「鉄輪」翻刻と解説

(平成27年12月)
<翻刻1>
1  笠カブリ 次第ニテ出 ブタイヘ入 大小前へ向謡 地取ニ正ヘ
2  「市原野へ(辺)の」ト右ウケ出 左ヘトリ 大小前ヘツク 跡(後)笠
3  ヌキ(脱ぎ)左ニ持 正へ「わらハが事にて」ト狂言へ 跡正ヘ 狂言
4  座ニ付テ「是ハふしきの(これは不思議の)」ト謡「いふよりはや(早)く」トユルメ 返ニ
5  右ウケヒラキ 正ヘ出ヒラキ「緑の髪ハ」と髪サス「立や
6  黒雲の」ト 扇笠右ニ一ツ持 角トリ 笠返手ニテ カザ
7  シ正ミル「思ふ中をバ」と笠サゲ 左へ小ク廻リ「人に思ひ」と
8  大小前ニテ廻りカエシ 正ヘ笠ナゲ ヒラキ 中入

<解説1>
亭主は金春流と金剛流の「鉄輪」を見ておりません。「宝生」「観世」「喜多」中心の記述になります。
シテの出の前にアイ(貴船神社の神職)が常座に出て口開。「丑の刻詣する女に神託を告げよう」と云う。なおアイの詞章は「観世」(昭和58年5月)に三流の掲載がある。
シテ・アイの流儀により、アイはアイ座に控える場合と、笛座に控える場合の二通りある。
1 シテは次第囃子で常座に出て、ひとりで謡う次第の定型として斜め後ろ向きで謡う。地が地取で次第を小さく繰り返す間に正面に向く。次第の詞章は一曲の主題が込められていると云う説がある。そうすると「恋の心が日を追うことに増している⇒恨みも増している」と云うことだろうか。なおサシ謡に所作はなく、夫を恨む心情の吐露を謡の力で表現すると云う難しい謡である。
2 下哥、上哥は貴船神社に向かう「道行」で定型(斜めに少し出て戻る)を示しているが、現在はここで型をするようだ。「月遅き夜の」笠に手をかけ月を見る型。「鞍馬川」で下の川を見る場合もある。なお観世流も型附には指示がないが、(「観世」昭和58年5月)笠に手をかけ月を見る。喜多流は常の道行所作のみ。なお観世、喜多とも、一ノ松で次第を謡った場合は道行で本舞台に入る。
型附では大小前に到着となっているが、現在では常座と大小前の間あたりか。
3 笠は時間短縮のため、現在では「着きにけり」あたりでハコビながら左手に持つようだ。型附では到着してからおもむろに取るのだけれど、それも雰囲気があってよさそうに思われる。
この「着きにけり」あたりでアイは立ち上がり、ワキ座まで出てシテに向く(アイ座の場合は目付に出てシテに向く)。なお三宅襄さんの云うように、シテ宝生、アイ大藏流の場合は、アイは地前まで出て上手に向き「あれなる女に神託を申し渡そう」と言ってから、シテに向かい呼びかける(「能の鑑賞講座一」平成6年4月檜書店)。ただこれは大藏宗家系の型らしく、宝生流に限らないようだ。
喜多流では笠を取ってから着きセリフがあり「神前に参らばやと」と正中に下居する。観世流も笠を取り扇を懐に入れて床机に座るのが正式の型で、下居する場合もある。
4 アイは神託の内容(頭に鉄輪を被り火を灯し、赤き丹を塗り、赤い衣を着て、怒る心を持つ、そうすれば願いが叶う。)を告げる。 シテは「人違ひにて候べし」と言い、正へ直す。アイはシテの面色(顔の気色)が変わったと云い、現在では「恐ろしや」とシテの後ろを通り幕入りする(ワキ座に立っていた場合)。 型附では「座ニ付テ」とアイ座に一旦は控えるようだ。しかしシテは正面を向いているから、アイが坐ったかどうか判らず、 次の謡だしのタイミングはどうしたのだろう。音を立てて座ると云う方法はよく見受けられるが。
現在のアイのセリフ「恐ろしや」は、幕に入って言い切る区切りのあるセリフ術なので判りやすい。
「ユルメ」とあるが現行のサガル所作をさすようだ。
5 打切が入り、返しに右受だが、このあたりの間は演者の演技プランで若干差がある。
ヒラキと判る型はしなかったりする。正へ直して出る。次のヒラキはサガルだけの所作の場合もある。 型としてヒラク(両手を上げる)では緊張感が薄れるとの判断であろう。「鉄輪」の女は怒と恨みを体現しているので、そのような処置も頷ける。
「緑の髪は」は扇を逆手で頭をサス。
6、7、8 角へ行き、笠を被るように(カザシ)持ち。左廻りして大小前廻り返す。笠は両手に持ち上げてから下に投げ捨てる。この投げ方に演者の工夫がある。
「ヒラキ」はサガルだけの場合もある。中入は概ね早いハコビである。観世流で走り込む型を見たことがある。宝生流でも走り込む場合があるようだ。
「特に中入前で笠を捨てて、中入地で走り込むところなど変化があって面白い場面です」野口禄久「宝生流謡芸談」昭和60年9月筑摩書房
この件の他流の型。喜多流では足拍子踏み、左廻りではなく出て、サガル所作である。通常は常座に行き笠を捨てるようだが、先日見た型では一ノ松まで行ってから笠を捨てた。なお喜多流では立つ前に扇を懐に入れて、笠を扱いやすくしている。

中入後のワキの所作は以下の通り。
ワキツレが出て常座。夢見が悪いので、晴明のところで見てもらおうと、一ノ松でワキ(晴明)を呼出す。ワキはワキツレの様子を見て、女の祟りで、今日命を失うと予告する。ワキツレは祈念を頼み下宝生流は幕入りで退場。高安流は切戸退場。ワキは後見座に控える。
後見が高棚を正先に出す。この高棚の作りは各流大きな差はないようだ。上には夫を転じ変えた侍烏帽子と若い妻を転じ変えた鬘が置かれ、下には幣が置いてある。上に小さなしめ縄が貼られていて、四隅の四手だろうか、紙の色は流儀によって違うようだ。一畳台がその後ろに出される。宝生は高棚、一畳台の順で出すが、観世、喜多では台を出したあと高棚を出すようである。この後、囃子のノットになるのだが、そのきっかけは何通りか見たことがある。下宝生流では、後見座でワキがドンと膝で音を出し合図を送った場合もあった。高安流では、ワキは常座で高棚をみて大小前に行き、下居して直したら囃子がノットを打ち出した。喜多流は高棚が出た後、囃子が見計らってノットを打ち出すようだ。
この後ワキ(晴明)の祈祷となる。幣を振り「謹上再拝」と拝する。
なお宝生の謡本では「大小の神祇」はワキ謡になっているが、現在は地が謡うようだ。観世流も喜多流も「大小の神祇」は最初から地が謡うことになっている。
ワキの祈りにより天候が急変する。下宝生流のワキは、詞章に合わせて幕方向に向き居立ち、荒れた空を見る。なおこの件の下宝生の型はは習があるそうで、清田弘の著書に(「能の表現」2004年8月 草思社)詳しく書かれている。
ところで詞章に「身の毛よだっておそろしや」とあるが、ワキは何か所作をするわけではないようだ。ただ下宝生の中堅のワキ方が、顔をクモラセタ(さげる)のを見たことがある。それは正い解釈だと思う。それぐらい恐ろしい状況になっているのだから。三宅襄さんが高安の型にふれ「清明ともあろう天下の陰陽師が、恐ろしやと安座面を伏せるなど変だ。」(「能の鑑賞講座一」)と言っているが、詞章に合わせた方が劇的効果が出ると思う。「鉄輪」は品のない方が面白い。
出羽(出端)の囃子となり、下宝生は幣を高棚に戻し笛座下居。高安流は幣を持ったまま笛座に行き、幣を後見に渡し扇で控える。いずれにしろワキは以下出番がない。

<翻刻2>
9  後 出羽一段 打杖持 橋懸ニテヒラキ謡 「恋の身の」ト出
10  ヒラキ「我ハき船の」とサシ廻ヒラキ「川瀬の蛍火」ト
11  拍子一ツ「かうべに」ト頭ヲサス「ほのほの赤・・・き・鬼・」ト拍子「臥
12  たる」トブタイへ入 シテ柱先ニテ フミトメ作物ヲ見 直ニ
13  台ヘ上リ 正下居 ヒザ立 打杖ツク「捨られて」と平臥
14  「思ふ思ひの」トシヲリ「人をうらミ」と右ノ向ミル「妻を(夫を)」ト
15  作物ヲ見「有時ハ(或時ハ)」と正へ「又ハ恨(め)しく」ト コシ立 打杖逆手
16  ニツキ左手ソへカマエ「お(起)きても」ト立 右ヨリヲリ 右ヘ廻リ
17  「白雪の」トサシ廻し 見廻シ「命ハこ(今)宵ぞ」ト作物ヲ見 スス
18  ム「阿(あ)しかれと」トユルメ グワイ拍子 返ニ 右ウケ正へ出 フミトメ
19  「思ひに志づむ(沈む)」トシヲリ 左へ廻リ 大小前ニテ「鬼となる」ト
20  手ノケ (以下翻刻3へ)

<解説2>
9 後シテは出羽で登場。「出端」と表記されるが、宝生は「出羽」。太鼓が入る。型附では一段とある。横道さんの解説では「二段ノ不越出端」に分類されているようだが、亭主は囃子に詳しくないので不明。(「能の囃子事」1990年5月音楽之友社)
一ノ松でヒラキ謡出す。また「恋の身の」でシカケヒラキ。
10 「我ハ貴船の」右へサシ廻してヒラク。「川瀬の」原本の横下に黒点がある。ここで足拍子を踏むのは現在と同じ。
11 「頭に戴く」打杖を持つ右手を上げ、打杖を後ろへ倒すのが能の頭のサシ方。「ほ」の横、上と下に黒点。「赤」に黒点三つ。「き鬼」の横に黒点二つ。七拍子の指示だが、現在も七つ踏む。なお踏むと同時に右受けになるが、型の決まりなので記入されていないのだろう。
12 現在では早めに本舞台常座に入り「臥したる男の枕に寄りそひ」で高棚を見てから台に近寄り乗る。ここは晴明の術で、シテには侍烏帽子と鬘が憎むべき夫と新妻に見えている設定。演者によっては恨みをもって烏帽子を見続けながら所作をする場合もある。
13 現在の演じ方は、打杖を逆手について、「あら恨めしや」あたりでぐっとあがって、杖は前に手を添え、平臥して(観世流では「安座」と呼ぶ。「右膝をつき、足の裏を平らにかえして、左膝を倒し尻を右足の上にのせる。」「宝生流図解仕舞 総説」わんや書店)「捨てられて」と謡う。型附では「捨てられて」と言ったあとガクっと落胆の平臥となり、地謡の返し「捨てられて」になるようだ。型は同じでもタイミングの違いで解釈と心情が違ってくる。なお他流の「捨てられて」は、喜多流は脇正と正中の間で下居してシオリ(泣く型)。観世流は台の上で安座してシオリ。
14 宝生流では「思うふ思ひの涙に沈み」と詞章に合わせ、少し遅れてシオリ。次がやや不明なとろこで、現在では「人を恨み」でシオリを直す所作になる。「手津賢」では「「人を」ト右見る「つまを」ト烏帽子ヲ見」とある。つまり「人を」で新妻に転じ変えた黒髪を見て、次に「夫を」と、夫に転じ変えた烏帽子を見る型のようにも取れる。しかし、高棚はシテから向かって右に烏帽子、左に黒髪を置いていて逆である。他流を参考にすると、観世流のここは、立って台を降り常座に移動するところ。喜多流は台に上がっておらず、角から左廻りで大小前に行く型である。
15、16 「作物」は烏帽子のことだと思われる。「或時は」ここは演者により面サゲ、思いにふける場合もある。「正へ」とあるが高棚は近く、ほとんど正面向きの演技であるが、高棚を含め、昔は配置が変わっていたのだろうか。「コシ立」は「居立」ともいい膝立ち姿であろう。「打杖逆手」は「胸杖」の如く、打杖を正面で手添えて下向きにつく型。「起きても」で立ち、台の右から(演者からみて。型附はすべて演者の視点で書かれている。)降りて廻って正中と脇正の間へ行くのは現在も同じ。このあとも型附の如く「白雪の」でサシ廻しで見廻し右へ出る。その後直ぐに「命は今宵ぞ」と夫と新妻を転じた作物を見るが、現在では「面をキル」と云う面をサット早く向ける型で見ている。
17 ススムとあるが今は「詰め」(一足出て両足揃える)のようだ。ここは「痛ハしや」と、これから命をとるのに同情している部分なので、昔は「ススム」と多く出たのかもしれない。ここで打上となり太鼓の演奏が終了する。
18 「あしかれと」では正面向いてサガルことを「ユルメ」と表現したのだろう。なおここからは現在の仕舞附があるので参考にします。(「宝生流囃子仕舞全集第二巻」わんや書店・以下「仕舞附」)「グアイ拍子」は現在も使う用語で、二つ拍子の特殊なもの。打切の時に限るそうだ(「宝生流図解仕舞 総説」わんや書店)。型附には踏む場所の指定はないが、現在は「峯」あたりでグアイ拍子。繰り返しの詞章「思ハぬ山の峯にだに」で右向き出てから正面に出て、台の角あたりに行く。型附では「正ヘ出 フミトメ」となっている。
19 「思ひに沈む」はシオリの指定で、現在もシオリながら左廻りで大小前に行く。
20 「鬼となるも」で手を直す。現在の「仕舞附」では「手サゲ」になっている。

<翻刻3>
20  手ノケ ハル心持「いでいで」と作物ミル 返ニ 六拍子「志もつと(しもと)」ト
21  打杖フリ上 台ヘ上リ「髪を手にから」ト左(手)ヘカツラ(鬘)マキ
22  「う(打)つやうつの山」ト三ツ打「夢現」ト台ノ後ロヨリヲリ シテ
23  柱ノ方ヘ行 左ヘトリ「今更さこそ」ト打杖ニテサシ「悔し
24  かるらめ」ト拍子二ツ ヒラキ「扨(偖)こりや」ト作物見ル「殊更
25  恨(め)しき」ト身ヲカヘ 作物ミル 返ニ六拍子「阿だし男を」ト作
26  物ヘ向出 右ヘ足ヌキ「臥(し)たる枕に」ト両手アゲ 台ヘ行
27  下居 打杖ニテ台ヲサヘ見ル「恐ろしや」ト立 サガリ「三十
28  番神」ト右ヨリ左ヘ見廻シ 台ノ前ヘ行「出よ出よ」と打杖ヘ
29  左手ソヘ サガリ「はら(腹)立や」ト サラリト正ヘ出 作物ヲ見
30  右へ廻リ「責を蒙る」トサシ角へ行 左ヲ引 打杖カツ
31  ギ 左テソヘ 左ヘ小廻リ「力毛(も)たよたよ」トサガリ廻リ「阿ふ(逢)
32  遍(ベ)き」トシテ柱先ニテ 打杖ヲロシ「先此度ハ」と立 作物ヲ見込
33  右ヘトリ橋懸リヘ行 正ヘヒラキ 右ウケ トメ拍子
34   但「時節を」ト打杖ナゲツケ扇ヌキ持立「先
35    此度ハ」トサシ橋懸ヘ行 右ヘ小廻リ正ヘヒラキ
36    右 ウケ トメ拍子 カヘナリ

<解説3>
20 「ハル心持」の意味は不明だが、ここから命を実際にとると云う気持ちで演じよと云うことだろうか。「いでいで」で作り物見て、「命をとらん」でいったんサガル演じ方も現在はある。この「いでいで命を」は地が繰り返すので、その返しで六拍子踏む。六拍子の時は打込が伴うので、現在の「仕舞附」では「拍子六ツノリ返シ」と表記。
「しもと振り上げ」で詞章に合わせて打杖を上げてから台に乗る。
21「髪を手にからまいて」高棚の鬘は最初から垂らしておいて、左手で取るとき鬘を手に絡まりやすく(手に巻く)しているようだ。もちろん無難に両手を使って巻く場合もある。
22 「打つやうつの山の」で鬘を打杖で打つが、ここは見せどころで、打ち方に工夫のあるところ。打ち終わったら、鬘を放す。観世流のある人が、ぽいっとぞんざいに髪を捨てたのが印象に残っている。「思い知ったか」とでも言わんばかり。鬘の扱いひとつで、どういう恨み方か判るところが面白い。
「夢現」で台の後ろから降りて常座へ行く。
23 「左へトリ」とあるが、作り物に面をキルことだろうか。ただ演者によっては作り物に向くだけの場合もある。「今更さこそ」で作り物にマキザシ。
24 「悔しかるらめ」で足拍子二つ。ここは型附にも現代の「仕舞附」にも踏む場所の指示はない。ヒラキは人によりあったりなかったり。
「偖懲りや」で作り物を見る。
25 「殊更恨めしき」で「身ヲカへ 作物ミル」とあるが、「手津賢」では正へ、現在の「仕舞附」でも正へ、となっている。推測だが、身を正の方向ではない向きにして面は作り物を見ると云うことかもしれない。次の地謡の繰り返しが六拍子であるのは「手津賢」も現代の「仕舞附」も同じ。六拍子は踏みながら右を向く。「あだし男を」で作り物に向かい出る、とあるが、出てから作り物に向かい面をキル場合もある。
26 「右へ足ヌキ」とはどのような所作だろう。近寄ったので気づかれないように「ヌキ足」をすると云うことだろうか。「臥したる」台の手前まで行き下居する。現行では両手は上げないように思われる。
27 「打杖で一畳台を押さえて作り物を見る」と云うことだろう。現行では打杖は床につく。「恐ろしや」で立ち、大小前までさがる。
28 「三十番神」で神々が出現したため、あたりを見廻す。神々が出現したが、なおも夫を殺そうと「台ノ前へ行」き杖に手を添える。
29 神々に責め立てられ大小前まで「サガリ」。現行では屈む場合もある。それでも懲りずに「腹たちや」で正へ「サラリ」と出る。「サラリ」は「さっつと」と云うことだと思われる。作り物見てから右廻り。
30 右に廻り、正中から角へ「責めを被むる」と行き廻り返す。「左ヲ引」とは左に向くと云うことか。「打杖カツギ」は「首杖」とも言い、両手上げ打杖を頭の後ろで横にする型。
31 「左テソヘ」は右手を杖にそえ。その場で廻り返す。「力もたよたよと足弱車の」正中、常座と斜めにサガリ。「廻リ」とあるがこの斜めに左右と下がる所作のことか。それとも常座で廻り返したのだろうか。
32 現行ではここで平臥し、「まづ此度ハ」とすぐ立ち(居立の場合もある)、作り物を見て出るが、かなり慌ただしい。本来はこのように「まづ此度ハ」と打杖を降ろすだけだったのかもしれない。
33 そのまま橋懸りへ行き、二ノ松で廻り。正へヒラキ。右受けで留拍子を踏む。
ある喜多流の演者が、「云う声ばかり」で直ぐ幕入して「聞こえて姿は。目に見えぬ鬼とぞなりにける」は空の舞台に地謡だけが響いた。凄惨な鬼が本当に見えなくなり、余韻が残る面白い演出だと思う。後で知ったが、その日の前の演目とつく(似る)から変えたそうだ。型を知っている者は「型破り」が出来ると云うことだろう。
34、35、36 ここからは替えの型。「時節を」で打杖を投げつけてから扇に替えるとある。打杖を悔しまぎれに投げつける、かなり過激な型だと思う。後シテの段階で扇をどこかにさしておかなければならない。因みに観世流の型は(「観世」昭和58年5月)、安座から居立で作り物を見て杖を捨てる。扇を抜いて開き立ち。角から左廻りで脇座ヘ。最後は常座で枕の扇で下居して、見えなくなったことを現し、返しで立ち留拍子。この打杖を捨てるのが味噌で、投げるように捨てると、恨みの表現になる。それにしても扇を開いてしまうと全般に品が良くなるので、宝生のように閉じたままの方が鉄輪の女らしくて良いと思うのだがどうだろう。

<小書「早鼓」(観世流)について>
宝生流には小書がない。「能楽全書 第四巻」(昭和54年10月東京創元社)には観世流の二つの小書名が載っている。「早鼓之伝」(観世流)と「中入之伝」(梅若流)だが、後者は「前項と同じ」とあるから、実際はひとつしか小書がないと云うことである。
この「早鼓之伝」は大成版では「早鼓」と表記されている。幸い見たことがあるので、メモを片手に内容を簡単に書いおく。
先ず前シテが衣を被って出て面が見えないのが特徴。恐らく隠すことで怪しい雰囲気を出そうと云う意図だろう。亭主が見たときの型は、先ず一ノ松で次第を謡い、道行でいったん右に出てから本舞台常座に入る。シテは「参詣しよう」と、少し正中方向へ出て下居。アイとの問答となる。ただこのアイのセリフが「顔の気色がかわり」だったのがいただけない。衣で面が見えないのだから、「何とやらん恐ろしい様子に」とか言い換えた方が整合性が出るだろう。「緑の髪ハ」で衣を少し上げ。打切で、さらに上げ。「立つや黒髪の」でさっと衣をとり、立ち上がり面をキル。「思ふ仲をば」手を胸にあて。「恨みの鬼と」ざっと出て、サガリ。ぱっと下と上を見て。さっと衣抱え込み後ろ向き。そのままざざっと早鼓で幕入した。
この早鼓について片山慶次郎さんは「普通、早鼓というのは、侍を主人公とした劇能なんかの時、誰かを討ちに行く」時に使われ。「囃子本来のカケ声をほとんど使わず、大小の音だけで真っ暗みたいな感じと、人に思い知らせんと燃え上がってくる気持ちの激しさを出して中入りする。非常に効果のあがる、おもしろい囃子だと思いますけど。」(「観世」昭和58年6月座談会「鉄輪」をめぐって)と言っている。なお腕を上げて衣を持っているから、「手がたまりません」とも言っている。なお三宅襄さんによると「謡を残してシテは幕に入ってしまう。」(「能の鑑賞講座一」)とあるが、亭主が見たのは二ノ松で足拍子して下居して「目に見えぬ鬼とぞ」と消えた表現。返しで立ち、留拍子はしなかった。

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