歌劇「カーチャ・カバノヴァー」あらすじ

『カーチャ・カバノヴァー』観劇記

小田謙爾
2000.5.18


 99年3月にベルリンとミュンヘンで『カーチャ・カバノヴァー』を観て参りました。また,2000年2月にはパリで,5月にはアムステルダムで,やはりこの曲の上演に接しました。以下はその感想です。

 ベルリン・ドイツ・オペラのギュンター・クレーマー演出,そのプレミエを86年に見て,ヤナーチェクのとりこになった因縁の舞台でしたが,ベルリンの地下鉄駅に張り出されていた上演予定表には,私が行こうとしていた3月9日の公演がまさに「最終上演」"zum letzten Mal"と記されていました。86年以来14シーズン演じられてきた名舞台の,その千秋楽に立ち会う幸運を得たことになります。
 クレーマーの舞台は,白と黒,光と影のコントラストで形成されています。舞台装置も衣装も色彩はほとんどありません。白は自由,黒は因習,光は希望,影は絶望を象徴しているかのようです。ヴォルガ河とか20世紀初頭のロシアとかいった具体的な舞台設定は後退し,一人の女の孤独と逃避的な愛,破局が描かれていきます。ルーティンで流される部分は一瞬たりともありません。100分程度という短い作品であることは,集中の持続にとってはうってつけです。同じことをワーグナーでやられたら,演ずる方も観る方も持たないはずです。休憩はあるのですが,幕間のカーテンコールには応じません。拍手をしても歌手達は出てこないのです。ドラマの緊張を切らないためなのでしょう。

 この作品に限らず,いやヤナーチェクに限らず,およそオペラの演出で,ここまで鋭さと深さを備えたものを,私は他に知りません。有名なテナー歌手も,スター指揮者も,感動を得るためには必要ないということを,この上演で痛感しました。クレーマー演出のヤナーチェクは,是非ご覧になってください。彼はこの6月にもケルンで『マクロプロス』を新演出します。プレミエ以来の指揮者であるイジー・コウトは,N響にも最近客演を繰り返していますが,日本でヤナーチェクを取り上げないものでしょうか。彼の指揮でこの6月から7月にかけて,ベルリン・ドイツ・オペラは再びヤナーチェクを上演します。『利口な女狐の物語』です。

 ベルリンの『カーチャ』と入れ替わるようにして,ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場がこの作品を新演出上演しました。3月12日の舞台を観ることができました。こちらのデヴィッド・パウントニー舞台はベルリンに比べて手が込んでいますし,色彩も豊富で,観客を楽しませてくれます。歌手もベルリンより若手が多く,豊かな声の饗宴が聴けます。ただし,観るものの心に短剣を突きつけるが如き先鋭性はあまり感じられません。なお,このプロダクションは,今年7月のオペラ祭でも上演されます。

 ベルリンではブロート訳のドイツ語版でしたが,ミュンヘンでは原語上演です。当初字幕なしで演じられていたのですが,この1月頃からドイツ語字幕を導入しました。これから先のヤナーチェク上演は,おおむね原語で行われるようです。ただし,地方劇場の公演では,当分ドイツ語でしょう。ちなみにデッサウのような小さな小屋でも,イェヌーファなどが取り上げられています。

 パリのバスティーユ・オペラの『カーチャ』は,ここがフランスだということを痛感させられました。といっても,上演そのものにではなく,観客にです。ゲッツ・フリードリヒの演出自体は,ベルリンのクレーマーの二番煎じの感があり,さほど感心しませんでした。ただ,この舞台では,何を考えてか幕が上演中も上から4分の1ほど降りたままになっています。ある種の閉塞感でも表そうというのでしょうか。私は3階の前の方で観ていましたが,これでは3階の奥のいわゆる天井桟敷からでは舞台の奥が見えないはずで,ずいぶん貧乏人を邪見にした舞台だと思っておりました。

 ところが,第3幕が始まろうとしたとき,その天井桟敷から"Rideau(幕)!"という叫びが上がり,瞬く間に大合唱になりました。幕が邪魔だからちゃんと上げろという要求です。指揮者が入場して音楽が始まり,一度は叫びは収まりかけましたが,やはり幕が途中までしか上がらないのを見ていよいよ大騒ぎとなり,音楽は中断。支配人らしきが現れてなにごとか一席ぶって,ようやく上演は再開されました。これは新演出でも何でもなく,もう10年以上続いている演目なのにです。暇さえあれば革命を起こして権力をひっくり返してきた国民というのはこういうものかと,久しぶりに訪れたパリで妙に納得してしまいました。

 ところがそれからさらに3カ月,アムステルダムで再び見た「カーチャ・カバノヴァー」で,パリと全く同じような貧乏人いじめの幕が垂れ下がっていたのには驚きました。ここの劇場"Het Muziektheater"の最上階は,素晴らしく音響が良いのですが,この幕のせいで舞台奥が全く見えないのには閉口しました。ただし,演出自体は意欲的,問題提起的なもので,とても見応えがありました。

 因襲を一身に背負ったような姑カバニハは,ここではむしろ息子ティホンをを嫁カーチャと奪い合うヒステリックな女のように描かれます。2幕で言い寄ってきたディコイに肘鉄を食わせるというト書のはずが,アムスのカバニハは彼と連れ立って舞台から消えていきます。

 しかし,何といっても際立っていたのは,主人公カテリーナの扱いです。バレエの素養があると思われる歌手を舞台上でかなり動かして,歌唱以外での表現の量が多くなっています。やはりト書に反して3幕冒頭から彼女は舞台にいますので,劇中でカーチャが舞台にいない時間はごくわずかです。

 音楽で光っていたのはエド・デ・ワールト指揮のオランダ放送交響楽団でした。放送オーケストラがオペラの伴奏にピット入りするとどうなるかという面白い事例を経験した気がします。放送局のオーケストラ(番組のバックミュージックを担当する楽団とは別)は,数少ない,ただしほとんどが放送される本番を,十分な練習で演奏するのが常となっています。これに対して歌劇場のオーケストラは,ほぼ毎日さまざまな演目をほとんど練習なしで演奏しています。アムステルダムのオペラハウスには座付きの楽団がなく,いくつかのオーケストラ(有名なコンセルトヘボウも含む)が毎月交代で伴奏を受け持っています。そして,一つの演目が1カ月繰り返されます。このシステムで,しかも放送響がピットに入りましたから,非常に整って細部まで「仕事している」精緻な演奏となりました。ただし,「声を引き立てる伴奏」としてどうであったかというと,また別の評価が出るかもしれません。

 ともあれ,音楽にせよ演出にせよ,この「カーチャ・カバノヴァー」という曲は,まだまだいろいろな可能性を秘めている作品だという感を強くしています。さて,本年暮れの東京交響楽団による久々の日本での上演,どんな音楽を聴かせてくれることでしょうか。またあの作品ならば,アムステルダムでそうであったように,簡素な舞台でも十分に多くを表現できるはずですので,演出にも期待ができます。
                                           (当会幹事,ドイツ,エルフルト在住)



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