わが名はヘボタ(1)                      

 魁 三鉄

 

オレ、ヘボタ。本当はロックという正式な名前があるのだが、昨年の秋以来オレが育てられてきたこの家に住み始めた新住人の「主人」がオレをいつも「ヘボタ! ヘボタ!」と呼ぶものだから、いつの間にかオレもヘボタと呼ばれることに慣れてしまい、最近では「ヘボタ!」と呼ばれれば、尻尾を振るようになってしまっている。場合によっては「ヘボッタ!」などと妙な呼ばれ方さえする。オレはなぜ「ヘボタ」と呼ばれるのか判らないが、名前なんていうものは、あるものに対して同じ音で繰り返されて、呼ばれて続けていればその音がその名前になってしまうらしい。

みんなが同じ音で同じものを繰り返しいつも呼ぶから「名前」になっているだけで、「オレはその呼び方はいやだ」とか「私はこう呼びたい」と、同じものをみんながそれぞればらばらに違った呼び方をすれば、名前なんかなくなってしまうはずだ。だから、ものの名前なんてみんなの「約束ごと」なんだ。イヌとかドッグとかシアンなどと違った音でオレの事を呼ぶ人々が「オレ」の姿を見ないで会って話をしたとしたらおもしろいだろうな。みんなが目の前に同じものを見ているならば、音がちがっていても、イヌはワンワンでも良いし、ドッグとも呼べるし、シアンとも呼べるとみんな納得できる。だから、お互いのそれぞれの呼び方を尊重しあっても良いし、あるいは、同じものにいくつもの違った呼び方をするなんて面倒だから、みんなが共通の音の「ヘボー」と呼ぶことにしようと約束しあって納得すれば、「ヘボー」という共通語名になってもよい。そうすればオレはどこの国に行っても「ヘボー」と呼ばれ、「ヘボー」のなかの一匹となるはずだ。

そういえば、名前の音は違っていてもモノの存在を「目で確かめられる」世界にいる人々は共通した名前を共用しあい、誤解もなくお互いに活動している。人間さまの中には数学とか化学という世界があるらしいのだが、そこに集まる人々などはミミズを丸めたり、折りまげたりしたような形の数字とか亀の甲羅がくっつきあったり、はなれたりするような共通の記号を使って、かなり自由にお互いに誤解することもなく交流しているようだ。こういうときは肌の色の黒い人も、白い人も、黄色い人も、みんなおなじことをきちんと分かり合っているということだ。さすがに人間さまは賢いものだ。

でも、ちょっと待てよ。では、違った音で語る人々が目の前に共通して「見えないもの」についてはいったいどうやってそれがそれであることを理解できるのだろう?「神様」とか「ゴッド」とか呼ぶ名前の音があるけれど、誰もみんな「目の前で」それを見たことはないらしい。なかには「ほら、いらっしゃる」と拝みながらそれを見ている人もいるらしいけれど、「異議なし!」とみんなに同じ姿で見えるものではないらしい。

「神様」という語は「ゴッド」と同じものを指すらしいのだ。人間って、見えないものにだって名前をそれぞれに違った音でつけて、しかも相談したわけでもなく、そんな「見えないもの」があると信じる人が、違う言葉を使うそれぞれの世界にいるのだ。不思議だ。どうして「見えて『ない』もの」に名前がつけられるのだろう? 分からなくなってくる。

 それに、名前が約束ごとなら、言葉だって約束ごとということになるだろう。法律とか取引とか、いろんなことが人間さまにはあるらしいが、それだって言葉で記され、お互いに理解しあっているのだから、しょせんは「約束事」ということなのだろう。

「そーか、 なーんだ、この世の『全ては約束事』なんだ」とオレは悟った。

 主人はオレが時々首をかしげて主人のことを見つめるときがあると、「こいつは犬の癖に妙に哲学的な顔をする!」などと勝手なことを言ってはニヤニヤしている。ニヤニヤしているからといってそのとき必ずというわけではないのだが、時々、主人が自分の口に入れているものをオレにも分けてくれることがある。それらはオレが毎日きまって朝に夕にもらっている、丸い梅干色の皺くちゃだらけのゴム団子のような餌よりは遥かにおいしいものが多い。オレの餌についての事はまたいつか触れたいが、そんなわけで主人の顔を見るときは、なるべく小首をかしげるのが習いとなってしまったようだ。

 いまここで「主人」と呼んでいる人は、最初に記したように昨年の秋以来そのまま住んでしまった新住人の主人だから、オレにとっては本当は「にわか主人」だ。本当の主人は「ご主人様」と呼ぶべき人で、この家へオレがもらわれて来て以来、本当に長いこと面倒を見てくれている方だ。ご主人様はオレの事を「ヘボタ!」などとけして呼んだりはしない。「ロック」とか、「ロックちゃん」と正当にそして愛情込めて呼んでくれる。この「ご主人様」についてもまたいつか書こう。で、新住人の「にわか主人」の方だが、去年の秋、まとまった荷物をバタバタバタッと運んできたと思ったら、あっという間に一つの部屋を占領してしまった。このいきさつにはなんかあるらしいのだが、それについてもまたの機会にしよう。部屋の占領の手際のよさにオレは驚いたり、いや正直なところ、「変なやつが来たな。ご主人様の家への侵入者か?!ならば、オレは命を賭してもこの家を守ってあげられるように、いつでも噛み付いて挑みかかってやるぞ」と、ちょっと柄にもなく気負ってみたのだが、「ご主人様」と「にわか主人」との間にはとんがったものを刺しあったりしているような空気はぜんぜんない。お互いにとても仲良しだ。オレが「『にわか主人』はオレの敵か見方かまずは見極めなくては……」とこわばった意識をもった割には、ご主人様もその奥様も「にわか主人」に対していつも万事やさしく、穏やかだ。それも道理!で、「にわか主人」は「ご主人様」の息子さんだということがしばらくして分かった。息子さんだから親とかならず仲が良い、とはいえないことも人間さまの世界ではままあるらしいことらしいが、この家ではあっさりして仲がよい。

 オレのうまれた世界では「家族」などというものは生まれたときから2週間ぐらいしかなかったから、お母さんの顔など覚えていない。それにお父さんだって、ぜんぜん知らない。きょうだいだって、いたのだろうが、みんなオレと同じようにどこかへもらわれて行ってしまったのだろうから、何匹いたのか、兄貴だったのか、弟だったのか、あるいは妹だったのか、姉さんだったのかも分からない。どうしてそんなことになってしまうのだろう。なまじっか、オレたちは人間に気に入られているから、家族を破壊されてしまう運命なのだ。実はこのことは仲間の「ノラタ」と出会って初めて知った事なのだけれど……。このこともいつか先々書くことがあるだろう。

 そもそもオレ達の意識がまだないうちにことは万事なされてしまっているので、家族離散を悲しむとか、後ろ髪を引かれる思いの別れという記憶もない。そこへ行くと「ご主人さま」の世界は事情が違うらしい。

なんでも主人顔をして俺をヘボタと呼び捨てにしている主人は十年以上もこの家を出て、途中、とても悲しいことにも出食わしてしまった事もあるようだが、総じて言えば好き放題、やりたい放題、しあわせな生活をしてきたらしい。そして突然のご帰還。それでも「ご主人様」ご夫婦はいやな顔をするどころか、なんだかほっとしたような顔をしている。なぜだかオレにはわからない。オレは主人顔をする奴が「放蕩息子」か「長者窮子」かどうか知らないが、こんどの「主人」の突然のご帰還がオレの生活を前よりも不愉快にしたり、居心地を悪くするようだったら、いつも褒められているその忠犬ぶりをかなぐり捨てでも悪態をついたかもしれない。が、今のところ以前よりオレが冷遇され、食生活が貧しくなり、痛いめに合わされるなどという不幸せを感じることもない。

 彼が来たばかりの最初は、オレも少し構えて小首をかしげて様子を見ていたのだが、その構えた格好がどうやら新参の主人には気に入ったらしい。

 「オマエは哲学者か?」などといきなり云われたときにはオレはどう応えてよいかわからなかったので、オレはただ尻尾を思い切り振っただけであった。オレはそれまで哲学者という言葉など聞いたことがなかったから「ぼくはあなたに敵意などありません。ご安心ください」というのがやっとだったのだ。主人は手に持っていたなにやら三角形の柔らかいものを「よしよし」と言ってオレの前に差し出した。オレはさっきから臭っていた香りでそれが食べられるものであることはわかっていたが「ヨシ!」という合図の声があるまでは口をつけてはいけないと躾けられているから、少しクンクンと臭いを嗅いでみた。そうすることが「犬格」を示すというひそかなプライドとしてあったからだ。すると、主人は

「食べられるとわかっているのに、すぐに飛びついて食べないのはたいしたものだ。警戒心も強いし、命令をちゃんと守るし、番犬としては合格だな。よろしい!」

などとうれしそうに言っている。

で、そのしっとりとやわらかく甘い白い皮に包まれた三角形のものが「生八橋」というお菓子だということがわかったのはしばらく後のことだ。

オレは実のところ、警戒心とかはオレの人生、――いな犬人生というべきか――の中で持たないままのんびり、ほんわか育てられてきたから、その言葉を聞いたときには、遥か遠くオレの故郷(ふるさと)の凍てついた土の棘が足裏を刺したような気がして体がきゅっとしまるような感じがした。

 オレは「ご主人様」のこの家で育ててもらって以来、意識はそのままこの家のなかでのことしかない。オレがオレであることに気がついたときにオレはこの家に居たのだ。それがいつのことであったのか、オレにはいくら考えても、思い出そうとしてもわからない。オレはオレとして存在するというその時から、オレはこの世のことをオレの眼で一緒にみることになったのだ。それ以来、食べ物を横取りされたこともないし、あごをはずして寝ていても突然頭を殴られたり、お腹を蹴っ飛ばされたこともない。意地悪など一度もされたことがなかった。

 ところが、「主人」が住み始めてからは少し状況が変わってきた。人間さまの世界には日曜日というきまった安息日が昔からあるのはわかっていたが、主人はその安息日以外にもお休みの日があるらしい。そんな休みの日に家にいると、オレの日光浴の場所となっている絨毯の上に突然寝ころんで、決まった大きさの箱の中を蟻んこの大行列が何日も続いていくように見える「本」とよばれるものを読んだり、居眠りをしたりする。この間、オレは春のやわらかい日差しの中でアンニュイを感じてまどろんでいた。すると、寝そべるオレのわき腹をズーと押し上げてくる力を感じた。

「オマエ、人間さまよりずっと贅沢なくらしぶりだなぁ」

と主人の声だ。痛くはなかったが、いままでそんな藪から棒のことはされたことがなかったから、突然の太平を破られたことに思わずうなり声をあげたくなった。いきなり、ズドンとお腹を蹴っ飛ばされるわけではないが、せっかくの安楽が邪魔され、オレにはちょっと不快だ。主人はオレを足で押してどかしたあとは何事もなかったように壁にかかっている例の黒木の枠に囲われた布地に色塗られたものを一人、「穏やかな色使いだなぁ」とか「心地のよいバランスだなぁ」とかなんとか、時々つぶやきながら、じっと見つめていた。それ以上、オレに何かを要求することもなかったので、オレの怒りもいつのまにかやわらかい日差しの中に消え、けだるい、まどろみに溶け込んでしまった。

 これはひとつの例だが、このようにオレを怒らせるわけではないけれど、新しく来た主人はなにかとオレを刺激するのだ。警戒本能とか防衛本能というのはオレたちには生まれついての、ぬぐいされないもののように云われるもののようだが、オレに言わせれば、そんな本能と思われているような反応も環境によって消えたり、出たりするもののようだ。

先ほど、寝場所のことに少し触れたが、そう!オレは人間さまと一緒の家の中に住んでいるのだ。一緒と言っても寝泊りを主人顔をしている主人のベッドとか布団の中で一緒にしているということではない。オレのご先祖さまたちは地球の上の方のすごく寒いところにいたらしい。体から熱を奪われないように皮膚や毛が汗を出さないようにしているらしいのだ。そのせいか、オレたちはいつもお行儀悪く見られるが、舌をダラダラ垂らして、汗を口から出している。暑いのはダメだ。そこでいつもプラスチック・シートとかが敷かれている小部屋に居れられている。その敷物はどこかしらがいつもひんやりしていて気持ちが良い。同じ場所に寝そべっているとオレの体の熱がそこへ移って行き、しまいにはオレの体と同じ暑さになってくる。そうなると別のところへ移動する。移ったところは冷たいままだ。そうやって別のところにいると、先ほどまで寝そべっていたところがまた少しずつ冷たくなり始める。2,3箇所順番に動いているうちに最初の場所は元の通り冷たくなっている。そうやって毎日快適に暮らしているのだ。

オレの部屋は扉一枚で人間さまがご飯を食べる部屋とつながっている。食べる部屋はお料理をする部屋と同じでもあるから、人間さまが朝に夕にとお料理を始めるとオレは思わずその臭いにつられてそちらの部屋の方へ行きたくなってしまう。でも、たいていは扉が閉まっていて中へ入って行くことはできない。隙間から臭ってくる肉や香辛料の香りがからかうようにオレの鼻にまとわりつく。

扉はたいていは閉められているが、時々開けっ放しになっているときがある。風通しを良くしたいとか、お料理の臭いがこもってしまったときなどにわざとそうしたり、たまには閉め忘れということもあるらしい。オレの体が難なく通れるほどに完全に開け放たれているときもあるが、ドアのロックがカシャッとかからずに、わずかに隙間が開いている事がある。そんなとき、オレはどうすればその戸が開くかを心得ている。幸か不幸か、オレの顔についている鼻は、高いというのか長いというのか、鼻を少しの隙間に突っ込みながら前に向かって体全体で押し込んで行くと、ちゃーんとその戸は開いて行く。それに最近では鼻が入らない幅の隙間のときでも前足の爪のところを少し上に上げて扉をひっかくと鼻が突っ込めるくらいの幅に開いてくることもわかった。それから鼻を押し込んで前進、と言うわけだ。

「あらまぁ、ロックちゃん。オマエサン、どうやってここに入ってきたの?戸をあけたの?」

と奥様はいぶかしげに問いながら、自分がしっかりと戸締りをしなかったことなど棚に上げてしまって、まんざらでもないという顔をしてニコニコ笑っている。この間などは扉に前足をかけて思い切り強く横に扉を押したらみごとに開いてしまった。そしたら奥様の驚いたこと、驚いたこと。

「ロック!あんたお利口さんだね!」

と大喜び。どうやらこの家の人々はオレが人間さまに似たようなことをすると殊(こと)のほか悦ぶらしい。

 

 この家にはご主人様や主人のお客様が来る。オレが一緒になって玄関に出迎えたりすると、お客様はたいがいびっくりしている。

「あんたはあっちへ行ってなさい」

と云われる時もあるが、たいていはお客さんの方が

「まぁ、おりこうさんだこと」

などと云って体を撫でてくる。どうやらオレはご主人様たちにとって自慢の「息子」らしい。先日も

「おしっこなんかどうしているんですか?家の中をよごしません?」

などと、もう何度も聞いた質問をしている。オレは自分でもわからないが、外へ出ているとき以外はおしっこもうんこも出たいと思わない。人間さまというのは訓練されていても体が言うことを聞かず、ちょっと失礼と言う感じで、木の陰へ隠れて……などということがあるらしいが、オレたちはけしてそんなことはない。今ではほとんど思い出せないし、よくは覚えていないのだが、どうも、まだ記憶力もないような幼ない時に、普段はとてもやさしくしてくれているご主人様に頭を押さえつけられて、鼻を床にごしごし押し付けられて、「やっちゃった」ところの臭いをつよく嗅がされたことが辛い思い出として体の中にあるようだ。

「ダメだよ。おうちの中は。いいね」

と言われながら、やられた思い出が……。ヒイヒイ泣いたよ。その時は。

わが犬族は3日飼ってもらっただけでもその恩は忘れないくらいだから、かわいがられている中で受けた躾などは絶対に忘れない。「おしっこ、がまん」は体がそのようになってしまうのだ。だから苦労などはまったくない。散歩に出かける時など、外に出た瞬間、シャーシャーやっても、それは我慢していたからするのではない。きっと、尿意とか便意という感覚が小さいときの躾けによって、家の中では伝達回路が遮断されてしまうのだろう。だから、本当に外へ出るまでは「したい」と思わないのだ。「よく我慢していたね」などと褒めてくれるオレには我慢という文字はない。

人間さまは自分たちにとって苦手なことは、四足動物にとってもみな苦手なことと決めつけているふしがあるが、なぁに、そんなことはない。なんでも人間さまの感覚を中心にしてみればわかると思っていたら大間違い。人間さまよ、奢らないでくださいね。

とまぁ、オレの生活は、その昔「われらの時代」たる「お犬様」の時代に劣らず、かなり恵まれた生活のようだ。その時代の主人公たるお侍さんたちが戦(いくさ)の仕事がなくなるにつれて、あたらしい出来事や戦さ道具や異国のことに興味を示したように、オレもあたらしい「主人」と寝食を共にするようになったのを機会に、新しい「われらの時代」に備えて、この主人の生活ぶりと人間さまの世界を観察し始めたわけだ。お犬様の時代の後にはこれまでとは違うあたらしいことがたくさん起こったそうだが、今ここでも、みんなを取り巻く「新しい時代」が始まったらしい。「昭和は終わった。新しい時代の始まりだ」主人がつぶやいていたこの言葉は妙に重い響きをもってオレの耳に残っている。

<(2)へ続く>

 

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