わが名はヘボタ(7)
魁 三鉄
オレは確かに変な犬なのかもしれない。「変な」という意味は普通とは違っているというくらいの意味であって、人さまに不快感を与えるとか危害を加えるとかの意味ではない。主人一族からみれば特別意識していることではないのだが、要するにオレは物事をじっと見つめ、なぜだろうと考え、推理し、原因と結果を明らかにしてみることが癖のようになっているのだ。もっともオレ以外にそのことを知っているのはオレたちの仲間だけだけどね。
一度オレは誰も来ない静かな庭先でオレ自身のことを考えてみた。なぜかといえば、オレの主人が自我とか自分らしさとか自分自身にしかないものなどというものにつきまとわれているのを見て、何であんなにとらわれなければならないのかしらんと思ったからだ。自分とか自我などというこだわるようなものはもともと「ない」と考えればこんなに気楽なことはないよ、ということをオレは主人に教えてやりたいくらいだ。
オレはオレにしかない自分なんてものは「ない」と考えるのだが、それはオレの方が脳味噌の位置が大地に近いからかもしれない。人間さまという奴はどうも脳味噌を大地から遠くへ高く離そう離そうとしてきた生き物のような気がしてならない。頭が大地から離れているほど高級とか高等などと思うらしい。万事につけて……。どうやら神さまとの距離が近いからというのがその理由らしい。なるほど自然の有り様からすれば人間さまの頭の高さというのはせいぜい2メートルにもみたないが、彼らは頭を使って神さまにより近くと、自分達の頭の位置をとてつもなく高いところへまで持ち上げることに努めてきた。
今では地球の表面を離れてまるで星のように地球を200キロも300キロも離れて回っている人もいるらしい。そこまでやっている人間さまのことだから土の大地に足をくっつけている奴よりは地面から足をなるべく離そうとしている奴のほうがより高等であると思っているわけだ。
コンクリートの建物とか鉄骨の高層ビルを建てたり、コンクリートやアスファルトという人工的な地表面をそこら中に貼りめぐらしている都市はみんな自我とやらに満ち溢れた人間さまのたまり場となっている。つまり、地面から足を離すことによって人間さまは自分の足ですっかり自分を支えられなくなってしまったのだ。地面に足が付いている間は足からいろいろなものが伝わって頭の中に影響を及ぼしていた。いってみれば頭の責任は足にあった。もっとつきつめれば、足を支えていた大地にあった。だから頭には責任がなかった。頭が地面から離れて自我と自我がぶつかり合って年柄年中、火花を散らしながら、やあ権利だ、義務だ、責任だ、と言い合っているのが都会人だ。
大地に足が付いているというのは実は奥の深いことだ。オレに言わせれば、いくら高いところに位置して足を大地から離そうとしていても、しょせんは大地によって支えられている人間さまには本当は自我も責任もないはずだ。きっと人間さまさまたちはオレの言いぐさを頓珍漢の犬のたわごとと思うでしょうが、まあ聞いてくださいナ。
そもそも人間さまは大地に足をぴたっとつけている間は自我などというものに気を取られることはなかった。大地を耕し、大地に生える草木を刈り、大地を駆けめぐる動物を人間さまが自分達の足で追いかけ、捕まえている間は自我などという怪物に捕まれることもなかったし、その妖怪の存在すら思いつかなかったことなのだ。人間さまは蜃気楼のように見えない自我という妖怪の代わりに草木の花や葉の形、そしてもっと細かく雌しべや雄しべの色や形、葉脈の太さや葉の色艶、といったものをほぐすように観察することに熱中していた。動物の表情を観察しては、今は捕まえるのに適している時かどうかを自づから判断していた。すべて大地の鼓動を拠り所として自然をじっと観察することに神経を集中していた。
実際、人間さまは大地の息吹や脈打つ土の鼓動を敏感に感じることができたのだ。ところが人々が次第次第に大地から足を隔離して都市の石畳の上にたつようになってからというもの人々は大地の生命を見失い始め、代わりに、あるかないかも分からないような自我とか人権とか、平等とか、あるいは自由とか、頭の中の幻影のようなものに対して関心を寄せ始めた。大地から離れれば離れるほどその度合いは強くなった。
今という時代はまさにオレの身の周りに於いてすら大地が現実になくなって行く時代だ。オレが毎日連れられて行く散歩のコースですら10年前と比べてみればどんどん土の部分が無くなっている。土のあるところには確かに命があった。土には酸素があり、湿り気があった。だから雑草もあった。雑草の葉にはしっとりと朝露が霧吹きで吹き付けられたように細かく一様な模様でついていた。その雑草を住処とするバッタやこおろぎがいた。蚊も居た。
オレの鼻は確かに生命を実際に存在するものとして嗅ぎとっていた。オレの散歩とは命あるものとの、言ってみれば命の確かめ合いの道中であった。オレの足裏は土の中深く宿る地球の命すらをも確実に感じることが出来た。毎日変わる地球の体温の変化すらオレの足裏は感じとっていた。
それがどうだろう。この10年の間に子供の遊園地脇の道はスレートの正方形の畳のような敷石によって一面覆われてしまい、オレの足は大地の土からは隔離されてしまった。公園の脇から自動車道に通じた一本の細い脇道もいつのまにかアスファルトと呼ばれる、とろけたキャラメルがそのまま固まってしまったような奇妙な黒い塗装の面に変わってしまった。
オレは人間さまからみれば悪癖このうえない、例の片足あげてのワンワンスタイルで用達しをするがこれも大地が少なくなってからというものの、場所選びには神経質にならざるをえなくなっている。オレの主人はやっぱり大地に吸い込まれて行くオレのものを見ているときは心に安らぎというか、なにか安心したような表情が見えるものだが、コンクリートやアスファルトのうえにシャーシャーというのはシャーシャー自身がどこか居心地の良いところを捜し、探し求めているように動き回りどうにも落ちつかない。大地に縦に吸い取られるさまは全体宇宙の摂理にかなっているという感じがして心地よい。心地自体を宇宙が含んでいるといったほうがよいかもしれない。
オレの自我なんてものは宇宙と一体となったものそのものなのだから、いうなれば自我などは「ない」と言っていいだろう。自我がないというとこれはまた厳密にいえば誤解を招く言い方となってしまう。自我という言葉自体が存在しないのだから、何というのか、要するに、なんにもない状態の自分なのだ。自分がそのまま即、宇宙なのだ。つまり、オレ自身が自然の一部としてそのまま存在しており、オレの体そのものが全体として大地につながっているし、また空気にもつながっている。オレは何かくるまれているようなもので、オレが独立して存在しているのではないのだ。
そのことをしっかりと感じると、今、存在し生きている自分は自然の中に生かされていると思えるし、そう信じると無駄な力が入らないですむ。譬えてみれば、きちんとした姿勢を常に保ちながら無重量の宇宙の中に安楽に漂う物体のようなものであって、自分で動こうとか、自分でどこかへ行こうとかしないでも自然と周りの力によって自分の体が決まったところへ運ばれて行くような感じとなっているのだ。オレは宇宙の動きの中に決められて漂う存在であり、オレの動きに対してオレ自身は何も責任を持つ必要がない。だから存在していることに苦痛を感じることなどはない訳だ。
オレは主人に言ってやりたいものだ。オレのように宇宙と一体となった自分の姿というものに気がつけば、自我などという妖怪に悩まされること無く安楽に暮らせるよと云うことを。ところがオレには人間さまの言葉がないからこのすばらしい真実を主人に伝える術がない。否、言葉がないからこそオレは真実を素直につかめているのだ。主人ときたら言葉で説明できることだけが真実だと思い込んでいるらしいものだから楽になれないのだ。自分で自分の世界を限定していることに気がつかないのだろうな。人間さまって……。
人間さまの言葉なんて蜘蛛の巣みたいなものさ!人間さまは何千年かをかけて美しい言葉の体系という巣を至るところに造って、自分達はその主人公であり、世界の全てだと思い込んでいるだけなのさ。小さい!小さい!!巣の無い頃の人間さまはちゃんと体中を宇宙に預けていたのに、なまじ美しい形で言葉の巣の作り方を知ってしまったから大地や空気にぴったりとくっついて体中で吸い取っていた体感としての宇宙との一体感を喪失してしまったのだ。
さてさて、そんなこんなでオレの散歩道も年月が経るほどに土の部分が小さくなって行く。ついこのあいだもまた一つ土の道が無くされてしまった。幕張メッセとかいう人工都市に通じる大通りが突然大きな橋と一緒に私鉄の電車通りを跨いで出来てしまった。オレの鼻っさきには二酸化窒素だとか、硫黄だとか、訳の分からぬ物質やらをまき散らしながらオレよりも遥かに速いスピードで駆け抜けて行く図体のでかい不届きな輩が図々し気に我がもの顔に何台も連なっている。
世の中は誰もが「オレさま」の時代なのだ。「オレさま」はすでにこの世の一番の神さまなのだとそういう顔を、人間さまだけでなく、どの輩もしている。伏し目がちに、気恥ずかしげに慎み深く恐れ入りますと云って控えめに通って行く姿勢も態度もない。自動車と称するこの物体は利便性という錦の御旗を掲げて人間さまの前に最初は慎ましげに現れたものだが、今では人間さまを利便性の奴隷へと成り下げてしまっている。
自動車は自動車が子供を生んで育ててそれから道路にでてくるわけではなく、人間さまが複雑なことをしながら造って世に出してくるのだから人間さまさえその気になればその数を制限したり、場所を選んだりしながら走らせることだって出来るはずなのだが、もう一つ拝金という成分と一緒になると有毒ガスを出し始める。どうも人間さまには拝金というものが愛すべき放蕩と死へ準備の必需品のようだ。話が拝金に及ぶと全体複雑になるのが経済の特性だ。経済についてはまた別に触れることとしよう。
というわけでオレたちの足はどんどん大地から離なされてしまっている。人間さまはもっと土の大切さ、効用を見つめ直して欲しいものだ。人間さまには分からないのかも知れないが、オレたちは足の裏で大地を踏むことによって自然の栄養や滋養を吸収しているのだ。塩素イオン、硫酸イオン、ナトリウムイオン、ラドン、鉄分、などなど人間さまは温泉というところへわざわざ求めに行かないと得られないと思っているそれらの成分が実はみんな土の中にはあるのだ。オレたちの体調をより快適にする成分が生きた土の中には含まれているのだ。
なんと云っても太陽という万物の母から恵みほどこされた、この世に存在するあらゆる成分が土の中には含まれているのだ。それなのに人間さまたちは生きている土を窒息させてしまい、太陽の光をコンクリートの壁によって妨げ、大地に吸い込ませずに滋養、栄養の成分とする機会を奪い取ってしまっている。大地を殺してしまい太陽の光を浪費させてしまっている。オレには確実に分かるのだ。オレの足の裏からは着実に栄養補給の機会が奪われて行くことが……。
昔の人はオレと同じようにそのことをちゃ〜んと知っていた。体が自然の中で自分のバランスというものを心得ており、土からの栄養が自分の心のバランスをちゃーんと保ち、宇宙の中に一体となって心地よく安んじていることを。宇宙とバランスを保つことを体で知って味わっていたのだ。だから「オレさまが、オレさまが」という心もなかったし、オレは一体何者かとか自我という妖怪に捕らわれることもなかったらしい。見えないハンモックに吊るされて心地よく揺られるように過ごすことが出来た訳だ。
オレの主人はそれでもオレからの影響なのか自然や大地と云ったものの大切さを少しは感じているようだ。このごろは「すっかり天然の恵みを味わうことがなくなってしまった。これでは健康にも良くないし、第一精神の安定に良くない」などと独り呟いては自然の恵みをわざわざ求めてどこかに出かけたりするようだ。主人は自然の恵みをゆっくり味わうには温泉に限るなどと云っている。温泉というのは何でも土の奥ふかくに栄養満点のお湯がたまっており、それは百薬の効能を持っているらしい。もっとも百の効能を一つの場所だけで充足できてしまうようにと特定のところにだけすべての効能を集めるという不公平を神さまはしなかったらしい。
聴くところによると、神さまは大昔のこと世界中の人々に人間さまは土に生まれて土に帰るものだから土を大切にしなさいと言い聞かせたそうだ。ところが、あるところの人々は「土なんかそこいらじゅうにあるじゃないか、何が土だ!」といって馬鹿にしたらしい。そのころの地上の土は至るところ栄養満点の肥沃な土であり、土を造るなどということは必要なかったらしい。ところが、土を馬鹿にした人々は土を燃してしまえ、とか水に流してしまえ、とか、凍らせてしまえ、とかさんざんの悪態を神さまについたらしいのだ。
土の焼き方が悪かったから黒い人とか白い人とかが出来てしまった。そんな下手で不平等なことをする神さまのいうことなんか聞けるか!と人間さまは至るところで神さまの悪口を言い、悪態をついたというわけだ。土を馬鹿にしたのも、元はといえば、人間さまは神さまによって土から創られ生まれたのではないという反抗心からだ。ところが、人間さまの中には神さまのいうことがやっぱり正しいと思っている人もいたし、何となく逆らうのも恐いという人もいたわけだ。
神さまは次第に悪態をつく人々の数が増えてきたので、ある時、罰を下した。表面上の土だけでなく土の中まで変えてしまったのだ。だんだんと土は場所によって変質して行き、ぱさぱさした砂だけの地帯やら、年柄年中、水に浸かっている地帯やら、凍てついて固まってしまっているところなどが出来てしまった。神さまはそういうところの土の中に、土を馬鹿にしない人々がやがて必ず必要とする宝物を隠しておいたのだが、土を馬鹿にした人々はそのことには気づかないままだったのだ。
そんな土の価値を知らないところに自分で選ぶでもなく生まれた、否、まさに産み落とされた子孫たちはその後何万年と土に苦しめられながら生活してきた。その上、神さまの意図した通り、土を大切にした西方の人々の子孫が石油という今日の生活のすべてを成り立たせている土の中の宝物を掘り当ててしまったという訳だ。現代というオレの生きている時代はそういう時代らしい。
けれども最近、昔、土を大切にした故に今日の恵みを受けられた西洋の人々の子孫達が今度は神さまのいうことを聞かなくなってきた。地中の宝物をおなかに一杯詰め込みながら、我がもの顔にこの世を走りまわる自動車という彼らの造りだした輩が土退治を始めだしたからだ。このまま行けば、今度はむかし土を大切にした日本人までもが土を馬鹿にし、その結果大きな罰を食らうことは目に見えている。わが主人はそのことを察知しているのだろうか?
話は少しずれてしまったが、神さまは土を大切にした人々には土の中にも少しずつ石油や鉱物資源やらの宝物を埋め込んで置いた。オレや主人が住んでいる日本という国は、他のものは何ももらえなかったのだが、温泉という健康維持の宝物をもらったらしい。だから、温泉というのは土の大切さを知っている人だけにその恵みをもたらしてくれるという神さまの慈愛に満ちた製造品であるということだ。
オレの主人が気に入っているのはひなびた露天風呂が湧いているところだ。いわゆる観光地となってしまって道路が一面舗装されてしまっているところではなく、人里離れた山の中や海際にある、設備などもままならぬ、寂れたところにある温泉だ。このごろはまったくの自然の温泉と云うものはないらしい。秘境〜温泉などと都会の駅のスタンドにはたくさんの旅行案内パンフレットに混じって若い艶やかな肌を惜しげもなく曝した美女が数人露天風呂に浸っている絵が目につくが、大量配布用パンフレットやポスターに載ったときからそこは秘境ではなくなってしまっていることが多いようだ。
特に秘境に張りのある艶やいだ柔らかい弾力の感じられる肌の裸女が写っている温泉場などはロマンチックな恋や出会いの場所であるかのような期待を抱かせるから老若男女達は一斉に押し寄せるようになってしまう。さて着いてみれば、柔肌を外の光に輝かしている若い娘の代わりに、体中にギザギザしたしわの彫りを刻み込んだおじいちゃん、おばあちゃんがこどものようにはしゃいでいる。若者達が湯浴みしながら恋を語り、愛を演じた、野にある自然の場はとうの昔に消えてしまっている。今の秘境温泉はそんな「秘境」温泉が多いようだ。
ところで主人は秘密というとちょっと大げさだが、人知れず訪れるそれなりの隠し湯の宝物を持っているらしい。そこはわが主人の家のある千葉県からは遥かに遠い東北の県境の山間にある温泉ということだ。駅がそのまま温泉になっているということで最近売出し中の温泉なのだが主人の隠し湯はその駅から一日に何本しか出ていないバスでさらに山奥に行く山間の渓流沿いにある温泉だそうだ。人々は皆にぎやかな温泉地の方へ向かって行くのだが、主人の行く温泉はそちらの方向とは逆に山間の小さな川に沿いながら上がって行くところだ。
日本でも指折りの豪雪地帯というその場所は平均して毎年3メートルもの積雪があり、多い年には通年で14メートルもの雪が積もったことさえあるということだ。4月の下旬から5月頃にかけて雪は融け出して小さな谷間の幾筋もの沢から絶えず小さなせせらぎとなって、次々と大きな谷間を流れる別のせせらぎへと合流して行く。雪解け水の流れは速く、澄み切ってピンと張っている。山道を上がって行くにつれて沢の水も狭く小さくなる。やがて数件の家家が見えてくる。ところどころに本流から外れた沢からの水がゆるくぬるんだような、しどけなさを漂わせながらたまっている。水面には微かに湯気が立っている。
川沿いの土壁の中から霧と湯気が、ところによってはゆらゆらと、そして別の場所ではもくもくと上がっている。豊かな谷川の水はそこここの岩場にぶつかってはざっくりと身を割り、白い牙をむき出しては威嚇しながら下へ下へと流れて行く。山の地肌には遅い春の日差しが当たり、地肌は汗をかいているようにうるんでいる。長い冬の間に背負い続けた雪の重さがまだ完全には抜けていない表情だ。
ホー・ホケキョ・ケキョ!山間の樹木から鴬の鳴き声が澄んだ空気を伝わってくる。鴬の声は空気を振動させている。空気のさえずりといっても良いかも知れない。耳を済まして聞こえてくるのは谷川のせせらぐ音だけのようだ。道なりに数件の旅館がある。どこも自炊をしながら温泉にひたって過ごすことができる造りの古い建物だ。そこが主人の秘境隠し湯だそうだ。
その土地の言い伝えによると、昔、猟師が自分の放った矢によって羽の傷ついた鶴がよろけながら跳んで行く後を追跡して行くとその鶴が羽を休めている水場がある。そこでは湯気が立ち昇り、鶴の姿も幻のようにゆらゆらと揺らいでいる。自分が鶴を捕まえに来たことも忘れて猟師は幻影のような美しい鶴の湯浴みを眺めていたという。やがてほどなくして鶴は勢い良く羽ばたいて大空へと飛び去ったという。不思議に思った猟師はその湯に手を浸すと手の小傷がさーっと一瞬にして癒えてしまったということだ。ついでに体全体を湯に浸すと疲れが瞬く間に体中から引いていったということだ。以来、猟師や農民達がけがをしたり、田畑の重労働で疲れるとくつろぎと快癒を求めて湯浴みにひたったということだ。
こんなことも足が土に付けてればこそあった話だ。自然は土に足を付けているときには人間さまに対して多くの施しをしてくれていたのだ。
ところが、今の時代は土に足を付けているのではなく、足から土をどんどん奪いはじめていることは既に記した通りだ。どうしてそんなに土を奪ってしまわなければならないのだろうか?そう思ってオレは主人に質問をしてみたいのだが、通じる「言葉」がないからどうにもならない。オレが落ちつかない様子で道端に片足を上げる場所探しをしていることに同情的である主人の心中は察知できるが、オレが今考え込んでいるこのことはさすがにご主人様であっても察しがつかない。バベルの塔を壊したときに人間さまの言葉をバラバラにしてしまった時に、オレ達、動物や虫仲間や植物にも言葉をくれれば良かったのに……、等と嘆いても怨んでも始まらない。
以前、ガシャ君や章太郎氏が来て話し込んでいった時のことを思い出してみるのだが、どうもその時の話は土とはつながらない。そんなこんなで、無い脳味噌を振ったり、地面に頭をこすりつけたりしてみるが、どうにもわからない。
……と、「ロック!!」と呼ぶ声がする。声の感じで奥様の声だとすぐ分かる。主人のお母さんということだから主人より歳が若い訳がない。でも声の艶というか高さというのはピンと張った、ヴィオラの弦のような音だ。オレの仲間のゲジュラ一族の声よりははるかに聞き取り易い。ゲジュラの奴はしょっちゅうゲジュゲジュゲジュゲジュ鳴いているのか話しているのか、呟いているのか分からない。それもプロ野球の野村監督のように的を得た呟きなら聞く価値があるというものだが、さにあらず、などと頭の中を覆ったことはさておいて、奥様の方を見上げるといきなりこんなことを言う。
「ロック、おまえさんも一人前に税金払っているのよ。予防注射のお金も払ってあるの。だから必ず注射を受けに行かなくてはね!それにしても税金が高くなる一方ね。コテイシサンゼイなんて何が変わるわけでもないのに納めるお金ばっかり高くなる一方の迷惑な税金ね!」だって……
オレにだってわかるものか!だいたいオレが税金払ってるってどういうことなのだろう?ましてやコテイシサンゼイだって!なんのことかさっぱりわからない。
でもオレにとっては大切な奥様のオレに対する発言ゆえに無視は出来ないと思って一生懸命尻尾を振っておいた。奥様は洗濯物を干しついでにオレに声をかけたらしい。
「鳥がきて洗濯物汚してしまわないかしら?あんた良く見張っていてね」
そう言って奥様は家の中へ入って行かれた。コテイシサンゼイ、コテイシサンゼイ、オレはお呪いのように口の中で繰り返した。
ふと上を見るとゲジュラ一族の長男らしき椋鳥が柿の木の枝に舞い降りた。オレをうじ虫呼ばわりした親父のゲジュラの薫陶?を受けているだけあってか、とぼけた顔を天に向けながらポタンを例によって始めた。幸い柿の木の下には洗濯物はない。
「おい!いくらおまえ、自然の呼び声だからと言っても、ところかまわず、平気でおかまい無しという態度でやるなよ!」
「わかってるよ!!」
そう言いながら相変わらず、チューヴから押し出される石灰色の絵の具のようなものを断続的に落とし続けている。タバコをくわえながら学生にここは禁煙だ!と注意している学校の教職員みたいだ。
「唐突で悪いんだけれどおまえコテイシサンゼイってなんのことかわかるか?」
オレは聞いてみた。どうせ知りはしないだろうと思ってはみたのだが、ゲジュラ達は面白い物の見方をするから、もしかしたら噸珍漢でも案外役立つ答が返ってくるかも知れないと思ったからだ。
「コテイシサンゼイ?」
なんだか始めっからご存知ないという声の響きだ。オレもちょっと唐突すぎるかなと反省し、
「なんでもオレは税金というものを払っているらしいのだ。さっきここの家の奥様がそう言っていたんだ。その時、コテイシサンゼイが高くなって困るとか何とかぼやいていたのさ。オレにはなんのことかわからないのでお前に訊いてみたというわけさ。」
と再度出直してみた。
するとゲジュラの奴、ゲラゲラ笑いながら、
「おまえ税金払ってるんだって!一人前に!!笑ってしまうね。野良犬になれよ!野良に!そうなりゃ、そんなもん要らないんだよ。自由になれるぜ!自然の中には食い物は求めさえすれば幾らでもあるものさ。人間さまなんかに餌の保証と引換に自由を奪われているなんて、お前のご先祖さまが聞いたら泣くぜ!!」
などとちょっと物騒なことを平然とすまし顔をしながらいう。
「別にオレが直接税金を納めに行くわけではなく、うちの奥様が納めているらしいからオレは別に痛い目に会っている等とは感じないんだけど……」
オレは少し気弱な声で言う。
「税金を払ってもらっているなんてお前まるで人間さまに支配されてしまってるんだなぁ!」さらに続けて、
「オレ達なんか年柄年中飛び回っているから税金なんか納めたこと無いよ。それに人間さまなんかに捕まえられて言いなりになったりしてないものな……。コテイシサンゼイってのは恐らく人間さまが人間さまを支配している道具のことだよ。きっと。人間さまっていうやつも大したことないぜ。オレ達みたいにしょっちゅう居所を代えて飛び回っていればいいものを……そうすりゃぁ誰が誰からお金をいくらまきあげてそれをどうやって使ったらいいか、なんてことに煩わされることなど無くなるのに……。人間さまという奴はどうも自分達でわざわざ事を複雑にしたり、厄介な仕事を作ったりして、そのくせ『無駄が多いだ、やぁ面倒くさい』などと不平を漏らしている不思議な動物だ。世界中をみんなが渡り歩いていればいいのさ」
と、結構物騒なことをすましての給う。
なんだか噸珍漢な回答なのだが、なんとなく適っているような、違っているような分からない答だ。オレはゲジュラの噸珍漢な答がまた例によって彼の眼の位置のせいだろうと思いそれ以上は聞かなかった。
さてこれは後日談なのだが、ふとしたことでオレはコテイシサンゼイについて答を聞く事ができた。税金と一緒に狂犬病という恐ろしい病気の予防注射代金が支払われ、年に一度その注射を受けにオレの仲間達が一個所に集まるのだが、オレは若い頃喧嘩をふっかけたポインター犬のジミーに再会した。会場へ行ったところ既にジミーを始めとしてブルドッグやらシェパードやらの図体の大きいのがそろっている。ジミーがいなければ小型のオレなど相手にもされないところなのだが、若気の時の強気がこのときは幸いしたのか、ジミーがオレを歓迎してくれたのだ。ジミーがオレを歓迎した事により、見知らぬ仲間達もオレに一目置いて歓迎の挨拶をくれた。仲間達の主人達もコテイシサンゼイとやらに文句を垂れているらしいのだ。オレはその時はだまって彼らのやり取りを聞いていた。何もかも分かっているというような顔をして……。
黙って聞いていた事をオレなりにまとめてみるとやっぱり元はといえば土を大切にする心から離れたところに問題があるようだ。どうやらこの国はせっかくのご先祖様の遺産を捨てて、土を足ではなく、お金と仲良くさせる事で国民の幸福を増そうと策を練ったらしい。国の台所を豊かにしておくためには税金を少しでも高く取る事が必要だ。そのためには、最初は経済の成長をどんどん図り民間会社の儲けや国民の所得から税金を取り、次にはお金を使う事に対して税金をかけ始めたわけだ。そして仕舞には経済の成長が止まる頃を見計らって、所有している事自体に対して税金をより高くかけようとしている訳だ。
そうする事ができるようにするためには物の価値よりも常にお金の価値を小さくして、つまりはお金を余り気味にして土地に価値を植え付けたらしい。土地の価値の方がお金の価値よりも常に高いという事になれば、国民はみんないずれは土地を自分の物にしておこうと考えるに決まっている。事実、預金をしてお金を増やすよりも土地を持っていた方が帳簿上価値が高い。しかも土のあるところよりも土を隠してコンクリートを敷いてあるところの方が値段が高いらしい。そのほうが文明的だからなのだそうだ。となれば、みんなが競って生活が便利で通勤に近い都市やらその近郊に土地や住宅を求めるようになる。みんながほしがるから値段は高くなる。そのうえ本当に住むから買いたい人ばかりでなく、もうけるために買う人がでてくるのは当然となる。
そういうふうになることを狙って、今度は国が税金をより多く集めるために、儲け(利益や所得)の部分から使う(消費)部分や持っている(資産)部分へと徴税のターゲットを移しはじめたらしい。国民の数もこれからはどんどん減ってゆくし、どうやら土地を持たせてよい気分にさせておくということが税金の確保にとって一番確実というように、徴税のシナリオを代え始めたらしい。自分の持っている土地の値段が高くなった、価値があるといって喜んでいるのは実は罠にはまっているようなもので、愚かなことだ。
ただ住んでいるだけで、納める税金が自然に高くなって行くとしたらこれは問題だ。そんなことを、昔から、つまり住むための土地を早く手に入れていた人々は気がつき始めたのだ。オレの仲間の主人たち、人間さまさまたちもどうやらわが主人が大切なものといっている大地のことを、税金問題として深刻に考え始め、重要問題と実感し始めたということらしい。なんというオレとの感覚の違いだ!
<(8)へ続く>