わが名はヘボタ(2)
魁 三鉄
主人はこの家では一体何をしているかわからない。オレが見る彼の姿は一階の客間と呼ばれる部屋のソファに姿勢を崩して座り、黒く塗られた木の枠で四方を囲まれた布地の上に山の形や海や家が色塗られ、描かれたものを眺めている姿だ。オレは最初、それらはデーデッポがそこを空中から切り取って魔法のランプに詰め込んでこの家の中に運び込み、壁にぶらさげたものかと思っていたが、そういう摩訶不思議なものではなく、黒い枠を額と云い、その中に納められているものを「絵」とか「油彩画」とよぶということがこの主人が来てからわかった。その布の上には山や海の景色ばかりでなく、花や人の顔があったりする。時にはオレの仲間の姿もあったりするらしい。
夏目漱石という偉大な小説家は子供の頃から家の中にあったたくさんの絵を見て、山水の景色はすばらしいなぁと思っていたが、青春時代に東京を出て房州に旅行した折、ほんものの鋸山の険しい姿をみたら、実物は絵よりもずっとすごい、と感動したということだ。だが、わが主人はなぜか、「絵」のなかの山や海の景色の方が時には実物よりも素晴らしいということもあるらしい。
オレは「絵」のことは見てはとんと分からない。が、主人の部屋にある、オレの鼻を通って入ってくる色の無数の組み合わせからできている絵の香りはなんともいえなく、すっきりとした爽やかな香りだ。
「『絵』に香りなどあるの?絵はみるものでしょう?」
という素朴な疑問を持つ読者もいらっしゃるかもしれないが、実はこれがあるのだ。香りが……。絵のすべてに良い香りがあるのかとみれば、それが必ずしもそうではない。主人が持っている何枚かの「絵」のなかには、きれいに見えるにもかかわらず、変な臭いがしたり、オレには合わない香りをだすものもある。オレに言わせれば、よい香りのする「絵」はみな心地よい絵だ。絵を香りで「みる」とは、まさしく犬の所業だと思う方もいるかもしれないが、ものをみるということは眼で「見る」ことだけが「みる」ことであるわけではないということだ。オレの主人は「みる」ということばをさまざまなことばであらわすことを心得ている人のようだ。ちょうど、オレの事を「イヌ」といったり、「ドッグ」、「シエン」といったりするのと同じように……。「みる」は「見る」であり、「観る」でもあり、「診る」でもあり、また「視る」でもあるのだ。そしてさらには「嗅ぐ」ことさえ、「みる」こと同じことを意味してしまうというのだ。主人にあっては……。
さて、こうして休みの日にはオレの主人は絵をみたり、レコードを聞いたりしているのだが、そのほかの時は、主人は自分の部屋と称する部屋へ入ってしまってなかなかそこから出てこない。何をしているのか良くわからないが、布ではなく、小さな升目のついた桐の葉のような大きな平らな白いものに、考えていることや思いついた戯れ言などを気ままに書いては一人で悦に入っているらしい。
全体、この国の人々というのは昼間という時間は家にはいず、朝には、頑丈な動く鋼鉄の箱に乗せられて、詮鑛場に運ばれる採鉱石のように東京というコンクリートの街へと四方八方から集められ、そこであれこれ形の似たものどうしをくっつけられたり、違った形のものと組み合わされたりしながら、何かに合うように使われては、夜にはまたパチンコ玉のように吐き出され、途中であっちこっち赤い灯堤やら青や緑や紫色のイルミネーションにぶつかりながら、朝出た家に再び戻ってくるというような生活を毎日のように繰り返し送っているらしい。オレの主人もそんな人種の一人なのだが、そうしなければならないからそうしているのではなく、そうしていることが彼の作り出すものに現実の「本物の力」を与えるからという、なんともわかったような、わからないような妙な理由で主人もあえてパチンコ玉のひとつとなってそんな世界に出入りしているらしい。この世の大多数を占めるパチンコ玉属の実態をわからずしてこの世を語るなどということは、彼に言わせれば、ホリーや滝川のピカソということらしい。
そんな暮らしの主人だが、年に1回か2回のことだが、夜を徹してまで語り合う友達が遊びに来ることがある。この間も、昼頃3人が集まった。いつもの顔ぶれだ。オレはお日様の出ている間は毎日家の外に出されているのが普通だが、雨が降っていたり、降りそうになってくると例のオレの部屋に収れられる。晴れている日はなんと云っても外が良い。庭に出れば、決まって朝と夕には挨拶に来る椋鳥の「ゲジュラ」一族がいるし、最近ではお互いに顔なじみのよしみで、一番の仲良しになっている「銀子」が今日のニュースをもってくる。それにオレが気持ち良く寝そべる芝生を縄張りにしている、弱い癖にいつも鎌を降りあげる愛敬物の「ヒョロ」の怒りのダンスを見ることも時には出来る。それからいつも気ままにどこかへ行っては忘れた頃にふと姿を予告なくこのあたりに現す住所不定の、同属の「ノラタクン」も仲間だ。「ノラタクン」は餌の保証よりも鎖を断つ方を選んだくらいだからとにかくたくましい。勝手気ままに生きているように見えるが、あの豹々としてふらついている姿の頭から尻尾には鋼鉄の芯棒が入っている。「ノラタ」は行く先々で名犬の誉れ高い娘たちを次々と陥落させてしまうので、憎っくきジョディとかカサノバなどと人間さまには恐れられているが、オレの前ではいたってまともだ。いつか「ノラタクン」の登場機会もあるだろう。
仲間といえば、変な奴、サンダー・バットのことも忘れてはいけない。オレは最初こいつが稲妻のようにオレの鼻先を何度もかすめ、全く先の読めない軌跡を描いて空中を七転八倒、転げ跳んでいる姿に仰天したものだ。腸捻転でも起こして苦痛のあまりの動きか、いつ墜落してしまうのか、と思ったものだ。なにせ、その動き方があまりのデタラメさそのもので、まるで先の読めない動きだったからだ。オレは本気でお医者さんを呼びに111(ワンワンワン)と主人に電話をかけてもらうよう頼もうかと思ったくらいだ。右かと思えば左の下に、次にはそのまま直進かと思えば、今度は突然の宙返りのS字型アクロバット飛行だ。一瞬たりとも止まることはない。いやー、世の中には想像もつかない奇妙奇天烈、奇体なものがいるものだ。後から知ったことだが、こいつは蝙蝠というのが正式な種族の名前らしい。が、オレはそいつをS・Bと呼ぶことにした。S・Bは、食べ物のカレーではなくて、なんとも説明のしようのない奴なのだが、こいつともいつのまにか仲良しというか、気を許しあう仲となってしまった。こいつは夏に限って夕方、お日様が沈んで暗くなり、みんなが休みに入ろうというときになると姿を現しだす、万事、さかさまの奴であった。すべてがさかさまのせいか、S・Bは変な奴だとみんなからは嫌われていたが、逆さまに見るS・Bの話しには時々おもしろい話があるからか、オレはそいつを差別したりしないからなのか、いつか大変な話を持ってきてくれたことがあった。そのことはいつか書こう。あっ、それに奇態といえば、ペロちゃんもいた。ペロちゃんはその姿かたちが棒のようなためか、そのままの姿では前に進めないから全身をくねくねとよじりながらでないと前へ進めない。形は確かにオレたちとは違っているが、オレにはとても心強い仲間なのだ。ペロちゃんのことも機会がきた時に、紹介しよう。
とにかく、外には沢山の動いている物がある。外そのものが生きている。光が、空気が、木々が、空間のみんなみんなが生きている。
それに敷き代え、雨の日は憂欝だ。一日中部屋から出られない。仕方がないから終日寝そべっている。オレはボーッとしているつもりはないが、奥様は夕食時に、 「ロックちゃんも雨の日は横になって寝てばかりいるわ!」
などとオレを報告まがいの話の肴にしている。ご主人様も
「犬だって雨の日はする事がないだろうから寝るのももっともださ」
などと合わせている。ところがわが主人はいささか違う事をの給う。
「ヘボタのやつ案外、お母さんの事を観察しているかもよ!寝ているように見えても案外人の動きを見てるもんさ!」
さすがにわが主人は外に現れた形にとらわれる事なく、内なる心の動きにまでも目が行く人らしい、とオレは一人、否一匹、感心する。実際、奥様などはひどいもので、雨の日に限らず、暇なときには箱に入った電気だか電子仕掛の、動く芝居を眼で追いかけてばかりいる。毎日、毎日、おかずのようにして食べているのだからさぞかし眼と頭に栄養が行きわたって、明晰で発展的な頭脳が積み上げられていることだろうと思うのだが、食事時の会話などを聴いているとなんということはない、同じような話しか出てこないし、特別の味のある話となるわけでもない。どうやらテレビと称するこの箱は人間の脳味噌を栄養にして生きているらしい。毎日、毎晩どれくらいたくさんの人間さまの脳味噌を食い尽くせるかを競争しているらしい。恐ろしいものだ。
話は少しずれてしまったが、とにかく雨の日はつまらない。けれども明日は是非とも雨になってほしいなぁと思う時がごくたまにある。主人の友達が集う日がそれだ。この日ばかりは雨になって一日中家の中に閉じ込められていた方がよい。なぜかと云えば、3人の話が聴き耳をそば立てるほどにおもしろいからだ。オレが初めて彼らの話を聴くことが出来たのはもうだいぶ昔の雨の日のことであった。その日の話の中身の事は忘れてしまったが、
「上流だとか中流だとか、こんなのはどちらへいれたらよいのか?……も良いけどここがちょっと……」
などと一晩中愉しそうに、時には紫色の妖しい声を出して、寝ずに論じていた。オレはオレのことを話しているのかなとも思ったものだ。だって犬の品定めではオレの一族たちはいつも評判がよいのが常だから……。
その後も何度か面白い話を聴くことが出来たのは決まって雨の日のことだった。そんなわけで3人組が集まるということを問わず語りに知ると、何となく日頃の外の生活の素晴らしさを忘れてしまい、雨になることをオレは祈るようになったという訳だ。
オレの祈りが通じたのか、オレは彼らが集まる前々日、夕方の風の臭いで明後日は雨になる事を人間さまたちに先んじて知って、にんまりとしながら床についたわけだ。
翌々日の日曜日はオレの予報通り、やっぱり朝から雨になった。主人は朝から心が弾んでいるのがよくわかる。オレだって心ウキウキだ。ついつい尻尾振りにも力が入ってしまう。
スコッチだ、泡盛の請福だなどとやっている内にみんなの話にエンジンがかかってきたようだ。飲めば飲むほどに話が未来に進んで行くのはガシャ君こと姿 代弥氏だ。ガシャ君は自分の顔は万国旗だと信じているくらいの自信家だからどこへ行っても誰とでも、もちろん外国人とでも話が出来る。なるほど行く先々の国の風に合わせて唇の旗は巧みに揺れている。イギリスではイギリスの旗が一瞬跳ね上がったまま静止したようになったあと、ばたばたと小刻みになびき、ドイツでは唇は良くもまあ順序をまちがえずにと思うように前後に位置を変えたり、最後に突然意味をひっくり返えしたりと、無いように見えて、しっかりある規則にあわせて、言葉の旗をはためかせている。フランスでも旗は口や鼻を抜けた微妙な風の動きに合わせて軽やかにそして優雅に踊っている。中国へ行けば行ったで東風に合わせて旗は縦横に間延びしたり、かと思うと上下に巧みにうねっている。普段は「ワガシャでは・・・」と切り出しては日本の産業政策について一席をぶっている。そんな彼の事だから話のスケールは常に大きい。
オレにはアメリカだとかヨーロッパだとか云われても噸と場所の見当もつかないのだが、それでもオレが今生きて知っている所とは万事が異なっているらしいことは何となく想像がつく。どうやら話は発展してオレの住んでいるこの国がこれからどうなるかなどという事になってきたらしい。
「ワガシャとしては高度情報化社会はますます進展し、全世界からの情報を国民が有効に活用する社会がもうすぐ来るとみなしている。当然、知識集約型の産業構造のウエイトが増すことになってくる。知識集約型の産業社会になって行く以上は第1次産業の就業者やものを造る工場で働く人はどんどん減って行く。現に3K労働などと呼ばれている、きつくて、汚くて、危険な仕事からは人々はどんどん離れて行っている。特にこれからは就労する若い人がどんどん減少して行く訳だから、ロボットやエレクトロニクスによる自動機械がますます必要だ。といって、万事が機械によってとってかわられることになるかといえば、そんなことはない。超現代的と云われるインテリジェント高層ビルでさえ、建設の最後の部分は人手によらざるをえないから、どんな最先端技術のあるところでも、やっぱり人の手は必要だ。日本人はとかく日本人でなければ仕事は出来ないと考えがちだが、そんなことない。中国の人だって、東南アジアの人だってどんどん日本で働けるようにすれば良いのさ!必要とされる仕事ができる限りはね」
「おいおい待て、待て!」美空章太郎氏は手ぶりまでつけて話を遮る。声は大きいがいつものことなので誰も驚かない。
「日本の事は日本人が全部やれば良い。困ったからと云って他国にすぐに救いの手を仰ぐなどと云う事は実に情けないし、けしからん。今の日本人にはすっかりやせ我慢の心がなくなってしまった。どんなときでも、王道の美学を忘れた国民は外国でもけして敬愛されない」
「けしからんと云ったって、現実に必要になってしまうのだから仕方がない。別に助けてくれと叫ばなくても自由な経済は国家を越えて人々の移動を自由にするものさ。日本に働く人が足りなくなり、日本で働けば豊かになれるとわかれば世界中の人々は日本に押し寄せて来るのが自由経済の理(コトワリ)というものさ。豊かな社会にして人生を楽しめる日本にする事が大切だよ。日本人、日本人って云ったところでヨーロッパからみれば、日本は下手すると中国の一部程度に思われる存在だ。世界の大勢に逆らってまで日本!日本!と叫んだところでどうせ禄な事になりはしない!」
さすがに世界を視野においたガシャ君、姿氏の発言だけの事はある。
オレなどは自分の頭がないものだから二人の云う事がそれぞれいちいちもっともに聞こえる。オレは絨毯に寝そべりながら薄目をして主人の顔をそっと見上げてみる。主人はいつも話のやり取りに合わせながら視線を動かしている。といってどちらにつこうかと様子を伺っているような落ちつきのない視線ではない。それにやたらおべんちゃらを云って話手を乗せるような事をするわけでもない。まるっきりの高見の見物を決め込んでいるわけでもない。主人は主人なりの立場や意見というものをどこかにそっと持っているらしい。
そろそろ出番かなと思ってオレは様子を伺うがまだ口を開く気配はない。それに意見を求めたくなると出てくる「ドクさんはどう?」という催促の声もまだガシャ君からも章太郎氏からも出ない。二人はまだまだ云い足りない。
「それに……、これからは若者達が急激に少なくなってくる。これだけはどうしようもない。そのぶん、ロボットやコンピュータによる代替用産業機械がいたるところで人間に代わってほとんどのことをやるようになるさ。そうすれば当然、労働時間の短縮化にともなって余暇を過ごす時間も長くなるし、人々は憩いをもたらす施設を欲しがる。リゾート開発を含め、ワガシャとしては高齢社会に耐えられる基盤造りを産業界に働きかけ医療施設を含め、上下水道、廃棄物処理施設などを拡充して社会資本の充実を一層図って行きたいところだね。それにこれからは宇宙だって利用されるだろうし、新しい技術は、最初は色々マイナスの面もあるだろうけれど、われわれの社会をいまよりもずっとより豊かにするはずだよ」
ガシャ君はどこまでも楽観的である。
「なるほど!しかし、君!若者がどんどん減ってしまって果たして国は成り立つとおもうかね?お金という奴は国というもの、人間というものをどんどん破壊してでも尚、その力を蓄えようとしている。お金は人間の手を離れてそれ自身の力で人間に襲いかかって来ている。金に魅かれた人間達はみんな魂のない人間になってしまっている。われわれ日本人の心を完全に奪ってしまっている。日本人の心を破壊している。見ろよ!若者達や若い夫婦の生活を!かれらは、やあ、ヴィトンだ、ティファニィだなどとブランド物で身繕ろうことに振り向かせられ、朝に夜に家庭で食事をとるよりは外食で済ますようそそのかされ、眩示的消費を煽られ、カードの入会を勧められ、ゲームだテーマパークだと暇潰しに走らされている。かとおもえば、早く購入しなければ永久に買えなくなってしまうなどと煽られてはマイホームを買わせられ、あげくは住宅ローンの支払に人生のエネルギーの全てを吸い取られてしまっている。こうして見かけの上で豊かそうに見せる虚像造りとそれを実現するためのお金作りにすべての気が奪われてしまって、若い夫婦は子供を生まなかったり、子供たちを自分たちの手でしつけること放棄してしまっている。今の日本では拝金風潮によって精神を犯された若い夫婦や恋人たちが缶詰のように作られている。もはや亡国の寸前だ!これからは行き過ぎた我利我利亡者を善とする西洋の考え方を捨て去り、我々日本人の価値観をしっかり持った日本人を作り出す必要がある。貧困のなくなった今こそ我々は我々日本人の新たな魂を取り戻さねばならない。経済発展オンリーの時代は終わったのだ。これからは教育の時代だ。アメリカや外国の価値観に振り回されない足元をしっかり固めた日本人を作り直して行く時代だ」
こう語る章太郎氏は蛸入道のような顔だ。グラスの中の泡盛は激しく揺れている。
「いやぁ、今はもう日本!日本!などと云う時代じゃないよ!そりゃ確かに品格を具えた日本人は必要さ!もちろん。しかし、日本が国家として世界の国々に対して自由主義経済を標榜する以上、日本人が日本に住まなきゃいけないということはないし、逆に云えば日本に誰が住んだって文句は云えないはずだよ。社会秩序を乱すようなことがない限りはね……。自由主義の最大のよいところは、お金によって国籍を超えてすべての人が平等に扱われることさ。お金という一切のしがらみのない公平なもので、人々がほしいものを手にし、精神の自由という幸せをつかみとれるならば、これほど平等なことはないというのが自由主義の大原則だからね。努力してお金を手に入れて、みんなが平等に幸せを買えるならばこれほど良いことはないだろうね。全ては個人の欲望の尊重の上にたっているからね。自由主義は……」
ガシャ君は人間さまの長い過去の歴史を広く見渡しながら、現実的に自由主義経済の原則にたつ人間観と社会観を主張する。お金についてはオレは何でそんなものがあるのかわからないのだが、国などというものがそんなに生きるのに必要なものでないことは何となくわかるような気がする。現にオレ達の仲間は国などなくても、生きる条件の満たされているところならば、地球上どこでも一応は生きて行ける。住み易さの差はあるが章太郎氏のようには考える必要がない。
「姿君、それは違うぞ。自由主義経済の原則はたしかに国境を越えたものかもしれない。しかし、日本の国は自由主義よりも古くから存在してきた。そこに住む人々のくらしを2000年以上にもわたって、守りながら……この重大な現実を忘れてはいけない!」
章太郎氏は応酬する。お金の支配する現実に強いのはガシャ君だが、章太郎氏は自分が生まれる前から存在していた昔のことに詳しいらしい。いま自分が生きている世界のことよりも昔のことをよく知っているというのはオレには到底考えられないことだが、このように昔のことから学ぶ姿勢を持っているというところが人間さまのすごいところだとオレは感心する。どうして見ている前の姿よりも見ていない昔の姿のことを知ることができて、しかもそれを信じることができるのか、オレにはさっぱりわからない。目の前にあるおいしいものを見れば、オレはそれがやがて先々自分の体を痛めつけるものである、などと昔のことから学び取ったり、教育されたとしても、食べずに我慢するなどということは絶対にできない。オレたちは過去という時間は常に本能と一緒になっているだけで、見ていない世界のことから学ぶなどということは絶対にありえない。人間さまという奴はすごい種族だ。見たことのない昔のことや見えないものを信じ、しっかりと子孫たちに伝えて行くのだから……。さて章太郎氏は続ける。
「日本という国は、―それはほかでもなく日本国民の英知の結果なのだが― 過去に於いて外国からの影響を受けながらも、けしてそれらに飲まれることなく、我々日本の独自のスタイルを守り、採りいれるべきものを選び取りながら、新しい文化や技術をそして社会を築いてきた。世界の歴史の中で、国家をなくしてしまった民にけして幸い多いことはなかったことはユダヤの人々を見れば、明らかだ。我々はいつの時代にも自分達を見失わなかったからこそ、今日があるのだ」
章太郎氏は乗ってきた。止まらない。一気にしゃべりまくる。
「当時はわが国よりもずっと進んだ文化や技術を持っていた中国の随や唐から学びいれた借り物の政治システムや仏教の教えそして諸文物が200年、300年と時間をかけてながら、平安の時代にはわれわれの独自の文化へと融合・結実した。しばらく後の、気の触れた南蛮かぶれのうつけものによる南蛮文化に染まった安土・桃山文化がやがて江戸の鎖国によって自前の物へと純化され、江戸の文化として花開いたことだってその例だ。さらに近くは幕末・維新の過激な欧化策とその反動としての昭和の国粋・軍国化だってそうだ。このように我々はいつの時代にも外国様式の過度なものまねとその揺り戻しによる取捨選択そしてまぜこぜによる融合を経ながら、独自の自前文化の形成をなしてきたのだ。こうして、過去を振り返りながら今を見れば、なんでもアメリカ様々という今の時代がやがて落ち着く本来の日本の将来の姿の前段階にあることがはっきり分かるだろう。マネー崇拝の昭和時代が終わったこれからは自前の文化と様式を造るべき時期にきていることが自明だ。平成とはそういう取捨選択による万事新しい融合(ハイブリッド)の時代なのだ」
章太郎氏は独演会のように、かねてよりの考えを一気にまくしたてた。すると、そのとき、いままで黙って二人の問答を聴いていたわが主人がようやく口を挿んだ。オレとしては、わが主人が何の意見も言うことなく、ただ二人の話すことをもっぱら聴いているだけだとしたら、ちょっとガッカリというところだが、これでとりあえず、なんとなくホッとする。
「確かに、美空君の云うように、歴史に照らして見ると、日本という国は外来文化に対して過剰に吸収したり尊重したりした後に今度はその分だけ反動として「純」日本化という揺り戻しをした過程があるようだ。ということは、いかに外来の物に目を向ける時代があったとしても、かならず回帰してくる揺り籠を支えている堅固な中心軸というようなものがわれわれの心の中にはあるのかもしれない。あるいは歴史学者や政治思想史の研究者がいうような、連綿として流れる地下水のようななにかがこの国には流れているのかも知れない……」
ようやく、わが主人は下を向きながら一人で呟くように口を開く。そう云った後また黙って間を持ちつづけている。何となく歯切れが悪い。言うことがないから黙っているというよりは、完全に言うべきことが沸沸と沸き上がってくるのをじっと待っているという様子だ。ガシャ君などは言いたいことが少しでもあると口が先に開きはじめ、しゃべる中身は後から追いかけながら作られて行くという感じがする。たとえてみれば、ガシャ君はお茶をいつも飲みたくてやかんのお湯をいつもチンチンさせ白い湯気を吹き出させているようだ。章太郎氏はお茶が飲みたくなるときに備えてポットにお湯を沸かして貯めてあるようなものだ。そこへ行くと我主人のは妙だ。お茶が飲みたいなと思ったときにはまだなにもない。ただあるのはやかんや水やお茶の葉や材料がどこにあるかを知っているだけだ。あるいは頭の中に辞書というラベルのついた引き出し箱が入っていて、話に合わせながら適切なラベルのついた引き出し箱をすばやく開けては、それを見ながら話をして行くというタイプだ。飲む必要に迫られてようやく、やかんに水を汲み、やがて湯の煮立つのを待つといったそんな感じだ。鈍間(のろま)ではないが、話の歩むペースだけを基準にすれば亀か蝸牛だ。でも、話の重さはガシャ君が兎か鷹なら、章太郎氏は秋田犬かブルドックで、主人は牛か鰐だ。
ガシャ君も章太郎氏も我が主人、ポンタ氏のマイ・ペースの話ぶりには慣れているからそんなペースで語られる話し方に苛立つこともない。むしろ乾いた喉を潤すには絶好の機会だと思っている。ガシャ君は透明なぶっかき氷を取り出してはグラスに入れ、琥珀色のウイスキーを氷の表面を這わせるようにそっと注ぐ。章太郎氏は泡盛の請福にお湯を注いで上機嫌だ。
お湯が頃合良く沸き始めたのだろうか?主人はまた口を開き始める。
「ご両人のそれぞれ一理ある話を聴いていて思ったのだが、確かに、ある強権的な力によって人間の欲望をコントロールするよりはむしろ人間の欲望を徹底的に解放することによって社会の調和を自動的に調節することのほうがはるかに個人の人権を尊重でき、しかも社会全体の経済の効率が高いことを発見し、その原則を導入し、実行したことは人類にとって一大革命であったということは言えるだろうね。この点でやはり西欧人の知性はすごい。
確かに産業資本主義の成立した初期の頃はどこの国でも最初は弱い立場にある労働者が資本家の横暴にあって苦しめられたこともあった。それは確かだ。けれども、経済行為の自由もまた基本的人権である自由の一部をなすものであることが理解されてからは資本家といえども勝手なことはできなくなったし、優秀な資本家はいち早く人権を守りながらの経済行為が結局は繁栄をもたらすということを知って行った。社会的な義務と責任の意識も強くなり、社会的な利益の還元や奉仕を献ずる篤志家もたくさん出るようになった。経済的な豊かさは人間の精神のあり方にも余裕を与え、ものごとを深く考える人々を守ってきた。人権とか人間の尊厳とか政治思想に絡むことも経済の自由にあわせるように共に豊かになってきた。資本主義が発展するにつれて、社会は経営と所有の分離の法則にしたがい、社会的影響力の大きい企業はもちろん、社会的影響力を強く持つ企業はもはや横暴なワンマン体制をひけなくなっている。積み重ねられた過去の人々の英知のうえにたって事態を判断している。日本の国は資本主義経済の導入に於いても、人権思想や個人主義の思想に於いても、順を追って成熟の道を辿ってきたというよりは、ことの意味ずけはそっちのけのまま、脅され、強迫観念にせかされるようにして米欧のあらゆる物を洪水のように一度にどっと取り入れてきた。ちょうど、さきほどのガシャ君の話にあった隋や唐からの文物の吸収の時代もきっと状況は同じような様相だったのだろうね。もちろん新しい情報を取り入れることのできる人間の数とその質の度合いにおいては比べ得くもないことはもちろんだが……。しかし、熱心さの度合いにおいては昔も今も変わらぬものであったはずだ。だから、話の中身を今の時代のことに帰すとして、名前の上では自由民主主義や自由主義経済の導入であったとしても、中身の実体は、封建的血族主義であったり、専制的疑似天皇性的経営であったりするということは当然あったわけだ。とりわけ国際的公正の競争原理から離れた世界というのはこの傾向が強いね。公正に開かれたところで競い合う自信がないから、血縁、地縁といった発展性を持たない要素を頼みにつながりあい、閉鎖的に数で既得権益を守ろうとするわけだ。人と金を自由に出来る利益集団を手にしていれば、必要な技術を借用し、その範囲で外国人の力を利用すればよいなどと言う戦略というのは擬似的な自由主義経済行為の典型であるわけだ。さて……」
と次に話が発展して行こうというポイントで章太郎氏は待ってましたとばかりに口をはさむ。
「やぁ、まったくその通り!金に取り付かれた経済主導型体制が日本人の魂を破壊したのだ。資本主義というものは本来人間を封建関係から解放し、個人の確立の為に発明された人間の知恵の産物であった。だが気違いに刃物とおんなじで、使うべき心のある人間達から離れて資本が使われだしてから、お金は人間を狂わせ、支配し始めた。日本人は資本主義の精神を身につけないうちに貨幣増殖の無限連鎖の仕組みだけを学んでしまったのだ。個人の生活を実のりあるものにするはずの富が一部に偏り、国をあげてのネズミ講に使われている。ゆとりやくつろぎや人間らしい生活は実感できず、相変わらず国という蒸気機関車が喘ぎながらバベルの塔の無限の坂道を上って行くために国民は石炭のように釜竈へくべられたまんまだ。歴史に照らしてもいまこそわれわれは失われた日本を取り戻さなければならない。われわれの心を取り戻さなければならない。なにもアメリカやヨーロッパの経済体制がすべてではあるまい。国が豊かになり、個人が心豊かになる方法はほかにだってあるはずだ。どうしてそれを求めないのだ。美しい自然を守り、豊かな五穀を得、海流に揉まれたおいしい魚を食卓にそえ、家族が集い、自然としつけを学ぶことがどうしてできないことがあろうか?このまま一億の国民が精神亡き拝金人と化してしまうなら、結局は西欧に魂を奪われ、精神の戦争に敗北をすることになってしまう。ただただ、欧米人の精神戦争戦略の思う壺にはまるだけだ……あたらしい日本独自の自由主義日本型経済体制を目指して行けばよいのだ……。」
章太郎氏はどこまでも日本中心の考えだ。
そこへ行くとオレなどは自分たちだけの約束としてある「言葉」も「社会」も「国」もない。食べ物と水と空気さえあれば、どこでも生きて行けると割り切ってしまっているから気楽な存在だ。それに「精神」という「むずかしいもの」もないから、そのときそのときの状況に身を任せて生きて行けば良い。
守ろうとする「精神」がないからオレたちは「イヌ」なのだろうとは自嘲気味に思う。ただ不思議な事に、やっぱり類は類を呼ぶせいか、オレは「ご主人様」の保田家で育てられてからは「考える」ことが嫌いではなくなった。「主人」が来てからはかえっておもしろくなったとさえ感じるようになっている。主人の友達が集まる話が自然と楽しくなってくる。オレの頭の脳味噌も漬物と同じようにいろんな刺激によってこねくり回された方が味が良くなり、深くなるようだ。こうして考え続けて行けば、いつかはオレも「イヌ」から「人間さま」になれる時が来るかもしれないと信じることにしよう。その信じる気持ちが今のオレの精一杯の「精神」だ。
さて、話は三人三様まとまりがないようにきこえるが、話はまだ始まったばかりだ。オレは時々耳をぱたつかせながら、聞き耳を立てている。
<(3)へ続く>