魔笛のインカ
魁三鉄
(W)
シルビアが出た後、しばらくして、来るときに私を案内した兵士が現われ、出発だと伝えた。マチュピチュへ向かうということだが……、と言いかけて私はそれ以上訊くのを慌ててやめた。ここは魔笛のインカなのだと自分に言い聞かせたから。
外は次第に夕闇の迫る世界となっていた。
「では失礼!」
来たときと同じように目隠しがされた。私はもう何の不安もなかった。ジープに乗せられて十五分ほど走った。途中から、来たときと同じようにジープが走る振動を除いては道の凹凸による揺れはなかった。平坦な道であった。目隠しをしてジープから降ろされたとき、私はそこがかなり広い平原のようになっていることを感じた。風が穏やかに頬を撫ぜたからである。私は手を引かれて五メートルくらい歩いた。なんとなく私を被うような、立ちふさぐようなものがあることを感じていた。そして手を引かれるままにちいさな梯子を昇った。シートに座らされた。カシャンと軽い音がしておなかの周りにベルトが着けられた。私は自分が何に乗せられているかが分り、こんな山奥のはずのところに一体どのようにして……と思った。そして、先ほどのシルビアの案内を思い出した。麻薬が絶大な資金を作り出しているのだ、という思いが頭をかすめた。声の様子からすると前に二人、そして私の隣に一人と四人が乗っていた。やがてほどなくして、機はブルン、ブルン、ルンルンルンと軽いプロペラ音をたて、滑るように走り出した。フッと体全体が浮かび上がるような気がした後、間もなくして、今度はストーンとエレベータがいきなり落ちたような感じがした。しばらくしてまた、下から突き上げられたように機は上へ押し上げられた。私は昔、グランド・キャニオンで乗ったセスナ機を思いだしていた。思ったよりも短い時間で機は高度を下げ始めた。三十分くらいの飛行であった。着陸してからも目隠しは外されなかった。
目隠しが外されたのは、再び、バンに乗せられてから二十分ほどが経ってからであった。
「マスクを外します」
癖のある英語が聞こえた。ティー・シャツにジーパンの麦藁帽子をかぶった赤銅色の顔をした男が隣でハンドルを握っていた。外はもう暗くなっていた。前方の左右を見渡すと山の端がいつまでもいつまでも私たちを追いかけながら立ちふさがるようにバンの前に現われた。車は時々、ドスンという度に揺り籠が風に煽られるように左右に肩を振った。男は自分の家の庭を走るかのように道をヘッドライトをつけずに薄闇の中をくぐりぬけていった。やがて大きな道路に出たとき初めて、ヘッドライトが照らされた。乗ってから初めて見た道路標識にAYA…という文字が見えた。しかし、標識のすべてを読み取ることも、またスペルのすべてを記憶していることもできなかった。さらに、ニ、三十分走ったであろうか、
「もうすぐマチュピチュだよ」
と男は言った。河の流れが白波をところどころに牙のように立てながら走って行くのが、ヘッドライトの照らす向こうに車が走るにつれ、右に左にと見えた。顔を見上げ、眼を凝らしてみると烏帽子のような形の小山がいくつか深いシルエットを作りながら重なり合っていた。観光案内書で見たことのある山の形だと思った。中腹にあるホテルの入口の前でバンを降りるとき、男はジーパンのポケットから物入れを取り出し、これはクスコ行きの列車の切符だと言って、細長い小さな貧弱な紙切れを手渡した。七時半に列車は出るから遺跡はまだあと一時間くらいは見学できるはずだ、普通の観光ならそれで十分だ、と言った。
遺跡にはまだ多くの観光客が残っていた。ガイドの説明を真剣に聞いているグループ・ツアー客、今晩は山の上のホテルに泊まるのだから、ゆっくり一つ一つの遺跡を見ようと話している人たちもいた。わたしは無数の石を積み上げた城跡の上に立ち、ひんやりとした風を体に受けたとき、沈黙の空中都市はけしていまでも消えていないと実感した。今しがたまでいた世界は確かに、太陽の汗と月の涙を流し続けた人々の末裔が、人間の存在を祝福する社会であった祖先の楽園を取り戻したいと望む世界であり、そこに見てきた世界はけして私の幻影の世界ではなかったことを確信した。
帰りのアウトバーゲンは指定席であった。私を取り囲むドイツ語を話す三人の観光客はときどき私の方に視線をちらり、ちらりと投げては少し怪訝そうな顔をしながら、何かを話していた。私は席に座ってしばらくすると疲れのためにすっかりと寝込んでしまった。クスコですよ、と肩を叩いてくれたドイツ人たちが寝ぼけた顔をしたままの私を見て笑った。私は居心地悪く苦笑いしながら、ありがとう、と礼を言った。駅舎で見た時計の針はもう十二時に近かった。
インティ・ホテルへ帰り、自分の部屋に入ると測ったように電話が鳴った。誰だろう?こんな時間に……。私は疲れと眠さに訝しく思いながら受話器を取った。スイッチ・ボードの係りが、あなたはイシイか?と尋ねた後、線をつないだ。
「だいぶ疲れているようね」
セシリアだ。そう判ると私は目が醒めた。
「まあ、疲れたけれど……、でもすごい経験をすることができましたよ。セシリア、この国の隠された現実が……」
そう言いかけて私は言うのをやめた。セシリアが割るように電話の向こうで話し始めたからである。
「パスポートとお金を含めた貴重品は明日空港へ送るときに渡すから心配しなくていいわよ。ただし、言ったとおり百ドルだけはいただいたわ」
「そんなことどうでもいいよ。セシリア!どうせ、明日…」
「明日はホテルの前に十時にピック・アップにでます。ただし、私ではなく、別のガイドが行くわ」
「エッ、あなたが迎えにくるんでないの?!…」
私は少しよろめいた。すると思わず涙が溢れてきた。声が出なくなった。ただ電話がこう言っていた。
「あなた、忘れないことよ。あなたが訪れたのは魔笛のインカだったってことを。いいこと?じゃ、さよなら。おやすみ」
私はベッドの方を振り返った。私はセシリアがまだそこにいないかと彼女が座っていたシーツのところに行き、顔をそこに押し付けた。どこかに、彼女の匂いが残っていないか、髪の毛一本でも残っていないかと私は空腹に狂った野良犬のようにそこに鼻を押しつけた。新鮮なクリーニングされたシーツの匂いだけが、私の鼻の中に入って来た。代わって、鼻水と混じった涙がじーんとシーツの上を這うように形を大きく広げて行った。
翌日、バタンというドアを開ける音で私は目が覚めた。メードが掃除器具を持って入ろうとして、私のベッドの中の姿を見るとあわてて出て行った。DON‘T DISTURBの札を戸口に掛けなかった私が悪かったと、姿の消えたメードにひとり心の中で謝った。と同時に、きっと聴こえているに違いないと思い、目覚まし時計となってくれた姿のないそのメードに声を出してサンクスを言った。
急いで、帰りの身支度を整えると約束の十時にホテルの前に出た。五、六分待ったが、予定のバンが来た。来ないとは分っていたが、それでももしかして、都合がついた、と言って笑いながら整った顔を見せるセシリアの姿を夢想した。
「ツーリスト会社からお預かりしたもんだよ」
バンから降りたガイドは私の貴重品を入れた袋を手渡した。私はホテルのフロントへ戻り、精算のためにすべてを取り出し、中を確認した。すべては手渡す前と同じであった。ただ財布の中から百ドル札一枚だけが減っていたことを除いては……。精算を済ませ、チェック・アウトするとバンに乗り込んだ。
ガイドは、クスコの街は気に入ったか?と尋ねた。そしてなんだってまたパスポートなど預けたのだと訊いた。私は曖昧に、生憎と適当な場所がないのでガイドさんにあずかってもらうように頼んだのだと適当な嘘を答えた。車を運転しながら、観光客たちには、スリやひったくり、泥棒天国のペルーなんて書いてあるのによくもまぁ、あんたは見ず知らずのガイドなんぞにそんな大切なものを預けたね、とうれしそうに言いながら驚いたと言うように肩をすくめた。
「セシリアさんは本当にいいガイドでしたよ。英語はきれいで分りやすかったし、説明も分りやすかったし……、それに私のタイプだったから……」
ちょっぴりあの美貌を誇るセシリアにガイドをしてもらったんだよ、と自分の好運を誇りたい気持ちで私は茶目っ気のある言い方をした。
「セシリア?しらねぇなぁ。そんなガイドの名……」
「えーっ?そんなことないでしょ!同じ街の同業者でしょうから……。それに私の荷物の袋、彼女から受け取ったんでしょ?」
「違うなぁ。俺は会社からこれは大事な客のものだから必ずそのまま渡すように……って頼まれただけよ。そうでもなきゃ、中身は神様の思し召しと思って少しいただいておくよ。会社から、ああ強く言われちゃな、もしなんかあったら、明日からおまんま食い上げだからな」
運転しながら男はさばけた調子でそう言った。
私はもう何も言わなかった。いったい、セシリアは誰だったんだろう。高山病用にくれた薬の適量といい、意味を持っていたあの図といい……、すべてが的確な情報と組織の力によって運ばれていたことは明らかであった。私は不思議な体験を頭の中でトレースし直していた。
「着きましたぜ。気をつけておかえんなさいまし。またいつか来てください。今度は俺がいいとこ案内してやるから……。百ドルも出せばおつりがきますぜ。アッハハ……」
クスコ空港はリマへ帰る大勢の観光客にごった返していた。搭乗アナウンスが告げられた時、私はそっと小さく、
「セシリアそしてシルビア、さようなら」
と声に出して言った。
「セシリア!この人も、さようならだって!」
私の後ろに並んだ客が、見送りゲートの方に向かって叫んだ。私は客が叫んだ方を思わず振り返った。そこには、彼のセシリアがこちらを見て、
「アディオス!」
と笑って手を振っていた。
<了>