魔笛のインカ

魁三鉄  

(V)

 

 掌でバタバタと胸を叩かれる衝撃で私は目が覚めた。目覚めははっきりとしており、鈍い頭の痛みも体のだるさもすっかり消えていた。私を起こしたインディオは車から降りて外へ出るように手で合図をした。ひんやりとした空気が肺の中に引き締まった心地の良さを運んだ。辺りを見回すとサボテンのような形をした小さな山が重なり合って二つか三つ周囲を囲んでいた。ところどころに見せる山の岩肌は朝日に金色に輝いて見えた。しかし、岸壁のいたるところに苔色の背の低い潅木が群生していた。思わずヤッホーと叫びたくなるような山の中の景色であった。三十メートルくらい下に幅が二十メートル位の河がところどころに低い波の牙をむき出しながら左から右へと流れていた。どこか遠い山奥の中に来ていることは確かであった。人の気配は自分たちを除いては全く感じられなかったが、奇妙に恐怖感のようなものは湧いてこなかった。近くのどこかに案内書で見たことのあるインカの空中都市のようなものがあるのではないかという気さえ起こった。明るいところで見るインディオの男は顔中に深い大きなしわを作っており、私の目には五十歳くらいに見えた。男は指で河の向こうを黙って指し、これからそこを渡るのだというように自分のズボンの裾を膝の上まで高くまくりたくしあげた。私もまねをして同じように裾を高くまくり上げた。ドッジのバンはそこに乗り捨てられるように置きっぱなしにされた。インディオはすばやく河原のところまで降りていった。私はといえば、わずか三十メートルほどの坂道を、足元に転がる岩石に足を取られながら、平均台の上を歩くように両手を広げて挙げバランスをとりながら、河原までたどり着いた。私は男の表情の中に、何をもたもたしているんだ!、と苛立つようなそれがないだろうかとそっとすばやく男の顔色を伺ったが、男は無表情に今度はサンダルを履いたまま河に足を入れた。そして俺のところに一緒に来いと言うように空気をすくうように手招きした。私は一度靴を脱ぎ、靴下を脱いでからまた靴を履いた。裸足で歩いて血を見るようなことになるのが怖かったからである。私が河の中に足を入れるまで男は辛抱強く冷たい水の中にじっと立ちつくして待っていてくれたのだと分ったのは、その河の水の冷たさが氷のようであることに気がついたのと同時であった。河を渡り終えた後ジーンと足が熱くなって来たくらい、私の心も熱くなっていた。私にはどんな言葉にも勝る安心感がようやく心の中を覆い尽くした。

 私たちは巧みに山間部を抜けて歩いた。私の靴は河の水を何度か切ったにもかかわらず、歩く度にグニョ、ブチュ、グニョ、ブチュと音をたてた。私はその音が何か逃避行めいたこの秘密を壊してしまうのではないかと恐れたが、インディオは別段その音を気にするようなことはなかった。時々ジャングルのような茂みが続く中を中腰の姿勢のままにくぐることもあった。ギャッ、ギャッとかカコーン・コンとか鳴きながら鳥たちが私たちの気配を感じたためか飛び立った。ほとんど壁のように立ちはだかるかに見える山の間にも、通りなれた人間にはちゃーんと通れる道は見えているのだということが自分の歩いている現実によって証明されていた。ブッシュの暗がりの中にも同様にくぐりぬけていった。何度か河も渡った。河を渡るたびに男は私の手を取ってくれた。ごわっとした厚い掌が本当に頼もしく感じられた。私には同じ場所をぐるぐる引き回されているような気さえした。しかし、たとえそうであったとしても私はそうすることの一切を許すことができるように思えた。道なき道は上がったり、下がったりの繰り返しで自分は全体として上がっているのか、下がっているのかが分らなかった。薬が効いて寝ている間にバンは途中まではより高い峠に向かっていたかもしれないが、結局はクスコよりは低い地点に下りてきているらしかった。三時間くらいのあいだ山間を歩いたであろうか、われわれは視界が急に広がった、ちいさな岩があちらこちらに点在しているところに入った。所々にジャガイモの葉らしきものが見えた。そして間もなく、とある岩に不自然に根を張った潅木に出くわした。男はここで待つようにと大地を抑えるようなしぐさをして、どこかへと消えた。私はあたりを一通り見回したが格別の目印となるようなものは周囲にはなかった。なにか確かに人影の動くような気配がした。私は明らかに監視されているとも感じた。

 「ルディさん、ようこそ」

 何年も聞き忘れていたような英語の声がした。そこにはさっきまでの引率役の男とは別の迷彩服姿の男が立っていた。私はこんなところにすでに私のことが伝わっていることに驚き、また底知れぬ力の存在を感じて胸の中がざわめいた。いつか映画で見た地獄の黙示録の中に自分がいるような気がした。

 「申し訳ありませんが、ここからはこれを付けて頂きます。心配は要りません。十分ほどの辛抱ですから」 

 男は黒い手ぬぐいのようなマスクを私に見せながら私に説明した。丁寧な、しかし、有無を言わせぬ鋭く強い口調であった。

 「わかりました」

 いまさらノーでもあるまい、と私は言われるままに素直に目隠しを受けた。するとどこからか、ジープのような音が近づいてきた。複数の男たちの腕が私を抱きかかえ、そこへ乗せ、一緒に乗り込んだ。意外なことに振動のほとんどない心地よい車の移動であった。十分も走ったであろうか、ジープは止まった。車から降ろされた私は体ごと導かれて一室の椅子に座らされ目隠しを外された。

 コツコツとドアを叩くノックの音がした。

 「失礼しました。どうぞ、お楽になさってください。お疲れになりましたでしょ。これをどうぞ」

 そう言って、まだあどけなさが残る二十歳くらいに見える苔色の上下服を着た若い男がポットの紅茶と薄く切られた蒲鉾型の三枚のみすぼらしい黒パンとバター、ジャムを木製の盆の上に置き運んできた。入れ替わりに、迷彩服の男たちはすばやく部屋の外へと消えた。そして若者も給仕を終えると一礼して出て行った。お腹が空いていたことをすっかり忘れていた私はまろやかな匂いを放つ紅茶によって堰を切ったような抑えがたい食欲をそそられた。口にする紅茶は本当においしかった。ティーポットにお代わりの分があることを確かめると私は一気に最初の一杯を飲み干した。薄い黒パンはゆっくり噛めば噛むほどにこくのある味をしっかり口の中に広げた。食事を取りながら私は部屋の様子を伺った。部屋は明り採りの小さな窓が四角い壁に一つづつ付いていた。それはどの方向からも外の光が取れるように工夫されていた。しかし、部屋の天井には玉子型をしたランプが一つ下がっていた。どこかに自家発電装置があるに違いないと私は推測した。時々、高い窓を通して外から号令のようなてきぱきとした声がこぼれてきた。ゲリラの山岳アジトかもしれないと私は思った。いったい、なぜ私のような者がこんなところに連れてこられたのだろう?セシリアはゲリラ組織の一味だったのか?でも、なぜわざわざここに?素朴な疑問が自然に湧いてきた。しかし、だからといって恐怖感に襲われたり、セシリアを恨む気は少しも湧かなかった。セシリアに全てを賭けたのだから……。ここへ来たのは詰まるところはセシリアへの軽はずみな一目惚れによるものに過ぎなかったかもしれないが、偽りのない私の彼女への情愛の心によっていたからである。それは私によって選び取られた運命であったからである。

 再び、ノックの音がした。下半身は迷彩服を着け、上半身には草色のポロを着た私と同じくらいの背丈の女が入ってきた。巻き上げた髪の毛と胸の膨らみがそれが女であることを示していた。私は少し緊張感がほぐれた。なんだかほっとした。

  「はじめまして、ルディさん。ようこそ、われわれの世界へ。シルビアです」

 女はにこやかに手を差し出しながら鋭い視線を私の瞳の中に送り込んだ。その視線は、月の光の差し込むベッドの上で豹のようにすばやく私の両腕から抜け出た時のセシリアのそれと同じであった。

  「では、これから同士の姿を案内するわ。聞きたいことがあったら、その場で自由に聞いていいわ」

 今度は表情をあまり崩さずに言った。

  「わかりました」

 私も短くそれに応じた。

 シルビアは私を連れて三棟ばかりの点在する木造の平屋のほぼ真ん中にある三百坪くらいの広場へ案内した。そこには私が案内されることが既に伝えられていたのであろう、二百人ぐらいの苔色と赤茶色の迷彩服を着、帽子をつけた兵士たちが手に手に自動小銃やライフル銃そして機関銃やバズーカ砲などを備えていた。シルビアの説明によれば、この地帯にはまだ五百人ほどの兵士たちがいつでも応召できるようになっているということであった。木造の建物の屋根の上には枯れ枝や緑の葉をつけた枝が巧みに覆いかぶせられていた。シルビアの号令によって兵士たちは隊列をジグソーパズルのように自在に変え、いかなる状況にも対応できることを誇示した。隊列そのものがさながらいきている妖怪のように見えた。近づいてみると帽子の下の顔はみんな驚くほどあどけなさが残っていた。しかし、その視線は、物に憑かれた一途な狂信者のように皆同じようであった。シルビアは彼らは定期的にここに戻り、一定の訓練を受けてまた指示された農村や街へ入って行くのだ、と説明した。シルビアによれば、この基地はすべて自給自足できるようになっているということであった。また。情報も独特の各地に張り巡らされた仕組みによってほとんど瞬時に取ることができるのだとも豪語した。私はそれは恐らく本当だろうと素直に信じた。シルビアはまた別の場所を案内した。そこでは十組くらいのペアを組んだ兵士たちが高い塀や高く細い平均台のように作られた道を小走りに駆け抜け、塀を越えた後は歩伏前進をしていた。また別の場所では、いかに敵の背後に気づかれないように回り込み相手にとどめを刺すかというような格闘の訓練をしていた。更にシルビアはブッシュの繁る小道を抜けて遠くに導いた。そこには規則正しい畑が巧妙に造られていた。辺りは全体として広い平坦地であった。そこには作付けられた麻薬の原料となるコカの畑であった。濃く鮮やかな緑の葉は大きく群生すれば上空からでも目立つ故に、カムフラージュの木と一緒に小さな区画を散らせて作るのだ、ということであった。このような山奥の中にもかかわらず、それなりの設備や諸道具そして食料などがそろっている理由はどうやらここにあったようだ。

  「でも、どうやって、それらを運び出すのですか?こんな山奥で……、どこかに秘密の道路でもあるのですか? 自動車が数台あるのは見ましたが……?」

  「帰る頃にはきっと分るわ。道路はもちろんないわよ」

  「???」

 私は今の状況がしつこく答えを迫るようなものではないと判断し、自分で回答を探り出すべきだと心に言い聞かせ、それ以上の質問は抑えた。そうこうして、私は二時間あまり周囲の見学をした。そして再び部屋に戻った。太陽は雲の中に隠れていたが、その光の位置からしてもうお昼近くにはなっているようであった。軽い昼食が出された。シルビアは一時間後にまた来ると言って部屋を出た。私は食事をした後、机にうつぶせになって軽い昼寝をした。

  「疲れたでしょ?恐らく長歩きには慣れていないでしょうから」

 ドアを開けて入って来たシルビアはまだうつ伏せになっている私に頭の上から声をかけた。ちょうど三十分くらいの午睡が一番疲れを取るのに良いということを計算したような時間のとり方であった。万事が計算ずくで運ばれている、私はそのことにむしろ安心した。

  「ところで、何故あなたはここに着たか分る?」 

  「……正直なところ、何故ここに来たのか分りません。もちろん、私はいわゆる表面の観光ルートだけではなく、ある意味で本当のペルーの姿を知りたいということはクスコで言いました。ですからそのことが理由になっていることは間違いないことだと思いますが、何故ここにという点では自分にも分りません」

  「あなた、なかなか意志の強い方らしいわね。それに好奇心も……。正直そうね。私が言っているのは道徳的な意味でのことではなくてね、自分の経験を素直に見ることができるという意味でね。私たちにはそういう人が必要なの。もし、その気があるならば、歓迎するわ」

  「いきなりそんなことを言われても私にはまだここがどういうところなのか分りませんから、そんなことを言われても応えようがありませんよ。多分、見学させていただいたような状況からすれば、今は正直なところ私はあなたと一緒に活動したり、手を貸すことはないでしょうね。だって、私の見たものは、私の行きたいと欲する道とは合い入れない武器の道ですから。もちろん、理由はあることでしょう。でも、それはどんなに立派な理由があっても進んで肯定できるものではないと思いますから」

 シルビアの目が尖った光を放って、私の瞳を突き刺した。けれども私は怯まなかった。 

  「やはり、あなた、言うわね。あなたは私たちの先祖がこの四百年以上もの間、どれだけ苦しめられてきたかをご存知?スペイン人たちは、もうあなたも知識としては持っているように、ピサロの侵略以後、圧制、暴政の限りを尽くしてきたわ。私たちインディオは家畜以下の待遇を余儀なくされてきたわ。どのように私たちの祖先が人間らしさを奪われ、奴隷としてこき使われ、婦女子が陵辱されてきたかは、言語に絶するさまだったのよ。国家として独立した後でさえも状況は変わっていないばかりか、最近は金持ちたちはますます私腹を肥やし、貧しいものはますます貧しくなるという悪循環がひどくなっているのよ。黙っていれば、事態はますます悪くなるばかり、しかも、アメリカは政府や資本家の退廃を利用してラテンアメリカの支配権と利権を守っている。このような圧制の中で善良さや良識などというお題目はパンの獲得にとって何の役にも立ちはしないわ。
 少しでも反抗したり、待遇の改善を訴えたりすれば、明日の命は保証されない世界が現実なの。そんなところでは人々は諦めのあまり無気力となり、退廃的になることに追い込まれて行くだけだわ。歯向かっても、忍従しても、諦めても、自体は一部の特権的富裕者を除いては悪くなって行くばかり。ならば鉄砲を持って戦い、われわれの政府を作ることしか生き延びるすべはないわ。それがここの世界の現実なの。まず、倒すことが先なの!後のことは全てその後からついてくるものなの」

 
シルビアは熱のこもった言い方で私に迫った。

  「シルビアさん、あなたの言う不幸な過去にあった現実、そして今この国が腐敗と堕落によって大きな危機に見舞われているということはよく分りました。とりわけ、過去の歴史は本からの知識として得られる情報によって、その悲惨な状況がはっきりと分っています。けれども忘れないでください。わたしたちはそれを不幸な歴史として記憶することはあっても、決して望ましいものとして覚えることはないのです。人間の歴史、知恵というものはそういうものだと思います。もちろん、紆余曲折はあるでしょう。反動と呼ばれるときもあるでしょう。しかし、それでも非常に大雑把に見れば、人間は少なくとも物質的には占有から分配に、偏りからは公平へと、そして少数者からより多数者へと、富の配分そして知識の配分もなされてきています。それは一人一人の人間のレベルでも、また国家と国家のレベルでもそうなってきたと思います。もちろん、そこにはまだ歴史の主役であったヨーロッパがそしてアメリカが彼らの都合で、他国にとっての不都合を行ってきている現実はあると思います。そして歴史の中では常に弱いものがその皺寄せを受けてきましたし、これからもそれは避けられないことだと思います。それが現実であることは私も残念ながら認めざるを得ません。しかし、こうした歯がゆく、遅々とした歩みを、取りながら、そこにもっとも犠牲の少ない、できるだけ多くのという意味での最大多数の最大幸福が現実に存在することを私たちは発見してきたのです。
 また、常に絶対の理想を忘れずに、しかし、現実的にはより良いという一段下がったところを求める、否、求め続けることが、結果として一番生産的な結果をもたらしていることを……。もし、あなたがたが仮に鉄砲から政権を産んだとしても、もし鉄砲によって政権の維持をはかるならば、そこにあるのは敵と見方がさかさまになっただけで、恐怖政治や圧制の仕組みは何の変化もないということになると思います。自分たちは絶対に良くて、敵は何でも悪いというのでは、現在の圧制者たちも自分たちこそは正義であると思い込んでいるわけですから、それに逆らう者は悪であると見なすこともまた正当なことになってしまうわけです。私は現代人の発見した大きな知恵の一つは寛容ということであると思います」

 私は自分が今どこにいるかも忘れているかのように自分の考えを述べた。

  「立派なものね。この国でそんなことを公言したら、命はないわ」

  「確かに私の考えは甘いかも知れません。しかし、人間の精神の歴史のプロセスを一つ一つ踏んできた考えや知恵というものは決してやわなものではありませんよ。私は人間の傲慢さに対しては警戒を忘れませんが、精神の豊かさと言うものは常に信じたいと思います。もちろん、私は人間の精神のすべてがポジティブなものだけからなっているなどという主張をするつもりはありません。人間誰しも欲望はあります。ネガティブな感情もあります。すべては程度の問題です。単純な理想はオール・オア・ナッシングなのでしょうが、それでは人間ではなくなってしまいますね。理想として、求めることはポジティブな面をなるべく多く、しかし、同時にネガティブな面もあるということを忘れないということです。人間個人がそうでありたいように国家というものもまたそうありたいものです。恐らくそうあることでしょう。現代人は……。だから、腐敗や不正や虚偽や暴虐の国家が不幸にして存在したとしても、それらをあえて飲み込むことで地球の活性化を今の大国は謀っているのかもしれません。そして意地悪なことを言えば、あなたがたはその活性化のために利用され、生かされているのかもしれません」

 そう言い終ったとき、三人の兵士が自動小銃を肩に掛けて、乱暴に部屋に押し入ってきた。明らかに私に対する敵意に満ちた、針先のように尖った光を眼に放つ男が私を睨みつけたのち、シルビアの耳元でしばし何かをささやいた。シルビアはそんなことはないというように少し緊張した顔をその男に返した。男が私の方に向かって乱暴に一歩を踏み出そうとした時、

   「ホセ、ちょっと待って!」

 とシルビアは呼び、強い口調で命じた。ホセは舌打ちをして、白眼で私を睨みながら引き下がった。

  「ルディさん、あるいはお気の毒な事態になるかもしれませんが、わたしたちはあなたを尋問いたします」

 その声は冷静なものであったが、仲間の前ではこうする他はないというような私に対するエクスキューズのニュアンスがごく微量ではあるが含まれていることが感じられた。

そして、彼女は「名前は本当にルディか?」と尋ねた。

 私は彼らのやり取りの間、ルディ、ルディ、ルディとクスコのホテルを出る前に自分に言い聞かせたことを思い出していた。何があってもルディを通すのだ。たとえ、最悪の事態をここで迎えるとしても、ルディとしてそれを迎えるのだ、と決意していた。そして肯いて、「はい」とだけ、答えた。

  「どこから来た?」

  「…………」

私は何も答えずに眼をつぶった。

  「どうしてここに来ることを希望した?誰に頼まれた?」

  「…………」

 私はここでセシリアとのいきさつなどを話すことはないと決めていた。セシリアは心の中で私と道連れになってくれればそれでよい、どのようなことがあっても彼女の名前は出すまいと心のうちに誓った。シルビアは先ほどまでの冷静であった態度から、次第にホセによって耳元に入れられた疑惑が現実のものになってきたのではないかというような、心の動揺を表すような態度になった。ホセは勝ち誇ったように私の前に歩み、そしてこう言った。それは私が最も恐れていた問いであった。

  「おい、ルディ、ところで、おまえ、ルディであることを証明するものがあるか?」

そう言って、自動小銃の鈍く光る鋼鉄製の筒先を私の顔に突きつけた。

  「…………」

 私は文字通り、セシリアにすべてを預けていたのだ。最悪の事態がもう間近かに迫っていると思うと気が遠くなりそうになった。口をきこうにも口が硬直したようになり、声が出なくなったような気がした。それでも、意識の上では何も言うまいと思っていた。沈黙の時間がやけに長く感じられた。眼の前の部屋やシルビアそしてホセたちの姿が異様に眼の中でちいさくなっていた。また、下を向いても床がはるか遠くに敷かれているような感じがした。体が床に崩れて行くような気に襲われた。

  「服を脱げ!」

  突然、尋問とは異なる命令がはっせられた。命令は聴こえたが、私の手は動かなかった。別の兵士が黙って歩み寄ると、一人が私を押さえ、もう一人がセーターとポロシャツを一緒に引き上げた。下着も一緒にそれらに付いて行き、部屋の空気がさーっとおなかの周りを冷たくなめていった。首のところでもつれたそれらを乱暴に兵士は引っ張った。私は引っ張られる力で体がよろめいた。泣きたくても涙が出なかった。

 私はシャツを脱いで裸となった。すると男は黙って今脱いだ、からみ合いこんがらがったセーター、ポロ、そしてシャツを一枚一枚はがし始めた。下着のシャツが取り上げられた時、ホセはじっと一箇所を見つめ、確認するようにすばやく見ると、それをシルビアに見せた。シルビアは立ち上がってホセの差し出した私の白い下着をじっと見つめた。

  「間違いない。ルディだわ」

 しかし、疑惑の氷解によっても、心は何の影響も受けていないのだというように、わざと機械的に感情を押し殺した声で言った。

 私が今脱いだシャツの左によった背中には赤い上唇の弓のような跡と男のシンボルを思わせるような線が赤く引かれているのが見えた。その時の私にはそれはインカの古代遺跡からしばしば発掘されているおおらかな男女の口唇愛撫をかたどった焼き物のインカを表す象徴図のように思われた。 

  「このシャツはこちらで預かります。替わりのものを用意しますから、それを着てください」

 ホセはさっきまでの猜疑に満ちた視線とはうって変わって無機的な感情を押し殺した視線で私を見ながら、仲間の一人に代わりのシャツを持ってくるように命じた。男が戻ると新たらしい別のシャツの入った袋を私に手渡した。私は素直にそれを受け取り、また下のようにポロとセーターをかぶった。男たちは黙って出て行った。昼寝の後からもう三時間以上が経っていた。これから更にいったい何が起こるのだろう。私は事態のめくるめく急変に事の成り行きの次第を整理する間もなく自問した。私はただ、その男女の交合図の様なものが私を助け、そして、それが月光のさす薄闇のベッドの中でセシリアによって描かれたものだということが分った。セシリアを信じ続けるのだ。私は気を新たにした。

  「あなたは私たちにとっても大切にすべき人だわ」

 シルビアは男たちが出て行った後、最悪の事態が避けられて良かったという気持ちを隠すようにそう言った。私は一時は覚悟した事態から解放されたようだとは思ったが、なお、緊張した気持ちが続いていた。シルビアはそんな私の状態を察してか、気を張らずに自分の言うことを聞いて欲しいと言った。

  「もうお会いすることもないでしょうから、あなたには言っておきたいのだが、……」と切り出した。

  「あなたには受け入れられない考えだということは分っているけれども、私たちはやはり言っておきたいことなの。平和な国に生活することのできる人々の心の片隅にとどめて置いていただければと…。それは世界には望まれてこの世に生まれたのではない人間がいるということ。私たち、メスティーソのほとんどは、元はと言えば、望まれて生を受けたものではなかったのです。分りますか?私たちの祖先たちは征服を受けてからというもの、婦女は凌辱によって、また単なる性欲の捌け口としてもてあそばれ、その結果、誰からも祝福されない子供を産まされ……、ということにより、何代にもわたって歴史を背負ってきたものたちなのです。征服者という悪魔たちが生み出した傲慢と被征服者たちの悲哀と屈辱の混血の産物なのです。世界中にはこのような望まれない姿で生を受けた人間たちが現実に存在するのです。存在を求められていなかった者が存在してしまっているのです。親となったものたちが二人の求め合う結晶としてもうけた子供としてではなく、征服者の一方的凌辱によって産み落とされた人間がわれわれなのです。こうした誰にも望まれない姿でこの世に現われた人間たちにとって、存在を強制した者、そしてそれを許している社会を否定することは当然のことなのです。権利であり、宿命なのです。ましてや、存在を強制されたものたちの犠牲の上に成り立つ社会などは存在してはならないのです。存在させた者のみが存在させられた者に対して存在させた側の論理を強制することを当然のこととするならば、逆に存在を強制された者が存在を強制した者をいかなる手段を使ってでも否定するのは当然ではありませんか?!もともとあってはならなかった生命を与えられたに過ぎないのですから、死を賭したところで、もともとのことではありませんか?本来なかったはずの生命なのですから……。やむをえない事情で存在を強制した者は存在を強制されたものに対して、彼らが存在を歓迎されてこの世に生を受けた者たちに対するのと同様にそういう彼らに対して責任を持って愛情を注ぐべきなのです。社会もそうあるべきなのです。

 親たちが欲しいと望んだところに生まれた人間は愛情に包まれ当然自分を産んだ社会に対しても責任を持つことになるでしょう。自分たちの生命は親に望まれたものであると同時に親がその構成者である社会によっても生命を祝福されたのですから、愛情は同時に責任にその姿を変えて行くものとなります。でも、私たちの国は違います。何百年にもわたって存在の問題を征服者たちもその末裔も見ることはなかったのです。われわれの戦いは抑圧や貧困との戦いであると同時に血の存在の問題なのです。血の復讐と理論と実践がなければだれもこのことには気がつかないのです。そのことはけしてインディオだけの問題ではありません。この世に人間が存在し続ける限り、また存在しようとし続ける限り存在する、人間存在の問題なのです。私は若い頃は神がきっと私たちのような望まれざる誕生者たちに対しても祝福を与え、人間としての生活を必ず与え給もうことを信じ、そして祈り続けました。きっと遠からずのうちに、神の祝福はあると……。しかし、私は神は私たちの存在に対して責任を取っていないと感じるようになりました。神はあの世では私たちにすら救いを与え、責任を持ってくれるかもしれません。しかし、いまわれわれが投げ出されているこの世の中へはけして神は自らの責任を引き受けに来ることはないのです。ではいったい、この世の中にあるわれわれに対して責任を取るものは一体誰なのか?私は考え、悩んだ末に、この道に達したのです。われわれの存在に対して責任を取るべきものはわれわれを産み出した征服者たちという人間たちであり、またそのことは同時にその集団としての現状の社会にあるという結論に……。私たちは望まれずして、しかも屈辱と悲哀の中でこの世に産み落とされた者たちを代表して戦っているのです」

 シルビアは初めてそこに一人の人間として苦悩する表情を浮かべながら、ゆっくりと、しかし、強い意志でそう語った。私はひとたびこの世に受けた生命のすべてが必ずしも彼らを産んだ者たちによって祝福されていないという現実の過酷さにいまさらながらに神の非情さを思った。欲するとも、欲せざるとも、生まれたものは者は祝福されるべきである。産み落とされた本人には何の責任もない誕生に扱いの不公平があってよいはずがないと思った。ただ、シルビアたちの自らが引き受けると決断している存在の否定を掲げる戦いの道に対してはそれをそのまま肯定することができなかった。私は応えた。  

  「シルビアさん、あなたたちが背負っている歴史の悲劇に対して私たちはそれを無視し続けてよいはずはありません。ただ、私はあなたに対してこういう人々もまた世界中におり、またそうした人々を支える人々も今では増えこそすれ、減ることなく、たくさんいることを知っていただければと思います。つまり、人間の歴史の暗い、過酷な歴史の現実を正視しながら、そうした悲劇に対して真剣な問いかけをみずからに投げかけながら、単純に国の利害や特定集団の利害関心からではなく、人間の存在の尊厳の問題として歴史の悲劇の中にある反省を引き受けている人々が今ではたくさんいるということを。なるほどそうした精神のあり方によって律する行動というものは鉄砲から政権をつくるような力を持つことはありません。けれども、一人一人の心の中に人間存在の問いかけとして心に刻まれて行く精神の歩みというものは時間はかかることはあっても着実に悲劇の種を摘みとって行く力となっています。あなた方が主張するように血による復讐が繰り返されるならば、それは関係の逆転が行われるだけのシーソー・ゲームのようなものであり、人々の心の豊かさや、人間への愛情に支えられた世界の構築には結びついて行かないと思います」

 シルビアは少し声の調子を落としながら、続けた。冷静な態度はかわらなかったが、声の中に少し潤んだ響きが加わった。

  「わたしも知っているわ。そういう心豊かな人間が確かにこの世に存在することを……。しかし、私のその人は今ではもう、この世から遠く離れた世界へといってしまい、二度とその人の胸の中に甘えることはできないし、膝を交えて語り合うこともできなくなってしまったの。そういう人間は結局この国では生きられなかった訳……」

 私はシルビアの個人的な悲しい事情を詮索する気になれなかった。

  「語りすぎたわ。八年前までの彼との生活のように……。もう時間がないわ。この後、あなたはマチュピチュに入るわ。くれぐれも忘れないでね。あなたが来た世界は沈黙のインカってことを。十分ほどすると送りの者が来るわ。マチュピチュでは夜、最終のクスコ行きのアウトバーゲンに乗れるように手配がされているわ。では、私はこれで失礼するわ。お元気で!」

 シルビアは椅子から立ち上がると私に近づいて、頬に軽くキスをして、部屋から出て行った。薄く化粧された顔から女の香りが微かに漂った。

 

<(W)へ続く>

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