わが名はヘボタ(6)
魁 三鉄
ある日のこと、オレが芝生の上で何を追いかけるわけでもなくクンクンと芝の草の芽の香りを嗅いでいる時、風の流れに乗ってか甘ーくとろかすような臭いが漂ってくるのを感じた。最初はかすかーにという感じであったが、次第次第に臭いがはっきりと強くなってくる。すると木陰からニャー、ニャーと例の挨拶がある。
「やあ、銀子か!」
それにしてもいつもと違う臭いがやけに鼻に突いてくる。どうやら理由は銀子にあるらしい。
「どうしたんだよ。なんだかいつもと違うなあ。その臭いは!」
「やっぱりそんなに臭う?!」
「オレのように鼻を頼りに生きている奴ならずともその臭いはちょっとねぇ……。鼻をつまむような悪い臭いじゃないからまだいいけど、それにしてもちょっと度が過ぎるんじゃないか?」
オレは事情も分からないからずけずけと感じるままに云う。銀子によればことの次第はさしあたってこうだと云う。
銀子の家は主人の家から300メートルくらい離れた高い塀に囲まれた大きな一軒家の金成さんだ。庭が全部白い壁に囲まれていてオレなど中を覗いたこともない家だ。そこに美沙子さんという年頃のお嬢さんがいるということはオレも知っている。このひとオレのことをどういう訳か気に入っているらしく時々オレに声をかけてくれることがある。なんといってもオレのインテリ風な顔立ちがことのほか気に入っているのだという。オレの犬種はみなオレのような鼻筋の長い品の良い顔立ちをしているからみんながインテリに見えてしまうということのようだが、美沙子さんは少し違うことを理由にしているらしい。美沙子さんによれば自分の頭で考える顔をしていることをインテリと呼ぶらしい。オレのどこに自分で考えている様が出ているのかオレにはわからないが、ときどき人間さまになにか言われた時にオレが首をかしげたり、命令のような言葉をかけられても、それをそのまま鵜呑みにしないで、いったん主人の顔を見て確かめてから行動に出るというところが、自分の頭で考えているように見えるということになるらしい。
自分の頭で考えるというその一点がインチキとかインテリアとは違うというのだ。オレにはなんのことか全然わからないが、まぁ、とにかく好かれることは憎まれたり嫌われたりするよりははるかにうれしいことだ。
で、その美沙子さん最近不機嫌らしいのだ。銀子に拠れば、なんでもその日はお見合いの日だったと云うのだ。お見合いと云うのは人間様に特有の種の保存法らしい。お見合いについてはいろいろな見方やとらえ方があるらしいのだが、そのことについては触れないでおこう。ただそれは年頃の本人の意志とは関係なく用意されることもあるらしいパートナー探しだ。美沙子さんは鳶から生まれた鷹とでもいうのだろうか、金成さんの家では誰もが認めるインテリらしいのだ。風のうわさやオレの他の仲間たちから運ばれる話によると、美沙子さんはフランスという国にピアノを習いに三年間行っていたらしい。ピアノという楽器については例の「子犬のワルツ」の一件でもふれた通り、その空気を揺さぶる音は実に心地のよいものだ。美沙子さんの口癖は「ピアノの音には色彩感が大切よ」ということだそうだ。ドビュッシィという作曲家の曲を弾くのが美沙子さんの十八番だそうだ。
その美沙子さん、お見合いの話がこの一か月ぐらいのうちに持ち上がってからというものの憂鬱で不機嫌でしかたがなかったというのだ。事件があったその日はとうとうお見合いの日となってしまったその当日だったということだ。銀子はその日の朝たまたま美沙子さんの部屋にいたのだが、銀子を撫でながら、銀子相手に美沙子さんはこう云ったというのだ。
「ミーちゃん、わたくしねぇ、今日お会いしたいと望んでいるわけでもないお相手に会いに行かなければならないのよ。相手はすっかりわたくしのこと気に入ってくださっているというのだけれども……。でもねぇ、お父さんは相手のお人柄とか考え方や趣味とやらの相性よりもお相手のお仕事と地位に惹かれているのよねぇ。わたくしがそこへ嫁げば、お父さんが経営する会社はますます繁盛するし、お相手の方だって末は国会議員に出馬し、当選するためには選挙資金もいることだし、まぁ、共存共栄という腹づもりらしいの。お父さんやお母さんの立場を考えれば無下に断れもしないしねぇ、まったくいやになってしまうわ。ねぇ、ミーちゃん、なにか良い考えなくって?相手を傷つけないでうまくこのお話断ってもらえる方法ないかしら?良い考えが……」
美沙子さんはそう云って銀子を抱きながらため息ばかりついていたらしい。
「ねえ、なにか教えてよ!」
少々ヒステリックになりながら、突然、美沙子さん、銀子の髭を強く引っ張ったと云うのだ。「痛い!!!」
銀子は思わず夢中で飛び跳ね、美沙子さんの鏡台の上へと跳び乗ったらしい。なんとか鏡台の上に逃げ込んだのだが、次の瞬間、ガチャーン!鏡台の上にあったガラス瓶がいくつか倒れたり、ぶつかったりしながらふたが抜けて床へ落ちてしまったのだ。
「まあ!!った大変!」美沙子さんは我に帰ったらしい。
「ラリックとナンシー、それにドームの香水瓶よ!フランスで購入した思い出の瓶だわ!」
銀子にすれば、痛いから夢中で逃げただけのことだ。とんだとばっちりだ!木ノ実や花と蝶の模様が装飾的にガラスに彫り込まれた香水入れがとっても素敵なものであることは銀子にも分かっていたが、どうにも避けようがなかった逃避行動であったらしい。鏡台から床にかけて、それぞれ入っていた蓋の外れた香水瓶からジャンパトウ・ミルとシャネル五番それにエルメス・アマゾンが数滴づつ玉になりながら身を膨らめ反りかえして鏡台や床の上にこぼれ落ちている。
「わたしが失禁したんじゃないよ!」銀子はそう叫びながら美沙子さんを見つめて哀れみを乞うように哭いたそうだ。最初は怒りのあまり、つかまえられて床へたたきつけられるのではないかと身を縮めていたらしい。急にむせかえるような、息が詰まるような、でもけして不快ではない、不思議な癖の強い香りがあたり一面に立ちこめて、花や木や動物やそのほか得体の知れないものから取り出し、調合された、とろかすような香りが妖しく銀子を襲ってきたのだそうだ。
「そうだ!!これよ!これだわ!」
突然これまでの黄色の声高の声が潤った少し紫がかった妖しい声になって、美沙子さんは何を思ったか、落ちている香水を混ぜ合わせ始めたらしい。ハーモニーを失った芳香の組み合わせは演歌とシャンソンとアリアを美空ひばりさんとコラボケールさんとマリア・カラスさんの声色を真似ていっせいに合唱し始めたようなものだったらしい。誇張して別のたとえを挙げて云えば、カルティエのネックレスをして、エルメスの赤色のスカーフを首に巻き、緑のバーバリィ・コートを着てピアジェの時計に黄色のクロコ・バンドをして、橙色のモラビトのクロコ・バッグを持ち、紫のフェラガモの靴を履いているご婦人とでもいえようか。いやー、なんとも評しがたいかつて嗅いだことのないチン・ドン屋さん的な不調和の激臭だったということだ。
「ミーちゃん、いらっしゃい!あなたよくやってくれたわ。わたくし、いいこと思いついたのよ。あなたのおかげよ!今日は私この線で思いっきりいってみるわ!ウフフ」
優しい声で呼んでくれたので銀子は近寄ってふたたび腕の中に抱かれたそうだ。すると混ぜ合わせたそのミツコならぬミサコの新種の混合香水液を銀子の顔から頭そして手足の部分にまで御丁寧にも皮膚に染み込むようにこすり込んだらしい。
これが銀子が形容し難い臭いをしょってきたことの顛末のパートTと言うところだ。
オレ、なんだか楽しくなってきてしまった。おもしろいのだ。美沙子さんに同情的なこともあるが、なんといっても人間社会の本質が覗けるというところがおもしろい。で、オレはもっと話の続きが聞きたいよ、と催促する。銀子も話を聞いてくれることがうれしいものだから立ち話もなんだからなどと言いながら、ゆっくりと腰をおろして再び続ける。
丁寧に香水を銀子に擦り込んで行く間、美沙子さんはどうしてお見合いがいやなのかを銀子にとくと説明したらしい。銀子がそれをわかってくれたかどうかにはまったく関係なく……。その内容を銀子は全部は思い出せないのだが、一言で云うとお見合い結婚は「ひびいれの力学」から成り立っていると言うことだ。オレもはじめて聴く言葉だから字の意味から問い直した。
「え?ひびいれ?ひびって?あのガラスに入るひびの、あのひびのこと?」
「そうよ、ワタシが危うく割りそうになった瓶などに入るあのひびのことよ!!」
「へえ?!そのひび入れの力学ってなんなんだろう?なんだか痛そうで、怖そうだね!でもオレその話聴きたいよ!!おもしろそうじゃん!人間さまのことだから……」
「ワタシも、細大漏らさず聴いていた訳じゃないから、要点だけよ。あんたんところのポンタ先生に本当はお話しして聴いてもらいたいらしいわ。美沙子さん、一度あんたのご主人、ポンタ先生とお話してみたいんですって!あんた、今度ご主人のご都合聴いておいてよ。話し相手がほしいのよ。美沙子さん。気を許して本当のことを語り合える仲間が……」
「オレ主人の書生さんじゃないよ。都合なんか聞けないよ。約束できないけど、そのひびいれの力学のおはなしがおもしろければ、一度話してみるよ。全てはお話の中身次第だね」
少し気を持たせるような言い方をしてオレは銀子が話を端折らないように牽制球を投げておく。銀子はすっかり話し込む気になっている。オレの方は内心主人に「伝えろっ!」って云われたところで伝える言葉がないよ、果てさて、と心の中で自問自答している。でもそう云ってしまい、銀子の話す意欲をそいでしまっては元も子もない。
銀子の伝える美沙子さんの話によれば、おおよそ人間の社会はそもそも「ひび」が入れて作ってあるのだと言う。社会という器はいわば破片を固めて作ってあるものだということらしい。もちろん器としての機能を果たしているのだから「ひび」模様が入っていても全体としての器のかたちが壊れてしまっているわけではない。「ひび」模様の入った器は、ひびのデザインが画一的でなければないほど、つまり出鱈目に入っているように見える模様であるほど、その社会は健康であることを示していると云うことだ。健康とは壊れそうで容易に壊れない強さをそなえたことであるらしい。ちょっと見たところでは出鱈目に入っているように見える模様はきたない印象を与えるかもしれないが、よく見て行くと実にうまくできているらしい。
世界を相手にした大戦争に負ける以前の昔の日本社会はその器を砕いてみると破片はみんな同じ形になってしまったらしい。ちょうど方解石という岩石を細かく砕いてみると同じような形でぼろぼろと崩れ、壊れて行くのと同じようなものだから、人によってはそういう器の社会を方解石社会と呼んでいたということだ。
今でもそうした名残りは保守的な社会の至るところにあるらしい。最近はそういう社会を金太郎飴社会と呼んでいるそうだ。金太郎の絵柄の種類は少しは増えているらしいが……。金太郎飴社会と「ひび社会」とはちょっと異なった物だからそれらを一緒にして論じるのはまずいということだ。その違いについてはいつか機会があればまたその時に触れたいが、ともかく社会という器の中の「ひび」デザインはいたるところに不規則に作られて存在しているらしいのだ。
ところが不思議なことに、一見、この不規則、出鱈目に見える模様の中におもしろい規則があるというのだから興味深いことこの上ない。
ひびの出鱈目模様は実は巧妙に計算されて寄り合わされて、出鱈目模様にできているというのだ。どういうことかと言えば、ひびの形は自然に出来てしまうのではなく、危険回避や場合によっては妨害行為の必要によって、器そのものの破壊が必要という時に、周りにいる利害関係を持つ人々が連帯して自分たちの利益を最大に守ることができるように、あるいはまた損害を最小にするようにと、いつでも一撃で器の形を狙い通りのかたちに壊せるように、また場合によってはすぐにまた元の形の破片を用意してすぐに元通りに器の形を復元できるように、あらかじめ用意したひびの模様を入れておくものらしいのだ。万一なにかの拍子で器が割れたときにも、その割れる形が決まった形になるようにひびをいれておくという計算されたひびの入れ方をするというのだ。ひびというのは複雑な利害と人の結びつきを暗に示す造形模様なのだ。そしてお見合い結婚と云うのは、結婚生活を営む当事者を含む社会という「ひび」模様でできた器を作る一つの模様のデザインの姿であり、造形の手段であるらしい。
二人の築く社会を思ったようにコントロールできるよう、対立する価値観や衝突する利害を内部に潜在させつつ、共同の社会生活を営むように計って行く、支配の道具としての意味を持つのがお見合い結婚というわけだ。
他方、お見合いと並んで結婚の方法には恋愛結婚という、お互いに愛し合う男と女が二人の永遠の愛を誓い、精神(こころ)の力を究極の頼りとして社会的に一緒に生活を営んで行く結婚の形態もあるということだ。この形の結婚は、極端に云うと愛のためには現実の全てをも従属させる、ものすごいこころのエネルギーを持ったものらしい。
この精神のエネルギーは二人が愛し合っている限りは不滅の法則からなっており、ふたつの結合状態は融合と云うべきものでお互いが溶け合い、くっついて一体となってしまっているから二つにばらばらには壊れない。それでもハンマーを使って叩き割ったり、ドライバーでこじあけたりして無理に叩き割ったり、引き裂いたりして壊そうとすれば、壊れ方は、おみあいのようにあらかじめ予定され、計算されていた通りのデザインひびの姿に沿って壊れることはない。無理やり壊されたとしても、二人の壊されまいとして、一緒にいようとする気迫が壊れ方にも現れ、壊れる形など誰も予想出来ないものになる。引き裂かれたことのへの恨みの念が壊れた形にも表れる。
世の中全体が、愛の力によって誰にも支配できないペアだらけになってしまったら、これはすごいことだ。こうした愛と信頼によって結び付けられた人々だらけになるということはとても素晴らしいことだ。愛し合う立場だけから見たらすばらしいことだ。しかし、人が人を支配するという社会の現実の中で、こうした愛の力によって人々が堅く結びつくことは、支配しようとする人々にとっては厄介極まりないことだ。愛の盾を貫ける槍はないことになるからだ。
だが、人間社会の現実というものはうまく?できているもので、そんなにすごい相思相愛がすべての恋愛結婚に当てはまるわけでもないようだ。人の心は動き移ろうものだから、一時的には激しく溶け合っても、時間が経つにつれて熱が冷めてしまったり、おもわぬほころびが原因で二人が分かれてしまうなどということもままあるらしい。恋愛しあっている男女の間でさえ、何から何まですべてが一致しているなどということはないのが普通だ。そうした食い違いやほころびが生じてもそれを二人で寛しあい、お互いに正しながら適当にしなやかに折り合って生活して行くのが一つの理想の結婚の姿だ。
このようにして世の中がみな愛し合う男女からなる社会になったらとてもすばらしいことだなぁ、とは犬のオレでもそう思うよ。人間さまはそんなオレの思いのあること信じないのだろうけれど……。
ところが、視点を変えてみると、もしこのようにすべての人間が愛によって溶け合い、かたまってしまったら、世の中は動かなくなってしまうことになる。これは社会全体としてみたらちょっとまずいことになる。みんながみんな愛のためにすべてを犠牲にしてしまうということになってしまったら果たして世の中は動くだろうか? 残念ながら人間さまの世の中は神様の世界と違ってそううまくは出来ていないようだ。
だから、盲目的な愛が許されるのはせいぜいペアの男女の間とか夫婦、親子、きょうだいたちの範囲というようにきわめて狭い範囲にとどまる方が社会的にはむしろ健全なのだ。
人間さまの世界では時として神様への愛、つまり信仰とか、なにか目に見えない特別なことに向かって人々が集団で一体と化し、連帯し、ヒステリー状態となって狂信的に一丸となることがあったようだ。あることにとり憑かれて、生死をともにするファナティック(狂信的)な行動を取る実例がいろいろな時代にいろいろなところであったということだ。四足動物のなかにも訳も分からずただ本能のままに集団で海に突っ込んで行く奴らもいるということだ。ああ恐ろしい!
こうした狂信的な一体感が社会的に横行するようになると、自分たちと異なる他人のことを許さない不寛容という狭くて強い思い込みが生まれだし、人々がそれぞれ異なった気持ちや考えを持って生きることを許さないようになり、時には異端審問などをして、仲間たちと違っているというその理由だけで他の人間を虐待したり、殺りくしたりするというようなことさえもしてしまったらしい。こういう社会は不健康な社会だし、怖い。中世の宗教裁判や現代のナチズムなどというのが実際にそうした実例としてあったということなのだ。不寛容集団に化したこういう集団的な狂信的偏執的愛情集団は、いろいろな価値観や考え方を自由に持って生きて行くことを認める民主主義社会にとっては危険な存在となる訳だ。
そこで過去の現実を学びながら、愛だけでは社会がうまく動いて行かないという現実を見つめ、愛し合えない人たちとも傷をつけあったりしないように平凡に仲良くやって行けるように考え出されたのが、「ひびいれ」の社会なのだ。より健康な社会を守ろうとして導入されてた知恵の賜物としての「ひびいれ」の社会であり、社会の運動力学なのだ。つまり、市民の一人一人の権利をお互いに守りながら尊重する社会を機能させるために、必要なときにはいつでも、愛情や利害によって結びついている絆を(強制してでも)解除させることによって、つまり「ひび」が潜在的に用意されている状態から、その用意された「ひび」模様に沿って本当に破壊される力が外部から加えられることによって、力の集合化を防ぎ、事前に結合の力を弱体化させ、内部からの崩壊を呼ぶように謀られる仕組みが考え出された訳だ。それが「ひび」の潜在的な内在という形で導入されるというわけだ。
昔の日本の殿様たちも人質という形をとって牽制するような仕組みを作ったりしたらしいが、それはみな同じパターンの「ひび」のデザインであったそうだ。今の日本という国の人間さまの社会はそれとは違ったもっともっと複雑な、しかし計算されつくした良くできた「ひびいれ」のデザイン模様なのだそうだ。だからあの出鱈目に入っているように見える「ひび」は一人一人の人間をお互いが尊重しあえるように図られ、状況にあわせて形作られた形状となっているということだ。
結婚というのは社会性を帯びている点では基本的には違った人間の結合でありながらも、一つの連帯行為でもあるわけだ。愛情という純粋である限りは容易に破壊できない精神の力によって、一つに融合された連帯が至るところに堅固に出来てしまったとするならば、これはもう最強の社会的連帯運動となる可能性があるわけだ。それは多様性の許容と不断の変化を前提とする民主主義にとっては潜在的な停滞、全体の破壊要素となってしまうのだ。だから民主主義社会では結婚はまた民主主義維持・強化の構築論理に従って社会的に構築され、営まれるという側面を持つわけだ。特にお見合い結婚においては……。
異なった要素に対して社会的に寛容である生活はお互いに異なる個人の生活から出発して、別言すれば、違っていることを前提にしたうえで二人の人間が一緒になるところからその地盤を築いて行くわけだ。そこでは互いに完全には一致しない、異質の要素を身内にかかえながらも、換言すれば「ひび」を最初から内在させたままの姿で一緒に生活し、寛容と共通の現実利害そして周囲の人々の力によって、ひびが拡大しないように支えあい、努めあうことを求めて生活が営まれて行くことになるわけだ。
こうして「ひび」デザインを入れたままにしておけば、支配者層は必要なときにはいつでもその「ひび」のデザイン(ライン)を刺激することによって家庭の不和を導き、それが原因であるかのようにして家庭外の活動を妨げることもできるようになる。家庭生活の破壊を覚悟しなければ、社会的活動の全ては自分の思ったようには出来ないことをしかと知らしむるという仕組みがここに効いているという訳だ。
このように必要に応じていつでもあらゆる方向からあらゆる「破壊的刺激」を用意し、潜在的な「内在するひびデザイン」を与えておき、「ひび」が「ひびデザイン」で留まるようにしながら破壊を最小限に食い止めつつ異なったものを共存させる原点に用意されるものが「お見合い結婚」であるというのだ。
つまり、お見合い結婚とは、夫婦になるお互いがひびを内在させる世界の中にいることを互いに確認しつつ、なお更にひび割れた世界のなかに生き抜くことを覚悟し支えあって生き抜くことであり、また社会的な機能という面から見れば、「ひびいり」デザイン社会を意図的に永続的に維持・構築する社会的担い手でもあるということになるわけだ。
もっともこのお見合い結婚をする人は常に必ず「ひびデザイン」の力学によっているのかといえば必ずしもそうではないらしい。詳しいことは別にまた紙面を取らなければならないほど複雑且つ根の深いことらしいが、要するに、今の日本社会の支配層、つまり政治家たちや大会社の経営者層やキャリア官僚、学界、医療界、法曹界、マスコミ界の管理者層など、今の社会をリードする民主主義理念を標傍する各界の支配層メンバーに関係する度合いの強い人々ほどその「ひび入れの力学」からは逃れられないことになっているらしい。
美沙子さんはそんな人々の社会に囲まれた人なのだ。そういう所ではお見合いを強制されるばかりではなく、うかつに恋愛などしようものならば「ひび入れの力学」が容赦なくその恋愛をする二人の中に割り込んでくることもあるらしい。恋愛の相手が同族の中にいる場合はまったく問題ないのだが、そうでないときには、どこまでもどこまでもそれは「ひび」を入れるために影のように後を追ってついてくるということだ。
その昔大文豪、漱石先生がもっとも卑しいと忌み嫌った職業の探偵などというのはそうした影組織に雇われたお先棒かつぎの人種なのだろう。彼らは、人間の尊厳とかプライバシーの尊重という基本的な価値に考えが及ぶこともなく、真の意味を隠され、お金のためにただ命じられた人の後を追い、覗き見したことを報告するという、覗き見病という職業病に取りつかれてしまった気の毒な人種であるということだ。
「ひびいれの力学」の話をさらに発展させると、そのようにつきまとってくる力を振り切って、恋愛関係にある二人が結婚に踏み切ったときには今度は徹底した二人の社会的孤立化と社会関係の分断化がたえず企かられることになるということだ。なぜなら本来社会的な影響力を強く持つ社会的地位を将来占めるであろう二人に対して、一般大衆が強い共感を持って彼らを支えるようなことになってしまっては「ひび入れ」をする側の人々の勢力がそれだけ小さくなってしまうからだ。だから、二人を取り巻く親戚、友人、先生、家族など影響を相互に持ち合う関係にある人々に働きかけながら、あらゆる手段を使って「ひび入れ」を謀るように動くし、それに失敗すれば今度は二人の社会的孤立化を謀り、人間関係を発展させないよう妨害し、かれらの影響力を社会的に最小化しようと図るし、彼らの将来への影響を抹殺するために、組織をあげて「お家の取り潰し」や「お家断絶」を謀ることさえするようになるのだ。そんなことを方程式で表すと
ひび入れの力学方程式:S=f(x)+m(x)/F(X)+M(X)……
となるらしい。
こうなるとオレには全然理解不可能だ。??
とまあ、以上が美沙子さんが銀子に独白したことの要点らしい。銀子がオレに語った「ひび入れの力学」の中身は更にその内容を縮刷したものなのだそうだ。美沙子さん美しく、愛想のよい顔をして平然と世の中を見透かしてしまっているらしい。若さに似合わず、やっぱり、鷹だな。彼女!
ちょうど銀子が「ひびいれの力学」の方程式を説明し終わった時、ドレスアップした美沙子さんが近づいてくるのがわかった。まぶしいなあ!
「まあ、ミーちゃんたら、こんなところに抜け出して来ていたの。わたくし、これから行ってくるわよ。ロック!ねえ、見て!わたくしきょうこれを持って行くのよ。今から身につけて行くといくらなんでもみっともないから、わたくし、相手の方にお会いする直前にお化粧室でこれをお肌にふりかけるの!……。 といっても、ロック、あなた、なんにも知らないでしょうから、私の言ってることわからないでしょうけれどね?!!……。ミーちゃん!あんたはわかっているわよね?!じゃあ、行ってくるわね」
美沙子さんは手に小さな品の良いガレの花文模様の携帯香水入れをいたずらっぽくオレに見せながら話しかけたあと、後から追いかけてきたお迎えの車の方へ歩いて行った。
偽悪家 美沙子さんのお見合いが見事に美沙子さんの狙い道理に運びますように……。
人間様の社会と言うのはなかなかおもしろくできているものなのだなあ!自分自身が自分自身であるためには周りの人々の思惑を振り切ってでも自分であろうとする人と自分というものの存在を考えたり、自覚することもなく、ただひたすら安楽に暮らせれば良いと望んでいる人もいる。自分などというものがあるとかえって色々面倒なことがあるから全ては他人に合わせた方が楽に生きられるし、摩擦をつくらなくて済むと考える人もいる。
オレのように外から傍観できる立場のものにとっては色々な種類があることを知るだけでことは済んでしまうが、当の人間さまにとってはそれらが逃れようのない生きる選択の問題として身に迫ってくるのだからこれは大変だ。「ひび入れ」やら「選択」やらで人生って絶えず追いかけられているものらしい。こんな見方をするときっとオレのことをノイローゼ犬だなんていう奴も出てくるだろうな?
オレなど人間様からみればどうでも言い存在だろうからわざと中傷されるような噂など流されることもなく、ほったらかされていられるが、美沙子さん、大変だな。端からみれば何の不自由も不満もないような生活を用意されているのに、「他人に用意されたものであって、自分の納得行く選択によるものではないから」というそれだけの理由ですべてを白紙の状態に戻してしまうのだからこれはすごいことだ。この国では欧米への開国以来約百五十年、心ある人はみんなそんなことに心を悩ましてきたようだ。すべて一度白紙にしたところから自分で選んだ末に描かれたものが、結果として周りの人々によってあらかじめ描かれていた内容と一致していれば美沙子さんも、周りの取り囲む人々もみんな最高に幸せになれるわけだ。そうなればいいなとオレは銀子との縁で心からそう祈る。
でもなかなか自分というものと社会というものは一致しないのが世の常だそうだ。そこに人生という悲劇や喜劇が絶えることなく生まれるらしい。
考えるということが人間であることの人間たる由縁だなどいう妙な発見をしてしまって以来、人間はそのことによって宙吊りとなってしまったというわけだ。神様にぴたっと張り付いていれば大脳の位置も心臓の位置も小腸の位置もきちんときまってなんの不愉快も感じることなく快適に生きることが出来たのに、考えるというナイフで神様につながる紐を切ってしまった途端から人間は無重量状態の世界に漂うことになってしまった。体の位置が決まらず、頭の位置が上になったり、下になったり、右に傾きすぎたり、斜めに倒れ過ぎたりと、その日以来人間は自分自身で全身を使ってバランスを保たねばならなくなってしまった。しかもバランスの基軸となる座標の位置がくるくると変わるのだ。百年もすれば今日のx=0、y=0、z=0の基軸はずれてしまって使えない。昨日の左は今日の右。今日の前は明日の後。なんと今では人間の動くスピードが余りにも早すぎて座標空間自体が歪んでしまって相対的な位置関係でしか物は測れないと云う。手を前後に動かしたり足を左右にゆすったり、頭を上げたり下げたりと、これでは顔がむくんだり、めまいがしても不思議ではない。そして機嫌が悪くなっても仕方がない。少しずつ、宙吊りの姿勢にも慣れては来ているがなんとなく、大脳も心臓も胃や小腸も納まりが悪いという感じは抜けていない。これが今という時代だ。この先どこまで漂って行けば人間はぴったりと全身納まりの良いところに安住できるのだろう。ああーあ、かわいそうーに!
そこへ行くとオレなど感じることはあってもさして考えることはない、意識することも多くない、こころもあるのかないのかわからない、ということになっている。オレはただただ犬猫を代表して神様に感謝する。
少し難しい話だったのか銀子も語り終えると少々疲れたらしい。きちんと正座し直して大きな欠伸をしている。薄いピンク色をした口の中が太陽の光にきらめいてことのほかきれいに見える。いつもはもっと単純な出来事を教えてくれるのに反して今日は美沙子さんの独り言の伝え役であったのだから無理もない。ありがとう。ご苦労様。銀子!
美沙子さんが行ってしまった後、オレと銀子はしばらく芝生の上で仲良く並んでうとうとと昼寝をした。お日様って有り難いなあ。ただ横になっているだけなのに、日差しの当たる皮膚は血のめぐりが良くなり、日差しを吸い込んだ血液は光に含まれる太陽の生きるエネルギーを体の隅々みにまで運んでくれる。お湯が沸き立つように生きる血が太陽によって沸かされるのがよくわかる。オレたちは太陽が大好きだ。病気や陰欝な気分や邪しまなこころがみんな洗濯されて殺菌されてしまう。「みんな心に太陽を!」というのは本当だなあ。
銀子の奴も気持ち良さそうに相変わらず手足を揃え横になっている。全身の真っ黒な毛は日差しの中に金色に輝いている。美しい姿だ。心も穏やか、安らぎの世界だ。平和だ。確かにここには知恵を使ってなにかを考えるとか、考える必要に迫られるということは必要ない。心が穏やかで安らいでいると、考えることは外に向かってはあまり活発には行われない。飢えて不満になっていないと頭というやつは働かないという説もあるらしいが、考えるために平和を犠牲にしたり、飢えを作ったり、不満の種を蒔いたりするなんてことは本末転倒だ。外に向かって考えることはなくても内に向かって考えることは活発に行われる。オレ達は深く考えられなくても、敏感に感じる能力が発達してくる。そんなことをボーッと思った。
美沙子さん今ごろどうしてるかな?うまくことが運びますように!!
<(7)へ続く>