絹川豊がどのような狂言師であったか、実は良く判っていない。かつてそのような狂言師がいた、と云う記述を見かけることはあるが、当初は生没年すら判らない始末だった。
現在も地方の能楽師についての記述はことのほか少ない。例えば国立能楽堂のパンフレットに、金沢の宝生流能楽師・山田太佐久と和泉流狂言師・初世・野村祐丞(いずれも故人)の対談が載っているが(注1)、「絹川豊」の名は他の金沢の狂言師ともども、名前だけ上げて生没年未詳となっている。
今回伝書を入手した縁もあり、絹川豊とはどんな狂言師だったのか調べてみることにした。亭主は金沢に住んでいることでもあり、地の利を生かして調べられるかと思ったが、調査はことのほか難航している。とりあえず手元にある資料で、その軌跡をスケッチしてみようと思う。
先ずは資料を駆使して書かれた労作、「金沢能楽会百年の歩み 上・下」(注2)の記述から。上巻には詳しい演能記録が載っているので、巻末の出演記録は主にこの本からの抜粋である。ただし狂言もシテの名前だけ記されている場合が多く、実際はアドや、能のアイ狂言も演じたであろうから、記載したよりははるかに活躍したのではないかと思われる。
上演記録によると明治34年から大正2年まで舞台に立っていたようだ。
「釣狐」や「武悪」「木六駄」は演じているが、「花子」が見当たらない。今回の伝書には「花子」の型附もあるし、狂言師ならば当然演じる気持ちはあったのだろうが、今の段階では上演記録は見当たらない。その事から絹川豊という狂言師のポジションがおぼろげながら推察できる。
演能の記録は判ったのだが、同書(下)の「回顧と展望」では、至って簡単な記述しか見い出しえなかった。それは金沢能楽会が設立された後、次の世代が台頭してきたという文脈のなかで、絹川豊の名前が出てくるのみである。少し長いが引用しよう(注2)。
「狂言方では草創期以来、白山捨吉と金浦彦太郎(扇丈)の活躍が長く、白山は昭和十二年、金浦に至っては同二十八年まで舞台に立った。ついで長いのは明治から大正までの土田他吉郎と吉田次三郎、明治いっぱいで終えたのが絹川豊と角谷雄次郎、大正は角谷勝淳が引き継いだ。「吉之助芸談(二)」には土田が大蔵流である以外は、中村藤造を初め、白山・藤江(又喜)・絹川・角谷・野村(万斎)(注3)ら、「和泉流が圧倒的」で、「その為か他流から後には和泉流へ代つた人もいた」としている。昭和に入ると木本捨次郎・殿村与作・福富岩勝・相森幹太郎・沢村直喜らが白山・金浦を支えるようになる。」
確かに「百年の歩み」の演能記録によると、大正2年5月春季別会の「船弁慶 重キ前後ノ習(替)」のアイと(注4)、「靱猿」の猿引に絹川豊の名前があるが、それ以降まったく名前が見られない。
「百年の歩み」の番組だけ見ると、絹川豊の狂言師としての人生はこの大正2年で終わったかのようにみられる。だが、そうでないと思える資料が今回の文書のなかにあるのだ。
そのひとつは昭和五年三月九日の日付の入った番組で「故藤江師追悼會能楽番組」とある。昭和3年に亡くなった藤江又喜の追善の催しで、場所は「於蛤坂妙慶寺」。絹川豊は「瓢の神」の瓢に名前が記載されている。
藤江又喜については、今回の伝書から絹川豊の直接の師匠とみて間違いないと思われるので、師の追善のために、特別に出演したものであろう。
その二番目が「御田」である。この資料は、洋紙に「御田」の詞章と、その節が詳しく書かれた書き抜きで、表紙の裏に新聞記事が貼り付けてある。そこには「金澤からの狂言」として、マイクの前に座る三人の写真が載っている。また最後のページには万年筆で次のように書かれている。
「昭和七年六月五日(日曜)午後一時五壱拾分より 金澤放送局より放送す 全國中継 シテ絹川豊 立衆吉田治三郎 同金浦彦三郎 所要時間拾八分三十秒」
つまり絹川豊は、昭和七年にはラジオに出演しているのである。
最後の資料は「(能楽堂建設)十周年記念能楽番組」(昭和16年4月13日、27日、5月4日の三日間)で、残念ながら出演者の中に絹川豊の名前は見い出せないが、招待券(第三日)が残されており、能楽に招待される立場ではあったことが判る。更にそこには、絹川宛の葉書「能狂言鑑賞会」(昭和16年11月24日)の案内 (注5)も挟まっており、このことからも金沢の能楽関係者との繋がりは続いていたと思われる。
つまり何らかの事情で舞台を退いたのだが、師の追善の舞台は、無理を押して出演したのであろうし、昭和十六年の段階では、舞台は無理でも、ラジオ出演は出来ており、金沢能楽会との付き合いもあったと云うことである。
では何故大正2年以降舞台を退いたのだろうか。
半身の病気
その答えは以外に簡単に見つけることが出来た。二つ文献に出ていたのだ。その一つは
加賀藩末期の狂言方について書かれたもので、加賀藩最後の鷺流狂言師・大庭幸九郎について述べた最後に出てくる。(注6)
「〜この人の長男は大場幸九郎といって同じく鷺流を演じ、(中略)明治三十五年十一月上京して鷺流を演じていたが、不幸病気のため双脚を切断して、失意のうちに歿したらしく、演能者として双脚を失うという事は致命的である。しかしない例ではない。(中略)近く金沢の狂言師絹川豊がある。」
もう一つは石川県立能楽堂に保管されていた私家版「狂言一代」。(注7)
作者は殿村長と云う人で、金沢の狂言師・殿村與作(1895〜1978)のご子息である。つまり父の思い出を綴った本である。
この殿村與作については「〜歩み」にプロフィールが載っており、師匠の欄には絹川豊の名前が記されている。つまり絹川豊の弟子にあたる。そこで絹川豊師に関する部分を中心に少し長いが引用してみよう。
「十七歳のとき、絹川豊師に入門し、狂言界への第一歩を踏み出した。絹川師は当時金沢の狂言界の第一人者であった。」
「大正八年、絹川師が病気となり、白山捨吉師について修業。(中略)昭和九年に三番叟の面箱を、十二年には狂言師の目標である。「三番叟」を習う。それより先きの十年に病気全快の絹川豊師の許へ帰っている。昭和十三年には待望の「翁の三番叟」を金沢の能楽堂で演じた。十五年には「釣狐」を習ったが、都合により上演されなかった。」
「父の師であった「絹川豊先生」と「白山捨吉先生」は、ともに里見町辺に住んでおられた。市役所裏を北陸学院に沿って回り、用水の橋のたもとに白山先生、そこから小路を幾つか隔てて絹川先生のお宅があった。そして竪町の通りへ出たところに「金浦扇丈先生」のお宅があった。
父はこの金浦先生ともよく共演していた。なお「能村祐丞さん」とは、長い間の共演、おつき合いもしていた。父は八十才で引退するとき、能村さんにすべてを託したようであった。」
この僅かな記述から、絹川豊と云う狂言師のおぼろげな像が浮かんで来る。脚の病気によって舞台を断念しなければならなかったが、ラジオ出演や後進の指導は行っていた、いわば金沢の狂言界での師匠的立場の人。
今回の伝書類からも、藤江又喜師から口伝を伝授された人物として、金沢では一目置かれていたのではないかと思われる。
「釣狐」については自ら演じており、しかも詳しい「釣狐」の型附も今回見つかっているから、殿村師に教えることは出来たのであろう。ただ何らかの都合で「釣狐」は上演出来なかったようだ。
先に触れたが、絹川豊師の直接の師匠は藤江又喜師である。藤江又喜師と絹川豊師の師弟関係については稿をあたらめたいと思っている。ただ上記「釣狐」が上演出来なかったことについては次のような推測も可能ではないだろうか。
絹川師の後ろ盾であった藤江又喜師は昭和3年に亡くなっている。もともと和泉流は内紛の多い流儀だと言われおり、現役を引退した地方の狂言師である絹川師が指導しただけでは、大曲「釣狐」を披くには障害があったのかもしれない。
没年について
文献を調べた段階では、生没年が判っていなかった。
もうこうなったら、当時の新聞のおくやみ欄を探し出し、せめて没年を知りたいと金沢市立玉川図書館に行くことにした。
今回の伝書類の中では、前記「能狂言鑑賞会」の葉書が昭和16年11月には届いているから、この時期まではご存命だったと思われる。
そして物故が確実な資料も発見した。金沢能学会の出している会報(昭和28年12月)で、「金沢能学会創立の功労者」の狂言方のなかに絹川師の名前がある。
つまり、昭和16年11月から昭和28年12月の間で、新聞のおくやみ欄を調べれば書かれている可能性はある。ずいぶん長い期間ではあるのだが。
しかし実際調べ出すと嘆息が漏れる。戦中の新聞はところどころ欠損も多く、しかも「おくやみ欄」は一週間に1回程の頻度でしか登場しない。
ただ、当時のセミプロの地方狂言師は、裕福な素封家の場合が多く、絹川師も残された文書類から地位のあった人のように思われる。記事になっていると信じなければ、マイクロフィルムを見る目もしょぼついてしまう。
で、収穫もなく疲労するばかりの時、ふと書棚の中に、ある本が目についた。「たかなき」。金沢の能楽師・先代渡辺荀之助師(1901〜1980)の著書だ(注8)。恥ずかしい話だが、一度簡単に目を通したことのある本だが、虫の知らせか、読みこぼした部分に貴重な記述があった。きっと泉下の絹川師が、愚生の愚挙を見かねて、教えてくれたものかもしれない。
「当地狂言界の大御所として令名高かりし絹川豊氏舞台生活隠遁二十数年の間も友人金浦扇丈氏や門弟殿村与作氏等を引き立てて蔭ながら当地斯道に御尽力されていたが先頃宿病の為に黄泉の旅にのぼられた。筆者幼時から識る当地狂言界には前記絹川氏を筆頭に白山、土田、角谷、金浦、吉田の錚々たる面々が揃っていて殊更楽しく其舞台を待望していた子供心は今も忘れられない。
殊に絹川氏の魅力のある独特の笑顔で千鳥のチリヤチリチリチリヤチリチリは今も目の前にちらついているかのようである。同氏が大曲釣狐を披かれた時は筆者が子供としての能狂言の見納め頃だったと記憶している。
相役をしていた白山捨吉氏の白ぶくれのした大きな顔は今の福富氏によく似ていると思う。角谷氏先ず逝き、白山氏も晩年迄舞台を勤めて物故され、土田氏又永く満州の狂言界を牛耳っていたが昨年他界されたと聞く、早くから狂言界を退いた吉田氏の外は今だ一人金浦老あるのみ転た寂寞の情禁じ得ぬ次第乍ら、絹川氏の遺弟殿村氏や福富、沢村及び松任御連中を引具して老て益々元気一杯の金浦氏の健在を心から悦ぶのである。
(後略)(昭一八、六)」
追悼の記事であり、ありがたいことに「昭和18年6月」の日付が入っている。これで絞り込みが可能になった。昭和18年頃は新聞の欠損も比較的少ない。と云うことでようやく見つけた新聞記事を下記に記す。見つかってよかった。
北國毎日新聞 昭和十八年五月二十九日(土曜日)
「絹川豊氏 狂言界の(権?)威であった金澤市里見町一番地絹川豊氏は病気療養中であったが二十七日午後九時永眠、享年六十六、告別式は二十九日午後三時より四時まで自宅で執行」
そうすると絹川豊(1977?〜1943)と云うことになる。
何とかやっとたどりついたと云う感慨があった。今回ホームページを立ち上げたが、何か新しい情報があれば、教えて頂きたいと思っております。
それから今回の伝書が、何故弟子であった殿村師に伝わらず、絹川宅に死蔵されてしまったのか、と云う問題が残っている。
伝わらなかったからこそ、こうやって公開出来たことは確かなのだが。やはり亡くなった時の状況が判らないので推測するしかない。
本来、秘伝の伝授は一代限りで、伝書類も死亡時には家元に返納する、と云う話は聞いたことがある。ところで絹川師の亡くなった戦中の能楽界と云えば、天皇制を中心とするイデオロギーから、家元制が再興した保守化の時期でもある。大蔵宗家の再興が昭和16年。和泉流では昭和18年に山脇保之(和泉元秀)が当時六歳で家元になっている。もともと内紛の多かった和泉流でも、家元による統制を進めようと云う時期だったのだろう。そんな時期に、おおっぴらに伝書を弟子筋に継がせるのは憚られたのかもしれない。
とりあえず現段階では、戦中のどさくさにより、これらの伝書類は絹川家にそのまま秘蔵されたとしておく。
因みに、前出「狂言一代」に1974年文化の日の北國新聞の記事がコピーされていた。それによると弟子の殿村與作師は、絹川師の亡くなった翌年である昭和十九年に能楽協会(注9)に入会している。
師を亡くしたことによって、49歳ながら一人前として認められたと云うことだろうか。
最後に、絹川師が亡くなった頃の、金沢の狂言界がどのような様子であったかを伝える随筆を見つけたので引用しておく(注10)。作者は書誌学の権威である川瀬一馬氏。初版は昭和22年に出版されている。
「中央に同じ流儀の立派な本格芸が行われているのに、金沢では、もう既にあんなにひどく崩れた姿で演ぜられているのである。極端に評すれば、能の狂言ではなくなっている。」
川瀬さんの見解を鵜呑みにする気はないが、狂言も笑いが重要な要素なので、時として観客におもねり下卑た笑いに陥る傾向はあるだろう。地方ではどうしても自主管理が行き届かず、芸が荒れてしまうことは考えられる。
なお昭和29年から野村萬さんが金沢の狂言を指導しており、北陸の狂言師は皆萬狂言所属になっている。(注11)
注1「西哲生の[聞書]近代能楽私史 巻之十六」(国立能楽堂146平成7年10月)
注2「金沢能楽会 百年の歩み 上 番組集成」(平成12年3月)
「金沢能楽会 百年の歩み 下 回顧と展望」執筆は西村聡氏(平成12年3月)
注3初代・野村萬斎(1862〜1938)
注4この「船弁慶」は、シテが観世流の大江又三郎で、招待で演じたものだろうか。なお判官は宝生流の佐野巌。昔は異流共演もかなりゆるかったようだ。
注5 葉書には東京から山本東次郎氏一門を招聘とある。大蔵流の狂言上演だから案内が届いたのだろう。
注6「加賀藩末期の狂言方」殿田良作『謳舞往来』昭和38年8月号
注7「狂言一代・金沢の片隅(刑務所下)」殿村長 平成元年
注8「たかなき」渡辺荀之助 P103 昭和57年3月 荀宝会
注9 現在の(社)能楽協会は昭和20年設立。三宅襄氏の関わった能楽師協会のことだろうか。もともとあった能楽協会は「昭和になってからは漸次形骸し、昭和13年には以前続いていた能楽会と合併する形で消滅している。」
「岩波講座 能・狂言T能楽の歴史」1997年3月
注10 川瀬一馬「随筆 柚の木」1989年7月 中公文庫
注11 野村万蔵(現・萬)「狂言 伝承の技と心」 1995年7月 平凡社
なお「〜歩み」では「佐野安彦の要請で昭和32年から金沢へ稽古に来ている」とある。
余白に
@出演記録を作っていたら、こんな記事にでくわした。
「明治41年10・6[北国]観能雑感 金沢能楽会の例会能は新聞で発表する如く午前九時と定めてあるが、何時(いつ)しても十一時頃でないと始まらぬ。国粋たる乱舞には是非時間の励行を望むし、間に狂言のある以上は途切れて二十分も観能者を退屈せしむる訳が無い筈だ。此間[九月二十七日]の能では狂言方まで臨時病気で欠勤した。又脇方がゴタゴタをやつて其がために夜になる。予定番組が出来なくなると云ふ次第[中略]」
明治の能楽(四)国立能楽堂 平成9年
つまり記事として番組は残っているが、実際に演能が行われない場合もあったと云うことである。のどかと云ってしまえばそれまでだが、明治時代の地方都市では、さもありなんと言ったところか。
A「〜歩み」の古い番組は実にシンプルで、能の場合でも、曲名、シテ、ワキ、囃子しか記載されていない。
シテツレや子方、ワキツレ、アイ、後見、地謡の名前も知りたくはあるのだが、それは過分なる要望で、番組が残っているだけでも感謝すべきことかもしれない。だから、絹川師のアイについては、まったく不明なのだが、今回の伝書のなかには、少なからず間の六儀(台本)が残されているし、アイ語は重要な役だから、アイとして活躍したことは間違いないだろう。そんななかでアイとして名前の残っている番組がある。大正元年の「三井寺」と大正2年の「船弁慶」である。
「三井寺」のアイは恐らく三井寺の能力で、ワキとのやりとりがあったり、小舞があるからなかなか大変な役である。
ここからも恐らく舞と謡が良く出来た人ではないかと推察出来る。問題は「船弁慶」の方だ。実はこの「船弁慶」の記載の仕方が変わっている。本来ならば能の曲名のしかるべき位置に書かれるところが、何故か狂言の番組の最後に「船弁慶間 絹川豊」と書かれているのだ。この特殊性から和泉流の習である「船唄」の小書で演じられたのではないかと思うのだがどうだろう。
絹川豊・出演記録
(下記の資料に基づき作成しました)
○「金沢能楽会 百年の歩み 上 番組集成」(平成12年3月)
○倉田喜弘編著「明治の能楽(三)」国立能楽堂 平成8年
○倉田喜弘編著「明治の能楽(四)」国立能楽堂 平成9年
明治34年6月9日 | 金沢定例第三回能楽組 | 「宝の槌」絹川豊 |
明治34年7月21日 | 金沢定例第四回袴能組 | 「鈍言草」絹川豊 |
明治34年8月21日 | 金沢定例第五回袴能組 | 「文荷」 絹川豊 西村孝作 |
明治34年12月1日 | 金沢定例第八回能楽組 | 「宗論」 絹川豊 |
明治35年2月9日 | 金沢定例第十一回袴能組 | 「□聟」(鶏聟か)絹川豊 |
明治35年4月13日 | 金沢定例第十三回袴能組 | 「磁石」 絹川豊 |
明治35年6月15日 | 金沢定例第十五回能楽組 | 「丼礑」(どぶかっちり)絹川豊 |
明治35年7月4日 | 尾山神社昇格慶賀祭 | 「岩橋」 絹川豊 |
明治35年8月24日 | 金沢定例第十七回袴能組 | 「謀生種」絹川豊 |
明治35年10月19日 | 金沢定例第十九回能楽組 | 「樋ノ酒」絹川豊 |
明治36年1月18日 | 金沢定例第二十二回袴能組 | 「歌争」 絹川豊 |
明治36年3月15日 | 金沢定例第二十四回能楽組 | 「素袍落」絹川豊 |
明治36年5月17日 | 金沢定例第二十六回能楽組 | 「棒しはり」絹川豊 |
明治36年7月19日 | 金沢定例第二十八回能楽組 | 「文相撲」絹川豊 |
明治36年10月25日 | 金沢定例第三十回袴能組 | 「朝比奈」絹川豊 |
明治36年12月13日 | 金沢定例第三十二回袴能組 | 「昆布売」絹川豊 |
明治37年2月14日 | 金沢定例第三十四回袴能組 | 「若和布」絹川豊 |
明治37年5月8日 | 金沢定例第三十四回能楽組 | 「千鳥」 絹川豊 |
明治37年8月7日 | 金沢定例第三十六回袴能組 | 「佐渡狐」絹川豊 |
明治37年11月13日 | 金沢定例第三十九回能楽組 | 「八島間 奈須」絹川豊 |
明治37年12月21日 | 金沢定例第四十回袴能組 | 「福の神」絹川豊 |
明治38年1月15日 | 金沢定例第四十一回能楽組 | 「餅酒」絹川豊 吉田次三郎 |
明治38年3月12日 | 金沢定例第四十三回能楽組 | 「ぬけから」 絹川豊 |
明治38年5月28日 | 金沢定例第四十五回能楽組 | 「成り上がり」絹川豊 |
明治38年6月18日 | 金沢定例第四十六回能楽組 | 「縄ない」絹川豊 |
明治38年7月23日 | 金沢定例第四十七回袴能組 | 「宗論」 絹川豊 |
明治38年9月24日 | 金沢定例第四十九回能楽組 | 「狐塚」 絹川豊 |
明治38年10月15日 | 金沢定例第五十回能楽組 | 「栗焼」 絹川豊 |
明治38年11月26日 | 金沢定例第五十一回能楽組 | 「文荷」 絹川豊 |
明治38年12月10日 | 金沢定例第五十二回袴能組 | 「謀生種」絹川豊 |
明治39年1月14日 | 金沢定例第五十三回能楽組 | 「釣針」 絹川豊 |
明治39年3月18日 | 金沢定例第五十五回能楽組 | 「内沙汰」絹川豊 |
明治39年4月22日 | 金沢定例第五十六回能楽組 | 「花争」 絹川豊 |
明治39年6月10日 | 金沢定例第五十八回能楽組 | 「丼礑」 絹川豊 |
明治39年7月22日 | 金沢定例第五十九回能楽組 | 「苞山伏」絹川豊 |
明治39年9月16日 | 金沢定例第六十一回能楽組 | 「二人大名」絹川豊 |
明治39年10月14日 | 金沢定例第六十二回能楽組 | 「素袍落」絹川豊 |
明治39年12月16日 | 金沢定例第六十四回能楽組 | 「千切木」絹川豊 |
明治40年2月17日 | 金沢定例第六十六回能楽組 | 「二人大名」絹川豊 |
明治40年3月17日 | 金沢定例第六十七回能楽組 | 「宗八」 絹川豊 |
明治40年4月22日 | 故横山男爵追善会 | 「花折」 絹川豊 |
明治40年6月9日 | 金沢定例第七十回能楽組 | 「膏薬煉り」絹川豊 |
明治40年6月15日 | 招魂祭 | 「隠狸」 絹川豊 |
明治40年7月28日 | 金沢定例第七十一回袴能組 | 「呂蓮」 絹川豊 |
明治40年8月18日 | 金沢定例第七十二回袴能組 | 「空腕」 絹川豊 |
明治40年9月11日 | 安江神社 | 「二九十八」絹川豊 土田 |
明治40年9月15日 | 小松多太神社秋季祭 小松能楽会 | 「皮(簸)屑」絹川豊 |
明治40年9月22日 | 金沢定例第七十三回能楽組 | 「千鳥」 絹川豊 |
明治40年11月24日 | 金沢定例第七十五回能楽組 | 「連雀」絹川豊 |
明治40年12月15日 | 金沢定例第七十六回能楽組 | 「胼利」(あかがり)絹川豊 |
明治41年1月19日 | 金沢定例第七十七回能楽組 | 「岩橋」 絹川豊 |
明治41年2月23日 | 金沢定例第七十八回能楽組 | 「蝸牛」 絹川豊 |
明治41年3月22日 | 金沢定例第七十九回能楽組 | 「不見不聞」絹川豊 |
明治41年4月12日 | 高岡市能楽大会 | 「二人大名」絹川豊 |
明治41年4月19日 | 金沢定例第八十回能楽組 | 「粟田口」絹川豊 |
明治41年5月24日 | 金沢定例第八十一回能楽組 | 「縄ない」絹川豊 |
明治41年6月21日 | 金沢定例第八十二回能楽組 | 「いろは」絹川豊 |
明治41年7月26日 | 金沢定例第八十三回袴能組 | 「富士松」絹川豊 |
明治41年8月30日 | 金沢定例第八十四回袴能組 | 「隠狸」 絹川豊 |
明治41年9月14日 | 安江神社能楽舞台保存会 | 「八幡前」?絹川豊 |
明治42年2月21日 | 金沢定例第九十回能楽組 | 「鶏聟」 絹川豊 |
明治42年4月14日 | 安江神社能楽舞台保存会 | 「棒しばり」絹川豊 土田 |
明治42年4月26日 | 尾山神社奉納神事能 | 「鈍太郎」絹川豊 |
明治42年5月9 日 | 小竹翁還暦能 | 「業平餅」絹川豊 |
明治42年5月16日 | 金沢定例第九十三回能楽組 | 「清水」 絹川豊 |
明治42年6月20日 | 金沢定例第九十四回能楽組 | 「蟹山伏」絹川豊 |
明治42年7月25日 | 金沢定例第九十五回袴能組 | 「茶壷」 絹川豊 |
明治42年9月12日 | 金沢定例第九十七回能楽組 | 「鳴子」 絹川豊 |
明治42年10月17日 | 中島勇吉祝能 | 「釣針」 絹川豊 |
明治43年1月29日 | 金沢定例第百回能楽組 | 「素袍落」絹川豊 |
明治43年1月30日 | 金沢定例第百一回能楽組 | 「靱猿」 絹川豊 |
明治43年3月20日 | 能舞台建築十周年祝賀能楽組 | 「嵐山」間・絹川豊 |
同 | 同 | 「若菜」白山捨吉 立衆頭・絹川豊 |
同 | 同 | 「釣狐」絹川豊 白山捨吉 |
明治43年3月21日 | 同 二日目 | 「木六駄」絹川豊 紙谷 土田 吉田 |
同 | 同 二日目 | 「武悪」白山捨吉 絹川豊 土田 |
明治43年3月27日 | 金沢定例第百三回能楽組 | 「伯母ヶ酒」絹川豊 |
明治43年4月17日 | 金沢定例第百四回能楽組 | 「無布施経」絹川豊 |
明治43年6月26日 | 金沢定例第百六回能楽組 | 「瓜盗人」絹川豊 |
明治43年7月31日 | 金沢定例第百七回袴能組 | 「鐘の音」 絹川豊 |
明治43年8月21日 | 金沢定例第百八回能楽組 | 「茶子味梅」絹川豊 |
明治43年10月16日 | 金沢定例第百十回能楽組 | 「縄ない」絹川豊 |
明治43年12月18日 | 金沢定例第百十二回能楽組 | 「悪太郎」絹川豊 |
明治44年1月29日 | 金沢定例第百十三回能楽組 | 「節分」 絹川豊 |
明治44年2月19日 | 金沢定例第百十四回能楽組 | 「弦師」 絹川豊 |
明治44年3月26日 | 金沢定例第百十五回能楽組 | 「隠狸」 絹川豊 |
明治44年3月28日 | 高岡市北声会五周年記念 | 「かくし狸」 絹川豊 |
明治44年4月2日 | 高岡巴座舞台開 | 「素袍落」 絹川豊 |
明治44年5月28日 | 金沢定例第百十七回能楽組 | 「素袍落」絹川豊 |
明治44年6月18日 | 金沢定例第百十八回能楽組 | 「丼礑」 絹川豊 |
明治44年7月23日 | 金沢定例第百十九回袴能組 | 「芥川」 絹川豊 |
明治44年7月30日 | 故野村蘭作追善能楽組 | 「宗論」 絹川豊 |
明治44年9月17日 | 金沢定例第百二十一回袴能組 | 「胸突」 絹川豊 |
明治44年10月17日 | 金沢定例第百二十二回能楽組 | 「柿山伏」絹川豊 |
明治44年11月19日 | 金沢定例第百二十三回能楽組 | 「水汲」 絹川豊 |
明治45年1月28日 | 金沢定例第百二十五回能楽組 | 「素袍落」絹川豊 |
明治45年3月12日 | 観世新三郎襲名祝賀 | 「木六駄」絹川豊 |
明治45年3月21日 | 能楽時報一周年祝賀 | 「伯母ヶ酒」絹川豊 |
明治45年3月24日 | 金沢定例第百二十七回能楽組 | 「内沙汰」絹川豊 |
明治45年5月12日 | 金沢能楽会春季別会 | 「布施無経」(無布施経) 絹川豊 |
明治45年6月16日 | 金沢定例第百三十回能楽組 | 「名取川」絹川豊 |
大正元年10月27日 | 時報愛読者招待演能会第二回能楽組 | 「三井寺」間・絹川豊 白山 |
大正元年11月17日 | 金沢定例第百三十一回能楽組 | 「隠狸」 絹川豊 |
大正2年1月19日 | 金沢定例第百三十三回能楽組 | 「懐中聟」絹川豊 |
大正2年3月16日 | 金沢定例第百三十五回能楽組 | 「和布」絹川豊 |
大正2年5月4日 | 春季別会能楽組 | 「船弁慶間」絹川豊 |
大正2年5月25日 | 金沢定例第百三十七回能楽組 | 「鐘ノ音」絹川豊 |
大正2年6月22日 | 金沢定例第百三十八回能楽組 | 「蟹山伏」絹川豊 |
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