夢幻のアイーダ

魁 三鉄

W

 

「あっ、気がついたぞ!顔色も悪くないし、どうやら大丈夫のようだ」

 髭を耳元からあごにかけて立派にはやした、聴診器を首からぶら下げた若い男が優しいまなざしで私を上から覗き込みながら囁いた。私の顔の上には丸く取り囲むように、見慣れる人々の顔が広がっていた。黒いターバンを頭に巻き、ピンクの唇の中に真っ白な歯を見せているヌビアの男、茶褐色の肌の上に太く濃い髭を長く伸ばしたエジプト人、そして胸の厚い上半身の発達した白衣をまとったエジプト人の看護婦、私はルクソールの街の病院の一部屋に横たわる鉄製のベッドの上に寝かされていた。

「アイーダは?そしてラダメスは?」

私は思わず叫んだ。

「アイーダ?……私の大好きなオペラの一つですが、それがなにか?」

髭を生やした若い医者は私の顔を覗き込むようにしながら、いぶかしげに応えた。

「アイーダとラダメスの二人が一緒に……」

私がつづいてそう答えたとき、彼らは互いに顔を見合わせながら軽く小さく横に首を振った。

「まだ、意識状態が完全には……。崩れ落ちてくる岩石によって頭に衝撃を受けた後遺症が残っているようですな。もう少し、完全に戻るまでには、時間が必要のようです。外傷はありませんがね……。もう少し、ゆっくり寝かせて様子を見ることにしましょう」

主治医らしきその若い医者は仲間たちに指示をした。私はかれらが部屋を出るのを見たあと、いつのまにか再び昏睡状態に陥入っていた。

 

さいわい、私は崩れた岩の下敷きになりながら、全身の軽い打撲とわずかに掠り傷を負った程度の怪我ですみ、あとに残る傷を負うことはなかった。二日間にわたる入院による治療と静養の後、私は無事退院した。

あとから聞いたところによると、私が助かった状況というのはほとんど奇跡に近い状況であったという。その話によれば、私は岩窟の崩壊の中で、人一人の体がようやく通るほどの隙間が開いており、その穴が空気穴となって外気を吸うことができ、助かったのだということであった。そして不思議なことに、事故を知って駆けつけた救出隊は赤茶色の両手の掌ほどの大きさの蝶がその穴の中へと入って行くのを見たことによってその穴の存在を知り、またその中に気を失って倒れている私を認めることができたということであった。そしてさらにふしぎなことに、確かに穴に入るのを見たにもかかわらず、その蝶らしきものはそれ以後誰も見ることがなかったということであった。

 

私は日本へ帰ってきてからのある日、知人の医者を訪ねた。事故の後遺症のチェックと、私が昔と違ってエジプトへの旅のあと、目立って、科学的な説明では説明のつかないいささか神秘的な、また幻想的な世界の出来事に関心を強く持ち始めたことに対して、友人が少し心配の念をいだき、一度、外科のチェックと共に精神医学的な診察も受けてみることを勧めたからである。

 

頭部へ受けた打撲については後遺症はまったくないということであった。

 「心理学的にいうとな、おまえ、そのジプシー占いとかによってな、強い暗示がかけられ、それが想像的産物となって頭の中を支配し、それによって眼の前に起こる現象が時として、その暗示の内容と同じ幻覚となって、心の中で作られた映像と重複して見えるようになってしまうことがあるのさ。

 おそらくこれから俺がテストしてみることはきっとお前の最近の心理状態と頭脳の働きをそれなりに正直に映し出すことになるぜ。まぁ、あまり結果は気にしなくていいけどな。多分、お前の気に入ったタイプの恋人でも現われない限り、この傾向は少し続くかもしれないな」

私のことをよく知る知人の医者は私の幻覚の世界の因るところを結婚願望にあるのだと笑いながら言った。そして、

「まぁ、これを見ろよ」と十枚ほどの灰白色や赤や赤と黒そしてさまざまな色彩からなる画用紙ほどの大きさの紙を順に私の目の前に広げていった。

それらの紙の上にはインクのシミがところどころボタッと散り、模様を描いていた。そして知人は順にその紙を見せながら、私にそれが何に見えるか素直に語れと命じた。

私はそこに描かれるともなく描かれた偶然の模様を集中して見つめ始めた。私は全体的な印象からさらに個別的な印象へと集中していった。すると不思議なことに、私はあの王家の谷からデル・エル・バハリへと通じる途中で出会ったあの蝶の姿が眼の前に舞い始めていた。そして蝶は私をあのときのように私を再び洞窟へと導き始めた。模様はさらにあの洞窟の壁のようにそして立体的に私に覆いかぶさってきた。私はその目に映るままの光景を立て続けにストーリーとして展開していった。知人は私が語り続ける内容をすばやくW,D,S,F,M,C,H,A,P,Tなどと書き留めて行った。私はこれまでにここに記してきた世界をいつのまにかインクブロックを基にして語っていたのだった。

知人は私の展開した話を聞き終わると、アルファベットがびっしりと書き込まれたノートを見つめながら、まだ正確な分析にはかけていないから本当のところはなんともいえないのだが、と断りながら次のように語った。

「図証への反応領域は全体的にも、個別的にも偏りなく展開されており、抽象的、総合的な思考力が高いことを示している。と同時に、個別的な形態の把握の正確さと鋭さも見られ、感受性の鋭さと独創的な関心をもっていることを示している。形態への反応は客観性をもって事態を眺め自己抑制が強いことを示している。そして形態を動きのある想像力によって膨らめて行く内容の速さと多様さの点にも特徴が見られる。人間や動物の動きに対しても、また色彩に対してもあらゆる反応がユニークだ。思考の規則的な展開力の自由さと構想力が知性を表しており、理性により統制されている抑制的な性格ということがはっきりと出ている。

しかし、心の安らぎの欠如が幻覚に繋がり、しばしば強い想像力の世界を刺激して超現実の世界を妄想として導いている。日常生活の中の異常ではないが、心の充足感のようなものが必要だな。このまま独り者でい続けると狂人扱いされることもあるかもしれないな。社会性を逸脱した幻覚などの場合には……。一番良い薬は、早いとこ結婚に結びつく良い恋人を持つことだな」と。

 

それから何年か後のある日、夕刊をひろげていると片隅の記事に今から三千五百年ほど前のエジプト新王国時代のものと思われる、抱き合うようにしてそろった二人のミイラ化した遺体がエジプトの砂漠の中に発見されたという記事が載っていた。そして考古学者の少し茶目っ気のあるコメントとして、それらは残念ながら期待されたような伝説に伝えられるアイーダとラダメスの二人ではない、アイーダ伝説はあくまでも『お話』ですからと、記されていた。

私は発見された二つの抱き合うミイラが誰であっても良かった。ただ、私が体験した世界の二人は確かに肉と魂を一つにして永遠の救いを得たのだと確信することが出来た。それでよかったのだ。たとえ、この世で愛し合った古代の二人が、あの世においてもまた望むように肉と魂を一つにして永遠の命を得るという舞台に私が立ち会ったのは真実であったから……。そのとき、私もまた至福の時を分かち合うことが来たのだから……。

妻がいたらな、ふと誰もいない部屋の壁に向かって私は呟いた。

 

<了>

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