、その時には是非引き取らせていただきますから……」

 

 このようにして、私は美姫に贈られた白磁の壺を韓国人実業家、金賢公に渡し、代わりに四月のオークションで拐らわれていたピカソの名品を手にしたのだった。

 私は結局、その白磁壺がどのようないきさつで私の手元にくることになったのかについては触れる必要がなかった。彼が来歴を問わなかったこともあるが、私には名画や名品というものは人がそれを選ぶというよりは、それがおのずから居所を求めて世界中をめぐり動くものであるという思いを強く持っていた。したがって、もし金賢公が求めた白磁の壺が名品であるとするならば、それは壺が彼を選んだからなのだ、と素直に信じることができた。同時に、カルメンが私の手元にくることになったのも言うなれば、私がそれを選んだと言うよりは、カルメンが私を選んでやってきたのだと確信したのであった。そうした思いは金賢公においてもまた同じであったろうと私はひとり思った。

 わが家に入ったカルメンは時には妖しい微笑を、また時には口元をきりりと引き締めて、隙のない表情を、また時には人を突き放したような覚めたまなざしを壁の中から私に送って見せた。まさしく名画はドラマを作り出すことに於いて生きているのであった。

 

<(W)へ続く>

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