「護法(名取ノ老女)」研究・雑感

(平成28年1月13日現在)
平成28年3月25・26日に、国立能楽堂において、「復曲能 名取ノ老女」が上演されます。「名取ノ老女」は「護法」とも呼ばれ、近世では唯一宝生流だけが上演していた曲です。ただ残念なことに、明治(実際は大正)に廃曲された三十曲のなかのひとつでした。
この曲についての本格的な研究は、小林健二さん(A)があります。また田中允さんの(B)各曲解説も参考にして、若干の拙い私見を含め要約することにします。(A)(B)共に示唆に富んだ論文なので一読をお勧めします。

A小林健二「護法」考 「能―研究と評論」10 昭和56年12月
B田中允「未刊謡曲集 続十七」平成7年12月 古典文庫
C小松和彦 能のなかの異界(23)熊野−「護法」「観世」平成17年6月
D村上湛 「護法」解説「国立能楽堂」No.217 2001.9

<上演記録・書上類>
○古記録では観世流の記録が残っています。
寛正5年(1464)4月10日「糺河原勧進猿楽日記」に「名取ノ老女」音阿弥が演じました。
(村上湛さんによると寛政4年(1463年4月)だそうです。(D)そこで「群書類従」の「異本糺河原勧進申楽記」を見たところ、寛正五年甲申卯月十日とあります。村上さんのことだから何か原拠となる資料があるのでせう。)
寛正6年(1465)2月28日「親元日記」将軍院参の演能 観世「名取老女」
天文7年(1538)2月13日(3日?)「蜷川親俊記」観世大夫「ゴザウ(護法)」(A)では否定的ですが(B)では記録として記しています。
○また装束付・型附なども残っています。
「舞芸六輪次第」(「花傅隋脳記」)(注1)
「妙佐本仕舞付」(注2)
「松井家蔵五番綴謡本」には簡単な演出の書き入れがあるそうです。(A)

○江戸時代では宝生流のみが演じていたようです。
書上ではないのですが
 般若窟文庫蔵「江戸初期能番組控」(慶安4年・1651年)
「こわうの事に候ハゝ保生家之能ニて候とてうけおひ候申候」とあるそうです(A)。
○「寛文書上(1660年ころ)」(注3)
川瀬一馬さんの翻刻しか手元にないのですが、記載がややこしく、不明瞭な点があります。川瀬さんの「家蔵」だそうで、研究者の皆さんはこの翻刻を使っているのでせうか。
それによると「観世に無きもの」に「護法」が記載されています。金春、金剛、喜多にはないのですが、これだけでは宝生の所曲かどうか判りません。幸い、表章さんが表にしており(注4)寛文、天保ともに宝生の所演曲になっています。
○「享保6年書上(1721年)」(注5)
ここでも観世流の非所演曲に「護法」の名があります。金春は所演、非所演ともに名はなく。宝生流は所演曲の記載がないので不明ですが、非所演曲には名がありません。
金剛は所演、非所演ともに名はなく、喜多は「家にない曲でも申しつけられても演じましょう」という書上内容です。
「護法」は宝生のみの曲だとされていますが、いざ捜すとなかなか確証が得られませんね。
○「享保9年(1724年)四座一流曲目書上」(注6)
宝生のみ所演能名寄に「護法」を入れています。ただし急には勤められない断書があると書いてあります。
○「触流し御能組」(注7)には「護法」の記載がありません。
宝生流の所演曲ではあったようですが、公の場では上演されなかったのかもしれません。

○明治時代最後の上演
明治17年(1884年)5月11日芝能楽堂で宝生九郎知栄の上演が最後だそうです。(B)(注8)
ただ前田利■(カ)子爵が、九郎に抵抗して廃曲を演じていたようなので、素人の上演はあったのかもしれません。(注9)

<復曲>
この項はまだ未調査です。今度の江戸参勤で調べようとは思っているのですが。とりあえず手元の資料を使い書き出してみます。
1)1993年(平成5年)1月24日「第七回梅若六郎の会」(台本改訂・堂本正樹)大濠公演能楽堂 護法善神・観世栄夫
2)1993年3月12日国立能楽堂
3)1993年11月10日文化庁芸術祭能 山伏・山本東次郎 名取嫗・茂山千五郎(千作)護法善神・大槻文藏  笛・松田弘之 小鼓・飯田清一 大鼓・白坂信行 太鼓・助川治 後見・梅若六郎 地頭・山中義滋(このときの台本が(B)に載っています。また番組に堂本正樹さん、田代慶一郎さんの文章が載っているそうですが未見です(B))
4)1995年6月16日国立能楽堂定例公演「護法」名取の嫗・茂山千作 護法善神・大槻文藏 山伏・茂山千五郎 笛・松田弘之 小鼓・飯田清一 大鼓・白坂信行 太鼓・金春國和 後見・梅若六郎 地頭・角当行雄(「文化デジタルライブラリー」より)
5)2001年9月27日国立能楽堂企画公演 復曲能「護法」(能本作成・堂本正樹、演出・梅若六郎)名取の嫗・野村万作 護法善神・野村萬斎 山伏・石田幸雄 笛・藤田六郎兵衛 小鼓・飯田清一 大鼓・白坂信行 太鼓・金春國和 後見・梅若六郎 地頭・山崎正道(「国立能楽堂」No.217 2001.9)
6)2003年(平成15年)9月17日仕舞「護法」近藤乾之助(「国立能楽堂」No.241 2003.9)能は廃曲扱いですが、仕舞は伝承されていると云うことで「宝生流名寄」昭和54年5月に「仕舞謡」として載っていますし、「宝生流旅の友」昭和11年9月にも詞章が掲載されています。
7)2016年3月25・26日復曲能「名取ノ老女」国立能楽堂(予定)

<考察>
横道さんが(注10)古い能のひとつのスタイルを「護法型」と分類したので、研究用語のように扱われています(A)。「護法型」とは、前シテが中入しないで舞台に残り、別人が神霊などに扮して後シテとして出ると云う形式です。小田幸子さんが云うように(注11)、世阿弥の発案した夢幻能より古い神能の流れを引くもののようです。
小林さんの論文では、名取熊野神社蔵「熊野堂縁起」と能「護法」を詳しく比較検討しています。この「熊野堂縁起」は「構成・内容ともに「護法」と酷似している」のですが、直接の本説ではないようです。相違点を三点上げた後、元となる「原名取熊野縁起」を想定して、名取に伝承したものが「熊野堂縁起」となり、中央に流布した伝承から「護法」が作られたとしています。その伝承の担い手は、熊野と名取を結ぶ諸国をめぐる修験者・山伏であったようです。
小林論文では、他に「幣で頭を撫でる」所作と「装束」についての考察と、「護法」と「熊野参」「金剛童子ノ法者」の比較検討がなされています。
作者については田中さんが「世阿弥の疑いを残しつつ、観世座関係の人の古作らしく思われる。」(B)としています。

<余白に>
復曲について堂本さんが何か書いていないか著書を調べてみましたが、今のところ「喝食抄」(1993年11月ぺりかん社)「咳と眠気の観劇日記」の僅かな記載しか見出していません。

注1「舞芸六輪次第」(「花傅隋脳記」)「国語国文学研究史大成8謡曲 狂言」昭和36年6月 三省堂
注2「妙佐本仕舞付」西野春雄・校訂「観世流古型付集」能楽資料集成 昭和57年8月 わんや書店
注3「謡曲名作集」川瀬一馬・校注 昭和25〜26年 講談社
注4 表章「鴻山文庫本の研究」 昭和40年3月 わんや書店
注5「日本庶民文化史料集成 第三巻 能」1978年6月 三一書房
注6 古川久・永井猛校訂「能楽資料集成7 萬聞書」昭和52年3月 わんや書店
注7「触流し御能組」の演者名総覧と索引(三)「能楽研究 第33号」2009年3月 野上記念法政大学能楽研究所
注8 柳沢英樹「宝生九郎伝」昭和19年1月 わんや書店
池内信嘉「能楽盛衰記 下」大正10年5月 能楽会
注9「明治の能を語る」「宝生」昭和44年7月
注10 横道さんの説を文献から引用しようと思うと、なかなか見つからなくて困ることが度々あります。横道さんから薫陶を受けた研究者の皆さんは、直接学説を聞いていて、それが通説となっているからでせう。「護法型」と云う用語も、横道さんに違いないのですが、原拠を探しあぐねています。「護法型」は「能・狂言事典」(平凡社)にも載っているから、もはや人口に膾炙した説なのでせうが。なお小林さんは日本古典文学大系「謡曲集 上・下」岩波書店の備考を上げています。
注11 小田幸子「「生贄」と「熊野参」−その源流−」「能 研究と評論」第8号 昭和54年6月(すみません未読です。今度江戸参勤した時に捜して読みます。)

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