「護法(名取ノ老女)」翻刻と解説

(平成28年1月13日)
<初めに>
平成28年3月25・26日に、国立能楽堂において、「復曲能 名取ノ老女」が上演されます。研究雑感に書きましたが、この曲は「護法」とも呼ばれ、近世では唯一宝生流だけが上演していた曲です。ただ残念なことに、明治(実際は大正)に廃曲された三十曲のなかのひとつでした。平成になり、梅若六郎(現・玄祥)さんや堂本正樹さんによりこれまで何度か復曲上演されたようですが、亭主は残念ながら見ておりません。今回「名取ノ老女」として更に工夫を加えて上演されることは、とても喜ばしいことです。玄祥さんや文藏さんと云う、これまで復曲に実績のある能役者に加え、宝生和英さん、金剛龍謹さんと云う若い力も加わり、とても楽しみな企画です。
このような良い企画を行った国立能楽堂に感謝です。おそらくとても良い舞台になるのではないかと期待しています。ただこの「名取ノ老女」が世間に認知されるのは嬉しいのですが、廃曲となった宝生流の「護法」は、逆に忘れさられてしまうでせう。それはそれで致し方ないことだと思います。芝居は生きもので、面白いものが残って行くのは必然です。
宝生流の型附「懐秘録」にはこの「護法」の型附もあります。そこで、忘れ去られるであろうこの「護法」の型附を翻刻することにしました。かつて宝生流にそのような曲があったと云う記録を残したいという思いからです。と云っても実際の舞台を見ているわけではなし、型附だけでは不明なことも多いのですが、未来において誰かの役に立てばと思っています。

<「護法」詞章>
「護法」の詞章については活字になっているものがある。「謡曲三百五十番集」(注1)「謡曲評釈六号」(注2)「校注謡曲叢書(下)」(注3)いずれも古い本で、新しい図書館には置いていない場合が多い。
新しいものでは「未刊謡曲集 続十七」(注4)に三篇「護法 金剛流異本」「名取嫗 明和改正本」「護法 復曲本」が載っているが、この本も大きな図書館にしか置いていない。
活字化されたものがあるのだから詞章はそちらでお調べ下さい、では、ちと不親切かと思い、今回宝生流の謡本を基に全文を記すことにしました。国立能楽堂のパンフレットにも詞章が活字化されていますが、堂本さんの手によるもので、名取の嫗を狂言方が演じるため、大分変更を加えています。堂本さんは権利について厳しい方だし、国立能楽堂も著作権についてはきちんとしていることでもあり、謡本からの翻刻にしました。
使用したテキストは「宝生流旅之友 六」(注5)で、選んだ理由は、廃曲三十番が入った最後の版だと思われるからです(注6)。もっとも、若干のルビが施されている以外は寛政版と殆ど変わっておらず、逆に寛政版の字の方が判りやすかったりしました。なお、すこし読みづらいのですが、原本の特徴を生かすようにしております。

注1 「謡曲三百五十番集」野々村戒三編 昭和3年5月 日本名著全集刊行会
宝生の謡本を基にしています。若干の漏れはありますが、ひらがなを随時漢字に改めているので、読みやすさから言えばお勧めです。
注2 「謡曲評釈 六号」大和田建樹 明治41年3月 博文館
ワキの次第がなかったり若干の違いがあります。
注3 「校注謡曲叢書」(三冊)芳賀矢一・佐々木信綱校注 大正3年 博文館
この本を亭主は未読です。なお臨川書店が復刻(昭和62年)したそうです。
注4「未刊謡曲集 続十七」田中允 平成7年12月 古典文庫
  注5「宝生流旅之友 六」大正7年7月
注6 表章「鴻山文庫本の研究」昭和40年3月 わんや書店

    ワキ次第 山また山の行末や 山また山の行末や
    雲路のしるべなるらん
ワキ詞 是は本山三熊野の客僧にて候
    我此度松嶋ひらいずみへの心ざし有るにより
    御暇請の為に本宮證誠殿に通夜申て候へば
    あらたに霊夢を蒙りて候程に
    唯今陸奥名取の里へと急候
道行  雲水の行へも遠き東路に
    行へも遠き東路に
    けふ思ひ立旅衣
    袖の篠懸露むすぶ草の枕のよなよなに
    仮寝の夢をみちのくの
    名とりの里に着にけり
    名とりの里に着にけり
一セイ二人 いづくにも
    あがめバ神も屋どり木の
    御かげをたのむ
    心かな
サシ老女 是ハ陸奥に名取の老女とて
    年久しき巫にて候
    われいとけなかりし時よりも
    他生の縁もやつもりけん
二人  神に頼みをかけまくも
    かたじけなくも程遠き
    彼三熊野の御神に仕ふる心浅からず
    身はさくさめのとしまうで
    遠きも近き
    頼みかな
シテ  されども次第に年老て
    遠きあゆみもかなはねバ
    彼三熊野を勧請申し
    ここをさながらきの国の
下哥二人 むろの郡やおとなしの
    かはらぬちかひぞと たのむ心ぞ真なる
上哥  爰は名をえて陸奥の
    爰は名をえて陸奥の
      名取の川の河上を
    音無川と名付つつ
    なぎの葉もりの神ここに證誠殿とあがめつつ
    年もうで日詣に
    歩みを運ぶ處女子が
    としもふりぬる宮柱立居隙なき宮仕かな
       立居隙なき宮仕かな
ワキ  いかに是成人に尋申べき事の候
ツレ  何事にて候ぞ
ワキ  承ひたる名取の老女と申候ハ
    此御事にて御座候か
ツレ  さん候是こそ名取の老女にて御座候へ
    何の為に御尋候ぞ
ワキ  是ハ三熊野より出たる客僧にて候
    老女の御目にかかりて申度事の候
ツレ  暫御待候へ
    其由申さうずるにて候
    いかに申候
    是に三熊野より御出候山伏の御座候が
    御目に懸り度由仰られ候
シテ  荒思ひよらずや
    こなたへと申候へ
ツレ  畏て候
    客僧此方へ御出候へ
シテ  御熊野よりの客僧はいづくに御入候ぞ
ワキ  是に候
    なにとやらん率忽なる様に思召候はんずれども
    夢想のやうを申さん為に是まで参りて候
    扨も我此度松嶋ひらいづみへの志し有により
    御暇乞の為に本宮證誠殿に通夜申して候へば
    あらたに霊夢を蒙りて候
    汝奥へ下らバ言傳すべし
    陸奥名取のさとに
    なとりの老女とて年久しき巫あり
    彼者若くさかむ成し時ハ年詣せしかども
    今ハ年おい行歩(ぎやうぶ)もかなはねば参る事もなし
    ゆかしく社(こそ)想へ
    是成ものを慥(たしか)に届よとあらたに承り
    夢覚て枕をみれバ
    なぎの葉に虫喰の御哥あり
    有難く思ひ是まではるばる持て参りて候
    是々御覧候へ
シテ  有がたしとも中々に
    えぞいわしろの結び松
      つゆの命のながらへて
    かかる奇特をおがむ事有難さよ
  詞 老眼にて虫ぐひの文字さだかならず
    其にてたからかに遊ばされ候へ
ワキ  さらばよみて聞せ申候べし
    何々虫喰の御哥は
    道遠し年も漸々(やうやう)おいにけり
    おもひおこせよ我も忘れじ
シテ  何なふ道とほし
    年もやうやうおいにけり
    思ひおこせよ
    われもわすれじ
ワキ詞 実々御感涙尤にて候去ながら
    二世の願望顕れて御うらやましう社(こそ)候へ
シテ詞 仰の如くか程まで
    うけられ申神慮なれば
    崇めても猶有がたき
    二世の願や三のお山を
ワキ  うつしていはふ神ならば
シテ  ここも熊野のいはた川
ワキ  深き心のおくまでも
シテ  受られ申神慮とて
ワキ  思ひおこせよ
シテ  我も忘れじとは
同   有難や有難や
    実や末世といひながら
    神の誓ひハうたがひもなぎのはに
    見る神哥ハ有がたや
シテ  いかに客僧へ申候
    此所に三熊野を勧請申て候御参候へかし
ワキ  やがて御供申候べし
シテ  此方へ御入候へ
    御覧候へ此御山の有様
    何となく本宮に似参らせ候程に
    是をバ本宮證誠殿とあがめ申候
    またあれに野原の見えて候をば
    あすかの里新宮と申候
    又こなたに三重に滝の落候をば
    名にし負飛りう権現のおはします
    那智のお山とこそ崇め申候へ
クリ地 其観請の神所国家のおいて其数有といへども
    取分当社の御来歴
    りよじんを以てもつぱらとせり
シテサシ もとハ摩伽陀国のあるじとして
同   御代を治め国家を守り
    大悲の海ふかうして
    萬民無縁の御影をうけて
    日月の波しづかなり
シテ  しかりとは申せども
地   猶も和光の御結縁
    あまねきあめのあし引の
    やまとしまねにうつりまして
    此秋津国となし給ふ
クセ  所は紀の国や
    むろの郡の宮ゐして
    行人征馬のあゆみをハこぶ心ざし
    直なる道と成しより
    四海なみ静にて八天塵おさまれり
    中にも本宮や
    證誠殿と申ハ
    本地弥陀にてましませば
    十方界に示現して光り遍き御ちかひ
    頼むべし頼むべしや
    ほどもはるけき陸奥の
    東の国のおくよりも
    南のはてに歩みして
    終にハ西方の
    臺になどか座せざらん
シテ  大悲擁護の霞は
同   熊野山の峯に棚びき
    霊験無双の神明ハおとなし川の河風の
    声ハ万歳が峯の松の
    千とせの坂既に
    むそちに至る陸奥の
    名とりの老女かくばかり
    受られ申神慮(かみごころ)
    げに信あれば徳ありや
    有がたしありがたきつげぞめでたかりける
ワキ  いかに老女へ申候
    か程めでたき神慮にて御座候に
    臨時の幣帛を捧げて
    神慮をすずしめ御申候へ
シテ  心得申候
    いでいで臨時の幣帛をささげ
    神慮をすずしめ申さんと
ワキ  あまの羽袖や白木綿はな
シテ  神前に捧げもろ共に
    謹上再拝
    仰願くはさおしかの
    八つの御耳を振立て
    利生の翅をならべ
    苦海の空に翔りてハ(注7)
    一天泰平国土安全諸人快楽
    福寿圓満の恵みを遍くほどこし給へや
    南無三所権現護法善神
     <早笛>
シテ  ふ思議やな老女が捧るへいはくの上に
    けしたる人の虚空にかけり
    老女がかうべをなで給ふハ
    いかなる人にてましますぞ
護法  事もおろかや権現の御つかひ護法善神よ
シテ  何権現の御つかひ護法善神とや
護法  中々の事
シテ  有難や
    まのあたり成御さうがう
同   神ハきねが習をうけ
護法  人ハ神の徳をしるべとして
同   まゐりのだうには
護法  むかひごほうのせんだちとなり
地   偖又下向の道に帰れば
護法  国々までも
    おくりごほうの
同   さいなんを去つつ悪魔を払ふおくり迎ひの
    ごほう善神なり
    其我国ハ小国也と申せ共
    小国也と申せ共
    大神光りを
    指おろし給ふ
    そのほこのしただりに
    大日の文字顕れ給ひしより
    大日の本国と号して胎金両部の密教たり
護法  然るに本よりも
同   然るに本よりも
    日本第一だいりやうげんゆや三所
    権現と顕れて衆生済度の
    方便をたくハへて
    発身の門を出て
    いはた川の波をわけて
    煩悩のあかをすすげバ水のまにまに道をつけて
    あやうきかけぢの苔をはしればしたにも行やあし早船の
    波のうちがいみなれざをくだれバさし上れば引く
    つなでも三葉柏にかく神託の道ハ遠し
    年ハ古ぬる名取の老女が
    子孫に至るまで
    二世の願望三世の所望
    皆ことごとく願成就の
    神託あらたに告しらせて
    神託あらたにつげしらせて
    護法ハあがらせ給ひけり

今回、宝生の古い謡本に真面目に取り組んだら、「同」と「地」が混在していることに気が付いた。表さんや藤田さんの論文を読み直さねばと思っています(注9)。

<翻刻と解説>
今回は廃曲なので、当然ながら上演を見ておりません。翻刻を中心に若干の感想にとどめるつもりです。 なお「懐秘録」には装束が記されていないので、「手津賢」(注8)から、次に引用しておきます。また随時「手津賢」と比較してみます。
(「懐秘録」⇒「懐」、「手津賢」⇒「手」と略する場合もある)
 面 姥 髪 花帽子 箔 厚板 杖 床机
  連 ノシメ 素袍上下 少(小)刀 大扇 太刀持 又無ニモ
  善神 怪士 黒頭 鉢巻 唐冠 厚板 袷狩衣 半切 腰帯 扇白骨
   幣 竹柏葉モチナリ 脇方ヘ

注7 「謡曲三百五十番集」「謡曲評釈 六号」ともに「苦界」を「空海」と書く。胡麻が三つなのでやはり「クカイ」であろう。
注8 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編「能型附 演劇資料選書2」昭和50年11月 飛鳥書房
注9 表章「能の「同(音)」と「地(謡)」」国語と国文学 昭和60年4月号 東京大学国語国文学会
   藤田隆則「能の多人数合唱」2000年2月 ひつじ書房

<翻刻1>
1  杖ニテモ 珠数(数珠)ニテモ 太刀持ブタイへ入 立向(ニ)テモ
2  一セイ 姥 トモ橋懸ニテ向合謡「是れハ陸奥ニ」ト二人共正ヘ「神
3  に頼を」ト向合「され共次第に」ト二人共正へ「室の郡や」ト向合
4  「年もうで」トブタイヘ入 謡一パイニ中ヘ出 セウキ(床机) ツレ ワキ正面
5  ヘ出「何事にて候(ぞ)」ト トモワキヘ向 「いかに申候」ト トモ シテヘ向下居
6  謡フ「荒思ひよらずや」ト トモヘ向 トモ立 「客僧こなたへ」トワキヘ
7  向謡フ トモ笛ノ上へ行 太刀置下居 扇ヌキ持 「三熊野よりの」ト
8  ワキヘ「扨も我松嶋」ト正ヘ「御覧候ヘ」トワキヘ向 梛ノ葉左手ニ
9  受持 正ヘ向 イタダキ謡「露の命の」ト手ヲロシ「それにて
10  遊され候ヘ」トワキヘ向 梛ノ葉 渡ス 「年もやうやう」ト正ヘ「我
11  も忘し」トシヲリ「仰のことく」トワキヘ「写(移)していをふ」ト
12  正ヘ「我も忘じとハ」トワキヘ「有難や有難や」とワキより梛葉受取
13  「神の誓ハ」ト正ヘ「見る神哥ハ」トイタダク「いかに客僧へ」トワキヘ

<解説1>
1 「手津賢」には「杖で扇無」とある。
2 「手津賢」ではツレ(太刀持)が跡(後)とある。つまり先に老女が出て一ノ松、太刀持が三ノ松で向き合うと云うことだろう。シテが後から出るのが常の形だが、曲により例外もあるし、今回は太刀持(従者)なので後から出ると云うことだろう。
4 「年もうで」の詞章は二回あるが、上哥の部分であろう。
太刀持役は「懐秘録」では「トモ」で統一されているが、この部分だけ「ツレ」となっている。寛政版の表記はツレだし「手津賢」もツレだから、この「懐秘録」だけ「トモ」と表記していることになる。宝生流では「トモ」の表記はあまり使わないようだ。観世流の「橋弁慶」の太刀持は「トモ」だが、宝生流ではやはり「ツレ」に統一されている。
7 「扇ヌキ持」はトモ(太刀持)の所作のようだ。「手津賢」ではツレの所作が別に記してあり、「扇ヌキ持正」とある。「手津賢」では床机に座ったあと「杖カタゲル」とあるので杖を持った姿なのであろう。どうも「懐秘録」と「手津賢」では細かいところに違いがある。
8、9 ワキが近寄り「虫喰いのある梛ノ葉」をシテに手渡すのであろう。「懐」「手」ともに左手で受け取るが、「懐」では「イタダキ」、「手」では「有難しとも」で「ナギヲ見ル」とある。梛ノ葉に対する信仰心を示す件だが、やはり「手」と「懐」では違いがある。
10 「手」ではワキに向くタイミングが早く「老眼」で向くとある。ワキが近寄り、老女は「梛ノ葉」を渡す。この後、ワキが脇座に戻るかどうかは不明だが、常の形ならば戻るのであろう。それとも立ったままその場で読み上げるのも形が良いかもしれない。
11 「我も忘し」でシオルのは「手」「懐」とも同じ。
12 ワキより「梛ノ葉」を受け取るタイミングは「手」「懐」とも同じ。
13 「見る神哥ハ」で「イタダク」タイミングも「手」「懐」とも同じ。

<翻刻2>
13  「神の誓ハ」ト正ヘ「見る神哥ハ」トイタダク「いかに客僧へ」トワキヘ
14  向 ナギノハ捨ル「此方ヘ御入候ヘ」ト立 少出 正見「御覧候ヘ」ト謡フ
15  「又阿れに野原の」ト右ウケル「又此方に」ト又少右ノ方見ル
16  「なちの御山」トワキヘ向 クリ地 中ヘ出下居「此秋津国と」ト
17  ワキヘ 打切正ヘ「有難し有がたき」トワキヘ 但 合掌ニテモ
18  「心得申候」ト謡 杖トリ立 クツロギ ヘイ持 常座ヘ出 下ニ居
19  「きん上さいはい(謹上再拝)」トヘイフリ イタダク ヘイ取直シ ヒザツキ謡フ
20  「なむ三所権現護法善神」ト ヘイイタダク 早笛 善神橋懸
21  ニテヒラキ 「ふしぎやな」ト善神ヘ向「こともおろかや」ト善神
22  シテヘ向「有難やまの阿たり」ト善神正ヘ「神ハき祢(ね)が」ト シテ
23  立 地前ヘ行 トモノ上ヘ セウキ(床机) ヘイステ「まいりのたうにハ(参りの道には)」ト
24  善神 正ヘ出ヒラキ「扨又下向」トブタイヘ入「国々までも」トノリ込

<解説2>
14 「手」「懐」ともに梛ノ葉は捨てるようだが、神の告だから、捨てるのはおかしいと思ったら、「手」の後半に後見の所作が記されていて「一人出ナギノ葉取」とある。ここは後見が引くのが良いと思うのだが。なお「手」では「杖ツキ「此方ヘ」と謡乍立少シ正ヘ出」とあるので、やはり杖を使った演出が伝承されたようだ。
15 見る所作は「手」「懐」ともにほぼ同じ表記。
16 クリ地で下居するのも同じ。「手」では「杖右ニ置」と杖の置き方の指定がある。
17 クセは居グセのようでとりたてて記載はない。「手」では「有難し有難し」は正合掌とある。
18 ここで急に「杖トリ立」とある! 今まで「懐」では杖の所作には触れていないのに、急に現れるのは不審。ここは「手」の方が詳しく書かれている。「「心得申候」ト杖トリ立クツロキ後見座下ニ居杖ステ幣持常座へ出幣ニ左ソヘテ下ニ居謡」。ほかの曲は「手」の記述が簡略で「懐」が詳細であったが、この「護法」に限れば逆転し「手津賢」の方が詳しい。
19 「ヒザツキ謡フ」幣を膝に立てる所作。
20 「手」では「善神 扇持早笛二段一ノ松開」とある。
21、22、23、24 復曲での見所は護法善神が幣で老女の頭を撫でるところにあるようだ。また研究雑感にあげた小林論文も幣の重要性について書かれている。ところが「手」「懐」ともに、護法善神は一ノ松に居続ける。宝生流の「護法」型附では、善神が老女の頭を撫でる所作はイメージ上の出来事として処理されているのだ。これはイメージに頼りすぎる江戸式楽の弊害だろうか。
なお幣は老女が持っているのだから、自らの頭を撫でても型として成り立つだろうに、そのような所作すらも書かれていない。
老女は「有難や まのあたり成御さうがう」と謡い、地が受けて「神ハきねが習をうけ」と謡うところで地前に移動して、ここでも床机にすわる。護法善神は「むかひごほうのせんだちとなり」と謡った後、地の「偖又下向の道に帰れば」で本舞台に入る。

<翻刻3>
24  善神 正ヘ出ヒラキ「扨又下向」トブタイヘ入「国々?も」トノリ込
25  拍子ヒラキ「さいなんを(災難を)」トサシ 右ヘ廻リ 行カカリ 廻リカヘシ正ヘ
26  ヒラキ「夫(それ)我国ハ」トクツロギ「太神光りを」ト正ヘ直シ「其鉾の」
27  ト正ヘ出ヒラキ「大日の文字」トマキザシ ヒラキ「大日の本国」ト
28  六拍子 正ヘノリコミ ヒラキ 「胎金両部の」ト左ノ袖ニテ シテヘ
29  アシライ「然るに本よりも」ト正ヘ「日本第一」ト角トリ左廻リ
30  扇ヒラキ「方便を」ト大左右「岩田川」ト左ヲ引 諸手
31  ニテワケ 正ヘ出「ぼんのう乃」トユウケン「水のまにまに」トサシ右ヘ
32  廻リ「阿やうきがけち」ト角ヘ行 廻リナガラ 扇左ヘトリ
34  「下れバさし」トワキ座ノ方ヘ扇ハネ出 内ヘ打引(?)「つな(綱)
35  ても(手も)」ト六拍子「かく神託」ト右ヘ廻リ「年ハふりぬる」ト正ヘ
36  身ヲ入「名取の老女」ト シテヘマキザシ「皆ことごとく」ト正ヘ
37  出 左袖マキ 右ヘトリ 常座ニテ廻リカヘシ 正袖ヲロシ
38  ヒラキ右ウケ トメ拍子
  39  善神■よりシテトモ入■ 尤トモ太刀持入■
  40  但 姥髪水衣ノ時ハ ユウタスキカケル 尤クツロギニテカケル
  41  一 姥 ツレニテスルトキハ セウキ(床机)ナシ

  <解説3>
以下の記述は護法善神の所作となる。
24 「懐」では「ノリ込拍子ヒラキ」だが、「手」では「二拍子乗込ニ開」。同じ事だが表記の仕方が違う。
25 「災難を」は「懐」では「サシ」だが、「手」では「サシ分」。「廻リカヘシ」は「手」では「常座廻返」とより詳しい。
29 護法の「然るに本(もと)よりも」からは「宝生流囃子仕舞全集 第三巻」に仕舞附が記載されているが、今手元にないので、入手してから改めて検討したいと思います。
40 「姥髪」とあるから花帽子でない場合もあったのであろう。花帽子は出家の女性であることを示しているが、同時に高貴な身分の印象がある。「ユウタスキ」は不明だが、幣を振るにあたり袖を処理するためのものだろう。ただ役としては巫なので、巫女的な装束でもよさそうなものだが。

<雑感>
この段階での疑問だが、何故「手津賢」の方が記載が詳細なのだろう。先ず考えられるのが、「手津賢」出版のパトロンであった富山藩主前田利保周辺で「護法」が上演されたのではないかと云う仮説である。「手津賢」では老女、護法善神、太刀持、それぞれの型を細く指示しており、さらに後見二人の動きまで記されている。亭主は型附全般についての知識はないが、後見にまで筆が及ぶのは珍しいことではないだろうか。逆に云えば、江戸の宝生宗家では「護法」がほとんど上演されず、型附も古いものがそのまま理解されずに伝承されたのではないだろうか。ツレをトモと表記しているのも寛政版以前の謡本の存在を暗示しているかのようである。
利保周辺の上演記録を調べればこの仮説は立証されるだろうが、今のところその余裕はない。紫雪に関しては「弘化勧進能と宝生紫雪」(昭和17年9月 わんや書店)の上演記録からは「護法」は見いだせなかった。


ホームに戻る