亭主は、メモをとりはじめたこの10年の間で「巻絹」は宝生流(6回)と観世流(2回)しか見ておりません。上掛りの型を中心に書くことになります。
この「巻絹」は金剛の能だと云う説もあり、たしかに「隣忠秘抄」(昭和12年3月 わんや書店)には特殊な習が詳しく書かれています。現在の金剛流の小書「真之神楽」との関係性は不明ですが、囃子についての記述も多く、今の亭主には太刀打ちできません。
(横道萬里雄「能演出の広がり(続)巻絹」「観世」平成23年2月)
なお喜多流の「舞曲寿福抄」(国立能楽堂調査研究3 平成21年4月 喜多真王)には「巻絹太鼓会釈之事」とあり、喜多流でも習があるようです。
下掛りの「巻絹」を是非とも拝見したいものです。
宝生流では比較的よく上演される曲で、若手が演じる場合が多いようです。中入がなく上演時間も短いからでせう。
ただ、今回翻刻して気がついたのは、もともと総(惣)神楽を舞い、今は省略されている破ノ舞も舞うのが本来の姿で、軽い扱いになったのは近代に入ってからだと思われます。
なお宝生英雄「能の型」(昭和57年わんや書店)に現行の型附が詳しく解説されており、所々比較するつもりです。
<翻刻1>
1 次第ツレ出 ブタイヘ入 大小前ヘ向謡 地取ニ正ヘ「今を始(め)て」ト路(道)
2 行スル 正へ「急(ぎ)候程に」ト謡「や 冬梅の」ト少出フミトメ「是成(これなる)
3 梅にて候」ト右ウケ見 「南無天満天神」ト正下居 合掌ニテ
4 謡「急(ぎ)参りて」ト立 右ヘカエリ ワキヘ向 出下居「いかに申(し)候」ト
5 謡フ 「其身のとが(科)ハ」ト直ニ正へ 「頓ていましめ(縛め)」ト狂言縄カケル
6 「志らセけり(知らせけり)」トマク上(より?)ヨビカケ常之通「人倫心なし」ト橋懸
7 ニテワキヘフミトメ「とけや手ぐし(解けや手櫛)」ト正 「乱れかミ(髪)」ト扇アゲ頭
8 サス 但コシマキノ時ハ 頭ササズ 返ニブタイヘ入 「ミしめの縄の(御注連の縄の)」ト
9 ツレノ縄ヲ見ル「引立とかん(引き立て解かん)」トツレノ方ヘ行 下居ツレヲ引立
10 少引見「心つよ(強)くも」トワキヘ「何とか」ト縄ヲ見「情なや」ト
11 シヲリ「此者ハきのふ(昨日)」トワキヘ「是ハふしぎなる(これは不思議なる)」ト正ヘ「猶も
12 神慮」トワキヘ「此上ハとかく」ト正ヘ 「今は憚(り)」トツレワキヘ 「音無
13 に」ト正ヘ 「読しハうたがひ(詠みしハ疑ひ)」トワキヘ「本(もと)より」ト正ヘ「くも(曇)らぬ」ト
14 正ヘ出ヒラキ「哥人(歌人)を」トワキヘ「又ハ(またハ)」ト右ヘ廻「実うたが(げに疑)
15 ひの」ト正ヘヒラキ「阿(あ)だ心」トツレノ方へ行 諸手ニテツレヲ下
16 ニ置 下居縄トキ右ヘステ「とくとく免し(ゆるし)」トワキヘ ツレ縄ト
(以下翻刻2へ)
<解説1>
翻刻する宝生流の型附「懐秘録」にはワキの所作が記されていないので、冒頭部分は下掛宝生の所作を書いておきます。
名ノリ笛でワキ(勅使)とアイ(太刀持)が登場し、ワキは常座で「都から巻絹の到着が遅れている」と言い、アイ(太刀持)を呼び出します。
常の如くワキは正中に出て、アイは常座で下居して、ワキの詞を聞きます。ワキは「巻絹が来たら使いを通すよう」アイに命じます。
ワキはワキ座へ。アイは地前に控えます。
1 次第はツレの出なので、通常は段なし次第の場合が多いようです。ツレは直面です。なお観世流では棒に挟んだ絹を肩に出ます。簡単な持ち物ひとつでツレの役柄が判り易くなりますね。
なお「岡家本江戸初期能型付」(2007年2月 藤岡道子編 和泉書院)には「巻衣を持て出る。緒を付け肩にかたぐる。」とあるので、観世流は昔からこの演出のようです。
ツレの次第謡は常座で大小前に向かい謡ます。次第謡の常の形式ですが、諸説あります。
昔は地謡が囃子の後ろにいたので、謡の音程を合わせるために地に向かって謡ったと云う説。鏡板の松(徳川松平家)に向かって敬意を表した、と云う説。などです。
地取でツレは正面に向きます。
サシ、下歌、上歌は、内容的に「道行」の文で、道行の所作をします。右受し少し出て戻ります。これで三熊野の到着したことになります。
2 現行では、冬梅に気がつくのは、目付に出てからです。「能の型」にも「正へ出、フミトマルときに「や。」と謡ます。」とあります。
3 現行と同じです。演者によっては合掌のときに拝む気持ちで顔をさげます。観世流では常座で「参らばやと」と右受し、(少し出る場合もあり)梅に気づき、「や。」となります。あとは目付に出て下居、絹を置き合掌は変わりません。
4 現行では「いひもあへねば」で立つ場合があります。これは常座に戻ってから正中に出る時間が必要だからでせう。
因みに「能の型」には幾分詳しく記載されております。「右ヘトリ、立チ返リ、常座ニテワキヘ向キ、正中ヘ出、下ニ居ます。」
「下居」ではなく「下ニ居」が現在の宝生流の表記です。おおざっぱな言い方をすれば、江戸時代は上掛の型附表記法にあまり差がなく、近・現代に流儀として整備されたようです。
5 観世流では、ツレが案内を乞い、アイが応えて問答となり、アイがワキに取次ます。シテ方の型附ではワキとアイの件は省略されるので、詳細は不明ですが、現在宝生流にはこの件はなく、そのままワキとの問答になります。大胆な簡略化かもしれません。
ワキは遅れたことを咎め、「其身の科ハ遁れじと」の打切で、アイを呼び出し「いましめる(縄をかける)」よう命じます。和泉流のアイで、大小前で後ろを向き縄を出し、正中に行きツレを縛った型を見ております。その後アイは地前に戻ります。
この件については、福王流のワキで、立ってツレに近寄り、扇でサシ、ポーズを決めた型を見たことがあります。その時シテは観世流でした。「罪の報いを知らせ」る型なのでせう。
6、7 呼び掛けた後、シテはすぐハコビ、現在では「人倫心なし」はニノ松あたりでフミトメてワキに向かい謡ます。「乱れ髪」で頭をサス演出はこれまで二度見ております。
装束については二通りあり、コシマキ(腰巻)長絹と、白水衣に緋大口で、「能の型」にも「長絹姿と水衣姿のときでは、多少型のちがうところがあります」と書かれています。
なお水衣と緋大口の場合は、前折烏帽子を被り、木綿襷(ゆうだすき)を首にかけます。この木綿襷は「巫女に限ってかけるもの」(藤城繼夫「能の扮装」わんや書店 昭和37年)とあります。
宝生流は輪っかを繋いだ形で、結び目は背中になります。「能楽図説」(佐成謙太郎 明治書院 昭和23年)では普通に結んだ図が出ていますが、流儀の違いは、他を見ていないので今のところ不明です。
また、民俗学的に面白い装束ですが未調査です。なお宝生は扇を持ちますが、観世は最初から弊を持ち出ます。
12、13 「今ハ憚り」と、ツレがワキに向く所作です。次の「音無に」もツレの所作です。「詠みしは疑ひ」からシテの所作ですが、一句で正に戻さねばならぬので、「匂ハざりせば」で早めに向く演者の人もいます。
宝生流のステージングではシテが常座、ツレが正中、ワキがワキ座と、一直線に並んでしまいます。そのためワキ方にしろシテ方にしろ、ツレに向く場合と、相手(シテにとってのワキ、ワキにとってのシテ)に向く方向性に差がなく、とても判りにくくなります。
もちろん上手い演者は僅かな差を表現して見事なのですが、それにしても不親切なステージングだと思います。
観世流では「元より正直」で正に向くと、目付けまで出ます。シテは目付の位置なので、ワキ、ツレに向く差別化がきちんと出来ます。宝生流では少し遅れて「曇らぬ」で目付に出ます。
14、15 観世では「神の」で右廻りで常座に戻り、常座からツレに近寄り下居して縄を解きます。宝生では「またハ心中に」で右廻りで常座に戻り、正へヒラいてから、ツレに近寄ります。
「能の型」には「ワキへ向キ、ツレの方ヘ行キ」とあるので、ワキに向く所作がひとつ増えていることになります。ツレとワキは常座からは同じ方向に居るので、面で上手く差別化しなければならないでせうが、縄を解く所作が控えているので、ここは「懐秘録」のように、あっさり演じた方がよさそうです。
なお「右廻リ」でなく、つらつらとサガって常座に戻る場合も何度か拝見しております。
16、縄を解く所作は「能の型」に更に詳細に書かれています。「下二居、ツレヘ双手カケ、右の手ニテツレの胸前の縄をもち、左の手ニテうしろでむすんだ縄目をとき、右ヘヒキ出シ、縄を捨テ、「とくとくゆるし給へや」トワキヘアシライます。」
なお観世流では解いた縄をまとめて左手に持ち、ワキへ見せてから捨てるようです。型付(「観世」昭和41年11月)によると「ワキの方へ投げ出す」とあるので、威圧的な態度だと言えませう。
<翻刻2>
16 ニ置 下居縄トキ右ヘステ「とくとく免し(ゆるし)」トワキヘ ツレ縄ト
17 クト直ニ地ノ前ヘ行 下居 シテクリ地ニ立クツロギ 正ヘ
18 カエリ 大小前ヘ 立様 「称ふり(眠り)はる(遥)かに」ト扇ヒラキ ユウケン 打
19 切扇タタミ「治れ・り(をさまれり)」ト拍子「一首を」ト右ウケ 出ヒラキ「天を」ト
20 高ク見「地をう(得)れバ(ば)」ト下ヲサシ廻 ヒラキ 左右打コミ
21 上羽「ばらもん(婆羅門)」ト 大左右打コミ ヒラキ「詠哥阿れバ(詠歌あれば)」ト角
22 トリ 左ヘ廻リ正ヘ出 フミトメ「文殊の」ト左ヲ引 ヒラキ 合
23 掌 「互に」ト一足出「仏々(佛佛)を」トサシワケ 右ヘ廻リ 正ヘヒラキ
24 「又神ハ」ト拍子 右ヘノリ「かた(片)そぎの」ト サシ角ヘ行 扇カ
25 ザシ左ヘ廻リ 左右トメ「心得申候」トワキヘ向 扇返シながら
26 クツロギ 後見座下居扇サシ ヘイ持立 シテ柱ノ先ヘ出
27 ヘイニ左手ソヘ 下居 キビス立 但 五段ノ時ハ扇イラズ 直リ
28 ノ時ハ扇サス 「きん上さいはい(謹上再拝)」ト ヘイフリ イタダキ ヘイ取直シ
29 キビス ヲトス ヘイヒザツキ「抑當山ハ」ト謡「ミつごん(密巌)浄土」トヘイ
30 取直シ「有難や」ト イタダキ 立ヒラキ 神楽 序ナシ五段
(以下翻刻3へ)
<解説2>
17 現在、ツレはすぐ切戸退場ですが、天保頃は地前で控えていたことが解ります。観世流の観能メモを見ると、「ツレは地前」としか書いてないので、観世は現在も最後まで控えているようです。
<クツロギ>とあるのは、常座のうしろで後ろ向きで控えることで、後見が装束を直します。
18 一旦常座に戻り、大小前に移動します。
シテは、ユウケン二回したあと打切で扇を閉じます。
19 <・>は足拍子の印で<れ>の横についています。
20 打込みの後、扇を開いて上扇になるのは常の所作なので、「扇開く」は記載を省略したのでせう。
21 <上羽>は現在では「上扇」と宝生流では表記されますが、下掛り(金春、金剛、喜多)では今も「上羽(あげは)」と表記しています。
22 <左廻>の後は常の如く大小前に行きます。<左ヲ引>は現在の用語では「二重ヒラキ」のようです。(「能の型」)
23 合掌は正面向きになります。なお合掌は扇を閉じて行い、合掌が終わったら再び扇を開きます。常の決まりなので記載していないのでせう。
<「互い」ト一足出>でワキに向かいます。右に廻った後は常座に行きます。
24 <ト拍子>は現在では六拍子です。
25 左廻りの後は大小前に行きます。<左右トメ>左右して打込み扇を閉じます。ワキはクセの終わりにシテに向き「祝詞」を求めます。
<扇返シながら>とあるのは恐らくワキの詞を聞いてから扇を閉じたと云うことでせう。
26 ここは一連の動作で、後見座にクツロギ、扇から幣に替えて常座に戻ることを示しているのでせう。
<シテ柱ノ先ヘ出>とありますが、現在では正中に出ます。「能の型」では細かく記載されています。
「正ヘ向キ、出、大小前ヘ行キ、舞台中程に出て下二居ながら幣に左手ソエ」
27 <ヘイニ左手ソヘ>は幣を振るときの所作だと思われますが、先行して書かれたものでせうか?
ただ「能の型」にもそう記載されているので、古くは下居のカマエで左手を添えたのかもしれません。
現在では右手で幣を膝に立てカマエます。
<但 五段ノ時は扇イラズ>これは現在では小書になっている「五段神楽」のことで、明治時代までは小書の扱いではなく替えの演出だったようです。(下記参照)
「五段神楽」では「神楽」が総(惣)神楽になり(呂中干に戻る<直り>がない)、幣のままで舞い終ります。
28 <直リノ時ハ扇サス>は普通の神楽の場合で、途中で幣から扇に戻ることを示しています。
この部分は話が先行しており、まだ神楽の前の型があります。
「謹上再拝」で幣を両手に持ち左右に振り、頂きます。囃子はノットになります。
29 <キビス ヲトス>は踵を立たせずに下居することだと思いますが、実際の演能でも「抑當山ハ」で、きちんと下居したのを見たことがあります。
<ヘイヒザツキ>は幣を右膝に立たせた下居カマエのことでせう。
次の件が少しやっかいです。現在では先に立ってから幣を頂く場合が多いようです。ただ「能の型」にも幣を頂いから立つとあるので、「先に立つ」のは最近の傾向のようです。
30 <神楽 序ナシ五段>については、亭主は囃子に詳しくないので、横道萬里雄さんの著書(「能の囃子事」1990年5月音楽之友舎)からの受け売りです。
宝生流の「総神楽」は「変種を除き序なし」でカカリから四段まであります。(カカリを一段と考えるので全部で五段となります。)
幸いこの「懐秘録」には、一ソウと森田の惣神楽の唱歌が載っており、やはり四段でした。現行の<直り>のある神楽が「懐秘録」に記載されていないのは、興味深い問題だと思います。
なお喜多と金剛はもともと常の演出が総神楽だそうです。(横道「能演出の広がり(続)」「観世」)
<翻刻3>
31 神楽トメ 左右「ふしぎや」ト大左右 打込 ヒラキ 「さも阿(あ)らた
32 なる」トサシ右へ廻リ「神語り」トシテ柱先ニテ 右ヘ クリ出開キ
33 拍子 ハノマイトメ 左右打上 一拍子「證城殿」ト謡 但 直リ
34 ノ時ハ サシ右ヘ廻り様 クツロギ 扇捨 ヘイ持 正ヘクリ出テ 開キ
35 ハノマイナシ 打返 謡出ス 「十悪を」ト右ウケ正ヘ出フミトメ
36 「中のこんぜん(御前)」ト正ヘマキザシ 直ニ「薬師如来」ト角トリ左ヘ
37 廻リ「一万(萬)文殊」ト正ヘ出 ヒラキカケ 「三世の」ト右ヘ廻リ「まん
38 さんごぼう(満山護法)」ト正ヘ身ヲ入「数々の」トサシ廻 ヒラキ「津(つ)くも
39 かミ(髪)の」ト少サガリ 「御ヘイ(幣)も」ト正ヘ ヘイ二ッフリ「空に飛(ぶ)
40 鳥の」ト高クサシ 右ヘ廻リ角ヘ行 廻リコミ「かけりかけり(翔り翔り)」ト
41 右ヘノリコミ拍子二ッ「地にまた」ト左ヲ引臥 「珠数(数珠)を」ト
42 立 左ヘ廻リ「袖をふり」ト左袖ヲ見「こそくげそく(挙足下足)の」ト
43 サシ右ヘ廻リ 正ヘヒラキ「是迄(これまで)なり(れ)や」トワキヘ向 直ニ正ヘ
44 出両手アゲ ヘイ後ヘステル「こゑの内(声のうち)より」ト右ヘ廻り 正ヘ
45 ヒラキ 右ウケ トメ拍子
<解説3>
31、32、33 <打込 ヒラキ>の後が現行と違います。この差は何故生まれたのか。この「懐秘録」では<破ノ舞>の演出が書かれています。
「破ノ舞」は、小書「五段神楽」の時にのみ舞われるのですが、昔は常の演出と云う認識だったようです。
手持ちの謡本を調べたところ、「寛政版謡本系」にはすべて「ハノ舞」と記されており、「宝生流旅之友八」(大正7年12月)までは確認出来ました。
因みに観世流ではこの部分にイロエが入るのが通常の演出です。
どうやら宝生流は近代に入り「破ノ舞」を省き、小書扱いにしたようです。
現行の型については34以降に書かれており、「能の型」にも詳しいのでそちらに譲り、「五段神楽」を見たときのメモをもとにこの部分を解読してみたいと思います。
「不思議や」の返しで正へ出るのは現行と変わらず。身を入れ、<サシ右ヘ廻リ>大小前に行きます。この「懐秘録」では常座<シテ柱先>と書かれています。
<右ヘ クリ出開キ>は、右向きサシて正面向きヒラク型でせう。<拍子>は現行の小書演出では六拍子です。<ハノマイトメ>破ノ舞の最後は左右打込で終わりますが、昔はひとつ足拍子を踏んだのせう。
なお横道さんの論文「能演出の広がり(続)」に、田中幾太郎さんの所演が記載されています。
34 <但>からは現行の演出です。<サシ右ヘ廻り>そのまま後座でクツロギ、扇から幣に持ち替えます。その後は大小前に行きます。
<正ヘクリ出テ 開キ>とありますが、左右打込で謡になります。
35 以降は現行の型とほぼ同じです。
39 <ヘイ二ッフリ>は現在は「マネキ出」(招き扇の型)と表記されています。
40 <高クサス>型は現行には書かれておりません。
41 仕舞では「左ヨリノリ込拍子二ツ」とあります。
44 <右ヘ廻リ>常座に行きます。
<小書「イロエ」「五段神楽」について>
宝生流の小書の変遷を知る資料としては宝生九郎「謡曲口傳」(大正8年能楽通信社)がある。ところが記載された表には「巻絹」が記されていない。この「懐秘録」(天保年間頃)の小書一覧にも「巻絹」はない。
本来宝生流の「巻絹」に小書はなかったとみるべきであろう。
今回翻刻して考えたことは、現在小書として演じられる「五段神楽」は、昔は替えの演出として特別な扱いをせず演じられていたのではないかと云うことである。
では誰が演出を整備して小書扱いにしたのだろうか。九郎知栄は前記の著書からも小書を増やすのを嫌っていたので、九郎重英以降の創作だと思われる。
この件はまだ未調査だが、寛政版系の謡本では「ハノ舞」と記載されているので、改訂は大正以降であろう。
では「イロエ」はいつ作られたのだろうか。
「能楽全書四」には下記のように記されている。
○イロエ―神楽はぬけて、代わりに特殊のイロエが入り、型も替る。
○五段神楽―神楽の直りがなくなり総神楽になり、「恐ろしけれ」の後に破之舞が入る。
(現行の謡本もほぼ同じ内容)
亭主は「イロエ」を見ていないのだが、幸い横道さんの論文(前記)に、三川泉さん所演の詳細な記録がある。
本来は他流の小書を含めて考察すべきなのだが、全流儀を見ていない亭主には荷が重い。そこで意図的なものを考えてみる。
この曲の舞は「神の憑依による巫女の狂乱」であろう。だから神楽の後に「神子物狂い」とか「神語りするこそ恐ろしけれ」と狂乱の詞章を入れ、破ノ舞において神憑の狂いを見せたのであろう。
そのような狂乱の演技を残すための工夫として「巻絹」の小書は作られたのではなかろうか。
と云うのは現在の宝生流の演じ方では、その本意を現すには、あまりに穏やかで品格がありすぎる。弊を後ろに投げると云う型ですら、開放感も、絶頂感も薄い。
これは九郎知栄の考えた流是だから致し方ないにしても、そこに本来の残滓と、流是に対するアンチテーゼが望まれていたのであろう。
とは云え、小書の意図が現在も伝えられているかどうかは不明。亭主の見た「五段神楽」はとても穏やかなものではあった。
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