夢幻のアイーダ
魁 三鉄
V
気がついたとき、いつのまにか私は古代エジプトの王たちを容れた人棺に押し込めらられているような感じがした。手も足も体中がぐるぐる巻きにされ、私は意識だけが私であることを示しているだけであり、私は自分の姿を見ることはできなかった。私は歩こうとしたが歩くことはできなかった。意識の上ではたしかに私は五体を持っていた。しかし、私は自分の手足を見ることもできず、ただ何かに硬くその身をくるまれていることだけを感じていた。体を動かそうと試みる動きのすべてが身をくねらせながら漸動するエネルギーへと転じていることを感じた。
私は視線を動かそうとしてみたものの自分の首すらもが自由には動かすことができず、ただみじろぎだけができるように思われた。私は自分がどこにいるのだろうかを確かめたかった。あんなにたやすく首を回し、肩を回し、腕を動かし、腰を振り、脚を屈伸させ、脚をすばやく動かせる自分の姿はもうそこにはなかった。そのように動くことのできた自分の姿を覚えている私だけがそこにあった。いったい、自分はどこへ行ってしまったのだろうか?私は自問した。私は自分の目を通して映る世界が先ほどまで自分が見ていた体系の世界ではないと感じた。すべての感覚の体系がまったく異なった座標の中に埋め込まれてしまったに違いない、と感じる感覚だけが唯一残されているこれまでの感覚の体系とのつながりを保っている絆であった。意識だけが動き、体の動かない不思議な空間の中に私は放り込まれていた。空とした何かがただ広がっていた。暗黒と静寂と無窮感が私を包んでいた。
「おや!まぁ!おまえさん!」
愛しみに満ちたカナリアのような声が突然聞こえた。私は自分をめざして忍び寄る血の通わぬ冷たい掌の近づく空気の動きをこのとき全身で感じることができた。なんだかとてつもなく大きな戦艦のようなものが私に近づいてくるような気配がした。私はあれほどにからだを動かしてみたいと思いながら、全く動かすことができなかったその場所から、一挙に女の掌という別の空間へと運ばれていた。私の姿を目ざとく見つけてしゃがみこんだ女は二つの球状のガスタンクのようなやわらかく膨らんだ体の谷間に私を掌にのせたまま運び、そして細く長いその指で私の体をやさしくそっと撫でまわした。
「おまえさんは蝶のさなぎ?この閉ざされた冥府の地下牢に一体どのようにして入ってきたの?いつのまに産み落とされていたの?いったいどこであなたは産みつけられていたの?ああ!そんなことはどうでもいいわ!命のあることに理由など要らないわ!ああ!なんと命あるもののいとしい事よ!恋しいこと!
命って、動くことなのね。動くものだわ。動くものは温かいわ。ぬくもりがあるわ!そう、地上ではすべてが動いていたわ! 人は怒っても、泣いても、そして悲しみに嘆くときでさえも、動いていたわ。もちろん楽しいときにも。それに引き換え、この黄泉の国には動くものが一切ないわ。ただ、沈黙と暗闇が支配し、すべては冷たく凍てつき停まってしまっているわ。なにもかもが……。
おまえさん!わたしにはわかるのよ。この殻のなかでおまえさんが激しく動いていることが……。ねぇ、きっと立派な姿へと変身できるわ。わたしが変身させてみせるわ。お育てしてみせるわ。
だって、おまえさん、わたしの魂を救いに来たんですもの!ね。そうでしょ!?きっとそうよ!
でも、わたし、一人ではだめ。わかる?わかってほしいの!おまえさんがいてくれるのはわたしに希望なの。おまえさんが来たのはまたわたしたちがきっと二人で一人になれるようにしてくれるためだわ。きっと、そうに違いないわ。私だけを救うのではいやよ。
ああ!それにしてもあのかたにお逢いしたい。永遠の命を得るためにわたしたちは手に手を取り合い悦びに満ちてこの冥府への旅を受け入れたのに……。
アムネリスさまのお心はけして私を許しはしませんでした。冥府への旅立ちのそのときでさえも……。アムネリスさまは敏感な方でございましたわ。わたしがお傍におつかえしたとき、ラダメスさまのお顔にいつもとは異なる喜びの色が浮かんでいることをすばやく見抜かれたことといい、奴隷のわたしがラダメスさまの勝利の凱旋の祝賀式で月桂樹の王冠をご用意したときに、すばやくそれを私の手から奪い取り、それをラダメスさまの頭にみずからの手でかぶせてあげたことといい、そしてわたしがもはやエジプトの地から逃げ去ってしまったのだからとラダメスさまに嘘をついて迫ったことといい、アムネリスさまはラダメスさまを欲しくて欲しくて仕方なかったのですわ。それも無理のないことでした。自分と同じ国の英雄をそうして属国の奴隷女などにとらわれてしまって黙っていられるでしょうか?きっとアムネリスさまはエジプト人の誇りとしてわたしを許すことができなかったのですわ。エジプトの女王たるプライドがことごとく奴隷の分際たるエチオピア人のわたしを目の仇にさせていたのだわ。だからこそ、わたしたちが最も望むものがなんであるかを知り尽くしていて、却ってわたしたちの欲する永遠の救いを与えることを意味する二人一体の死をけして与えようとしなかったのだわ。生きて地下牢に埋められるそのときにも、いやそのときこそ二人を永遠の苦しみの世界に突き落とそうと、わたしたちを切り離して埋めたのはそのためだったのだわ。
わたしにはわかるの。それが女の業だったということが……。わが身と一体となるはずであった体の一部をもぎとられてしまったかのような苦しみはわたしをいくら切り刻んだところでけして拭い去ることのできるものではなかったのだわ。
そんなわけで、わたしはこの冥界のなかに永遠に救われる希望のないままに一人つながれて、永遠の責め苦を負わされてきたのだわ。
それが、なに? そんなわたしのところに、いまこうして、おまえさんが来てくれたなんて……。きっと神様がおまえさんをお遣わしになって、永遠の救いと命をわたしたちに与えてくださるのだわ。わたしはそう信じているわ。そう信じて、わたしはおまえさんをあの方との間の授かりものとして育ててみせるわ」
女はそう語り、私をその時から絶えず面倒見はじめたのだ。私はあの時以来、蝶のさなぎと化していたのだ。わたしは女の愛撫を一身に受けながら身動きのならない自分を成長させていった。確かに私は女の指の、唇のそして柔肌の愛撫を受けるたびに体の伸縮を感じ、自分が大きくなって行くことを知覚していた。しかし、それはけして地上の体の動きではなかった。女はラダメスへの愛を想い、ラダメスさま!ラダメスさま!と叫んでは両手を合わせ、時にはひとり身悶えしながら両脚を空中に泳がせ、唇を妖しくすぼめ、頭をのけぞらしながら乳房を自らの手で揉みしだき、また女芯に指を這わせ、その指で私を愛撫した。私はその愛の蜜にくるまれることが私の成長をもたらす食事であり、そうした女の幻想に包まれた愛の行為が私をなにか新しい姿へと成長、変身させて行く促進薬となっていることを知っていた。女のラダメスへの愛の高まりの来る周期はそのまま私の変身の周期でもあった。
女は、全身に受ける愛撫に対してまったく応えることのない、ただひたすら沈黙のうちに愛撫をひたすら受けまくるだけの私に時として弁明するように語りかけた。
「わたしがこうして今でも身悶えして苦しんでいるのも、元はといえば、わたしがあの方の愛を毅然として拒むことができなかったからだわ。そしてわたしが祖国と父を愛していたからだわ。ラダメスさまのやさしい心遣いを心を鬼にして振り切るだけの強い祖国への篤き思いとお父様への思いやりがあれば、こんなに苦しむことはなかったのだわ。わたしは、自分だけの好みの世界をすきなように持って一人の個人として存在することができない、自分以外の運命をもまた背負って行かなければならない存在という自分の姿を忘れていたのだわ。わたしはひとりのアイーダという女であると同時に、生まれついたときからエチオピアの王女として、自分とはまったく別の人格を背負わされて生きてゆかねばならない人間でもあったのだわ。わたしはそのことをまったく知らないわけではなかった。わたしのなかにはラダメスさまと祖国が同じ重さでふたつの胸にしまわれていたのよ。警備兵のいない道を通って二人でエチオピアへ逃げることを甘くささやいたのも、わたしはそうすることで二つのものを一緒に胸に抱いたまま生きられると信じたからなのよ。
そのことがラダメスさまを裏切り者そして売国奴へと追い込んでしまったのだわ。ああ、なんということ!わたしは祖国だけをそしてお父さまだけを愛していれば良かったのだわ。
ですから、敵国のエジプトに破れ、奴隷の身となったそのときに、わたしは国と命運を共にして亡き者となっていなければならなかったのだわ。国家を担う家庭に生まれ、才能に恵まれたものは決して私というものが有るなどと思ってはいけなかったのよ。わたしのような立場にいるものはけして自我というものを知ってはいけないのだわ。結局、そのことで一番苦しむようになるわけだから……。自分の望むとおりに自分を貫き、現世を去ることができるならば救われるけれども、敵とはいえ同じような立場にあったアムネリスさまやエジプトの祭司様だってそのことを知っていたのだから、一番苦しい責めを与えようとして、永遠に救われることがないような惨い仕打ちでわたしたちを冥界(よみのくに)へと送り出したのも当然といえば当然なのだわ。
こうしてわたしはけして救われることのないままここに閉じ込められてきたのだわ。わたしは救われていないわ、けして……。ラダメスさまと魂をひとつにすることがない限り……。ラダメスさまだって同じだわ。
それにしても、人というものはどうして人そのものに魅かれてしまうのでしょう?確かにエチオピアの人とエジプトの人は肌も言葉も、違うと思えばなにもかも違って見えるわ。
でも、素敵な人はどこまでも素敵な人、そのことは人である以上直感的にわかってしまうことなの。説明などできないものだし、要らないものだわ。魅きあう力というものをお互いが感じてしまったら、そのあいだには立場とか背景とかの本人以外の属性や事柄はどうでもよくなってしまうのよ。これは本当に怖い力だわ。でも素晴らしい力だわ。
こういう力が二人のあいだにすっぽりと入ってしまうとあらゆることが必要に応じて無視できるようになってしまうの。だから血が流れるようになることもなんとも思わなくなってしまうのよ。アムネリスさまがあのお方を本当に愛していることを知ったとき、わたしは一度は自分が身を退けばすべては無事におさまると思いましたわ。でも、わたしが身を退こうとしなかったらならば、ラダメスさまはますます激しく私を追いかけなさった。わたしはそれでも退こうとしましたわ。けれどもアムネリスさまの嫉妬心がかえってわたしたちを強く結びつけるようになってしまいましたわ。わたしはもちろんそのことが幸せでした。二人の心はしっかりと一つになれましたから……。
わたしは冥土の中でも体を寄せ合って魂を一つにしていたいの。体が一緒になっていなければ、魂もばらばらだわ。死刑執行者たちはそんことを知っていたからこそわたしたちをばらばらにして冥府に送ったのだわ。永遠の責めに苦しむようにと……。
お、おまえさん!さなぎから孵って蝶となったなら、ここから飛んで行ってラダメスさまににわたしの思いを伝えてくださいな。そして二人の魂を一つに結んでおくれ。いつかきっと!」
絶え間ない愛の蜜液を注がれながら、いつの日か突然、私は自分の体がはちきれるようなうづきにうなされ始めた。ほっておいても手足が体を何重にも巻いた包帯を溶かしながら伸びて行くように感じたのである。私は膨らむ体と押さえ込む殻のせめぎあいに体中がばらばらに分解して行くのではなかろうかと怖れた。突然、外殻の背中が内側から吹き出したエネルギーによって一挙にびりびりと裂け始めた。私はおそるおそる手のような感覚の先にある羽を広げ始めてみた。左右の両方が皺だらけの羽からやがて艶と張りのある羽へと伸び始めた。私は次に頭を持ち上げながら割れ目から突き抜けた。抜けだして行くときに口を折らないように注意してそれを殻の中からそっと抜き出した。急に開放感が全身に伝わり、私は大きく伸びをした。すると体の全体が古いさなぎの殻からきれいに抜けることができた。眼が次第次第に慣れ始めた。女が私の変身に気がついて、驚きと喜びの声をあげた。
「まぁ!なんと美しい姿だこと!とうとうさなぎから孵(かえ)ったのね。私の愛の蜜を存分に栄養にして……。うれしいわー!さぁ、わたしたちの夢をかなえてくれるときがきたわ」
女は感動に震えながらまだ足取りのかたまらない私の体にやさしく口づけをした。私は肩の辺りに少し力をいれながら大きく羽を扇のようにゆっくりと羽ばたいてみせた。体が少しだけ軽くなったような気がした。三回、五回、……。私は体の力がしっかりと羽に伝わって行くのを感じながら左右の羽をひろげたり、閉じたりと繰り返した。何回くりかえしたことであろうか、ついに私は飛翔する決心をした。力強く大きく羽を羽ばたかせると同時に体の下から飛び出している六本の細い脚をなるべく体に引き寄せながら、古いさなぎから飛び立った。ふわりと胴体は空中に舞い上がり、私はバランスを保ちながら壁に沿いつつ、あたかも壁を突っつくようにして軽く触れては離れ、また離れては突っついた。このようにして私は空中高く上がった。初めての冥界の中空の散歩は大成功であった。私が羽をはばたたかせながら飛び回るに連れ、女は歓喜の声をあげながら、両手を高く中空にあげ私の後を追いかけた。私は壁に沿って飛んだが壁はあるところまで来ると直角に曲がり、曲がった先からまたしばらく行くと、再び直角に曲がり、曲がった先からまたしばらく行くとまた直角に折れていた。私は歓声をあげながら後を追う女と一緒にその飛行を楽しんだ。
「一層、希望が出てきたわ。お願いだから一緒にして、また……。わたしたちの肉と魂が一緒に永遠に休めるように……」
女は甘くささやくように私に願いを伝えた。
私はこうしてさなぎから蝶への変身により、飛ぶ力を具えたのだった。私は冥府の地下牢の中を自由に飛んだ。飛んでいる私に気がつくたびに、女は私を追いかけ、そして願いを祈った。私は六面に囲まれる空間を飛んでいるうちに天井に近い一角に私が羽を拡げてもなおゆとりのある大きさのある壁穴がどこかへと通じているのを見つけた。私がその穴へと入り込みその姿を女から隠したとき、女は狂ったように悲しげな声をあげて叫んだ。
「行かないで!おまえさん、いったいどこへ行ってしまうの?行かないで!わたしの前からどこにも……」
再び、穴の入り口へと姿を現した私の姿をみつけた女はうれしさと安心のあまり、床へへたりと座り込んでしまっていた。
「はやく、そしてかならず戻ってきてね!」
女は私がその片隅の穴へと入り込んで行く姿を見送るときにいつもそう祈るような響きで呼びかけながら私を見送った。私はこうして女のいる部屋だけでなく、その穴に入るようになった。女も私の姿が見えないときにはそこにいるのだということを悟るようになり、穴のある方向を見ながら
「おまえさん!そろそろ戻ってきてね。わたし心配になってしまうの」
と前よりは落ち着いた声で語るようになっていた。
女はいつしか髪の毛を伸ばしたままにするようになっていた。そして私に秘密を打ち明けるようにささやいた。
「わたしのこの髪を体につないで、いつかあの穴の向こうに通じているところまで飛んで欲しいの。きっと壁穴の向こうにはラアダメスさまが私と同じように魂を一つにすることを待ち望みながら、閉じ込められているはずなの」と。
体力が増して行くにつれ、私はやがてその壁穴に沿って奥深くまで飛んで行くようになった。体力に自信を持ち始めてからのあるとき、私は奥へ奥へと羽ばたきを休めることなく飛んでいった。どれくらい飛んだのであろうか、やがて私は女のいる牢屋と同じ暗闇に覆われた別の地下牢にたどり着いた。
一人の男が壁に背中を押しつけ腕組みをしながらじっと座っていた。男は黙想していた。私は男に近づき、羽を大きくそしてせわしく煽(あお)いだ。男はなんの変化もないこの無窮の冥府に起こったその変化に「おおぅ、うう……」と感動とも驚きともつかぬ声をあげた。私は男の周りをゆっくりとそしてできるだけ優雅に旋回した。
「おお!なんとなつかしい命よ!そのうつくしい動きよ!この沈黙と静寂の冥界に放り込まれて以来息づくものは何一つなかったではないか。自分の呼吸や心臓の鼓動すらもが自分には永遠に静止しているとしか感じられなかったではないか。愛するアイーダと永遠に魂を一つにしたいと望むわが心を除いて果たして生きるもの、動くものは存在したであろうか?」
男が感動にむせびなきながら私の動きを眼で追った。さらに男は叫んだ。
「汝はいったいどこからこの冥府へと入り込んだのだ……?いや、そんなことはどうでもよい。命あることに理由はない。あることが先立ってあるのだ。ただ、生きて存在しているそのことを愛しみさえすればそれでよいのだ」
男はよろよろと立ち上がりながら私を追いかけ叫んだ。
「汝はひょっとするとわが魂を救いに遣わされたのではあるまいか? きっとそうに違いない!そうだ。そうに違いない!私は今においてさえなお、自分のこの残酷な運命を呪っている。愛するアイーダと肉と魂を一つにして冥府へおくられてこそ我が魂の安らぎはもたらされ、地下牢に刑死したことの意味が永遠の魂の救いであることを意味していたことになるのだ。今のままでは私はけして心を休めることはできないのだ。頼む!我が肉と魂を再びアイーダにつなぎ、一つにしてくれ!
それにしても神よ!なぜ私は人も国も愛するという幸せを与えられることがなかったのか?エジプト人以外は人ではないという考えはどうして私の体には根付くことがなかったのだ?祭司ランフィスの教えを受け、将軍としての訓練を受け、筋金入りの愛国者として栄達をきわめてきたこの私がどうしてよりによって敵国の女に魅せられてしまったのだろうか?いかなる教育や訓練をも否定し去るこの特定の女というものが持つ魔法のような魅力とはいったい、なんであろうか?ただ自分の目の前にいるだけというその存在だけが誕生を受けて以来のすべての教えをいとも簡単に破り捨てさせてしまう、この女の魅力とは何なんであろうか?悪魔の力?いや、違う!私にはわからない。神よ!答え給え!
『エジプト人以外は仲間とすべきではない。敵国の民は殺すべきか家畜のように働かせておくのだ。それこそが愛国者の取るべき態度だ』という教えをたやすく破ってしまった我が心。だが、私は間違っていたのだろうか?
王の娘、アムネリスは私が受けた教育に照らして見れば、申し分のない女であった。エジプト人の誇りを高く持ち、神を敬い、エジプトの民を愛し、そして美しかった。私を助けんとして釈明の機会さえ与え、嘘までついて私の心が彼女の下へと来るように誘導さえしてくれた。
それに引き換え、アイーダといえば、私を思う女でありながら、その父アモナスロを、そしてふるさとのエチオピアへの愛国の情をけして忘れてはいなかった。恋人を愛していながら、同時に国家と父を忘れることもなかった。駆け落ちを誘い、手薄な警戒配備を引き出したのもそれは彼女が国家を忘れていない冷静な愛国者であったからだ。
私のアイーダへの愛の選択は確かに国への背信を意味していた。私はそのことをだれよりもよく知っていた。私はエジプトのほかのどの将軍よりも愛国的であり、そして勇猛であり、戦いにも強かった。領土を侵犯し、我がエジプトに攻撃を仕掛けたものにたいしては勇敢にこれを撃退した。エジプトの国民を愛し、国が平和であり、豊かであることが同時に私の喜びであった。ただ奴隷のアイーダに魅かれたというそのことが、それまでに築いた国家への中世と愛を取り崩し、意図せざる反逆を演じさせることになってしまったのだ。なぜ、敵国の奴隷の女を好きになってしまったのか?なぜ、私は厄介な愛に燃えたのだ?アムネリスを妃に迎えていればすべては何不自由なく過ごせたのに……。
それにしてもなぜ、異国の女に心を魅せられてはいけないのだ?
我がエジプトとエチオピアが有効の関係にあるならば、われわれの愛は国家を裏切るようなこともなかったはずだ。私のアイーダへの個人の愛が無残にも切り裂かれ、組織への背信として処罰されたのは、それが個人の愛に責任があるのではなく組織の利害対立に原因があったからなのだ。もし、われわれの国とエチオピアとのあいだに国家間の親善と友好があったとすれば、そして同様に他国との友好関係が多ければ、個人と個人の間に交わされる愛が切り裂かれることはないはずだ。逆に、国家と国家がいがみ合えばいがみ合うほど、切り裂かれる必要のない個人間の愛までもが背信と反逆の汚名を着せられることになってしまうのだ。国家と国家が、そして組織と組織が友好的でありさえすれば、わたしたちのような悲劇はおこらなかったはずだ。
私はアイーダを愛したことを悔いて嘆いているのではない。どうして国家は対立してしまうのだ?国家がお互いを愛し合いさえすれば、その間の民は異国人同士であったとしてもその仲を引き裂かれることはあるまい。国家は争ってはいけないのだ!これが私の心からの叫びだ。
そこに飛ぶ、汝よ!我が魂に永遠の救いをもたらし給え!」
私は絶叫する男を下に見ながらその部屋の壁に沿ってゆっくりと優雅に羽をひるがえしながら飛んだ。私は再び飛んできた壁穴の方に向かった。男の目にはその壁穴は今の今まで見えることはなかったのだ。女もまた最初は男と通じあう穴があったことはつゆ知らなかったように……。私の姿が壁の中に消えたとき、男は女がしたのと同様に一抹の希望にすべてをかけた悲嘆にくれる叫びを上げていた。
「汝よ!いづこへか消え行かん?頼む!我が永遠の魂の救いの可能性を断つことなかれ!」
私はそれから二人の間を往復するようになった。彼らはそれぞれの思いを持っていたが、二人して肉と魂を一つにして永遠の命を獲得したいという一念で強く結ばれていた。冥界という沈黙と完全停止の世界において二人は私を介するこの一念によってのみ希望と躍動の源泉を得ていた。お互いに壁穴の向こうにはお互いに同じ一念で求め合っているその人がいるのだという確信にみちた夢が冥府の闇を突き破ったのだった。
女は私を見つけるまでは伸びることもなかった自分の髪の毛が希望と願いによって伸び始めていることを識っていた。女の髪は希望の象徴でもあった。女は自分の髪をずっと伸ばし続け、髪の毛の先端を私の腹回りに結ぶことを実現するに至った。
「おまえさん、がんばってね。わたしたちを救っておくれ。壁の向こうにはきっとラダメスさまが私を待っている。この髪をラダメスさまが見れば、そして触ればそれが私の髪であることことをかならず判るはずだわ。最初は一本でよいの。おまえさんが一本、また一本とそしてまた一本と、二人の間をつないでくれればその三本で太い一本の髪綱を編むことができるわ。それを繰り返し繰り返しさらに太い丈夫な髪の綱に編んで行くの。そしてけして切れない丈夫な綱となったなら、両方からお互いに引き合って壁をよじ登りあうの。そうすればわたしたちは再会できるわ。そのとき私たちはとうとう肉も魂もが一つになり、永遠の救いを得ることができるのだわ」
女の夢は女の身の丈の何十倍以上にも長く伸びた一本の髪の毛をラダメスのところへと運びこませることから始められた。細く長い髪の毛の重さは私にとってずしりと重く、わたしの飛ぶ力をそぐものであったが、私はこの身をすべて犠牲にする覚悟で女の思いを忠実に運んだ。最初の一本がラダメスのもとに運ばれたとき、彼はいつもとは異なるふらついた飛び方をする私に、具合でも悪くなったのではないかと訝った。しかし、彼はそこに運ばれた最初の一本の細い髪を見たとき、
「まちがいなくこれはアイーダだ!アイーダの黒髪だ!希望だ!」
と叫んで、その髪に頬擦りを繰り返した。けれどもラダメスはその髪の持つ意味を理解することができずにいた。二本目、三本目……と運び込まれたとき、ラダメスはそれらを編んでより太い髪の綱とすることが思い浮かんだ。私は無限に髪を運び続けた。それにつれて髪の綱は次第次第にその太さを増していった。やがて、二人は編まれたそれらの髪の毛を使って電信線のように交信を始めていた。いったい、何万何十万本という黒髪が運ばれたことだろうか?不思議なことに、二人を遮る壁の厚さは運ばれる髪の数に逆比例するように薄くなり、壁穴の距離は短くなって行ったのだ。二人はその髪を使ってお互いの手ごたえを得、ワイヤー状の髪を会話の道具とした。さらに髪は運ばれた、二人の理解に違うところはなかった。
そしてとうとうその時がやってきたのだ。二人は互いに引き合って釣り下がっても切れない強さにまで編まれた髪の綱を手がかりに壁をよじ登りあい、暗闇の中にずっと見上げていたその壁穴に辿りついたのだ。
「アイーダ!」
{ラダメス!}
二人は互いの名を叫びながら腕を伸ばしていた。最初は指先だけが触れ合った。もう一息!二人の指は絡み合った。肩が抜けるほど強く握り締めた掌どうしをさらに手繰り寄せた。そしてとうとう二人は互いの体を確かなものに……、とその瞬間、二人を隔てていた地下牢の壁が突然轟音を立てながら崩れ落ちた。アイーダとラダメスの二人は崩れ落ちる壁と共に体を落下させながらもしっかりと身を寄せ、全身抱き合いながら崩れ行く粉状の壁のなかに姿を隠していった。