明治維新の先駆け森田節斎翁
墓所

県指定史跡
                                           平成13年8月7日 更新                  


 紀の川市荒見。JR粉河駅下車、竜門橋を渡って左折徒歩約20分

    竜門橋北詰より南東方向撮影
節斎の墓地は写真の中央あたりにあります

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梅田雲浜らとも交遊があり、文筆にもすぐれていた。文久三年(1863)門人の乾十郎、原田亀太郎が、土佐、鳥取、久留米、熊本などの脱藩士が組織した倒幕尊攘の最激派天誅組に加わったため、荒見村(現粉河町荒見)の北長左衛門家に身を避けた。
慶応四年(1868)七月二十六日病没。墓は北家の墓所内にあり、県の史跡に指定されている。
節斎、諱は益、字は謙、節斎と号す。晩年は山外節翁と称し、また五域愚庵とも号していた。 
先祖に
桜井四郎という者があり、楠木正成に従って赤坂で戦ったが、負傷したため合戦に出られなくなり、農村に隠れたといわれている。その後、十余代を経て森田氏と改姓した。

節斎は、文化八年十一月、大和五条辰巳街で森田家の三男として生まれた。父は温文庵と号し、名の通った医者であった。時の名医川越衡山について京都で医術を学び、出藍の誉れ高く、五条で開業したときは、門前市をなす程に繁盛したという。性、仁孝、貧しい人からは決して治療費をとらなかったといわれている。 節斎の母は武田氏の出であり、父温文庵の後妻として入り、節斎のほか(くん)勘(かん)の二弟を産んだ。このほか、先妻の産んだ義兄二人あり、長男は早く死亡、次男淡(たん)は、節斎らとともに四人兄弟として育てられた。

 節斎十一歳の時父死亡、母は節操を守り、子供を育てるのに専ら学問をすすめ、質素厳格な教育を施したという。その節母賢母ぶりは、五条代官天島氏から褒賞されている。
 四人兄弟のうち、節斎を除いた三人は皆慧敏であったが、独り節斎だけは、笑顔を見せて友達と遊ぶこともなく、素足で歩いたり、帯が解けても結ぼうとせず、他人に挨拶もできないと云った具合で、遅鈍であったので、村人は、森児の三一と呼んでいたという。三は慧、一は痴という意味であった。

 成童した節斎は、兄淡とともに京に上り、猪飼敬所について医術を修め、
頼山陽に師事して学問を学んだ。
このころには山陽もその才を激賞するまでになっていたという。やがて江戸に下り昌平黌(
しょうへいこう)に入り、古賀洞庵について業を学ぶこと三年、学業文藻大いに進んだ。
 天保二年昌平學を去り四方に遊び、
安井息軒塩谷宕院野田笛甫らと交わった。時に年二十一才。

 天保八年(二七才)母の喪に服し、後備中に止まること数年、弘化元年京都に出て、誓度寺で弟子をとって学問を教えた。
時に年三四才であった。この頃からの節斎は、そのすぐれた文才と、”弁難攻撃余力を残さず”といわれた如く、激しい憂国の弁論が、幕末における尊皇攘夷論者の総帥としての地歩を固めていったのである。
 その弁論たるや縦横談論傍に人なきが如く、その文章たるや”言簡なりと雖も、辛刻骨を貫き、諷刺腸をえぐる”と評せられ、
”言論、文章とも一世を震ひ、名声海内に鳴る”と記録されている。
 この頃、節斎と交わった志士としては、
梅田雲浜頼三樹三郎(山陽の息)宮部鼎蔵みやべていぞう)等があり、門下生としては、いわゆる森門の四郎と呼ばれた、巽太郎吉田寅次郎(松陰)江幡五郎乾十郎をらをはじめとして、日下玄瑞(くさかげんずい安元社預蔵万才庄助ら多士済済であった。
また、この頃は外国船しきりに日本海近海に出没し、まさに海内騒然たる時代である。門下生
吉田寅次郎は禁を犯して自首して獄に下り後長州にあづけられた事件があったが、節斎は、獄中に詩を贈り、愛弟子を激励している。勤王の志士相次いで囚に赴くに及んで、憂憤おく能わず、梅田雲浜春日潜庵らと密かに謀り、志士を糾合し、十津川郷士等と連絡してことを起こそうとしたが、幕府に疑われ、身の危険が迫ったので、一時、備後の国、藤江村に隠れた。雲浜等は、しばしば書を送って帰郷を促したが、故あって帰れなかった。

 藤江村におること数年、万延元年五月、姫路侯に招かれたこともあったが、しばらくして備中広島某に招かれ、倉敷において学校を設立、学問を講じた。集る門下生二百七十名、倉敷地方における尊皇運動の発祥の地となった。ちょうど吉田寅次郎が松下村塾を経営したのと同時代であった。
 節斎の教育法は、主として志気を養成することを主眼としていた。 従って入門を請うや、まず「荊軻風蕭々与の歌」を吟じ、「了とするか」と問い、諾意を表した者に初めて入門を許したという。これは古歌を借りて、暗に士節を諷し、その気骨を試したのである。ために門下生から国事に殉ずる者が特に多かった。大和
天誅組の決起も、節斎の指導に負うところ多大であった。このため、当路に忌まれ、注意人物の巨頭として警戒されるようになったのである。

 節斎は体重十七〜八貫、髪は茫茫、風彩に頓着なく着のみ着のままで、全く飾り気のない一貧儒に甘んじた。酒を好み、酔うほどに縦横談論、傍若無人、天下国家を憂え大義名分を説いた。その言行から、人々は、狂人の如く言ったが、有り余る才知と、脈々たる気骨節操が、思うに任せない世相から、俗人には理解できない言行となって反映したものである。

 慶応三年、幕府の追求ますます濃くなったので、門人等は、旧里五条に帰らせ、栄山寺の傍に寓居させたが、ここでも幕吏の偵察が厳しく、知友等は、再び小舟で紀州に逃れさせた。
 いったん、名手の林竜渓宅に寄居していたが、ここも安心できない状態であったので、高野寺領である荒見村の北長左衛門宅の食客となり、愚中庵善通寺に隠れた。時に慶応二年六月であった。
 幕末勤王の先駆者も、いまや追われる身、懊悩やるかたなく、ために晩年は、いささか自棄の風あり、座中にても放尿して平然としていたという。大才時にいれられず、浮き世を捨てた心理状態となったのであろう。
 明治元年7月二十六日、維新の夜明けを見ることなく病をえて歿した。行年五十六才、門人等は愚中庵善通寺に葬った。法名「竹奧院山外節斎居士」という。

 
森田無弦(節斎の妻)
 女史、諱は琴、号は無弦、秋花園と称していた。
 広島藩士小倉弥兵衛の次女として文政九年七月二十四日に生まれた。若い頃、大阪に出て医業を学んだが、後、藤沢東畝の門に入り儒学を学び、その塾頭となった。
 容貌は殊の外醜く、顔面に痘痕満ち、言行男まさり、狼を切り殺したことがあるということからも、女丈夫ぶりが推しはかることが出来る。しかしながら、四書五経、唐宋八家の文は、ことごとく暗誦していたという程の才媛であった。

 安政元年に師藤沢東畝を介して森田節斎と会った。節斎は聞きしに勝る醜女ぶりに驚いたが、学問の話にうつり、明敏流れる如き無弦の才に、再度驚いたという。
 師の仲媒で節斎のもとに嫁した。時に節斎年四十四才、無弦二十九才であった。
 節斎、無弦夫妻は、京都から備後藤江村へと相携えて住み、安政四年十月十日、長男
司馬太郎を産み、つづいて文久元年長女孟を倉敷で産んだ。(孟は三歳で病死)
 
元治元年、節斎と別居、河内の国皿池村に寓居していたが、慶応三年、節斎荒見村北氏宅に寄寓するや、再び節斎のもとに帰った。
 節斎の死後、明治九年に長男司馬太郎を伴って、安楽川村竹中氏宅に寓し、ここで約十年間居住した。その後、旧門人柴原和が山形県知事となり、招かれて羽州に転じ、さらに、東京麹町に移り、七十一才で没した。時に明治二十九年二月二十八日、四谷 染院に葬り、茶毘の骨は夫君節斎の墓側に埋められた。碑文五文字は藤沢南岳の揮毫である。
著書は、地震物語外数巻及び詩集がある。辞世に「遊戯人間七十余年大夢一覚今日帰天」とあり、
司馬太郎四十三才にて小笠原にて客死、森田家断絶した。

那賀郡版 「ふるさとの誇り」(昭和五十三年3月一日発行より)

     節斎の墓所   この石碑のところで右折、徒歩約10分。