夢幻のアイーダ

魁 三鉄

 「あっ!危ない!」

 私は自分の目の前に起こったとっさの事態に思わず気をとられ、そこが遠く離れた異国の地であることを忘れ、大声の日本語で叫んだ。そして更に続けて「車を止めろ!」と英語で叫んでいた。その瞬間には私もまた、たった今自分が目撃したのと同じような姿でそのバスから飛び降りていた。地上へ着地をした瞬間にも、ほんの一瞬前まで自分が乗っていたバスの重さがそのまま背負わされているように、自分の意志とはすっかり別の力が私の体を前へ強く押し続けていた。私は思わず体を丸めて重心を下げながらその押しこむ力に逆らうことなく地上を走り続けなければならなかった。走り続ける間にも体を押し込んでくる力は必ずしも一方向へということではなかった。私の体は、気流を受けながら不安定な軽いきりもみを受けるセスナ機のように左右、斜め、前後の複雑に絡み合わされた力にねじられながらも、倒れまいとして懸命にバランスをとりつつ、それらの力が次第に消えるまで走っていた。強制してかかってくる眼に見えないバスの力が弱まるにつれ、私は自分の二本の足が砂塵を、もうもうと立てていることに気がついた。自分の顔にまで砂塵が舞い上がり、鼻や眼を襲ってきた。思わず息を止め、走る間にも、またもう一つの自分の巻き上げる砂ぼこりとは比べものにならない大きな砂塵が私を襲ってくるのがわかった。バスは私たちを振り落としたに等しい傲慢さを誇るかのようにスピードを上げ、砂塵をスカーフのようになびかせ巻き上げながら遠く走り去って行った。

 私は透明度のないヘドロの海に投げ込まれたような錯覚に襲われ、体が完全にバランスを回復した後もしばらくはそこにたちすくんでいた。

 「それにしてもひどい!」

 私は砂塵の向こう遠くに小さく消えて行くぼけた形のバスを恨みを込めた視線で見送った。スカーフのような砂ぼこりの一群は、やがて気流や薄くなびいた風の流れの中にその姿を曖昧希薄にして、再び青い空の中に散っていった。それでも、私には砂粒の一つ一つが鼻や喉の粘膜にいがらっぽく張り付いているような気がしていた。

 「ところで、さっきのあの子は大丈夫かな?」

私はその子の姿を目にしたことが今自分がここに立っている理由なのだと改めて思った。そして30メートルほど後ろを振り返った。

 パタパタとその子は全身を一枚で覆うガラベイアと呼ばれる白いずた袋のようなだぶだぶの服の中から手を出して腰の周りの砂を叩き落としていた。よかった!私は一人呟きながらその子の方に笑顔を近づけた。

 「おーい、大丈夫かよ?!」

 私はできるだけ簡単な英語で尋ねた。

 「平気さ!毎日のことだもの。今日は少しいつもよりスピードが速かったけどね」

 少年は茶褐色の顔の中に黒い瞳をくりくりと回しながらにこやかに英語で答えた。発音はけして美しい英語とはお世辞にもいえなかったが、言っていることははっきりと分る言い方であった。ちぢれた短い黒髪に薄茶色の筋を引いて砂ぼこりがついていた。

 「バスはいつもちゃんと止まらないの?危ないじゃん?!」

 私はいましがた眼の前に繰り広げられた少年のバスの走行中の飛び降りの光景を思い出しながら、少年の頭を軽く叩いてほこりを落としながら尋ねた。

 「今日はいつもより少し速かったけれど飛び降り方には こつがあるんだ。それさえ身につければ危なくなんかないよ。飛び降りながら体を前かがみにして着地と同時にしばらくそのまま走り続けるんだ」

 少年は少し得意そうに説明しながら、水泳で飛び込むような前かがみの姿勢をとりながら、私の前を小さく駆け抜けてみせた。パタパタと小さな足が小刻みに大地を叩く度に、また白茶色の砂が少年の膝の辺りの高さまで舞いあがった。

 

 この街は三千年以上もの埃にまみれ続けた砂ぼこりの街だ。私は二日ほど前に下りた国際空港から市街へ入るにつれ日常の建物の隙間という隙間にこびりつくように堆積した塵や埃のペイントされた街並みを思い出していた。空港からのタクシーは市内に入るにつれ、砂塵を巻き上げ、十九世紀の遺物のような市外電車の軌道の中にさえ、入り込んでガタン、ガタンと上下に車体を揺らしながら、まるで漁に出る白波を蹴立てる小船のように、行き交う車に巻き上げられた砂しぶきの舞う街中を走っていた。しっかりと閉じられたタクシーの窓を通して建物という建物の窓枠や扉のへこんだ隙間や凹凸のある空間には砂がへばりつき、暗褐色を迷彩模様のように作っているのが見えた。大理石でできた大きなビルディングも、ほとんどスラム化した三、四階建ての高層住宅も、商業・商店ビルもみんな例外なく褐色の砂化粧を施していた。「人種と言うものが肌の色を持つように街にも風土によって育まれた、ほとんど誕生と同時に持った固有の色というものがある。この街は、そしてこの国は砂色の街だ。そして国だ」と私は左右に流れる街並みに眼をやりながら呟いていたのだ。タハリール広場という中央公園に車が到着して、実際にその街の空気を吸い込んだとき、私の気管支は思わずこの空気を素直に吸い込むことをためらい、長袖の布に鼻を押し当てながら恐る恐るその街の空気を吸うことを強いたのだった。胸の中が炭火の炎を吸い込んだように感じられ、また胡椒でも吸い込んだのではないかというような気すらしたからである。

 クレオパトラといかにもその国を表す名前が上から下へと縦にスペル・アウトしてあるホテルもやはり、砂塵によるペインティングと自然に融合し、調和して見せる建物の色はブラウンカラーしかないのだとでも言いたげに、茶褐色に壁を染めていた。車から降りて見上げたホテルの褐色の壁がところどころ鏡のように光ながらギラギラと照りつける太陽を跳ね返していた。

 タクシーが去った後、急に現実の世界が身をくるみ始めた。橋梁、橋脚が何本も懸けられ、コンクリート・パイルを大地の奥深く打ち込む規則正しい槌音が、一方では腹の底にずしりと押し込む振動として伝わり、他方ではカーン、カーンという明るく乾いた音色を空に向かって一定のリズムで響かせていた。広場の一角では大規模な建設工事が行われていたのだ。旅行トランクを押しながら数十メートルも歩くと体中に汗が噴き出してきた。このたった数十メートルを歩く間に私はいったい何回エクスキューズ・ミーを繰り返したことだろう。しまいにはぶつかることが言葉の挨拶代わりなのだと自分で決めつけて私もまた人々と同じように何も言わずに体ごと見知らぬ人々にぶつかっていた。硬い棒切れのような体の感触ばかりが布を経て伝わる人肌の感触であった。一本一本の太さがわかる濃い髭、額の数本のしわを刻んでいる茶褐色の顔、太い眉、凹んだ彫りの深い顔の陰に隠れた眼の隈、すべての表情は砂によって作られてきたように思われた。黙々と足早に歩く人、数人づつの塊になりながらなにやら夢中になって口から泡を飛ばして、わめくように顔の表情を動かしながら歩く人々、黒衣を身にまとい慎み深く下を向きながら足早に歩く婦人たち、行き交う大人たちの間をすり抜けるように走っては時々その所在を確かめ合っている子供たちの叫びと身をよじる笑い声、日本では二十年も前に使っていたようなごつい機能本位に組み立てられたカセット・デッキを肩に掛け、モノ・スピーカーから出るジプシー音楽に身をくねらせながら歩く人、……。人の固まり、流れる路上には道行く人々の表情がさまざまに溢れていた。額から流れ落ちる汗を拭おうとポケットのハンカチに手をやらんとして立ち止まり、少し視線を離れたところに投げてみると、そこには無秩序な路上をなりふり構わず走ろうともがいている車の数々、ひっきりなしに鳴り渡る車のクラクション、ガシャーン、バリバリ、、ギギィと車がいたるところでこすりあい、せめぎあっている音、そして

「どけ!馬鹿野郎!お前こそ先にどけ!」

とでも言い合っているのだろうか、首に青筋を立てて拳をあげて罵り合っているドライバーたち、わーっという喚声と共にこれから乗らんとする白と茶色に塗られた公共バスをめがけて殺到する群衆、痩せこけたロバにぎしっ、ぎしっ、がたっ、がたっと荷馬車を曳かせながら時々掛け声と共に威嚇した声で鞭打つガラベイア姿の老人、炎熱の地獄であるにもかかわらず草色の上下の厚手の制服をまとい、白いゲートルをふくらはぎから足首にかけて巻いているおびただしい数の交通警察官たちの行き当たりばったりに吹きまくっているホイッスルの耳をつんざくような音、そして怒声、それにエジプト音階で知られる半音を多く含んだ妙な哀感を感じさせるどこからともなく聞こえてくる調べ。さながら喧騒協奏曲と言うものがあるならば、あるいはそんな音楽を創りたいならば、エジプトのカイロへ来れば、それがそのまま曲に組み込めるような騒音と喧騒の一大光景が私の眼前には繰り広げられていたのだった。

 

「あんたはヤバーニ?」

私は少年のその質問によって今いる我にかえるまでの間、この地に足を入れてからのこの砂の街の光景を整理していた。

「ウン、そうだよ」

「俺、大人になったら旅行会社に入って、ガイドになって日本にも行きたいんだ」

「君のように英語をきちんと話せれば、その夢はきっと実現できるよ。がんばって!」

私たちは友達のように路地裏の小道を語り合いながら歩いた。

「君、名前は?」

「サミール。おじさんは?それにどうして俺と一緒にバスを降りたの?どこへ行きたいの?俺の分る所だったら、俺案内してあげるよ」

「おじさんの名前はヒデキ。ヒデでいいよ。呼ぶときは。君がバスから飛び降りたとき、おじさんはサミール、君がバスから振り落とされたように見えたんだよ。だって、ぼくの国ではバスはちゃんと停留所へ止まってからでないと扉は開かないし、さっきのようなことをしたら大問題になってしまうもの」

「へぇー、じゃぁ、おじさんは俺を助けようとして一緒に降りたって言う訳?!それは悪いことしちゃった。本当はどこで降りるつもりだったの?」

「イスラム地区のシタデルあたりを巡ってみようと思ってね」

「そしたら、後で俺の言うバスに乗りなよ。その前に、俺、近くを案内してやるよ」

サミールは私のことを好意的に信じてくれたようだった。今どこに自分たちはいるのかと尋ねたとき、彼は塀の向こうに高くそびえる数本の尖塔を指してアル・アズハル・モスクだと教えてくれた。あいにくとイスラムについて明るくない私は彼の説明を聞いていてもどこか栓の抜けた風呂桶のように入るそばから説明が抜けて行くのを感じながら、それでも自分が集中力を欠いていることを悟られないように注意深く耳を傾けているふりをしていた。かろうじて私の耳にはそこに大学があるということだけがひっかかり、残った。サミールはモスクの中に案内しようかと言ってくれたが、私は丁寧に断った。異教徒がただ写真のために聖なる地を汚しては失礼になるからという理由をつけて、サミールに果たして分るかなとは思いつつもそのように遠慮する旨を伝えた。

「もどるようになるけど、この道に沿ってまっすぐ行くとオペラ広場に出るよ。俺の家はカーン・エル・カリーリの中さ。よかったら、寄りなよ」

「オペラ広場って何があるの?オペラ劇場があるの?」

「ヒデ、アイーダって知ってる?」

「ヴェルディの?」

私はそこまで言ってなるほどスエズ運河の開通を祝って建てられた歌劇場の杮落としの出し物がヴェルディのアイーダであったことを思い出していた。

「そう、それが演じられた歌劇場が昔あったところだよ。今は駐車場だよ。何もないよ。だから言っても仕方がないけどね。家(うち)によりなよ。五分も歩かないとこだから……」

「おうちは何をしているの?なにかの商売?」

「宝石屋さ」

私は宝石という言葉に少し心が動かされた。もとより、自分がなにかを買いたいとか、安く買えるかもしれない、などという現実的なところでの期待と欲望を刺激されたからと言うわけではなかった。私はむしろ宝石という言葉が常に神秘的な謎めいた、時に人生を狂わせる妖しい演出力を持った運命の決定者であるようなところに心をうごかされていたからである。

私はサミールの後に従い、アーケードの建て込んだ商店街の一角に入り込んだ。大きな入り口は一つであったが、いったん入り込んだ後はもう自分がどこにいるのかはすっかり分らなくなっていた。エジプト綿の服やら布やら編み物や、更にみやげものの銅製品やら果物や鳥の肉、巨大なひらめのような魚の開きなどが至る所で所狭しとばかりに天井から吊るされ、狭い一軒一軒の店の壁にはパピルスや安いキャンバスに描かれた動物の絵などが張りつけられていた。また何軒かに一軒かの軒先には鮮やかに着色されたまがいものの珊瑚やらトルコ石がショー・ウィンドウの中に銀製のブレスレットやペンダントと並んで、あるいはその細工物として飾られていた。私は訪ねた先のサミールの店先に並ぶ品々も恐らくはこの類のものだろうと期待のない笑いをおなかの中でした。

やがて、サミールはここだよと指差し、奥へ入ると、私が期待してないままに店先にたたずむのを見て、中へ入れと手招きをした。店の奥に人影がみえた。私はそこまで歩んで行った。骨格のしっかりした胸の厚いベリダンサーのような濃いアイシャドーを妖しく眼の周り一杯に塗り、うるんだ瞳で最初だけじーっと私をみつめたジプシー風の女が下を向きながらごそごそという感じで近づいてきた。

「はじめまして」

私は英語でしか挨拶のしようがなかった。

「はじめまして、息子がお世話になったそうで……。ありがとうございます」

サミールは、これは自分の母親のライラだと言って、母親が語った言葉の意味するところを英語で私に伝えた。私はエジプトのバス事情に疎い自分の無知が事態を必要以上に深刻であったかのように印象付けてしまったに違いないと思い、

「聞けば、毎日そのようにしてバスから降りているということですが、でもやはり危険ですよね。万一、バスの後輪にでも巻き込まれてしまったりしたら……」

と仮定法を使って言った。母親は、今日は危うく息子が車輪の下に巻き込まれそうになったのを助けられたのだとでも伝えられたように、大げさにすがるようにして礼を言った。

「なにか、店の中にあるもので欲しいものない?」

とサミールは私に尋ねた。私は自分が勝手な思い込みをしただけだから特別礼をされるようなことはしていないし、お礼をもらうようなことではない、と言った。そして、店のショウー・ウィンドウの方へと体を運びながらお世辞で素敵な宝石ですね、と言って一通りすべてを眺めて歩いた。もしかして、アレキサンドライトのようなエジプト特産の稀少な宝石がどこかに混じっていないかなどというロマンは予想通りあっけなく壊された。その間に、サミールと母親はなにかをしきりに言い合っていた。 

私は帰る潮時をねらって、彼らがしきりにしゃべっているその会話が一段落するタイミングを見計らっていた。

「ヒデさん。失礼なことを聞くようだけれども、自分の運命を知りたくない?」

「……」

私はまったく予期しない質問に答えを詰まらせた。

「実はね。かあさんがさっきからヒデさんの運勢を見たいと言って聞かないんだよ。ぼくのかあさんはジプシー占い師なんだ。良く当たるといってこの辺りでは評判なんだ。ただ気難しくて、いつでも占うと言う人ではないんだ。そのかあさんがね、ヒデさんの顔をみたら、今占えば間違いなく当たる相がでている、これは自分の意志とは関係なく、神さまの思し召すところだから間違いないんだって……。そんなことお礼にするのは失礼だから止めたほうがいい、いや、占ってあげることこそがまことの御礼になる、と言って争っていたんだけど……。どうだろう。ヒデさん、占ってもらう気ある?嫌じゃない?」

サミールは遠慮がちにできればそれを御礼として受け取って欲しいというニュアンスで私に尋ねた。私はこれまで自分の人生の中で占いにすがるようなことは一度もなかったが、なぜかこのときには神秘的なものに身を任せてみるのも何かの足しにはなるかも知れないと思う気分となっていた。それに正直な心を打ち明ければ、妖しく腰を振りながら、男の財布を徐々に開かせるジプシー女の妖艶な雰囲気に浸れるものなら一度は浸ってみたいという男心がライラのしとやか気に伏した眼がちらちらと私に注がれる度に刺激されていたのだった。

「サミール、せっかくのお母さんのご好意だ。よし、占ってもらうよ。そう伝えて……」

私はサミールを見ながらそう言った。彼はライラに私の意志を伝えるとにっこりと微笑んだ。

「時間はどれくらいかかりそう?」

私はカイロの街中を巡る時間を少し計算したが、一時間もあれば占いは終わると言われてからは、時間のことは忘れていった。

「では、支度をしますから……」ライラは少しのあいだ奥の間へと姿を消した。

サミールは待つあいだに、店の戸をすべて閉じ、誰も店の中に入れないようにした。戸がすべて閉められると部屋の明かりがすべて消された。外はまだ太陽のギラギラと照りつける真昼間であったにも拘らず、部屋の中はほとんど暗闇となっていた。そして不思議なことに冷房装置もないこの部屋には冷気さえ漂い始めたような気がしてきた。やがて蝋燭の光を手にかざしながら、そして片方の掌にはキラキラとすべやかに光る何かがそっと置かれたままの姿勢で、ライラが現われた。私にはそれが実際にライラであることは声を聴くまでは信じられなかった。彼女は二つの眼の部分だけを開いたほかは頭から黒い頭巾をすっぽりとかぶり、一層の神秘性を増していた。私はテーブルの一方にライラに対座して座り、サミールは横に座って繰り広げられる占いの内容を私に英語で説明する役目を担った。

テーブルの上には先ほど掌にきらめいていた球状の透明なクリスタルとおぼしきものが黒い布の上に置かれていた。蝋燭台の上にゆらりゆらりと炎をくゆらせながら火が妖しく輝いていた。黒衣のライラは低くなにかを呟きながら懐の中からトランプのようなカードを取り出した。ライラは私に何を知りたいかと尋ねた。私は特に心の準備はなかったので、あすの自分はどうなっているでしょうか?と深くも考えずに尋ねた。すると、彼女はトランプよりも数多くあるカードを二つのグループに分け、左手を使ってそれらをかき混ぜ始めた。小さなグループのカードがゆっくりと一枚めくられ、テーブルの中央へうやうやしげに置かれた。中央へ置かれたカードの上には逆さ吊りにされた男らしき者が描かれていた。

「こりゃ、だめだ!縁起でもない。よりによって逆さ吊りにされた絵なんて!」私は心の中で勝手に連想した内容を想って一人心の中で呟いた。カードがまたうやうやしくめくられ、そして今しがた置かれたその逆さ吊りの絵の上に十字を切るように二枚目のカードが置かれた。そこには台座に座るイシスの神のような絵があった。やがて三枚目、四枚目とカードは次々と十字を作る二枚のカードを時計回りに囲むように六枚置かれた。そして七枚目が六枚目までとは違う位置に置かれ、その後のカードは下から順に上へと置かれた。最後の十枚目には竪琴を弾きながら禿鷹を操るエジプトの女王の絵が静かに置かれた。

それから、ライラは水晶球を厳かに手に抱き、彼女の眼のところにそれを運びながら、今並べられた十枚のカードを透視し始めた。じっと彼女は見つめていた。やがて、おもむろに彼女は口を開き始めた。サミールが英語に直して後を追った。私はただ黙って告げられる内容をじっと座って聞いていた。その占いによれば、今日サミールとの出会いは、自分を犠牲にしてでも正義を守ろうとする性格のもたらしたものであり、明日の私はカイロを離れた古都に飛び、そこで一組の男女に出会うことになるだろうという内容であった。さまざまな障害にぶつかるかもしれないが、強い意志と周囲への思いやりの気持ちを忘れなければ、必ず無事に目標は達成できるはずだ、ということであった。また水晶球の中に蝶が映っているということと突然の怪我、大病には気をつけなさいということも付け加えられた。

占いの儀式は言われたとおり一時間ほどのうちに無事終わった。私は厳粛な雰囲気の中で行われたとはいえ、占いの内容をそれほど真剣には聞いていなかった。ただ彼らが、私の一緒にバスを飛び降りたということに対して心からそのことを感謝してくれていたのだということを知ることが出来たことが何よりもうれしかった。子供を思う親の心は時空を超えて古今東西皆同じなのだということが確認できたことが私には人間というものの本性を極めたような気がしてなによりもうれしかったのだ。占いの言葉を聞き終えた後、私は占いという姿であれ、真心よりのお礼をいただいたことに篤く礼を言った。サミールは私を送り出す帰り際に、自分から占いたいと言った母の霊感はけしてはずれることがないから、エジプト滞在中、特に突発的な病気や怪我には気をつけるようにと彼なりの言葉で注意をくれた。

私はサミールに送られてシタデルへ向かうバスに飛び乗った。ここでもバスはきちんとは止まらなかった。手すりにしっかりとつかまらなければ振りおとされてしまうのがカイロのバスだ、と心した。

シタデル地区にあるいくつかのモスクの壮麗優雅な真っ青な天空に向かって聳えるミナレットを仰いだとき、そこにはアラジンの魔法の絨毯が砂塵を巻き上げながら今にも自分を誘拐しに来てくれるのではないかという半ば期待にも似たイスラム的幻想が頭の中を駆け巡っていた。そして、たわいもないお話と心のどこかで軽くみていた占いのことはすっかり頭から消えていた。

 

<(Ⅱ)へ続く>


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