わが名はヘボタ(8)
魁 三鉄
いつでもどこでも俺にしつこく付いてきて決して離れないものがある。自分の体の一部としてくっついているようなものならばいつのまにか慣れてしまって気にならなくなるというものだが、身の回りを俳回し、隙あれば付きまとい、払われては離れ、また少しすると近づいてくる、活き血を求めて飛んでくる夏の夜の蚊のような奴は気になって仕方がない。気になって仕方がないというくらい穏やかに構えていられるうちはまだ良いが、時と場合によっては「こんちきしょう!」などと腹立たしくなってくる。蚊の奴は羽音をたてて飛んでくるのがわかるからせいぜい腹を立てる程度でことがすむ。ところが確実に付きまとっていることが感じられるのだがその姿がすーっと現れたり、すーっと消えて行ったりする、そんな姿で付きまとうものがある。
そいつはお日様が高さを変え、光の強さを変えるに従ってその姿も伸びたり、縮んだり、色も濃くなったり、薄くなったりする……。そのうえ、のっぺりと地面にへばりついたり、時には壁に突然張り付いたりと、つかず離れずどこまでも付いてくる。オレは最初この黒いものが、オレが走れば一緒に走り、止まれば止まるのを見てぞくぞくっとした。食らいつこうとすればそいつは曖昧な姿になって地面の上に吸い込まれてしまう。顔を近づければ近づけるほどさっきまではっきりしていた姿がもやもやっとして拡散して、消えて行ってしまう。この不思議な妖怪は影と呼ばれている。影はオレにとっては一生の謎となってしまった。
ようやく人生も、否、犬人生も晩年を迎えるこのごろどうやらその姿は毎日のように姿を現しているお日様の存在と関係があるらしいということがわかってきた。でも暗い夜になっても、そいつは姿を現すからもしかしたらお月様とも関係があるかもしれない。そう考えるとお日様とお月様とそいつとの関係がわからなくなってくる。それに夜の町中を散歩に連れられて行ったときでさえそいつは姿を現す。そうなるとますますオレにはわからなくなってくる。一体、この一生つきまとう影ってなんだ?
人間様にも実はそういう影が付きまとうらしいのだが、オレにくっつく影とはまた異質な影があるらしいということがわかったのはオレの主人がまだこちらの家へ帰還する前のある日のことだ。
その日主人は東京の家から袋鞄になにかを一杯に詰めてこの家に遊びにきた。なんでも外国にいる友達を飛行機に乗って訪ねて行くのだが、万一飛行機が事故にあって墜落したときには葬式など不要だからここにある原稿を印刷して出版してほしいというのだ。それは主人が自分で書いた文字の塊なのだという。
「どうせお前になんか読めないだろうけど何となくお前は哲学的な顔をしている奴だから同僚のような気がする」などと相変わらず勝手なものの言い方をしてオレに真っ白な紙の上にある文字の塊をぺらぺらとめっくては自分で納得してオレにも見せている。みみずがのたうち回ったような姿をしたブルーのインクの連続が白いスペースを一杯に埋めて何ページも何ページも続いている。インク瓶のインクをただペン先を通して流し続けたとしても何日も何日も流し続けなければみみずの線は引けまい。
人間というものは妙なことをするものだとオレは半ば呆れながらも少しは感心をする。それにもちまえの好奇心の虫が自ずとうごめいてきた。オレは目の前を流れて行く曲水の宴に浮かぶ酒杯をすくうように、流れるインク文字の水流を目という酒杯の中にすくいとっていた。オレは影という文字が頻繁に現れるところに注意しながら目の酒杯一杯にインク文字を汲み上げてはそれを好奇心によって乾かされたオレの大脳の中へと注ぎ込んだ。
主人はもう10年以上も前の30才くらいの時に、影論ということではなく、人間社会の組織支配の仕組みを説明する方程式として一冊の本にできるボリュームの原稿を作成していたそうだ。オレがここにこれから書こうとすることはその原稿とは別のところに書かれている内容らしい。オレにみせてくれた原稿というのは毎日毎日書き綴られているものだが、体系的に整理されているものではなく、思いつくままに書き綴られたものでまとまりもないらしい。
だから、――というのはオレの責任逃れというか、言い訳になってしまうのだが―−、オレが目にしたものの百分の一のうろ覚えでしかない。それでも何も書かないよりはましだと自分に言い聞かせて、以下にはそこに書いてあったことを思い出しながら少し記してみたわけだ。いうなれば代書、つまりはオレの口をかりた主人の「影」論という訳だ。
人間様は何でも人生のうちに2回ぐらいそういうはっきりとした影に取り付かれる時期があるらしい。14から15才頃に1度、そして25から28才くらいの歳にもう一度、必ずそのついて回るものに憑かれるという。もっとも、ありとあらゆる人々がそのようなものに取り付かれるのかといえばそうではないらしい。
どんな人が、どんな若者が取り付かれるかといえば、とにかく平均的なものから良きにせよ、悪しきにせよ、1000人のなかの3人くらいより少ない程度に平均からはずれているということがまず絶対の条件だ。いわゆる学校の成績がものすごく良いとか、すごく素行が悪くて皆から恐れられているとか、すごく足が早いとか、すごく絵がうまいとか、とにかく普通ではないものを身につけているという場合だ。多くの場合つきまとうものの存在は気づかれずにすんでしまうのが普通であるらしい。実際のところ本人が何も気がつかない限りは、なんにもなかったことになる訳だ。
ところが、――結果からみるといわゆる学校の成績の良い子供の場合が多いのだが――、このこと、つまり絶えずついて回るものの存在に気がついてしまうきわめて鋭敏な感性を持った子供がいるのだ。この子供の知的好奇心が強いと一体それはなんだろうかと追跡を始めることになる。こうなるとつきまとう側もその存在に気がつかれたことを隠すように動き出す。そして時々はまた姿をそっと忍び寄っては彼のそばに姿を現すことになる。どれくらい意識して自分の姿を彼がはっきりと認識し始めたかを確かめるように……だ。大概はここまででお仕舞だ。
{何かうっとおしいものが身の回りに存在し始めた、が、気にしないでおこう。その方が妙なものに煩わされないで良いから……}と、そう考えるのが普通だ。それに14、5才というと上の学校へ進学するという身近かで大きな課題が迫っている。だから自然と気はそちらの方に引かれて、身の回りをうろついているもののことは忘れてしまうようになる。
ところがまれに尚もその存在を一層好奇心を持って追いかけ始める子供がいる。早熟の子供はたしかな手ごたえを持ってそれがひょっとしたら世の中を支配しているものなのではないかと思ったりするわけだ。そうなるとつきまとう側にとってはちょっと都合が悪くなってくる。{正体を見たな!適当なところで引き下がらないと後々困るようになるぞ!}ということを陰に陽にと本人に対しては確実に感じられる手段で、しかし彼の回りをとりまく人間達にはまったく気がつかれないようにして、忍び寄りながら近づいてくる。
よくTVなどで、悪玉の正体を偶然見てしまった少年や少女が悪玉の一味たちに追いかけられたりする番組があるが、そういうのは、後に大人になってから、子供の頃に付きまとったもののことを名指しでは攻められないことがわかって、――そんなことをしようとしたら番組制作の担当者から降ろされて生活ができなくなったり、出世を止められたり、孤立させられて、社会的に葬られてしまうということが分かっているから――、虚構の世界を借りて悪玉仕立ての番組を制作して、間接的に影として存在するものの真実を人々に知ってもらおうとしているわけだ。
この程度の、大人になって社会的地位が高くなるにつれて実感としてわかり始めるようなことが鋭敏な子供には直感的にわかってしまうのだ。なにか、確実に暗い力が社会には存在しているということを確信したような場合、大概、子供は、恐怖心から自分が何物かに脅迫されているという観念を持ち始め、親や、友人にそのことを声に出して訴え始める。周囲の人間達はその子が何におびえたり、気にし始めているのかがわからないから、勉強のし過ぎで頭が少し疲れているんだろうとか、おかしくなったんだろうとか、妄想にとりつかれてノイローゼにでもなったらしいなどといって、まともにその子の云うことを聞こうとはしない。
果ては病院に行くと若いときに良くある一種の神経症だなどということで病院に入れられたりしてしまう。病院の医者も本当はその影が何かということは社会生活の中でうすうすはわかっていても確たる証拠がないのにあからさまにそれが何であるかということを少年と一緒になって言ってしまうと、自分の医者としての生活が危うくなってくることを感じ、かえて子供を病気扱いにしておく方が自分の身のためと考え、影の姿に自分を合わせてしまう。それまで忍び寄ってはつきまとっていたものは{これで良し!一件落着!}と密かににんまりとしてその姿をそーっと消して行く。
そんな話やクラスメートに当てはまる体験、もしかしたら読者の中にもありはしないだろうか?頭が良すぎて〜君少し狂っちゃったんだって!なーんて話。
これは実はその見えざる確かな力によって狂ったことにされてしまった場合が多いのだ。人間孤独な状況に陥ってもなお冷静に神経を平常に保っているということは非常に難しいことであるからだ。大人だってそうだからましてや子供にとっては……ということになる。
憑きまとうものの存在が気になり出したとき時、普通は精神の安定を保つ本能として、そのしつこく付きまとう影からのがれようとして、たとえば自分の好きな趣味の世界とか、スポーツへと関心を移して行く。するとそれらに夢中になっている間は影もすーっと消えて行く。といっても影は付きまとう姿はとらないが敏感な少年達をマークする姿勢はおこたらない。
影がすっかり安心してその姿を消すのは、追跡の対象とした人物が影の正体の一味とまったく同じ姿になる事に向かい始めたときだ。換言すれば、その少年達がその影の正体はなにかと分析の対象として追跡することをやめ、好奇心に従う自分というものを捨てて、逆にその影が暗黙のうちに示す価値観に合わせた自分の姿を本心より求めていく時だ。
それを求め始めたからといって影はその姿を消すほどに淡泊なものではない。自己放棄の姿が装いではなく本当に絶えず努められているかどうかをチェックしに現れる。暗黙のうちに了解したその影の求める価値観を肯定し、自己放棄を公言したようなときになってはじめて、その影はひそやかに微笑みながら{これでよし、これでその子も周りの人々もみんな幸せになって社会の頂点に向かって歩むようになる、まずはめでたしめでたし、ワタシの役目も無事果たし終えた}と、にんまりとうなずいて引き上げることになるわけだ。
15、16才くらいで影に合わせて自分を形成して行くことが世俗的な立身出世や成功をもたらすために強く役立つということに気がついた「お利口な」子どもは自分の身を影の姿に合わせて勉学につとめるようになる。そのようすればやがては自分もまた影を作る役割を演じることになるものの、自らの精神的安定を図る事が出来ると同時にその後の人生は自分がつかんだ影に自分が如何に姿を近似できているかの黙認的検証の過程となるという意味付けを持てるようになるからだ。影が強制するでもなく強制したものをそれが我が人生の成功をもたらす道を示しているのだと考え、影に近似的であればあろうとすればするほど、そして近似的であればあるほど順風万帆の出世の道に乗って行けることが読めてくる。彼らにとっては人生とは影の求めるものと自分のなすものとの一致を確認して行く過程となる訳だ。いわばレールに乗って超高速で目的地へと走る自動制御装置で走る新幹線「暗黙の了解号」の乗客だ。これが一方の極の姿だ。
他方の極は飽く無き探求心に駆られて、しかも強靭な精神力を持ってその影に立ち向かう人生だ。これは正体を知られてはまずいとする影と知ろうとする少年の好奇心の終わり無き永遠の戦いだ。この戦いはし烈だ。追いかける影の方も追いかけられる少年の方も時には気づいていないふりをして、また姿を消して……と狐と狸の化かし合いのようなものとなる。影が少年を追いかけるばかりではなく、逆に追いかけられているはずの少年の側が影を追い詰めていくことだってある。でも大概の場合はそのことがばかばかしくなって止めるのが普通だ。若いときはもっと面白い事がたくさんあるから……。これが第一の時期だ。
第二の時期は先にも記したように25から28才くらいの頃だ。このころにもふと影はその姿を現し出す。それは一通りの学業を終えた人間達がいわゆる現実社会のなかでようやく慣れ始めてきた頃、つまり世の中の仕組みというものがわかる人にはわかり始めて来た年の頃の事だ。妙に世慣れしていることを「わかっている」と云ういわゆる「世間ずれしている」と云うのとはちょっと訳の異なる「わかり方」であることは云うまでもない。
つまり、影の存在に対する認識、理解の有無がポイントだ。もうすこしくだいて云うとこの世の中には必要に応じていつでも出動可能な影のような忍んだ姿の、だが確実に存在する、はっきりとした姿を見せることのない社会的パワーの一部を担う役割を果たす仕事と身分があるのだということを知っているか否かというレベルでのわかり方だ。
そしてその影はこの年の段階でテストつまり、見えざる影に自分を合わせて行くことが出世や幸福をもたらす社会的な地位や栄誉の獲得に通じているのだということを分っているかどうかという、いわば人生の踏み絵のようなものとして現れてくる。このテストを暗黙のうちにやり過ごす、つまり自分は、影なるものへと一体化する人生を選択しているのだ、ということをその影に示すことによって、しつこい追跡から逃れられることを心得ているものはそのまま敷かれたレールの上をひたすら、影の存在を意図的に不問・黙殺したまま、走ることとなる、という訳だ。そして人生は表面上は社会的地位や富を暗黙のうちに保障されて「幸福な」人生を送ることとなる。
だが、ここでもただ好奇心の充足という衝動からその影がなんであろうかとずっと追跡するほどに好奇心が強かったり、その影を明るみに照らし、誰もが理解可能な理屈として表現しようとしたりすると、その影は姿を変幻自在に変えながら、好奇心に忠実なるその男を逆に生涯追跡することとなる。30歳くらいのその年になってなお影の内実を知り、究めようとする者の存在は影にとってはこのうえないわが身を脅かす危険な存在になることであり、看過しておくことのできない存在となるからだ。
影の姿が15才の少年によって明るみに出されるのと30才くらいの社会的影響力のある大人の言動によってなされるのとではその社会的影響力がまったく異なってくるからだ。ましてやその男が社会的影響力を大きく持つ組織体や集団に帰属しているとすれば、影の存在を含む一大パワーグループ全体を根底からひっくり返す一大危険要因となるからだ。
影はこういう存在に対してとことん臆病なのだ。影を追うその男のいるところへは、影はさい疑心を友としてどこまでもどこまでもその男の行くところ地球の果てまで憑いて行くこととなる。逆にみれば、男はその後の人生においてどこへ行っても、――たとえ、外国へ逃げ込んだとしても――、その影に徹底して憑きまとわれることになる。男はその後の人生においてどこへ行っても、たとえ外国に住んだり、旅しているとしても、連携力を国際的にも持つグループの手配する影の存在者たちに徹底して憑きまとわれることになる。
なんだか、滑稽でもあり、考えようによっては恐ろしくもある話だが、人間の社会というのはこのようなオレたちのような単細胞のものにはとうてい及びもつかないような複雑な仕組みから成り立ち、そしてパワーを維持しながら動いているらしい。どうやらオレ達と人間様の違いを決定的にしているのはこういう複雑な仕組みを作り、運営できるところにあるらしい。そういう仕組みの事を「組織」というらしい。
オレ達の祖先も森の中で獲物をとらねばならなかった時代にはすこし複雑な仕組みを仲間達と一緒に作ることができたらしいのだが、人間様の忠実なるしもべと化してからはすっかりその能力が衰えてしまった。
ここで改めて影の組織って一体なんだろうか?と思うと、まず想い浮かぶのは秘密の結社や極秘指令に基づく特殊部隊や情報機関からなるそれだ。たとえばマフィヤとか暴力団とかの反社会的な組織等というものを思い浮かべる人もあるかも知れない。確かにそのような社会の裏側に巣食っている範社会的組織もあることは確かだ。もう少し世の中の様子がわかっている人たちならば、現在支配している体制の秩序維持のために存在する公安警察とか、秘密警察とかの存在のことも思い浮かべるかも知れない。それはそれで正当な認識であるようだ。そうしたものはいかにも影というイメージをそのまま帯びた公認された社会秩序維持のための秘密組織だ。
ところが、複雑かつ難解なのは、影のようにつきまとうものが、いつも暗く目立たないように存在しているのではなく、明るいところにいるごく普通の人達によってもまた造られているという事実だ。影を作っている当の本人たちにさえ気ずかないままに、自覚もないままに、つくられている影の役割という事態があり得ることだ。つまり、自分で行っている事が、自分では気づかないうちに、結果として影の役割を果たしていることがあるという訳だ。読者の皆さん、わかるかなぁ?だんだん複雑な話になってきたようだが……。
そういうことがどうして可能かと言えば、人間様の社会というのはありとあらゆることを何でも自分一人でやらなければならない時代から、いつのまにかみんなで協力しながらでないと全てのことが能率よく進まないようになってきてしまったからだ。みんなで少しずつ協力しながらやることが多くなればなるほど、人は役割の一部分を担当せざるを得なくなるし、人々は自分の担当していることとごく身近なところのつながりしか理解できなくなってしまうことになる。そうなると自分のやっていることの活動全体に占める意味がわからなく(=見えなく)なってくるわけだ。やっている事の意味はつかもうにもつかみようがない。
もっと厄介な事は、影グループをトータルに支配する司令グループは分担し合いながら行われている分業部分のつながりを自由につなぎ替えながら、究極に設定されていた全体や最終目的の意味を変えてしまうことだってできる、ということだ。影の形は変幻自在に己の姿を変えてくる。どうもそれを分業による没意味化という言葉で呼ぶらしい。
人間さまは大昔からそのようにしてどんどん組織を大きくして、能率よく複雑なことができるようになって来ているらしいのだ。人間さまの社会は発展するほど、この分業によって全てが動くようになっているというのだ。そうなればなるほど、全体の中のごく一部分を担当せざるをえない人々は自分のやっていることをごく身近かなつながりの中でしか理解できなくなってしまうのだ。やっていることの本当の意味はつかもうにもつかめないわけだ。
人間の社会には仕事に応じた権限の上下、強弱というものがあるから、仕事の上で上に立つ者は、そうしたつなぎ替えを猫の目のように変えながら自在に、分業体系を編成し、究極の目的を達成することができる。そうなると分担し合っている下位にいる個々の人々は、正業者として表の社会で働いている人であればあるほど、結果として、ある人からすれば影のようにつきまとう存在として活躍しているということにもなりうる。
特に、人間社会というものは言葉というか、情報というものによってつながっているから、時として表の社会にいる人が、秘密警察の情報収拾担当者やら興信所の探偵のようなことを結果的にはやらされていることもある。〜さんはCIAのメンバーなんだってよ!などとまことしやかに噂が立ったりすることがあるのはそのためだ。果たしてその噂が本当なのか、単なる話をおもしろくするための噂なのか、影に憑きまとわれていると告白する人の被害妄想によるものかは、誰にも分からない。
職務命令として仕事をしている本人はまさかそんなことのために……という意識もなく、職務に励んでいるのが普通だから、勿論うしろめたい気持ちなど更々ない。逆にいえば、それだけ動機付けられて仕事をしていることになる。分担する担当者が裏に隠された本当の意図を知ったとき、そんなことに手を貸していたのかということがわかってしまうようでは組織は機能しなくなってしまうから、命じたり、頼んだりする上位者は仕事としての正当性を下位者に対して説いたり、法律的な根拠として示すことで支配の正当性を与える。
たとえば、ある時には、影を演じる役の人々には正義漢のイメージを存分に与える一方で、追跡される側にはその世の中で明らかに人々に嫌われ、憎まれているイメージやレッテルを貼り付け、その人を世間から孤立化させたり、隔離することもある。歴史などを見れば、支配する側とされる側の攻防はこのようにしてくりひろげられてきたことが分る。世界中の誰もがその名前を知っているイエス・キリストという人はこうした支配と被支配の関係から成り立つ人間社会の本質を見抜いていたがゆえに、もしかするとそのようにして、時の権力者に恐れられ、無実のままに十字架に掛けられていったのかもしれない。
学校の教師などと云うものは、ぜんぜん罪のない職業のように思われるかもしれないが、――実際人を育てることを仕事としているのだからこれほど重要な仕事はないのだが……――突然ある筋からの依頼を受けたりして、知らず知らずのうちに教え子のことを問われるがままに、語ることによって、その教え子の人生を影グループ一味に売り渡してしまっているというようなことも時にはあるらしい。
突然ある人の少年時代やら学生時代の生活ぶりがその在籍した学校で話題に上がってきたような時はまずまちがいなく影グループが指令グループの指示を受けて、情報収集に出てきたと見て良いだろう。なにしろ影は社会のつながりを調べ尽くし、知り尽くし、あらゆる糸を伝わって神出鬼没するわけだから……。前回、美沙子さんがオレに独白してくれた「ひび入れの力学」も実行部隊は影グループによるものだ。
そういえば、いつか黒猫の銀子が言っていたが、オレの家の電柱に2,3人の電話会社の社員風の紺色の工事服を着た男たちがよじのぼって、しきりに電話線の入ったタブレットの箱のなかをいじくりまわしているのを見た、と言っていた。オレの仲間たちは、人間さまは誰もいないつもりで行動しているその場に、高い空の上や小枝の葉陰や地面の中などから見ているのだ。
そしてそうした話は動物植物蜘蛛の糸ネットワークによって、ちゃーんとオレのところへも伝えられるようになっているのだ。オレたちのネットワークだってそれなりに機能しているんだ。どうせ虫けらども、畜生どものことだ、と馬鹿にしてはいけませんよ。人間さまよ、というところだ。
電話工事などは普通は事前に工事をしますというお知らせがあってから昼間に実施されるのものだが、銀子が目撃したその時はそんなお知らせもなく、そそくさと何かをし終えると電柱から降りて、暗い闇の中に消えていったということだ。3ヶ月くらい後にまた男たちが現れ、電柱に登るとなにかをまた同じところから取りはずして行ったという事だ。
彼らが表の影グループ一味だったのか、裏の影一味だったのかオレは分からないが、人目につかない夜の時間帯の行動であったことからすると裏側の社会と結びついた一味であったようだ。そのほかにもオレの仲間ネットは人間さまたちの奇怪な行動をいろいろ目撃しているが、それはまた別の機会があれば、必要に応じて記すこととしよう。
黒猫の「銀子」はその工事人たちにとっては「影」であったのだろうが、オレの仲間にとっては影ならぬ「偉大なる暗闇」の存在であったわけだ。
もしかしたら、工事服の人たちの行動は、美紗子さんがオレに独白してくれた「ひび入れの力学」、あるいは我主人ポンタ氏のものにしているという「社会支配の方程式理論」の実戦グループ部隊によるものかもしれない。そしてもしかしたら、社会方程式の理論の中には影と並んでもっと黒猫の銀子さまの「偉大なる暗闇」が定式化されているかもしれない。
どうやら、人間の社会というのは個々人の動きとして見た時には、特定の誰かがいつもシナリオを書いて配役を決めているのではなく、状況に応じて誰もが互いにシナリオをお互いのために書きあって、配役も決め、そして同時に俳優としても役者を演じあっているらしい。しかし、組織行動としてみたときには特定の集団が組織的にシナリオを書き、配役も決めているようだ。
ヴェリズモ・オペラよろしく舞台と現実との境目がない現実をお互いが演じあわせながら、同時に演じあっているのだ。シナリオ・ライターはいつも同じ特定の個人ではなく、多くのライターがおり、ライターが俳優となり、俳優がライターにもなり、……と役割分担を固定しないようにしながら演出しているわけだ。言ってみれば、加害者は同時に被害者でもあり、被害者は同時に加害者でもあるということが起こりうる訳だ。全体の意味とお互いの役割が見えないから、個々の人は本当のところ自分が何をしているかは解らない。だから、ごくごく普通の人が人に対して影となることもあるわけだ。
という訳で、今回はオレの前で主人が次から次へと開いていった原稿のインクの後を辿って行ったときのことをオレが勝手につけた「影の話」としてまとめてみた。まとめたと言うよりは記憶を頼りに犬のオレなりにあれこれと断片的に思い浮かんだ言葉などからあれこれとつなげてみた訳だ。つなげてはみたものの、果たしてちゃんとつながっているかどうかは自信がない。オレ自身がそれぞれのページの中に書かれていたことに溺れてしまってそれぞれ個々の意味を喪失してしまっているかもしれない。
それに読者のみなさんに理解してもらえるように書き綴れたかどうかも自信がない。まあ、いつの日か、我主人の社会組織支配の方程式として建てた「影理論」が世に出た時にはオレの書いた内容がどこまで的を得ていたかがハッキリ分かる事となることだろう。オレとしても早く主人自身が本として出版して欲しいと思うのだが、なにしろ、「義理や売るために媚びへつらって刊行してしてもらうようなものではダメだ。書きたいことを書いた結果が結果的におもしろいからと読者に支持され、出版を請われて初めて出す、というような質を持ったものでないとダメだ」などとかなり誇り高い、強い考えを持っているから、なかなかオレが期待するようなかたちのものは現れてこない。
平素のわが主人の言動を見ている限り、彼は頑固一徹というタイプの人ではない。むしろ風にそよぐ柳のようなところのある人だ。もしかしたら、原稿に書かれていることとのつながりの中で、他人を傷つけまいとしている主人の他人への思いやりや愛情の現れかもしれない。あるいはもっと深慮があってのことなのかもしれない。「影」グループとの対決に備えてでもいるのだろうか?
<(9)へ続く>