天才画家との偶然の巡り合い、わずか21年で閉じることになったの彼女の一生は、芸術の息吹華やかなりし時代のパリの悲恋の物語として、今後も語り継がれていくでしょう。モディリアーニの描いた女性の肖像画は数多くありますが、もっとも有名なのはジャンヌ・エビュテルヌの一連の肖像画でしょう。24枚という数自体、この女性がモディリアーニにとって、いかに大切な伴侶だったことのあらわれでしょう。 これらの肖像画はそのようなセンチメンタリズムを越えて、画家の死後、皮肉にもその名声は確固たるものとなり、ジャンヌもまた、愛する人のキャンパスの中で永遠の生を得ることとなったのでしょうね。


細長い首と単純化した形体で、哀愁と美しさを
讃えたジャンヌの肖像画はわたしの
大好きな作品です。



ジャンヌ・エビュテルヌは当時19才の
画学生で、青色の切れ長の瞳が
美しかったそうです。

美しい肖像画ですが、その絵を見ると逆になぜ モディリアーニが多くの人物画に黒目を入れなかったのかが判るような気がします。。黒目の書かれたその肖像は美しいけれども、どこか日常の鎖から解き放たれていないのでは・・・一方、翡翠のような淡い青色で塗りつぶされた瞳のほうは、一見無表情なようで、それでいて、鑑賞者により幅広いイマジネーションをかきたてさせるのかも・・・


美しさに隠れた、どこか物憂げな
表情が印象的。
多くのジャンヌ・エビュテルヌの肖像画の中でも、最晩年に書かれた一枚渋いエンジのトーンがえもいえぬ哀愁を誘い、上体をひねったポーズと斜めに描かれた背景が安定した中にも不思議な不安感をあおるこの絵は、個人蔵ということで、モディリアーニ展でも開催されないと、鑑賞できる機会がないのが残念です。 セーターのやわらかなふくらみが示すように  ジャンヌはこのときモディリアーニの子供を 身ごもっていました。 しかし彼と彼女の結末を知っている私たちは、どうも物事を運命論的に捉えてしまって、本来幸せに満ちているべき画面の中にも、どこか郷愁を誘うような物憂げな表情が見て取れるのは、あるいは描いていたモディリアーニの方に、遠からず訪れる運命のかすかな予感でもあったのでしょうか・・・

アメディオ・モディリアーニ略歴
1884年、北イタリアのヴォルノの裕福な家庭に生まれ、幼少の頃から病弱であったが、絵画には幼くして、その類まれなる才能をみせたところから、彼の父親は「ボッティチェリ」と彼を呼んだ。22歳の時、パリの土を踏み彫刻家のブランクーシに傾倒。30歳まではモディリアーニ自身もアフリカ民族に伝わる彫刻の研究と制作に没頭するが、飲酒と麻薬の耽溺による体の衰弱や、材料費不足のため断念、絵画に専念する。33歳の時、画学生であったジャンヌ・エビュテルヌと結婚するが、翌年、持病であった結核が悪化。1920年1月24日午後8時50分、36歳の若さにしてその生涯を閉じる。このときすでに二人目の子供を宿していたジャンヌ・エビュテルヌは、医者を呼ぶことすらできずに断末魔の画家を呆然と見守るばかりだったという。そして身重のジャンヌ自身もまた、翌日未明(一説には2日後とも)2人目の子を宿しながらアパートの6階からその身を投じ、後を追った。ジャンヌの墓標には「すべてを捧げたアメディオ・モディリアーニの献身的な伴侶」の文字が永遠に刻まれている。