わが名はヘボタ(3

魁 三鉄

 

三人の会話はとめどもなく続いて行く。

「ところで連綿と続いているものって何?ずーっと絶えることなく続いているということ?ずっと変わらず続いているものっていうと、いろいろあるしなぁ?」

ガシャ君は一つの語句についていろいろなことを思い浮かべるらしい。

「本質的なものとか普遍的なものということとは違うの?」と続けている。

話はオレをも含む自分たちの住んでいる日本という国の特質をめぐる話へと展開されてきたらしい。すると章太郎氏は我慢しきれなくなったのか返す。

「ということは、表面上はいろいろ変わっているように見えても核となる部分で変わらずにあるものとか、ずっと引き継がれてきたものということなのかな?連綿性とは?わが日本にはもちろんそうした特質はあるし、そういうことならば、連面性とは実体といってもいいのかもしれないな。わが日本国には世界のどこをさがしてもわが国にしかない貴重なものが確かに古代よりあるからな」

と、口を挟みながら、満足したような顔をしてガシャ君とわが主人ポンタ氏の顔を見ている。

「でもね、仏教の教えに沿って言えば、ずっと変わらずに続いているものなんてないっていうことでしょ?!諸行無常とか栄枯盛衰なんていう言葉が日常の言葉として使われているくらいだから、むしろ変わらずにずっと続くものなどはないと考える人のほうが多いんじゃないかな。日本は仏教国だし、日本人には分かりやすいよね。そう考えるほうが……。移ろう自然の景色にしても、源平盛衰の時代にしてもね。」

「なるほど。しかしだな、仏教的な考え方よりももっと強くわれわれの心情に根付いているものがあることを思うべきだ。仏教が入ってくる以前の万葉の時代、いや恐らくは縄文時代にも既にあった自然への畏敬や変化に富んだ自然の微細な動きに対する豊かな感受性や貧しいものへの共感、それに穢れたものを忌み嫌う気持ちなどはもっと強く生活感情として今のわれわれの生活の中にまで連綿として続いているぜ。ねぇ。ドクさん?そうでしょうが……。」

章太郎氏氏はここに我主人の出番を用意するかのように振ってくる。

「うーん、確かに……、」

と主人は独り言のようにつぶやきながら間を取っている。言いたいことを整理しているようだ。ちょっとはらはらするような間があった後、主人は続ける。

「連綿という言葉に対してお二人は普遍とか無常とか実体という概念に関連付けているようだが、ぼくが連綿という言葉で言わんとしているのはこういうことなんだ。えぇ、つまりね、日本の歴史をさかのぼってみたときに、確かに現象としてはいろいろな違った姿としてそれぞれの時代の中に現われているんだけれども、なんと言ったらよいのかなぁ、全てを丸め込んで飲み込んでしまうと言ってよいのか、そしてそれを独特の消化の仕方で吸収し、それらを栄養にし、筋肉をそして体を作ってきた、というそういう生活上の反応や考え方があるように思うんだ。日本人には……。

さっきの話にも出ていたけれど、仏教や神道の教えを受け継いできた連綿性ということも確かに言えるんだが、ぼくにはもっと大きな形而上学的な思考スケールというか宇宙観というのか信仰というべきなのか、そういう精神の消化装置があるように思えてしかたがないんだ。

日本人にはユダヤの神やイスラムの神のような唯一神はなじみにくい、理解できないというところがあるのは事実だ。日本の文化に影響を与えてきた中国の仏教にしても儒教の教えにしても一神教ではないし、アニミズム(自然精霊崇拝)を起源とするにせよ八百万の神々がいる世界は一神教とは逆の世界だからね。

しかしね。唯一絶対神と八百万の神々を一体とし、矛盾なく並存させる心情を日本人は持っているように思えてならないんだが、どうだろうか?」

主人はとりあえず議論の入り口で一度立ち止まっている。

すると、章太郎氏は

 「いや、私はだな、そんな形而上学的な心情とでもいうのだろうか、ドクさんの言うようなあいまいなものより、もっと具体的な連面性を信じたいね。それは、国民の気持ちをしっかりつなぎ、誇り高く、品格ある日本人としてあり続けるためのバックボーンとなる天皇への敬愛の心だ。この天皇への敬愛の心こそは古来より、今に至るまで人々の心の中に強く根付いてきた連綿とした心情なのだ。それがなんだ、戦争に負けたからといって、卑屈にアメリカのご機嫌を損ねないように、と国家のバックボーンとなる教えを放棄して、経済成長至上主義を採っているなんて。だからわが国は『町人国家』だ『エコノミック・アニマル』だと揶揄され、侮辱されるんだ。経済は重要だ。当たり前だ。しかし、拝金奴隷になってはいかん。米欧追従になってはいかん。絶対に!」

章太郎氏はいつもこうだ。はっきりしている。章太郎氏の上にはいつも日の丸の旗が立っている。旗がひるがえるようにエネルギッシュに無理にでも体を動かして風を作り出している。垂れたままの日本の旗ではダメなのだ。

「章太郎さん、待って、待って!」

 ガシャ君はまた始まったと苦い顔をしながらも、冷静に呼びかける。

「ドクさんの言ってることって、おもしろいね。伝来宗教や伝来思想をとりあえずまず丸ごと飲み込んでしまうという段階から始まって次第に次第に本来的なものに合うものを取捨選択したり、変容させ、あるいは消化してゆくというプロセスを辿るということでしょ。もしかすると日本人の独創の世界かも……。排他性の強いユダヤ教やキリスト教の世界からは絶対出てこない発想だし、ヒンドゥーやギリシャ・ローマの神々の世界からも出てこない発想かもしれないよ。具体的にどういう内容を指しているかがまだわからないけれど、奥が深くておもしろそうだ」

ガシャ君は普段の仕事も欧米を始め、海外と密接にかかわっているから、いつも話題の視野が広い。それに、若いときにイギリスに何年か留学していたということでもあり、その間に中東やヨーロッパの各地もすこしずつ旅したことがあるらしい。オレを初めて見たときも、

「あっ、これって牧用犬ですよ。スコットランドでたくさんみましたよ。もう20年以上も前のことですけどね。利口もんでね。それはそれは見事に羊を追い立てるんだ。一匹も迷わせることなくね。全体、もうちょっと大きかったなぁ。印象としては」

なんて言っていたくらいだ。オレのことではなくても、オレのルーツを褒めてくれるなんて、うれしいな、と犬の子供心に思ったものだ。

ところで話は続いて行く。

「いや、いまのところその消化装置の正体は尽くされていないんだが……。例の本地垂迹説なんてものは、そうしたスケールの大きな神や宇宙のとらえ方なのではないかと思ったりしているんだがね。どうだろう?」

と、先ほどの唯一神と八百万の神々の関係へと話を戻しながらつなげている。

「本地垂迹説?あー、あの神仏習合論のですか?ぼくは、いったんまるごと飲み込むというその発想は大日如来像を究極の本体とした空海にあったような気がするんですよね。空海が唐の都で学んだ頃というのは、唐の長安はまさに国際都市そのものであったわけですよね。そこにはインドやペルシャをはじめとして遠くギリシャやローマの文物さえもが来ていたというじゃありませんか。そういう都で学んだ空海は日本人の心性をもって仏教の教えを得たでしょうし、ほかにもその地に伝わっていた国際色豊かな文物を吸収していたと言えるんじゃないかと……。極論すれば、キリスト教さえもね。一口にキリスト教と言っても、いろいろあるから、そのころのそれは今日的なヨーロッパのキリスト教ではなかったでしょうけどね」

ガシャ君はさすがに視野が大きい。歴史の出来事を縦のつながりと同時に地域的な横のつながりと拡がりとで見ようとする。一体にこの人は眼をいくつ持っている人なのだろう?とオレは聞いていて思うが、オレの思いはオレの中だけのことだ。

「なるほどねぇ。空海の中に日本人の原像を見るというわけねぇ。というと、思い切り短絡化させてしまえば、空海が日本人の心性をもって中国仏教とキリスト教さえ含む西洋文物に接し、学んだことによって大日如来思想は生まれたということか……。それはまたおもしろい話になるね」

我主人は感心しながらも、さらに自分の考えを述べる。

「私はね。もう少しさかのぼって八百万の神の世界に仏教が伝えられてきたときに、一部にはそうでない動きもあったにせよ、それらが互いに排除しあうのではなく、同化しあうものとして交じり合っていったところに日本のこの精神の入れ物としての特質を感じるんだよ。本地垂迹説というものがあるでしょ?私はどうもここに日本の特質を集約した思考のあり方、というか日本人の精神の原型的特質を見るのだがね……。その起源については奈良時代らしいが、はっきりとは判らない。ともかくも本地垂迹というのは本尊仏が本来の一つの姿で、それがさまざまな神という姿に変容して現れる、つまりは両者は本質において分かちがたき同じものということのようだ。私はね、神と仏のどちらが唯一絶対の存在であるかは別として、どちらにせよ、その発想は一体にして多体、多体にして一体というものであり、他の国には生まれ難い独創的発想だと思っているんだ。こういう融合を可能にしてしまう精神は、対立するどちらか一方を排除しようとするのではなく、寛容という溶剤によって『否定という牙』をまるごと溶かし、浄化し、消化・吸収し、融合体としてしまうんだ」

なんだか妙な感じになってきた。オレの体もそのうち溶かされてオレの体ではなくなり、別ものへと変容させられてしまうのだろうか?なんだか怖い気がする。

そこへ行くとガシャ君など落ち着いたものだ。度胸がすわっている。そしてたずねている。

「なるほどねぇ。ヨーロッパのキリスト教には本質的に正統と異端以外はありえないですね。寛容の精神が近代になって出てくるまでは……。そんな、まじりあったどろどろしたわけのわからないものは伝統的なヨーロッパ精神の中ではすべて異端だな。もっと万事が明晰ですね。シンプルですっきりしている。なにごとにつけ整理の仕方が……。それを合理というんだろうな……。

芥川龍之介や遠藤周作は飲み込まれたものが咀嚼されてゆく中で消化されなかったものが、排出物として体外に放出され、酸化され、腐敗してしまうというような見方をしていたんでしょうね。逆に消化されたものは元のものとはまるで違ったもの……という訳ですね。」

とガシャ君は自問自答しながら反応している。

主人も別段構えることもなく、

「いや、枯らせたり、腐らせるのではないのだ。咀嚼しながら消化してしまうのだ。浄化してしまうといってもよいかもしれない。その浄化作用をする大きな入れ物が日本という共同体なのだ。……」などと淡々と話を進めて行く。

「俺はもっと単純さ。それに感覚を大事にする」

と章太郎氏はポンタ氏とガシャ君の対話に割ってくる。そして続ける。

「いいかい。日本の地勢的な条件を考えみな。こんなに気候に恵まれて、春夏秋冬の四季があり、暑さも雪もあり、湿度も高まったり、乾いたり、寒帯から熱帯まで世界中のすべてのお天気があるところなんて日本以外にないじゃないか。わが国は四方を海に囲まれている。夷敵とはいわないが、そう簡単に誰も彼もが外から気安く入ってはこられない。天然の要塞に囲まれている。四方の海は暖流と寒流がぶつかり合い、魚の種類は豊富。起伏に富んだ山川海のつくりなす景色のうつくしさ。米、野菜、果物の農産物も豊かにできる土壌。そして金銀や鉱石も出てくる山々。そしてなによりも緑豊かな森林。森羅万象、文字通り、なんでもあるじゃないか!まさに八百万(ヤオヨロズ)の世界だ。今は『わが国にはない』といわれている石油資源だって海底に目を向ければきっと豊富にある。八百万の多様なものがばらばらにあるのではなく、一つに島の中にまとまってあるんだ。一つの国の中にこんなにめぐまれた自然条件を備えた国はわが国を除いて、一体、世界中のどこにあるかね?まさに黄金郷ジパングだよ。説明できるかね。自分がこんなに恵まれた国に生まれたことを……。いったいだれがこれだけの恵みのそろった世界を与えてくれるかね?感謝しなければならない。この国に生まれたことを、天の恵みに……。美しい国だ。素直にこのすばらしい僥倖に感謝しなければいけない。そして、忘れてはならないのはこれだけの多様な世界を一つにまとめている精神がづっと続いてあることだ。明治の開花が来るまでは平和に心を一つにして日本はまとまっていたんだ。国民は教わらなくても生活の中で一つにまとめている大きな尊崇すべき何かがこの国を覆っていることを知っていたんだ。そういう精神を引き継ぐ事が平和で心安らかな生活をもたらしてくれると信じて、武士はもちろん町人もお百姓さんだって、みな読み書きをしようとしていたんだ。

それが、江戸時代の末頃の混乱に乗じて、米欧の我利我利亡者たちがやってきて、日本人の心をばらばらにしてしまおうとしたんだ。そこで明治政府の支配者はばらばらにさせてはいけないと、心の拠り所をしっかり持たせるように国民を意識して再教育したんだ。日本人は五箇条のご誓文の中身のすばらしさを良く知るべきだ。今でも立派に通じるすばらしい宣言に満ち溢れている。このような立派な考えを国民に徹底したからこそ、明治の日本人は公徳心も強く、欲も抑えることを知っていた。その上で殖産興業に努めた。しかし、今は一体なんだ。欲ボケの、まさに我利我利亡者ばかりだ。あーあ、なんと嘆かわしい御世となってしまっていることか……。本来あった日本人の心をひとつにしたすばらしい精神を呼び戻し、八百万の世界の恵みを大切にするのだ」

と章太郎氏氏は否定できない現実の様子を突きつける。

おもしろいもので、神様の分身の天皇を親として国民がみんな仲良く協力し合うことを天に約束したことによって、われわれの祖先の日本人は天から恵まれた場所を与えられたのだから、この約束を末裔の人々が代々これを守ろうと大切にするのは当たり前だ、という訳だ。ユダヤの神ヤーベの替わりに天皇を崇め、約束をまもることがすべての第一歩だというのだ。美しいものには黙ってひざまずき、尊崇の念を懐(いだ)くという純粋な気持ちの持ち主なのだ。章太郎氏は……。

 

オレにとって不思議なのは、こんなに違った考えの3人なのに集まっては言いたい放題おたがいに自分の主張を繰り広げているということの方だ。こんなに違っているものが一緒に仲良く話していることの不思議はどうにもよくわからない。

「章太郎さんのいう天皇教、あえて天皇教と呼ばせてもらうけどね、それは世界のなかの一つの地域宗教としてはありえても、国境を越えた世界宗教には到底なりえないと思うな。確かに日本人は地形的に恵まれたところに生を受けている。そのことはだれにだかはわからないけれど、やっぱり感謝しなければいけないね。素直に……。

でもね、地形的に恵まれたところに生を受けたことを天の神のせいにして、その神の分身だからと天皇を絶対視するのは科学的ではないな。それに天皇教なんて、冷静にみれば、欧化政策を推進する明治政府が富国強兵策に利用するために作り出したイデオロギーだよ。冷静に史実を追いかければ、天皇はいつの時代でも大切にされていたわけでもないらしいよ。江戸幕府に反抗した尊皇派や明治政府を支えた支配者たちが討幕運動を正当化し、国民の結束を固め、国民国家一体となった富国強兵政策を実現するために作った政治政策的なものだよ。

もちろん、章太郎さんのように考えるのも日本の自立性を保とうとする考え方の一つであるとは思うけれど。でもね、そういう考えって欧米人には危ないって思われるのが関の山ですよ。なぜといえば、非人間的な要素があり、人間中心の考えを欠いた合理的でない考え方であるからですよ。それになによりも人間知性の蓄積に対する敬意に欠けるな。感覚や心情に身を任せるのは現代人には望まれていないことですよ。一人一人の理性的な判断にもとづいて自分の責任で決断し、行動するのが現代人に求められることですからね。やっぱり、欧米の合理主義思想の持つ普遍性に立脚するべきだよ。欧米の合理主義って、やっぱりすごいよ。日本人などよりもずっと前からギリシャ人はいろいろなことを考えてきたし、キリスト教が成立した後は信仰と理性とが時には対立しあいながら、結果的には編み糸のように絡み合いながら歴史という布を織ってきたわけだからね」

ガシャ君はヨーロッパからはまだまだ学ぶものがあるし、日本を狭い枠の中に閉じ込めてしまうべきではない、という立場だ。

うなずきながら聞いていたわが主人のポンタ氏は

「ぼくはね、章太郎氏の日本主義とか天皇教とでもいうような自然の豊かさと結びついた日本人心性の豊かさという考えを全面的に否定する事はないけれどもね、といって天皇を神とし親として臣民が一家をなすように生きて行く社会という理想には賛成できないんだ。確かに、たとえ共同体から放り出され、一人になり、よその地へ移ることを余儀なくされても、自然が穏やかで、魚や野菜など食べ物を比較的容易に手にすることができ、なんとか生きることだけはできる豊かさがある国だ。日本は……。たとえ生産性の低かった大昔であってもね……。

そういう穏やかな風土の世界には、神と人との『契約』という思想は生まれようもなかった。『契約』を破った時に、恐ろしい『天罰』を受け、その後何代にもわたって生き延びられないような苛酷な環境に身を置かれながらなんとか生き延びる、という厳しい自然環境はなかったに等しいからね。

おそらくヨーロッパやアメリカを見てきた新時代の若者たちはヨーロッパやアメリカという文明国は神との契約によって国を造ってきたというそのことを知って、『契約』に似た『誓約』という考え方を導入し、明治天皇の権威付けにも利用したんじゃないのかな?明治天皇の五箇条のご誓文などはそんな具体的な考え方の現われだったんだろうね……。ご誓文に沿って活躍した人々には、出身階級や出自を超えて、どんどん社会的栄誉の獲得や出世の道筋を見えるように与えたからね。国民の誰もがこうすれば自分の生活は豊かになるし、一族も報いられるというはっきりした指針が与えられていたということだね。こうしたイデオロギー面でも富国強兵策が採られ、能率良く近代化が成功したという事実は素直に認めなければならないね。といって、私は明治政府の狙ったような政治イデオロギーを再びこの日本に採り入れるべきだとは全く思っていないんだ。章太郎氏とは違ってね……。確かに明治政府が掲げ、明治天皇が発布したご誓文や憲法は近代国家の成立に大変寄与したことは間違いない。

ただ問題は、憲法にしても、ご誓文にしても言葉としては大変立派なことが記されているけれど、具体的にそれぞれの理想や目標をどう実現するかというところでは、当然のことながら、いろいろな利害対立や思惑の違いなどが出てきてしまったわけだ。そうした対立要素が表立って出てきたときにどう対処するかが実は一番重要な問題なのだ。明治の御世が終わり、大正デモクラシーのあと、特に軍国主義が台頭してからは、国策や皇国史観に反対する立場の人々に対してどう処したかという点が問題なのだ。日本は反対派を暴力で弾圧したでしょ!?そこなんだなぁ、弾圧とくに権力による暴力の発動はやはり日本の未熟さを現していたと思うな。戦前まではね。そういう現実は世界を相手にした戦争の敗北によってみんなに認められたわけで、それまではみんな自分の生活を犠牲にしていた訳だ。犠牲を強いられていたというのは戦争の敗北によって初めて公然と知られるようになったことなんだ。やはり、都合の良い事、悪いこと、万事がオープンになっていることが大切だね。

何事においても、現実の中で、個人への負担や犠牲をより少なくする方向で対処することが肝心なことなんだ。それを実現するためには、特に滅私奉公といった国家共同体の利益を優先して個人の犠牲を強いたり、人権を損ねるようなことはできるだけ少なくしなければならない。滅私奉公や国家主義は基本的に個人を中心にした人間観を形成している現代人には受け入れられないね。開かれた社会の中で、個々人の独立心、相互敬愛を基本にしながら機会均等のなかで国民が切磋琢磨し、経済的な豊かさを追うばかりでなく、社会への還元を目指すようにしたいね。ぼくの立場としては……。

といって、ぼくは西洋的な思考の全てが良いとは思わないんだ。西洋の合理主義についてはその有効性や人間尊重の志向を認めるんだが、現実の動きを見ているとアメリカ人の拝金主義や思い上がり、それに現代ヨーロッパ人の理性信仰、人間中心主義への楽観論の危うさを感じているんだね。こういうことは一つ一つ論じるとそれこそ切りがないことだけどね。

最近、しきりにマスコミなどで言われ始めているグローバリゼーション(地球一体化)ということなども、一見、国を問わず妥当する普遍的なことのようにいわれるけれど、よーくみれば、グローバリゼーションの実態なんて万事アメリカモデルの各国への適用でしょ?普遍でない部分が目立って来ると逆に、日本では純日本化への回帰とか揺り戻しの必要性がかまびすしくなるわけさ。

それらの主張の中身が、文字通り、『日本』だけに固有のものへの回帰を意味するのか、それとも表面上は日本に固有のものに見えながら、実は世界中どこでも共通して求められる性質のものなのかは、今は結論を保留しておくこととしよう。なぜなら主だった国における思想的基盤や価値観に結びつく要素を詳細に比較して見ないことには結論は出せないからだ」

長い話が一息ついた。なるほど我が主人はなかなか慎重だ。普段はあまり、ささいなことにこだわらない人なのだが、事柄が人間や社会のありかたに触れることとなると慎重な扱いをする。この辺の切り替えの素早さと適切さに友人達は敬意を払っているところもあるらしい。

 わが主人のポンタ氏は今ではいわゆる肩書きとか世の中の人々が敬意を表するようなものとは何の縁もない人なのだが、そんな身分でいるのもなにか考えあってのことらしい。なにか彼にとって大切なものを守るための事であろうか?そのあたりの秘密、つまり、彼は求めるならば簡単に手にすることの出来る、世の中の人々がこぞって求めるようなものを、なぜあえて求めようとしないのかがこれからの話の中に伺えるかも知れない

主人の話はまだ続いてゆく。それをガシャ君も章太郎氏も「おまえ、一人でしゃべり過ぎだよ」などとチャチを入れることなく、真剣に聞いている。遠慮しないでしゃべってくれという気持ちで聞いているのが良く分かる。

「ただ日本人として言いたいのはね、ちょっと飛躍するように感じられるかもしれないけれどね、梅棹先生の『文明の生態史観』ではないが、あのような日本の位置の固有性をベースにした独特の考え方をもっと世界に向かって出して行きたいということだね。地球が狭くなって各国の相互依存性がますます強まって行く時代にはね。なに、まるまる生態史観に立脚しろと言う意味ではなくてね、西洋の科学技術の成果を採りいれ、東洋の宇宙観や世界観を西洋キリスト教的世界観から位置づけなおすということばかりではなく、逆の立場を採ったり、また比較をしつつ、両者を消化しつつ、つなぎ、融合するというような発想に基づく思考の醸成を図ることだね。ぼくが主張し、求めたいのは……。だから唯一神と八百万の神が同居するような発想で本地垂迹説の現代版ヴァージョンのような宇宙観や形而上的な思想が出てもよいのではないか、ということなんだ。あるいはガシャ君の指摘のように、キリスト教と仏教の融合を図るような考えや信仰が現代版「空海」という姿で日本から世界に発信されても良いのではないかと思うのさ。それがかつての共同体の論理のような姿をとるということではなくね。むしろ地球共同体というスケールの話としてね」

わが主人はとてつもないことを言っているようだ。とても他所(よそ)の人には言えないくらいの大風呂敷だ。それでも、この3人はとにかくお互いの立場をはっきりさせながら言いたいことを言うようにしているのだ。そこがなんともすごい。言う事が違うから以後は口も聞かないということではないのだ。言いたいことを言い放ちながら、お互いに尊重しあっているのだ。すべての出発点はお互いの尊重なのだ、とオレは3人をつなぐ鍵となるものを見つけた気がした。そしてこういう人間様たちが当たり前に溢れている国になることが日本にとって一番よいのではないかと思うのだ。

「ドクさんよ。それもいいけど、現実の足元をかためることだよ。このままじゃ、本当、だめになってしまうぜ!日本は。若者たちは生きがいをなくし、日本のために身を捧げることを正当化する価値観をなくしている。だからどうしてよいかわからない。まったく生ける屍の群れではないか!貧富の格差は増大する一方だし、老人は邪険にされるし、敬老の精神はなくなるわ、家族の絆は壊れて行くわ、犯罪は増えて行くわ、昔の人が見たらびっくり、というより呆れて発する言葉がでないことだろうよ」

章太郎氏は現状を見れば憤懣やるかたなしという呈だ。現状への怒りのことばしか出てこない。そんな現状ばかりしか語っていないとなると章太郎氏も自分でもイヤになってくるのだろうか、もともと美しいものには目のない人だ。突然、話が飛んだ。

<(4)へ続く>

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