魔笛のインカ

魁三鉄

(T)

 

 機から今降りた人々は次々と、出迎えた人々と楽しげに語り合いながら、共にかれらの車の方へと、また、あるもの達は予定したとおりにか、慣れた様子で出口を出るとタクシーを拾っては空港から消えて行く。ここクスコの街に降りた百人ほどの乗客たちはこうして三十分ほどの間にすっかり街の中へと消えてしまっていた。先ほどまでの喧騒は波を引くように消えていた。

 「誰かが迎えに出ているはずですから心配なくてよ」

 わたしは、飛び込んだリマの旅行会社のカウンターで幸運にもようやく手にすることのできたクスコ、マチュピチュのバウチャーとの引換に百二十八ドルを払った後に、カウンター越しに、「やるべきわたしの仕事は終わったわ。後はあなた次第よ。後ろに並ぶ次の人への応対がこれ以上あなたへの係わり合いを許さないの……」というニュアンスをこめて型通りの業務上の挨拶をおくったカウンターレディの顔を思い出しながら迎えに来ているはずのガイドの姿を求めていた。空港出口の待合室にはもはや数人の人間しかいなかった。男性の一組は地図をひろげ、これからの行動計画かなにかをしきりに話していた。これはあきらかに自分が会うことになっている人ではない。わたしは黙って心のうちで推測した。木製のベンチには二人の女が二人分くらいのスペースを空けてお互いに別の方向を見ながら座っていた。わたしはもうこのままじっと待っていられないとじれながら、座っている女に声をかけて自分を迎えに来た人であるかどうかを確認しようと決した。顔立ちはスペイン系の、肌の色がやや浅黒いメスティーソと思われる女と視線が交錯したとき、わたしは彼女のところに近づき、

 「あなたはイシイを迎えに来ているガイドの方ですか?」

と英語で話しかけた。女は怪訝な顔をして、両肩をすくめながら二つの手のひらを空へ向けた。違うな!とわたしは心の中でつぶやきながら、同時に隣に座っている女の方へちらりと視線を投げた。

 「わたしよ!迎えに来たのは!」

とでも、顔を上げながら快活に応えれてくれれば……という期待はあっさりと裏切られた。女はただ黙って横に小さく首を振った。

 混雑でごったがえすリマ空港の国内線フォーセット航空のカウンターの手際の悪さになかば腹立ちながらもなんとか人づてに搭乗ゲートを探しながら、ようやく出発時刻直前の機に飛び込めた数時間前の光景を思い出しながら、わたしはここはペルーなんだと自分に言い聞かせていた。またスペイン語を一言でも発しようとする気のない自分への報酬がこの孤独感なのだろうと心のバランス計算をしながら、自分を納得させている自分を見つめていた。

 少しだけ、空港の外の景色を眺めに外へ出てみた。着陸直前に擂り鉢の底へと向かって降りて行くように感じた鉢の腹の部分が、今は逆に四方の壁をなす赤茶色の山並みとなってこの街を囲んでいる。なるほど「おへそ」の街だ。ある方向のなだらかな丘陵状の至るところには切り妻屋根のこれも赤茶けた家々が軒を並べている。またあるところには白い道路らしき曲線がミミズのような軌跡をえがいているのがわかる。五分ほどそのようにしてはまた先ほどの待合室へと戻った。出迎えに出たにもかかわらず、客はいなかった、と言い訳されたくなかったからである。そんなことを二回、三回と繰り返しているうちに先ほどまでいた男たちも女たちもいつのまにかいずこかへと消えていた。五回目に外の景色を眺めた後、わたしは人恋しくなって、「出口の待合室はこの一箇所だけか?」と英語で空港の職員に尋ねてみた。「イエス」という返事だけが短く返ってきただけであった。もう三十分も待たされている。もう待ちきれない。怒りと決断を迫られる緊張感でわたしは落ち着きのない視線を辺りいったいに投げかけながら、「畜生!あと百ドルも出せば、本当のペルーを味わえるとはとんだ言い草だ。契約違反で、リマへ帰ったらエイジェントに文句を言って金を返してもらわねば!絶対!」と、リマの旅行会社のお愛想を言っていた受付担当者の顔を頭に浮かべて口汚い言葉をコンクリートの床に向かって投げつけていた。もう待てない!そう決断した。持ってきた荷物がぐっと重くなったような感じがして一層いまいましかった。いま、改めて外へ出てみると冬季の八月とはいえ太陽の日差しが強く照っていた。まずは車を拾って街のツーリストビュローへ行き、これからのことを考え直そう、そう思ってタクシーの方へ足を向け始めた。 と、その時である、

 「イシイさんではありませんか?」

 背中の方から英語でわたしを呼ぶ声がした。女性とわかるその声のやわらかさにわたしの先の尖った氷の心はその先が溶かされた。

 「セシリアです。クスコの街を案内するガイドです。お待ちになりまして?」

 なにが待ったかですってだ?決まってるじゃないか。見え透いた世辞を使いやがって。わたしは心の中で待たされたことのうっぷんを晴らすように腹の中にぶちまけながら、それでも笑顔を作って声のする方を振り返った。

 セシリアは逆行の中で数メートル先から黒い影を短くしながら歩み寄ってきた。お互いの手が握手を交わすところまで近づいたとき、わたしの冷たく固まった心は一瞬にして氷解してしまっていた。実際、彼女の笑顔からは白く隙間なく整った上の歯列がピンクの下唇の上に形よくのっていた。目鼻立ちの整ったすっきりとした線が何か筋の通ったものを感じさせた。服装は黒い皮のジャンパーにやはり黒いタイツ、そして編み上げの半長靴で身繕っていた。首には桜色の絹のスカーフが無造作っぽく巻かれていた。わたしはこの女は自分の美しさをわざと隠しているなと直感した。わたしは自分好みのタイプの女の存在が、たった今しがたまでの強いマイナスの感情をすべて一瞬に押し流してしまう女というものの不思議さと、怒りというものがその程度のものでしか持てない自分の怒りのいい加減さに呆れながら、差し出された手をしっかりと握っていた。手は冷たかったが、わたしは少しも不快に感じなかった。指先の薄いピンクのマニュキアが妖しくわたしの気持ちを誘った。 

 「あっちにバンを停めてあるわ。今日から三日間あなたをガイドするわ。これから一通り、クスコの街と近郊を車で案内するわ」

 「よろしくお願いします。いやー、英語を話してくれるので助かりましたよ。だって、リマではなんにも詳しいことは聞かなかったのですから」

 わたしはセシリアの美貌と姿態がわたしを本能的につかんでしまっていることを悟られないように気をつけながらも、なかばうわの空で世辞を言って話をつないだ。セシリアは停めてあるバンを今からこちらにまわすからと言ったが、わたしは荷物は軽いものしかないし、一緒に車まで歩いて行くほうがよいと言って歩き始めた。車は遠くに見えたが、あっという間にわたしたちはバンに着いてしまった。車には誰も待っていなかった。わたしは待たされる報酬が常にこんなものであるならば、何時間待たされてもよいなどと勝手な言い草を心の中でする自分に対して独りで薄く笑った。セシリアには気づかれないように……。

 「クスコの街についてはここへ来る前に少しは案内書を読んできたんでしょ?」

 「ええ、日本でも、飛行機の中でも……」

 「三時間もあれば観光客が普通見るべきものはみな見ることができるわ。最初にコリカンチャ太陽の神殿に行きましょ」

 「わたしはあなたの行くところ、どこへでもついて行きますよ」

 「行きさきは地獄でもいいのかしら?」

 セシリアは心密かに期待したわたしの心を見透かすように妖しい視線を送りながら軽く左目をウィンクした。わたしは、これはひょっとすると期待が実現するかもしれない……と、その誘うような視線に微笑を送り返してそして下を向いた。わたしの期待はといえば、たとえ刹那的なものに終わる恋であるとしても、それはどこまでも心と心との通い合いを絶対の条件としていた。それは世間に対する道徳家を気取った訳ではなく、ただ自分の素のままの裸の力のみにより、ひきつけ、ひきつけられあうことこそが、恋において自分の力であることを自分にいつわりなく認めさせる唯一の道であると常々心していたからであった。

 バンは走り出していた。しばらく走ると石畳を敷き詰めた街の中に入った。狭い道路に敷き詰められた石のそれらは何百年という歳月を行き交う家畜や人の汗を吸い込んでいるように黒光りさせながら、敷き詰められた継ぎ目の隙間だけを白茶色に浮きあがらせ、それらが石を組み合わせて敷いてあるものだということをわたしたちに知らせていた。狭い道路の両側には庭もなくいきなり建物の壁が二階から三階分ほどの高さに連なり、そのことがいっそう道幅を狭く感じさせていた。

 「着いたわよ。現在は聖ドミンゴ寺院。インカの時代には太陽神が祭られていた信仰の中心地だったところよ。当時は金銀製の奉納物がたくさんあったといわれているわ。この堅固な建物はスペイン人たちの建物がみな倒壊してしまった大地震のときにもびくともしなかったという堅固な建築技術にささえられているの」

 型どおりの説明をするセシリアのきれいな英語をうつろに聞きながらその実、わたしはあらぬことを期待していた。まわりの壁は同じ大きさの直方体からなる石が無数に積み重ねられているのに気がついたのは、帰国後の写真を見てのことであった。わたしのなかでは時間の経過につれセシリアがその姿を大きくして行った。再び、バンに戻ったあと、さらにカテドラル、そしてアルマス広場へと車を進めた。広場には赤銅色の肌をしたインディオたちがところどころに鮮やかな水色のビニールを敷き、その上に独特の幾何学模様の赤茶色と鮮やかな水色で描いた陶器の皿や盆、器、そして銀製のペンダントやトゥミと呼ばれるインカの神様の形をした飾りなどを所狭しと並べていた。

 「もういいかしら。そしたら次は郊外に出るわよ。サクサイワマン、タンボマチャイ、ケンコの遺跡巡りよ」

 「はい。どこへでも、あなたと一緒なら」

 わたしは少し大胆な口の利き方をしてみた。セシリアはもっと大胆になれるんならなってね、とでも言うようにいたずらっぽく笑って、再びハンドルを握った。郊外へ抜ける道は上り坂となった。対向車のすれ違いを許さないほどのその狭い道を車体一面にイタズラガキを描き込まれたバスが黒い排気ガスをモクモクとたてながら喘ぐようにのぼって行く。そのノロノロのバスの後ろから出される排気ガスを吸い込むことでのぼるエネルギーを得ているかのようにしてわれわれのバンものぼって行く。クスコの街並みがみるみるうちに眼下に広がり始めた。やがて車は草原の台地へと入った。時々、異様にだぶついたサイズの上着とスカートをはき、頭には派手な赤や緑や青の模様の入った帽子をのせたインディオの女、子供の姿が道端を歩くともなく、立ち止まるともなくよろよろとしどけない様で歩いているのが目に入ってくる。アルパカ、リャマと呼ばれる、羊の手足、首を長くしたような赤茶色の家畜たちが数頭づつ群れをなして赤茶けた地肌にわずかに生える草を食んでいる。

 遺跡にはグループ・ツァーで来た世界中から集まった観光客たちがガイドの説明を熱心に聴いていた。人の群がっているところにはかならずいる日本人の団体客はなぜか、たそがれのせまるこの時間にはいなかった。タンボマチャイではインカの時代には湯浴みに使用したという注ぎ落ちる水をセシリアの勧めるままに飲んでみた。

 「甘い蜜をなめるように舌で味わって飲むのよ!」

 思わせぶった口調で妖しく微笑みながらアドヴァイスをくれた。三箇所の遺跡をすべて周り終える頃には既に太陽はアンデスの山並みの向こうにその姿を沈めていた。空には青白い月が所々を薄黒く汚しながら、その輝きを次第次第に増し始めていた。クスコの街の灯が所によっては黄色く、またある所ではかたまって青白く光っていた。

 「さぁ、ホテルへ行きましょう。もちろんホテルまで送るわよ。車の中で明日からの計画については相談しましょう。ホテルが気に入ってくれるといいわ」

 わたしは帰るのが惜しくなっていた。しかし、促しの声を断る機転の効いた言い訳をどこにも見つけることができなかった。

 「ええ……。あなたともっと遅くまでここから街の灯を眺めていたいんだけれども……」

 仕方がないという落胆の気持ちが素直に出た声の調子であった。

 ホテルへ向かう車の中でセシリアはわたしに尋ねた。

 「明日はどこに行きたいの?希望があるならば言って。マチュピチュのことは了解しているわ。大丈夫、かならず行けるわ。そのほかには?」

 「場所はどこと指定しないけれども、ペルーの本当の姿がみえるところがあれば……」

 「むずかしい注文なのね。なかなか……。わたしに任せてくれるかしら?」

 「…………」

 約三十分も走ったであろうか、市街地へ戻った車はインティと書いてあるホテルの前に停車した。フロントデスクで手際よく所定の手続きを済ませると、セシリアは八時にもう一度ここへ来るからその時までに夕食を済ませておくように、とだけ言ってホテルの外へ出て行った。

 わたしは手荷物を持ったまま、インディオのボーイの後に従い与えられた自分の部屋に向かった。用意された部屋は別館の離れたところに独立した母屋を持っていた。部屋には大きなベッドが二つきちんとメイキングされていた。わたしは、部屋が立派過ぎて何かの間違いではないか、と怪訝そうに案内をしてくれたボーイに尋ねたが、「ノー・ミステーク」とうやうやしく頭を下げて、鍵を部屋備え付けのテーブルの上に置いていった。三千五百メートルを超える高地に急に入ったためか少し頭痛がしていた。シャワーを浴び、夕食をとり終えて部屋に戻るとベッドの上に服を着たまま倒れこんだ。スプリングの効いたベッドはわたしの体を最初は大きく、そして次第に小刻みに何度も何度も上下に揺らしやがてわたしの体は停止した。三十分したら八時になるが果たして彼女は本当に来るんだろうか?いったいどんなプランをもって……?いっそうのこと、プランなど持たずにただ会うために体ひとつで来てくれれば……。その後の事を夢想することによってわたしは体の一部が堅くなるのを感じた。

<(U)へ続く>  

  

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