魔笛のインカ

魁三鉄

(U)

 

 約束の時間の五分前になると、わたしは鏡の前に立ち簡単に自分の姿をチェックするとフロントデスクに近いロビーに向かった。空港での出来事からして今度もまた二十分は待つつもりでロビーへ来た。一度ベッドに横になってしまったためか、休めたはずの体がかえって少しだるくなっていた。ロビーは二十畳ほどのこじんまりとまとまった大きさで、ところどころに鉢植えされた夾竹桃と大きなシダの葉が背丈以上に伸びていた。黄色のランプに照らされた木造の柱や床が実際以上に黒く鈍く光っていた。

 ロビーに着くとジャケットに膝までの短いスカート姿へと姿を変えたセシリアが小さなポシェットバッグを小脇に抱えてニコニコしながらソファから立ち上がってわたしの方に小走りに来た。待ち遠しい恋人に会うような心の弾んだ歩調であるような気がした。

 「待った?」

 「全然!たったいま来たばかりだから」

 「そう、じゃぁ、ぼくはあと十五分してから来た方がよかったかも知れないな?!」

 「そうかしら?そしたらわたしきっと百ドルの報酬はこれ?ってののしりの言葉を吐いているわ!」

 セシリアは笑ってそう言いながら、針先のような鋭い視線をわたしの瞳の中に一瞬投げ込んだ。わたしは独り言を投げた空港でのうっぷん晴らしを思い出した。けれども、彼女がほとんど同時に体をすり寄せるようにしてわたしの肩に顔を近づけてきたことがそんな不快な思い出をさーっと吹き飛ばしていた。甘い香水の香りが彼女の首の辺りからわたしの鼻へとやわらかく入り込んだ。それだけのことでわたしは胸がキューッと心地よく締めつけられるような気がしていた。

 「明日のことを話す前に少し街の繁華街を歩いてみないこと?ティキラもあるし、インカビールのチチャもあるわよ。なんなら飲みながら計画を決めてもいいんじゃない?」

 「せっかくなんですが、少し体がだるいし、今晩は外へ出るよりもむしろここの方が……。ロビーではちょっと落ち着かないかもしれませんけど……」と言いかけた時、

 「じゃ、あなたの部屋にしましょうよ。そのほうが楽でいいでしょ?!」

 セシリアはほとんど反射的にそう応えた。これといったロビーに代わる適当な場所を頭に描いていたわけではない私はためらいながらうなずいた。けれどもやはり私は確かめたくてこう言った。

  「…………、セシリア、」

  「なに?」

  「本当にいいのかな?」

  「いいってって、何が?」

 セシリアはわざとぼかすように問いを返した

  「部屋へ入るってことは……、あのー、……」

 私はとまどいながらやはりここははっきりとそのことを確認しなければいけないと心に言い聞かせ、そして続けた。

  「私の国では、否、どこの国でもホテルで部屋を教えるということは、……、つまりプライベートな世界を共にするということだけれども、それを承知で言っているの?」

  「あなたって数奇な人ね……。心してのことよ!」

  「わかった」

 私は返事をすると同時にこの申し出にすっかりと乗ることを決意した。どんなことになって行くかは分らない。けれども自分の意思で承知したことならこの先にどんな運命が待ち受けていようとも自分を納得させることができる。私は事にあって改めて整理してからでないと動かぬ自分の心に苦笑いした。

  部屋まで並んで歩く途中、インディオのメードに会うたびにセシリアは気安くケチュア語と呼ばれる彼らの言葉でアリ・トウタと声をかけた。メードたちもまたやや猫背の姿勢で…ゥタと口の中でつぶやくように返事をした。私は神経質に、彼らが一人で泊まることになっている部屋にもう一人の、しかも女性を同伴することをどう見つめるのだろうか、と彼らの挨拶の反応の中にそのこたえを見つけようとしたが、彼らは格別の視線や態度を見せることもなくただ廊下に立っていた。すくなくともしばしば各国の都市のホテルなどで見かける侮蔑的な視線や屈折した感情を押さえ込むような表情はなかった。インディオたちは果たして人間としての感情の一切までをもすべて根こそぎその歴史の中で奪われてしまったのだろうかとさえ私には思われた。

 私のその離れにある部屋はわざわざ私たちのためにということではなく、もともと二人が泊まるように全てが用意されていた部屋であった。廊下の途中で見かけたほかの部屋のドアの大きさから判断する限り私のために用意されていた部屋はスィート・ルームとでもいうような造りであった。

 私はテーブルと対になったセットの木造りの椅子に腰をかけた。肘掛のないベッドに腰を下ろすことは両手でわが身を支えることによって姿勢を保たねばならず、なにか体ばかりでなく心の不安定さを呼ぶような気がしたからである。セシリアはこの部屋のどこには何があるということを熟知しているかのように、いきなりシーツのめくれあがった方とは別の、きれいに準備されたベッドに、抱えていたポシェットをそっと置き、腰をかけた。

  改めて見るセシリアは顔立ちといい、プロポーションといい、その全体のバランスの良さは神話のアフロディティとはこのような女神をいうのだろうと思わせる、一種犯しがたい強さをそなえていた。革ジャンパーやジャケットの下に出会ってから先ほどまで隠されていた胸には下着メーカーのモデルそのままの乳房がセーターの下でそのなめらかな線を程よい高さに立体的に描いていた。腰上はキュッと締まり、その下には張り出したゴム鞠のような腰の線がベッドのシーツを深くえぐっていた。膝から下の脚は太くも細くもなく、引き締まった感じで床に伸び、ストッキングの細かな網の目が部屋のあかりに陰と一筋に細く輝く線を浮かび上がらせ、彼女が脚の位置を代えるたびに私の眼の中にはそれが妖しくすーっと忍び込んできた。私は彼女の上下の唇が上下対称のバランスの良いハート型を作って見せる位置に座っていた。彼女の顔の動かす位置によっては半分だけのプロフィールだけが浮かび上がり、また話すときには顔だけがお互いに向き合うのにさして苦にならない位置であった。

  「それにしても、きれいだ。夢の中にいるようだ」

 私はきれいだというところまでを日本語で、それから後を英語でつぶやくように言った。

  「ありがとう。私、これでも少しインディオの血が入っているのよ」

  「別に入っていたってかまわないじゃないですか。ぼくなどは人種的に見たらなにがなんだか分らない人間さ。ぼくに限らず、日本人はもともと混血人種だもの。ぼくたちにとってはそういう話ってのは話題にもならないことですよ」

  「この国のことはどれくらい知っているの?」

  「ぼくですか? 一通りのことだけですね。たとえば、インカの悲しい歴史とかナスカの地上絵とか空中都市のマチュピチュのこととか。それに少しは興味の範囲が広いから南北問題がらみの経済的貧困をめぐる問題などもね。もっともこれはペルーだけの問題というよりはラテンアメリカ全体の問題といったほうがよいでしょうけれど…。ぼくは国家とか政府の政策とかの問題としてよりも現実に生きている人々の生活ぶりやら考え方の方に興味が強いんですよ。イデオロギーとかなんとかというものよりも、なんと言うのかな、身近なところにいる現実のなかで他人に対する優しさを忘れないこととでも言ったらよいのかな…。うまく表現しきれないけれど、人種とか、お金があるとかないとか、ということを超えた……」

  セシリアは私が話す間、時々射抜くような視線を光らせた。

  「きょう、見たインカの遺跡はどうだった?何か印象があったかしら?」

  「言葉をもたない文明といわれているインカのようですけれど、ぼくに言わせると少し違うのではないかと思いますよ。文化が言葉を必要としない程度にしか発達していなかったと考えるよりは、むしろ書き言葉が非常に高度な記録媒体に書き込まれていたのではないかと考えた方がよいのではないかと思ったこともありますね。たとえば、今の時代のフロッピー・ディスクみたいなものがあったとか? ま、これはちょっと突飛過ぎるでしょうけれどね。あるいはモーツアルトの「魔笛」の世界みたく沈黙を絶対の美徳とするようなそんな文化があったのかも知れませんね!」

  「あなたって、おもしろい人ね。ペルーで「魔笛」の話をする人、私初めてよ。ところで明日はどうしましょう?それとも今夜のうちに行動する?」

 そう言って、彼女は吸い込むような光を眼から放ち、脚をニ、三度交錯させながら、ポシェットを引き寄せ、小さな口紅取り出し、軽く唇にルージュをひいた。

  「……」

 わたしはこれはもう行くところまで行くことを了解している誘いだと思った。

  「ペルーを知りたいって言ってたでしょ? 私はペルーそのものよ」

 まちがいなく誘っている。私は下を向いて黙りこくってしまった。

  「ライトを消して、来て!お願い」

 私は着ている上着を脱ぎ、肌着一枚となった格好で壁際のスイッチを消しに椅子を立った。カチンと音がして部屋は一瞬真っ暗になった。数秒もすると目は少しづつ暗さに慣れ始めた。月の光が今夜の成り行きを妖しく演出するようにロマネスクのアーチをえがく窓の外から部屋の中を照らしていた。振り返ったベッドの上でセシリアのセーターを首のところまでたくし上げている姿が腹のくびれたペルシャの大壺のようなシルエットを描いていた。相変わらず、体はだるいままであったが、これから始まる快楽の世界の前にその進行は押さえられていた。私は肌着を着けたまま、横になっているセシリアのベッドへとゆっくりと歩んだ。私が靴を脱ぎ不安定な格好で彼女の脇へと滑り込もうとしたとき、彼女は私の後ろ肩へとしがみつくようにして顔を押し付けてきた。唇が肩甲骨のあたりに押付けられてきたような感じがした。そして人差し指が優しく短く、いま唇を押しつけてきたそのあたりを二回ほどなぞくった。豊かな髪の毛が首筋辺りの肌の上を柔らかく行き来し、私は官能の悦びに身をくねらせた。街のどこかでケーナの哀愁を含んだ独特の音が鳴っているのが聴こえていた。

  「ケーナの音だね。月の光に良くあう……」

  「これがペルーの夜よ……」

 セシリアは私の耳元へ唇を動かすと甘くささやきながらフーッと耳元に息を吹き込んだ。私は今度は自分の番だとばかりに体をひねり、セシリアの両肩に手を掛けた。

  「アッ、ごめんなさい。ライトをもう一度つけてくださらない?そうそう先にもらっておかなくては……」

 豹のようにすばやくセシリアの体は私の手を振り切っていた。そしてなかば呆然としている私をベッドに残したまますばやく壁際に走りライトをつけた。暗さになれはじめた私の瞳は眩しそうにライトをチラリと見やった。

  「百ドル……」

 セシリアがそう言いかけたとき、

  「なに!? 百ドルだと! ぼくはそんなもので貴女を抱きたくはない。率直に言って、ぼくは君の体が欲しい。抱きたい。でも、お金でなんか、貴女を抱きたくなんかない。お金が惜しくてお金を払わずに抱きたいからこういっているのではありません!お金を払えば後腐れがないからいいというのもおかしい!別段、道徳家ぶったりするつもりなんか少しもないけれど、ぼくは自分の魅力だけで抱き合いたいのですよ。結婚に至るにせよ、刹那的な一夜の逢瀬にせよ、男と女の裸同士の気持ちの交換でなければ抱き合う意味がないんです。人の愛情行為は絶対お金の交換の対象ではないのです。お金が欲しいのなら、百ドルなんか今すぐあげますよ。お金だけ持ってさっさとこの部屋から出て行ってください。女性を連れ込んだ代償として払う金額として妥当かどうかわかりませんが、必要なら手持ちの有り金全部あげますよ」

 私は自分で勝手に決めつけた事の顛末を想像し、一気にまくし立てた。

  「分ったわ。じゃ、私にあなたのパスポートとお金、すべて渡しなさい」

 私はすっかり、自分が女の罠にはまったものと諦め、全てを渡した後、直ちに警察へ連絡して必要な処置をとってもらうことを覚悟した。私は、手際よく衣服を身につけ始めたセシリアをただ黙って、見続けた。するとセーターを覆い終わったセシリアは私をしっかりと見つめ、

  「さぁ、あなたも支度をして。「魔笛」の世界があなたを待っているわ!」

と、落ち着いた声で低く言った。私は何が起こっているのかわからなかった。ただ、自分が勝手に予想した娼婦の罠に落ちた金を持った日本人という現地の新聞記事の肴に仕立てられるのではなさそうだ、ということだけをこの瞬間感じた。

  「九時半に迎えの者が来るわ。身軽に動ける服装をして…」有無を言わせぬような力のある言い方でセシリアは私に支度をするようなかば命じた。

 私は何が起こるかも全く分らないままに言われるままに身支度を整えた。

  「いいこと。私の言うことを信じて言われたとおりにすることよ。そうすれば、3日後にはここで再会できるわ。これからのことはインカの沈黙の世界ってこと忘れなければよ」

  「セシリア!分った!なんだかわからないが、あなたの言うとおりにする。ただ、体が時間を追うたびに重くなってきているんだ。なんだか、口の周りがしびれるような…。それに頭も少し鈍く痛くなってきたようだ。果たして体がいうことをきくかどうか?……」

  「きっと、高山病の軽いのだわ。私、後で薬をあげるから心配要らないわ。それと大事なこと、今からあなたはルディよ。いいこと。忘れないでよ。自分の名前。九時半にホテルの入口前に立っていなさいよ」

 セシリアはてきぱきと私に守るべき指示を与えた。これはただ事ではないな。そう私は心の中でつぶやいた。そして「よし、彼女を信じよう」と心を再び決めた。どっちにしろ、セシリアに心をすっかり預けたことには代わりはなかったのだから。

  セシリアが部屋を出て行った後、私は自分の顔をつねってみた。白磁のような肌をした女がしっとりと体にからみつき、腰を激しく揺り動かす姿は自分が意志の力で想像しない限り、私の眼前にはなかった。ただ、セシリアが横になったシーツだけがまだひだを深く刻んでいた。私は重くなって行く体をそこに運び、ついさっきまでは確かに絶世の美女がそこに私をまっていたのだということを、ただ残された甘い香水の匂いによってのみ確かめることができた。

  やがて、一方的に言われた約束の時間が迫ってきた。私はルディ、ルディ、ルディと与えられた名前を三回立て続けに繰り返した。

  ホテルの前に立ったとき、道行く観光客の姿はまだ宵の口を楽しむように三々五々と見かけられた。何が起こるのかわからないが、「魔笛」をヒントに判断をし、後はセシリアを信じよう。部屋の中で遠くに聞こえたケーナの音が意外と近いところでギターの音と一緒になっていた。

 九時半かっきりにドッジのバンが着た。

  「ルディ!乗って」

  セシリアはそういいながら自分と入れ替えに私を後ろの席へと押し込んだ。車は明らかにインディオとわかる男が運転していた。私は黙って会釈だけをした。セシリアが手に小さな紙袋を持って、

  「車は山に入るから、もし気分が更に悪くなるようだったら、これを飲んで。そうすればたちどころに気分は良くなるはずよ。あなたは百三十五ポンドだから、これを半分に割って飲んで。噛まずにね。一度で十分なはずだけれど、念のため、三日分入れてあるわ」

 と言って、それを私に渡した。私はセシリアは一緒には来ないのだと思うと辛かった。

  「じゃぁ、またね。きっとよ」

 セシリアは初めて空港で会ったときの美しい笑顔を窓越しに送った。ブルン、という低く重い音と供にドッジは動き始めた。まもなく市外を抜けて車は坂道を登り始めた。窓からはクスコの街がプラネタリウムの星のようにきらめいていた。やがて、車は人気(ひとけ)のない山岳地帯に入り始めていた。どこへ行くのだろうか?ふと不安がよぎった。車を運転するインディオは黙ってひたすらハンドルをきっていた。だがこの頃から確実に高山病の症状は重くなり始め、激しい頭痛と体全体のしびれを運んできた。私は今しがたもらったばかりの袋を取り出しながら、指示されたとおりにワイシャツのボタン程の大きさの白い錠剤を爪の先で半分に割り、唾液と一緒に飲み込んだ。無性に体が横になりたがっていた。私はそーっとシートに横になった。車の窓から斜め上に時々天空に輝く星が見えた。少しずつ車の振動も激しくなって来たようだ。しかし、ものの十分もしないうちに私は薬の効き目だろうか、暗黒の世界に落ち込んでいった。 

<(V)へ続く>

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